ヨーロッパで一体なにが貴重だったかといえば、「アイリッシュ・タイムズ」紙のような小国の新聞紙を読む時間があったということなんだが

ヨーロッパでなにが貴重だったかといえば、「アイリッシュタイムズ」紙のような小国新聞紙を読む時間があったということ。まさかこれらのマイナーな新聞の記事がここ東京でツィッターで読めるようになるとはおもわなかった。「ザ・ガ―ディアン」紙や「ル・モンド」紙の良質な評論も読める。最近は、最初からネット読者の読みを想定した短い評論が流れてくるようになったね。紙媒体の時代の昔は大嫌いだったが、ネット読者のためのエコノミスト誌の書評は中々面白いのだ。今夜は久々にマルチカルチュアリズムの元ロンドン市長のKen Livingstoneのスピーチをきいたが、こうした言説家たちの語る言葉を1分以内にまとめたビデオ・ニュースが流れてくる。フェイスブックではFb友人たちのアジアの報道へのコメントを読める。まさに窓ネットからみえてくる言説たち。BBCは、嘗てのようには公共放送に信頼をもてなくなった日本人のために日本語ニュースを流しはじめたのは随分昔のようにおもうが、まだ一年たっていない?「想像の共同体」のアンダーソンは国家は実体としてどこにも存在せず、NHKの7時のニュースとそれをみる国民の「解釈」に存在すると語ったそうだ。現在は公共放送と全国新聞だけが信頼に値する唯一の情報源ではなくなる、グローバル時代のネット空間の広がりから、「解釈」の方向性が全然違ってくるのだろうか。できれば多様性の方向に、新たにどんなユニバーサルな意識が現れてくるのかと期待するが、そのためには西欧と日本への関心だけでなく近傍アジアへの共感的関心が起きてこないとね、正しい理解をともなった形での。海外メディアだから必ず正しいと思い込んでもいけないが、単一の情報源でいつまでも脱アジア論的富国強兵の国取り物語とナショナリズムの排他的教説の側に絡みとられているだけではどんどん時代に取り残されて孤立していく「解釈」しかうまれてこない。一生懸命戻ろうとしても無理なんだから前世期の戦争に帰結した方向性へのノスタルジーをすてたいよ