和辻哲郎「倫理学」を読む

和辻の本

和辻の本の風景は数頁でガラリと変わっていきますー日本文化論、世界宗教の教典の解釈論、旅行者の現象学的視線、学者の詩人的思索、骨董屋的過去の文化遺産の展示、語源学的探求と概念の発明。この風景こそは、旧漢語「倫理」の他者性の痕跡を辿りつつ、その痕跡を消したことになったものなのでしょう。ニーチェはいかに道徳を批判したかはだれもが知っているけれど、和辻がどのように国民道徳を批判したかは忘れられてしまいました。この和辻の本は、象徴天皇性の擁護者ー天皇機関説を読みとる人もいる?ーが書いた本と思えば頗る単純だが、津田左右吉から和辻をみるとそれほど単純ではなくなるりますね。国民が詩人となって語った「清明心」を和辻が読み説いたことを思い返すとき、「和辻倫理学には影がない」というようには...いくら澄み切った青空が昭和的偶像の発明者の歴史を隠蔽しても....。彼の習俗論は神道を文化に還元してしまう危うさがある、これは現在の問題なのです。

「風土」を読む

風土といわれているものが何を意味するのかはあまりよくわかりません。和辻の文を読み進めていくしかありません。「われわれの周囲の自然界と呼ばれるものは、ひとつの層においては人間の労働的作為に寄って現出した人工的光景であり、他の層においては人間の感情的形成にもとづく人為的世界であり、更にこれらの層を洗い去った純客観的な層においても、人間の認識的形成によって成立した最も著しい人工的世界なのである。したがって人間の文化的段階が異なるとともに、その文化の共同において成り立つ人間共同体は、それぞれに異なった自然界を含んでいる。主体的空間性はそういう形に具体化しているのである。」。なるほどそれはそういうものかと理解できるが、しかしここから和辻がわからなくなるのです。「人間存在の風土性が国家においてあらわになってくるということを端的に示しているのは、国土あるいは領土の概念である。それは人間存在と土地との密接な連関の自覚であるとともに、主体的空間性の具体化が風土性としておのれをあらわす端緒となるものである」。和辻が執筆した箱根の風景を眺めながら考えることは、目の前に展開するこの耕作されつくした土地が敵に侵略されてはいない国境を構成するなどというふうに常に和辻のように考えなければならない条件とは何だろうかということです。国土あるいは領土として国家によってしか風景が成り立たないのだとしたら、これからも、他者を消去した歴史的罪悪感と苛立ちを覆い隠すことによってしかわたしは「美しい日本」でいわれる風景の透明性を描くことができないでしょう。

 

和辻哲郎倫理学」を読む

倫理学」の書き出しは、「倫理学を「人間」の学として規定しようとする試みの第一の意義は、倫理を単に個人意識の問題とする近世の誤謬から脱却することである」 。和辻は人間存在の問題、実践的行為的連関の問題にとっては個人主義の孤立的主観は本来かかわりがないのである。人間の学としての倫理学の方法の問題についてまず顧慮しなければならないことは、総じて学問すなわち「問うこと」がすでに人間の存在に属することであるという。和辻は人間、人間存在 「問うこと」から語りはじめたその画期的な視点を倫理学において実現できたのだろうか?
和辻においてはじめていわれたことは「間柄」意義である。和辻は問う。「主体的な連関がノーエマ的」な意味の連関としての『であること』に転換せられるというごときことはいかにして可能であるか。倫理学は学としてかかることなしえるのであろうか。われわれはしかりと答えことができぬ。理論はあくまで意味的対象を取り扱うのであって、主体を主体として直接に把捉するというごときことをなし得るのではない。したがって倫理学が実践的連関を「であ...ること」に翻訳し得るためにはすでに先だって一定の準備がなされていなくてはならない。それは実践的行為的な連関そのものの内部においてすでに実践的に「わけ」がわかっているということである。このような実践的了解を媒介としてのみ倫理学は主体的なるものを意味に化し得るのである。われわれは間柄を志向作用から区別するに当たって、見るというごとき行為が決して一方的なものではなく相互の連関に規定されていることを言った」
「間柄とは自と他とに分かれつつしかもかく分かれたものが合一することである。分かれ得るためにはそれはもと一者であったのであり、合一し得るためにはそれは絶対に分裂していなくてはならぬ。したがって実践的行為連関としての間柄は、統一、分離、結合の連関であるということができる。これが実践的な「わけ」である。」
「だから間柄は、表現によって初めて成立するのではないにかかわらず、しかもそれ自身のうちに無限の表現を含んでいる。身ぶり、表情、動作などより、言語、風習、生活様式などに至るまで、すべて間柄の表現でありつつまた間柄を構成する契機となっていろのである。」
「間柄」といわれるものの一例が、外国語におけるコミニュケーションである。和辻の文を読むと、彼は、オリジナル(本物)とコピー(偽物)の二項対立に絡み取られている読み手を想定して、おそらくは発想の転換をもとめるのであり、ここでは、巧みな説得をもって、英語というものの固有性に行くよりも、英語を利用した多様性の創造へ行けと促すのである。
「英語の片言が話せても、それによっておのれの体験を委細に言い表わすことはできない。また英語で表現された文化財の繊細な味わいを理解することもできない。そうなると、英語を母語とする国民と、それを片言として用いる国民とは、「言語をひとつにしている」などとはいえないのである。いわんや宗教、人生観など、歴史的伝統を背負っている複雑な文化現象は、たとい国民の一部に徹底的な同化者が現れたとしても、それによって国民的に同一化したなどとは到底いえない。逆に、その徹底的な同化者において、当人が完全に模倣し得たと考えている点がいかに原物と異なっているかを、われわれは容易に指摘し得るだろう。しかも非常に骨折って同化してみても、同化そのことは文化的に何の功績でもないのである。優秀な文化の感化を受けるということはもとより望ましいことではあるが、その感化によっておのれの文化に独自の発展をもたらしてこそ、文化的な功績があるといえるであろう。それでなくては人類の文化への新しい貢献であることはできない。」
しかしここからわからなくなる。ここまで多様性のプロセスについて言っていたのに、ここから、全く正反対の方向から、「多様の統一」のことを語り出すのである。和辻はこう結論に至る。
「かく考えば、一つの世界は、国民的存在を超えた統一として作られ得るというのみでなく、またそういう統一として作らなくてはならない。国民的存在を超えるということは、一つの国民の存在のなかへ他の国民を同化することというごとき同一次元において統一をはかるのではなく、それよりも高い次元において統一をはかることである。諸国民の文化をそれぞれをそれぞれの独自の性格において発展せしめつつ、しかもそれらの異なった文化を互いに補足し合い交響し合うようにする。そういう多様の統一こそ、一つの世界として実現せらるべきものなのである。」
ここで、「多様の統一」という言葉で、「動物は何者とも間柄を結ばない」という和辻が紹介したマルクスの言葉のことを考えがえざるを得ない。第四巻の殆ど最後の記述に至って、和辻の人間、人間存在、「問うこと」から語りはじめた画期的な視点は挫折してしまったようにみえる。「多様の統一」という政治の、かれの出発において排除した孤立主義に絡み取られることになったのではないだろうか。