ゴダール論

ポストモダンの時代に根拠を与えることを考える意味は何か?(3)

この問いはこう言い換えてみよう。ポストモダンの時代においてかつて存在した映画たちを考えることの意味はなにか、と。映画は映画であるゆえんは自らをスクリーンに向かって投射することにある。ゴダールはその投射によって映画が存在するか照らし出そうとした。投射は、語る主体の言説をもつことによって、語る主体の言説が成立する。語る主体は存在するから存在するのではない。語る主体は語る主体の言説が存在するから存在するのである。見る-語る主体は、同時に、見られる-語る主体である。(ゴダールの見る-見られる-語る主体は、フーコ『言葉と物』によって、読み出されていく。)さてゴダールにとってなぜ語る主体が問題となるのか?それは、国家を相対化するために批判を書くことができる究極の主体を形成しようとするからではないか。『映画史』においては、黄金の80年代といわれた追求した天の自由を豊かにするために、「思考の形式」として自らを権威とするあり方を再構成している。‬(発言集 Godard par Godard は、1980年から1988年を、天と地の間の時代 les années ciel et terre としている)

‪ ‪「そこで私はこう想像しました...こう考えました。『ぼくは映画を何本かつくったわけで、それに、映画をつくるというのは結局、一連の写真を記録するということであるわけで、だからぼくの場合は少なくとも、それらの映画を見直すことができるし、自分の過去を振り返るためには、少なくとも、自分自身を精神分析するかのように、そうした(自分の映画という)過去と、映画の世界のなかのぼくが今いる場所から出発することができるはずだ』と。でも私は今では、こうした考えは幻影にすぎないということがわかっています。それに私はまた、最も容易にできるはずの、映画史をつくるという作業そのものが、実際には完全に実現不可能な作業だということに気づきました。ここでなされているように、ある映画を見、あとでその映画について語るということならできるのですが、でもそれは仕事としてはかなり貧弱です。だから、別のなにかができるようにならなけれならないのですが、でもたぶん、その別のなにかはすぐにはできないでしょう。」(ゴダール)‬

‪ ‪Alors je m’étais imaginé... enfin... je pensais... ー je découvre que c’est une illusion ー que dans le cinéma ー puisque j’ai fait des films ー je pourrais au moins les revoir ー puisque faire des films ça consiste à enregistrer des séries de photos ー et que je pourrais au moins partir de ce passé-là pour revoir le mien, comme une psychanalyse de moi-même, et de l’ endroit où j’en suis dans le cinéma. Et je me suis aperçu qu’effectivement,‬ ‪l’histoire même du cinéma qui devrait être la chose la plus facile à faire est absolument impossible à voir. On peut voir film et puis à ensuite en parler; c’est ce qu’on fait ici; en même temps, c’est assez pauvre comme travail, donc il faut arriver à faire autre chose. Mais cela ne peut peut-être pas se faire tout de suite. (Godard)‬

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