<多>のポストモダンの時代に、<一>神を考えることの意味は何だろうか?

‪ ‪<多>のポストモダンの時代に、<一>神を考えることの意味は何だろうか?設計された建築物ならば解体できぬものはない。近代の<一>神も、建築物と同様に、言説のパッチワークによって設計された。思想史的にいうと、言説Aの領域から切り離す、と同時に、他の言説Bの領域にくっつるという方法をとる。例えば、超越性と内在性が共存している言説平面(スピノザ)から内在性を切断したあとに、この超越性の境界の下に、超越者を解釈するかに媒介者(ヘーゲル))を接合すれば、<一>神の制度ができる(はず)。(‪仮にそう考えてみるとして、このためには、複数の言説平面が必要であるといえる‬。) ポストモダンの時代の『映画史』のGod(-ard)の成立もそんなパッチワークじゃないか、どうかしら?さて映画研究者がいう説話的語りとは何かが長い間よくわからなかったのだけれど、近代の一神教的成立と関係しながらもそれほど説明し尽くしてしまわず言語化できないものをほっておく直接体験が語る語りは映画を映画として成り立たせる‪ナレーション‬の条件だと思う‬

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