朱子たちの霊魂観とコスモロジー(宇宙論)

朱子たちの霊魂観とコスモロジー(宇宙論)


‪「鬼神は、體(タイ)なきによりて、これを視れども其の形見えず、これを聴けども其聲聞こえず」(朱子『中庸章句』より。中村揚齋)‬


‪「朱子たちの霊魂観は、コスモロジー(宇宙論)を構成しながら、コスモロジーのなかで生と死を考えて意味づけていく」(子安氏)。


朱子と弟子達の間の問答に生じるズレをどうかんがていくのか?そのズレは、コスモロジーの内部における主張にはまりこむ弟子達とコスモロジーそれ自体との関係をとる朱子との間にあらわれる矛盾のようにみえる。先ずあるのは「理」ですか?と弟子達は問うのだけれど、(仮にマルがあるとしてここからどういうことがいえるかというような意味で)「理」は朱子にとって"優先順位" (子安氏の解説)。‬


‪これから勉強していくことになるが、現在の私なりの不完全な理解を自分のために書き記しておこうと思う。「地」は視えるものと聴こえるもので構成されている。そういう「地」は無矛盾の世界である。他方で、「天」は「其の形見えず」の「形」と「其聲聞こえず」の「聲」にすんでいる。「天」においては、微かな理念でも、理念がなければ形而上学というものが成り立たない。そして形而上学が成り立つ限り、それが物語る「天」に矛盾があるとはいえないし同時に矛盾がないともいえないだろう。さて「體物而不可遺」とされるように、「其の形見えず」の「形」と「其聲聞こえず」の「聲」とが「物」の<中心>に赴くとされる。「物」の奥に「天」を映し出す鏡(宇宙の劇場)があるというふうにしても、このとき、問題は、「天」は「地」によって根拠づけられてしまうことにある。これは、矛盾があるともいえないし矛盾がないともいえないと言っているところで、矛盾がないと言っていることと等しい。というか、これでは、コスモロジーの内部における主張を以て、コスモロジーそれ自体との関係をとる立場を言及しているようにみえる。朱子が行ったことは、「天」は「地」から存在論的に独立していると構成してみること、私の理解だけれども、ここで「天」は自らを「地」に表現できるが、逆はないという感じである。「天」の側からするこうした「天」と「地」の形而上学が成り立つためには優先順位を与える「理」が必要となってくるということではないだろうか。)‬