ジョイスを読む

ジョイスを読む

‪『フィネガンズ・ウェイク』における父娘間の近親相姦の徴よりも大事な問題は、大きすぎる父と天の存在である。父と天は書かれた言葉を住処としている。書かれた言葉の高さを嘲笑うのは、『ユリシーズ』の中の挿話「イタケ」だった。「教理問答」の書かれた言葉の終止符、ここから、‪『フィネガンズ・ウェイク』にはいる。‪神と対等な高さを実現しようとした「バベルの塔」にたいして4回雷がおちる。ジョイスは民衆の語る言語の多様性にこそ、普遍言語の痕跡をみている。だけれど書かれた言葉のその高さがなかったならば、挿話「太陽の牧歌神」ではアイルランド英語のパブ的乱痴気騒ぎに至る水平的広がりが可能だっただろうか。民衆の話される言葉をユートピアとしてたたえれば、そのことを以てなにかを喋ったつもりになっちゃうのはね、政治的意味が大きすぎる、危なっかしい救済論のことを思ったりする‬のだけれど。日本会議の文化人たちは「やまとことば」を語っている。

フーコを読む



固有なものに対するこだわりはいつの時代にもみられる。17世紀より前の時代も、固有なものに対するこだわりがあったことはあった。17世紀から新しくはじまったことは、それが、人間とその思考において、展開することになったのである。17世紀に固有なものに対するこだわりは反復されたけれど、「人間にたいして、人間を逃れるものから出発してみずからを想起することを可能にするもの」がはじまっていた、と、フーコは言っている。同時に、現代の問題に暗黙に見渡す。はっきりわからないが、フーコはサルトルスターリン主義との関係の問題を考えていたかもしれない。「昭和思想史研究会」で問題提起されたことだが、わたしの場合は、19世紀のコンテクストにおいて書かれた『資本論』を読むその読み方へのこだわりー21世紀アジアの知識人たちをとらえている古い形の普遍主義への後退?ーをみるとき、この17世紀の問題をフーコの文から再びどうしても考えてしまうのだけれど。19世紀20世紀の物の見方に反映された時代遅れの普遍主義(世界史的言説)にたいして、ここから、新しい形の普遍主義の思想を模索しているのだけれど(簡単ではないね)


人間はまた、経験的=先験的二重体であるから、認識の場所でもあるー誤認といったが、それこそ、つねに人間の思考から人間固有の存在(エートル)を溢れ出させる危険にさらし、同時に、人間にたいして、人間を逃れるものから出発してみずからを想起することを可能にするものなのだ。(フーコ 'コギトと思考されぬもの' 渡辺一民訳)‬ Parce qu'il est doublet empiricism-transcendantal, l'homme est aussi le lieu de la méconnaissance, ー de cette méconnaissance qui expose toujours sa pensée à être débordée par son être propre, et qui lui permet en même temps de se rappeler á partir de ce qui lui échappe. (Foucault)‬

MEMO


To write, for me, is to draw, to knot lines so that they become calligraphy, or to loosen them so that the writing becomes a drawing.

Jean Cocteau


Dans une société totalitaire, les mécanismes de l’endoctrinement sont simples et clairs. Mais en démocratie capitaliste, la situation est infiniment plus complexe.  ー Noam Chomsky (mars 1979)


The canal in Amsterdum is not only beautiful but social. It is amazing that they didn't really knew who would enter their canal, but in the beginning they never refused them coming. Although it must have been high risk, what they built in 17th centrury was sort of engineering of trust on the Other. I think Spinoza wrote the Ethika as equivalence of that engineering social canal, that has lost modern State in 21th century not hiding its hate, narrow minded nationalism in War Shrine, to the Other. by takashihonda


東京の高校から東京の大学へ行くのと東京近傍から東京の大学へ行くのは同じでないという。読んだふりの毛沢東本は、東京教育大的のリベラルエリートからの御守りだった?純粋毛沢東主義の如き人民観とて、コインの表(明治維新と戦後改革)に対抗する裏側のオリエンタリズム。笑止


ラテン語の痕跡のない『賢者の本』は、漢文なきひらがな『論語』と同じで、自己啓発をおしつけてくるけど、擬態語のカタカナにたよる詩みたいに媒介なく直に内に向かって語りかけてくるときインチキ臭いね。外部への拒絶、ヘイトスピーチの叫びはこういう内からやってくるのでは?


マルクス主義を批判していくとしても、マルクス思想からはいることが哲学や倫理学を考えるための条件だとおもう。本屋さんの棚に並ぶ「哲学入門」がやるみたいに、内なる始原としてアリストテレスからはじめると、西欧思想を読むことができなくなる。読めない内なる始原と一体となると、ヨーロッパの内\外という排他的な意味的二元論にはまりこむ。また過去から読み継がれてきたとして、ヨーロッパはヨーロッパであるという自己同一的言説にからみとられる。ヨーロッパ中心主義の普遍主義の知が成り立ってしまうことに。しかし普遍主義と等価のものがアジアに存在した(朱子学を考えてみよう)。だからといって、アジア独自の近代を無理に想定してしまうと、それは問題がある。同化政策の問題が隠蔽されてしまう恐れがある。マルクスを読むことの意味は、近代はフランス革命を契機にヨーロッパにおいてしかはじまらなかった歴史を書いているからである(近代は植民地主義によって世界的に広がった)。


発言「特権階級排除のために権力の集中」は、発言「皇帝」と同様に、反民主主義に突き進む体制のそえものになってしまっていますかね。主体として考えること、反証の精神を嘲笑った、知の無惨ともいうべき発言は、いつ終わるのでしょうか?

権力は民主主義の抗議に対して権力を行使したら、その権力は権威を失う、もうやっていけない、確かにこういうことはヨーロッパにおいて実感できました。アジアは同じなのか?認めたくないのだけれど、民主主義の声を抑圧した権力が益々権威をもってしまうではないか。しかしそうみていくと、私自身が思考できなくなってしまいます。民主主義は同じだと普遍的に考えることが自分に必要だとかんがえています。アジアの場合、経済的パフォーマンスはどんどん進むのに、政治的自由は進まないというこの事実を説明していく責任があります。それは、古代に始原を読みだしてしまう、いわば連続性の神話が、政治的自由を黙らせてしまうのではないでしょうか。(それはヨーロッパでも同じです。極右翼が台頭してくる前提に、ヨーロッパの基層にケルトがあるという危険な文化論的言説がありました)。一党支配の官僚資本主義が自らの住処としようしている、オリジナルの「中国的近代」が確立したとする宋代の皇帝制度をいう文化論的な言説にたいする反論をいかに行うのか、これが自分にとって大変重要とおもっています。(正直私は自分の力を恥じていますが)

現場を知りませんが、底辺層の不満のことが懸念されます。たしかに、現在の中国は、かつて帝国日本が世界史の哲学を実現したような、ヨーロッパとは異質である自己像を対抗的にもっていくのかもしれませんが、中国はその帝国日本の失敗を知っているはずです。そして異質でもいいのですが、中国が、不可避の他者として、日本の民主主義のあり方ーもちろん現在進行形におけるといわなければ私は絶望してしまいそうですがーに関心を持つときが来ないとは断定できないでしょう。漢字という書記言語がそうですが、そこから考えることのできるわれわれにとっても、中国は不可避の他者。そのとき、こうしなさいというのではなくて、一緒に考える可能性があります。他者との考える関係によって、絶えず自己との関係が構築される、このことはヨーロッパでもマジアでもおなじでしょう。厳しい現実は否定できませんが



映画の解説を書くための映画図書館が必要だが、それがない。映画を馬鹿にしている文学や絵画の分野のプロ?が洗練されているが愛のない解説文を書いている。しかし文学と絵画の代わりとなっているものをいかに軽蔑しているか、還元できぬオリジナルへのこだわりを書けばいいのに




安倍は信念をもたないという意味で自民党の中でも際立った特別の政治家だという気がします。彼の歴史修正主義も、特定の信念に裏づけされているのではなく、全く信念がないからこそ、成り立っているというかんじですね。この男は、自分の支持率を保つためならなんでもやるのです、政権維持のためなら、A級戦犯分祀だってやるかもしれませんよ。そういう意味で、怪物といわれるのだとおもいますが、支持率ということに縛られている点において、怪物は自由に喋っているとはいえないのです。その怪物も、トランプ怪獣の登場で、ご用済みになったようです。(あとは、ミサイル頼み?) このクニは世界第三位といわれていますが、そう長くは続かないでしょうから、没落するまえに、中国の金融システムにはいって人権問題をはじめアジアの民主主義のあり方を提言したほうがいいですね。それは、まさか日本が他国に民主主義を教えてやるという意味ではなく、中国にしっかりしてもらわないとアジアと日本の民主主義も成り立たなくなってきたという意味においてです。民主主義とは何かは永遠の課題ですが、自由に喋らせてくれるということがなければ民主主義は不可能でしょう。この民主主義に方向づけられる形で、トランプ、習近平、安倍が終わる五年後に向けて、今年は変化が激しくおきる色々な意味で大事な年になるのではないかと予感しています。

たしかに、トップの映像をこれでもかこれでもかとみさせられているので迷惑極まりないのでありますが、こういう醜い政治家の像は距離をもって批判するために必要なものでしょう。安倍晋三は怪物である、安倍に謎がある、とするのは、かんがえてみたのですが、同意するところが多々ありますが、どうもわたしの構成ではありません。わたしがおもうに、合理的なもの(合理的思惟)が貫かれなければならないとする合理と非合理の二項対立の近代主義の謎があるだけです、そうおもっています。1970年からはじまった思想闘争を通じて変革しなければならないのは、安倍の歴史修正主義(ヨーロッパ中心主義の鏡像)とかれが依拠している、正常\異常という近代的な物の見方です、わたしが心配している他国にたいするヘイトスピーチのことですけれど

そもそもこれまでそれほど多様性があったのかという疑問も含めて、(だからこそ安倍戦争法を抗議したデモの中から女性の「自由に喋らせてくれ」という声が出てきたわけで、今迄そんなことを言う人はだれもいなかったのです)、絶望するしかなくなったわけですけれど、少なくとも、民主主義を構築していくアジアにおける未来の人びとに、構想された多様性はどういう条件で崩されてしまうのかという歴史的教訓は残せそうですかね?もちろん伝える努力が必要ですけれど、そのときどういう視点をもって語るか、一人二人でもこういう場を利用して、議論をつうじてですね。他者(共同体も含む)にたいして、何をつたえたかという内容よりも、相手がどのように理解するのかということを常にかんがえることが大事、考えるだけでなく行うことが多様性のために要請される、そんなことを思っています。反知性主義が問題とされていますが、寧ろ問題は多様性を崩してしまう反道徳主義にあるとおもうのです。いかにも明治の響きがする「国民道徳」は、ヘイトスピーチを作り出す反道徳主義に転化しないのでしょうかね


柄谷行人は中国で書きはじめたとき、他の国では書けなかったのだ。非常に大事なことが中国からはじまることを彼は直感的に知っていた。確かに、一つの方向しか伝えない新聞では追いつかないほどのスピードで大きな変化が現在起きているという。柄谷に、転向からの転向を要求する


独立か従属かという二項対立に絡みとられるのではなく、第三項へ行くこと。書く対象から独立していなくともなんとか自立していること、その自立が開かれた意味をもつこと、それを自分のものとして獲得していくこと。ホ~、ふくろう猫が生涯かけて自らに与える書くことの課題ニャ


たしかに文学にその痕跡はあるという見方に賛成です。このわたしも、<いったん'得た'>ものについて考えてみるのですが、どうもそういうものは無かったようにおもうのですね。それなのに、わたしの中で<失うことになった>と感じているのはどうしてか。わたしだけでないようなので、(「みんなのもの」という冗談でなければ)、それは先験的なものじゃないかしらとも思うのですが、'先験的'といえばそれで何かがわかったわけでも。<何かを得るために何かを失う>というのは68年の輝かしい精神。本当に68年の意味は大きいと思います。それはまだ近代のためとしてある反近代かもしれないとしたら、<失うために失うことができる>というのが、現代という暴力が剥き出しになってきた時代に対して、1968年以降思想がとる喪失だとやっとかんがるようになったのですけれど。考えたのはいいのですが、遅すぎたという観念に蝕まれています。その思想は探されているというか...探されているのですけれど、その思想は、宇宙と等価の大きさをもった懐疑の内省と、虫の死体に宿った情念というか感情というか、そういうところにすんでいるというか、変なものですね

 

宣長において<幽事>は、現世に対置される世界を構成することはないということである。人形遣いのわざが、舞台を充足的に人形のうちに解消すべきように方向づけられているように、<幽事>もまた現世における人のわざの充足的な展開を支えるように方向づけられれているだろうということである。(...) くりかえしていえば、<幽事>は現世に対して二重の世界を構成するのではない。は現世における人の<生>を支えるのだし、宣長の<生>の思想ともいいうる世界を成立させる概念としてもあるのである。(「幽事」と「生」、子安宣邦平田篤胤の世界』より)‬


生意気を言うようですけれど、このような英語の訳では、ちょっとね、アイロニーの繊細さが伝わってこないんですけど、そう思っちゃうのはあまりに文学的すぎるからかな。アイロニーって、社交的で、開いたり閉じたりしている言葉の襞にすんでいて繊細だとおもうんですよ


The object of human sciences is not language (though it is spoken by men alone); it is that being which, from the interior of the language by which he is surrounded, represents to himself, by speaking, the sense of the words or propositions he utters, and finally provides himself with a representation of language itself.  - Foucault


わたしにもはっきりとわかりませんが、若い人々は意味を読み取れるのでしょうか。絵を見ると、「さけぶ」姿はなく、人物たちは黙っています。神々しい思いを共有しているようにもみえます。絵と言葉を一緒にみると、こんな印象をもちました。どうも、若い人々の間には「だって僕は生きたかった」神々しい思いはあるが、希望?をもって、「まよい、あがき、さけぶ」ことを乗り越えさせてくれる神々しい思いの行く末への患いがないという感じですかね。宣伝されているこれらの文学はそのような希望を与えてくれるのかよくわかりません。

フーコを読む

「建築物に人間がすむ」という。その「建築物」に、壁がいるだろうか?屋根と床、階段が必要なのか?「人間」はそれらを取り除いた「建築物」から出てしまうだろう。外部世界を世界の中心にする<それ>は「人間」なのか?そして「すむ」とは、動物みたいに散歩していること。『アンチ・オイディプス』の書き出しにあるような散歩の状態をいう。フーコの本を読むとき、「建築物に人間がすむ」ように、思考できないものが言葉を住処としていることを知る。多分、「コギト」は建築物の名である‬と学ぶ。

ジェイムス・ジョイス

高校教科書はジェイムス・ジョイスがアイルランド人の作家だと記すようになった。私のときはイギリス人の作家と記されていた。近代精神の決定的勝利を象徴する、「意識の流れ」というリベラリズムヒューマニズムの"普遍"が覆い隠していた、アイルランドのジョイスを『ユリシーズ』の背後にとらえる読み手が現れたことを意味する。(全共闘世代のなかに、もしくはそれ以降の人々に、アイルランドのジョイスについて語る私の話に関心をもつ者が多いのは理由があることだろうとおもっている。)『若き芸術家の肖像』はダブリンから近代の神学の意味を知的に構成している。冒頭で、いきなり、天への昇華(プロテーウス神話)と地への転落(学校と日常生活)の提示がある。この天地の間の往復、Up in the air and Down、これはなにか?この小説は、屈折した抑圧のなかで神話とリアリズムとが反転していく言葉(ナレーション)を住処とする「人」を発見している。「人」がリベラリズムヒューマニズムの"普遍"との内在的な関係から離れるとき、「天」とは、ジョイスにとって、自己の外に、自己に向き合う形で見出されてくる。ジョイスは主人公Stephen Dedalusとともに、イギリスでもなくアイルランドでもない所謂国内亡命の場所をさがしている。ジョイスにとって、アイルランドは『ユリシーズ』にすんでいる。結局ジョイスはアイルランドヨーロッパ大陸に運び出したことになった。自分で決めた亡命が意味するのはこのことであった

ゴダール

ゴダール派からすると、タルコフスキーのような監督は映画の外に何かの存在を信じているのはいかにも容認できません。むしろゴダールの構成は、宗教的なものが映画を住処としているというものです。ゴダールは、もしロッセリーニのようであればキリストの説教する映画を作ったかもしれませんが、ソクラテス的に論争的です。「あなたのは映画ではありません」と繰り返されてきた反発に対して、「では何が映画なのか?」と切り返した『映画史』は、メタ言語的に、イメージとはなにかという解釈を解釈していったのでした。この『映画史』のナレーションの特徴は、ずっと言われてきたことをはじめて喋る語り方にあります。そしてそこで誰も語らなかったことをずっと語られてきたとするのです。映画であるとされるものも映画でないとされるものも、他者の「手」を住処としなければならないことが言われているようです。こんなことはだれも言ったことがありまでん。(それはフィルムを編集する手のことかもしれません。それならば意味が通ります。だけれど手に委ねられた映画からは決定的な映画がつくられなかった、アウシュビッツを撮った映画は現れなかった点を強調しています。) たしかに、ほかならない、卑近な人の「手」から行うことでしょう。そこにとどまることなく、映画が住処とする他者の「手」にもっと思考の形式が要請されるのでしょう。世界というスクリーンに向かって投射されるべきその形式とは、すなわち、「すべての歴史」「ただ一つの歴史」「映画だけが」「命がけの美」「絶対の貨幣」「新たな波」「宇宙のコントロール」「徴は至る所に」‬

デモクラシーと他者と普遍主義

‪「私もあなたと同じ孤独な老人 / 旅の間あまり話さなかったが / 古い知己の様な親しみを感じる」(サミュエル・ベケット)。ゴダールは音と映像の互いに独立した関係を、私はデモクラシーと他者と普遍主義を考える。独立しているとは、音は映像の代わりになることができないし、映像は音の代わりになれないということ。同じように、独立しているというのは、民主主義は普遍主義の代わりになることができないし、普遍主義が民主主義の代わりになることができないことなのであるー 世界史の知識人が考えるようには...。政治的民主主義の問題は民主主義の問題であり、文化的普遍主義の問題は普遍主義の問題である。他者からするこの理念を、本を与えるように何人かに与えた、と、旅の一番最期にいえるだろうか、それはわからない...