コッポラの『地獄の黙示録』を読む

コッポラを称える

アメリカ人観光客が地図を携えて第三世界を旅行するときはいつどこでテロに襲われるかわからないという『地獄の黙示録』のなかにおいて描かれたような恐怖をもって歩いているのだろう。映画がやれることは少ないが、それ以上のことを伝える。レンズは構造に留まることが不可能な過剰である。レンズからやってきた映画はただの知覚である。映画は自分と似たものを作るだけである。地図はロゴスなき知覚に還元される。多分土地の名のない地図であろう。もはや地図を為さないたくさんの線になぞられた知覚の面というか。国家を制作するのは命名によることだとしたら、映画はこれとは反対のことー国家の解体ーを投射する。そのほかのことは、映画はなにを伝えることができるのかそれほどはっきりしない。映画は自分と似たものを作るだけだと書いたが、映画の際限のない言語は、いつまでも宙に浮いたままであり、決して何かの相似に満たされることはない。映画の徴はいたるところにあるー海に漂う板に、あるいは、映画のなかで不動のまま絶えず動くヘリコプターに


アイリッシュは『地獄の黙示録』を「魔法の絨毯」と嘲弄した。ナショナリズムを呼び出す諸言語における記号的透明性の中で世界に自分が類似している意味を読めないようにするから?


コッポラの『地獄の黙示録』。公開当時はベトナム戦争をこのように描いてはいけないとする映画に対する非難があったけれど、たしかテレビででやっていた。コッポラの構想の大きさを実現することは難しかった。マーロンブランドはなにもしなければしないほど出演のギャラが上がっていった。隙間があっちこっちで見えてしまう。映画制作がout of controlだった痕跡がみえる。この場面だけれど、ヒューマニズムというか子供の安全を非常に気にかけるけれど、サーフィンをするためならば村をナパーム弾で焼き尽くすことは全然かまわないこのアメリカ人の矛盾をどう表現するかは、撮影監督ヴィットリオ・ストラーロにかかっていた。酷く非現実的なピンクと黄色の煙からうつろな言葉が滑るようにでてくる。何とアメリカ人はサーフィンする海をバックに自己に投射した戦争を語り伝えるのだ。嫌悪感と恐怖に囚われながら、自己の中の言葉にできない闇の内部を吐露するように崇高な詩を作る “I love the smell of napalm in the morning." このヒロイズミは何もかもおなじで区別がない。世界を戦争にする狂気とはこれだと映画は伝える、と大袈裟に書くと、おまえはロマン主義といわれてしまうのでほどほどにしておこう(昭和維新ロマン主義で沢山だ。) 演劇にしたら面白いかもしれない。舞台で伝える。アメリカ人観光客はこういう思いで第三世界を旅行しているだけのことなのだと。こういうのは、脚本におけるロゴスの構造をもつ演劇が得意としてきた領域だ。だがロゴスなき映画ができることは少ない。カメラは構造に留まることが不可能な過剰である。レンズからやってきた映画はただの知覚である。映画は自分と似たものを作るだけである。地図は知覚に還元される。多分土地の名のない地図であろう。もはや地図を為さないたくさんの線になぞられた知覚の面というか。国家を制作するのは命名によることだとしたら、映画はこれとは反対のことー国家の解体ーを物語る。そのほかのことは、映画はそれほどなにを伝えるのかがはっきりしない。こちらの読みを、闇のなかで笑う映画か?原作のコンラット『闇の奥』はポストコロニアリズムにおける読む可能性をもっている。