MEMO

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ここで問題提起。演劇の死とはなにか?




死の演劇に交換できない死はない。

死の演劇において死は存在を交換できる存在の存在の如くある

だけれどそこで交換それ自身が成り立たない

不完全なものが交換の構造の外にある。

意味あるその入り口が塞がれようとしている

演劇の死とは多分そういうものであるー


正直、野田氏が言っている「演劇の死」をわたしはよく理解できていません。ただ、<演劇>が<演劇でないもの>(たとえばゲゼルシャフトまたは社会といわれているものですかね、わたしはそれを<死の演劇>ととらえています)にとって不可欠な他者である理由を考えましょうということならばですね、岩井克人ならばどう考えたかななどと考えています。またわたしの理解ではハイデガーは死が内側に向かって自己が存在している自身をみるとしたら(死がとる位置は)外部においてほかはあり得ないと思索しましたが、ハイデガーならばこう言ったんじゃないかとか勝手に考えたことを書きました。この場合は、死に切ったという場所から、ですね


ミクロの世界における見えない領域に憲法は適用されずというヤバイ境界線。ウイルスを利用する危険な「緊急事態宣言」は、憲法の精神の自由の傍で、反論できぬ形で価値中立的に線を引かれて、精神が従属する見えない絶対権力者が増殖する


コロナの詩を書く


われわれは国籍を超えて頑張るのに

ブラウン運動に囚われている

だけどあんたたち人間はどうした?外の思考に向かって

ウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤがなければ

わたしの王冠を超えられないよ


“Words ought to be a little wild for they are the assault of thoughts on the unthinking.” 

John Maynard Keynes



“Words ought to be a little wild for they are the assault of thoughts on the unthinking.” ― John Maynard Keynes


象徴天皇制はいつかはやめる。それまでに強力な共和主義の理論を構築しなければいけない。スピノザはこう言っている。議論のあるところである。

If then human nature had been so constituted, that men should live according to the mere dictate to reason, and attempt nothing inconsistent therewith, in that case natural rights, considered as special to  mankind, would be determined by the power of reason only. But men are more led by blind desire, than by reason; and therefore the natural power or right of human beings should be limited, not by reason, but by every appetite , whereby they are determined to action, or seek their own preservation. ーSpinoza


MEMO

現象学の序文は論理学の終わりから書かれている。(デリダ『散種』)


朱子によれば、理が気に論理的に先行する。言語的存在である人間とは何かを問うことが論理的に先行している。同様に、映画とはなにかを問うことは映画の運動とその多様性に先行している


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朱子によれば、理が気に論理的に先行する。言語的存在である人間とは何かを問うことが論理的に先行している。同様に、映画とはなにかを問うことは映画の運動とその多様性に先行している


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 ‪芸術とはなにか?アジアの形而上学を学んであらためてポスト構造主義を読む。論理的に先行するのは芸術とは何かを問うコスモスである。これが第一原理である。コスモスが反コスモスを利用することが常に起きる。反コスモスの全体の表象のためには白紙の本のすがたが思い浮かべられるかもしれない。形而上学は要請されると脱構築的になる。一は一でも、差異が生成する多元主義としての一である。芸術の多様性は第一原理に対する運動である。運動の前後関係は論理の前後関係とは別である‬。両者の関係を考える必要がある。

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世界中の川に「法的な人格」をあたえよう


求愛も集団も領土的アレンジメントの部分であることをやめ、求愛や集団のアレンジメントが自立性を獲得するのである。たとえ領土内にとどまるにしても、このことに変わりはない。――(中)p346


原初において演劇が成り立つのは人間の分身によってであるー役者は観客を必要とし観客も役者を必要とするこの関係は時間なき闇のなかに移って行かない。二重化によって世界の半分と半分をもつことが可能で、言語が空間をとりかえすほど構造的に独立している。これが演劇の強さであり弱さかもしれない。ヨーロッパではしっかり支えられている大切なものがなぜ無理なのか?




‪ドイツのメルケル首相は3月18日の演説で次のような声明を出しました。‬

‪「すでにどれほど劇的に様々な制限がなされているかは承知しています。イベント、見本市、コンサートは中止。そして当面、学校、大学、保育園は開かれず、公園で遊べません。連邦政府と各州が合意した様々なことの中止が、私たちの暮らしと、民主主義社会としての私たちにとっていかに侵略的なものであるかも承知しています。こうした制限はドイツ連邦共和国が経験したことのないものです。」‬


‪2020年3月12日FIA国際俳優連合とFIM国際音楽家連盟が「新型コロナウイルス感染症の緊急対応が、元来生活基盤の弱い日本の芸能実演家を破壊しかねない影響があることに関する声明」を発信しました。この一文に尽きるとおもいます。‬


‪「日本の芸能実演家は、選択の自由のない個人事業主です。専門性のある技術を備えるために、自ら莫大な自己資金を投じているにも関わらず、しがらみのある、無期限の雇用契約をさせるために、法的に労働者性を不当に否定され、社会的な権利の保護が狭められている。日本の芸能実演家は、議論もされないままに、個社(個別取引を行う為に存在する会社)のように扱われています。‬

‪新型コロナウィルス感染症の安全対策を講じるのはもちろん不可欠です。 多くの命がかかっており、経済的利益が人間の安全より優先するべきではありません。 そのために、コンサートや演劇公演での不特定多数の集団行動は慎重に対処し、リスクは回避するべきです。」‬



スポーツイベントを「見下した」「軽蔑した」といって憤慨している人達はですね、読み間違いです。まさかスポーツ観客を「見下した」「軽蔑した」のではありません。読み間違いした人達は演劇を一度もみたことのない者たちが殆どなのではないでしょか?そのことが恥ずかしいといえば恥ずかしいことかも。問題はナショナリズム‬。スポーツと結びついたナショナリズムが同調しない声を非難しています


中江兆民のルソー訳を読むものは、漢文エクリチュールの記憶によって、荻生徂徠の制作論について考えることができた(講座・明治維新の近代8)



‪昔の西欧哲学史を読むと、大陸の災厄から避難してきた古書が集まってきたにもかかわらず、思想史の発展にアイルランドは付け加えるものがなにもなかったと書かれています。ただ文字装飾のアートしか出てこなかったと。古代アイルランド語は読めないので殊更装飾だけが見えていたのかもしれません。少し説明しますと、アイルランド語は19世紀にほぼ消滅します。況やおいて古代ケルト語などは読めないテクストです。ジョイスは唯一、読めないテクストを書くことによって読むことが不可能なテクストとコミュニケーションをとった作家です。彼はケルトの文字装飾からインスピレーションをえました。『フィネガンズウエイク』を読むとき彼が書いたこの本が読めないことを知っておかなければなりません。さてフーコの本が出るまで、文字の装飾が原初における言語の存在を称えていた象徴だということがわからなかったのですね。フーコから、たんに文字を飾る装飾と思われていたものの意味が一気にみえてきました。そして大切なことは、フーコが言語の存在の象徴から反権力的に考えたことです。われわれは死に切った過去の問題をアジアでどう考えるかですね。たとえば中国では12世紀の朱子が読めないテクストになっていると考えてみたらどういうことが言えるでしょうか?明治維新からのラディカルモダニズムが過去の書かれた姿を消し去るように、文化大革命が過去の言語で書かれた姿を破壊し尽くしました。荻生徂徠の読みが現代のオリエント学の読みよりも信頼できるのは、非常に単純なことですが、20世紀よりも彼の生きていた17世紀のほうが12世紀に近いからです。わたしは荻生徂徠の専門家ではありませんが、もしかしたら徂徠の眼からは、朱子のテクストが四書の言語の存在ー死に切った過去ーを飾っていたとみえていたかもしれません。彼は聖人による命名制作を言ったことが画期的でしたが、そうして原初における分節化と絶えざる意味の変容とが展開していく歴史が明らかになります。徂徠の文からは、国家祭祀を禁じる今日のわれわれの制度を考えるための出発を読みとることができます。現在の中国が、伊藤仁斎におけるポストモダン孔子の意味を理解しはじめたのは、アメリカやイギリスの海外に行って英語でフーコを学んでいるからです。アングロサクソンにおけるポスト構造主義の受容によってこのことが可能となりました。東アジア漢字文化圏を表象するためには、現代中国語から思い浮かべることができるでしょうか?書き下し文の漢字エクリチュールに依拠することなく、過去の言語が書かれているすがたを思い浮かべることはできないのではないかと考えたりします。東アジアの憲法を書くときは、最初に、天皇ファシズムを為した国家祭祀の禁止ー祀る神は祀られる神という現人神の禁止ーを規定することになるとおもいます。


「聖人の未だ興起せざるに方りてや、其の民散じて統なく、母あることを知りて、父有ることを知らず。子孫の四方に適きて問わず。其の上に居り、其の物を享けて、その基(はぐ)むる所を識る莫し。死して葬ること無く、亡じて祭ること無し。鳥獣にひらがりして以って殂落し、草木と倶に以って消歇す。民是れを以て福無し。蓋し人極の凝らざるなり。故に聖人の鬼を制して以てその民を統一し、宗廟を建てて以て之を居く。丞嘗を作りて以て之を享ける...礼楽刑政是れ由りして出づ。聖人の教えの極みなり。」‬(子安氏配布資料より)


紙コーヒーカップから、新型手作りマスクをつくってみました。問題はどちらが表の面でどちらが裏の面がわからないこと。マスクなのに、外部からの侵入性が大きいこと。それぞれの点が主辞=属辞関係、分節化、指示作用、転移である「この四辺形は内部関係の図式というより外周を描くものであり、言語がその外部にあるものとどのように絡みあっているかを示している。」ce rectangle dessine une périphérie plus qu’une figure intérieure, et il montre comment le langage s’echevêtre avec ce qui lui est extérieur et indispensable


語るというのはまさにこのこと。知るために語る。顔の下にマスクしたほうがよく語れる。


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法治国家でないと嘆く声を読むのだけれど、法治国家になれなかったのどうしてだろうか?そもそも薩長のクーデターの暴力で成り立ったクーデター国家だった。自由民権運動を弾圧し、政府が議会を作った。天皇に全権力を集中させたまま、大逆事件で市民の思想家達を殺害した。クーデター国家は国家に逆らうと怖いことをみせつけた。満州事変の統制的推進が大正デモクラシーと呼ばれるの?今日は解釈改憲軍国主義靖国公式参拝国家神道を事実上復活させた。さすがに「明治維新万歳」という声はもうなくなったけれど、まだずっとクーデター国家をやっているんじゃない?3、マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』(1852)の読みは専ら20世紀ドイツの全体主義の分析に常に向かう。だけれど19世紀明治維新のクーデターを見逃してきたのはなぜか?天皇ファシズムを差異化していないからではないか。国家祭祀の天皇がもつ見えない権力を分析できていなかったのである


世界が四選の安倍に注目しているって?だれも彼を知らないよ。ロンドンのカフェで隣にいたユダヤ系ギャング(?)の間のこんな喧嘩があった...


「おまえはバカだ」

「バカじゃない」

「バカのバカだ」

「バカでない証拠に、俺は日本の首相の名前を知っている」

「だれだ?」

「アベシンゾウ」

「ほらみろ、やっぱりバカだ」


日本人のウンコの量は変わらないのだから安心してみたいなことをいうけれど、買い占めにきたのはみんなウンコだったとしたら?量が増えている


人間は、一つの言葉、一つの名の記録のために、さすらいつづけていゆく動物であり、それゆえドラマでもっとも美しいのは、人が自分の名を名乗るときではないか。ー寺山修司


寺山修司が言いたいことの全部はわかりません。名指すというのは非常な遅れをともなうこと(「もしもしだれがそこにいるの?」ときいて、1000頁後に返事がくるとか)、同一化できた自己の分身が何であれ、その名を自分の名とすること(花の名前とか動物の名かもしれませんしあるいは原初の名かもしれません)、だれも名前をもっていること、などをかんがえました。同一化を拒んで沈黙する権利もあるだろうとおもいます。何しても、名だけでは思考を自分のものにすることができないので、一文でも文を構成しないといけないだろうとおもいます。寺山はドラマのことを言っていますね


‪現在では留学先が中国から米国に変わって、朱子学ではなくて米国憲法と経済学を一生懸命学んでいる。‬


フランスにおける18世紀から始まるイギリスと地球半分づつ分けあった帝国主義の展開。17世紀の「文法」から「語る」ことが始まったことがちゃんと伝えている。「語る」ことの成立とともに「ユートピア」が思い浮かべられてくるのではないか?アカデミーフランセーズとか、帝国のオリエンタリズムの芸術とか、19世紀の普通選挙の確立も関係がある。


日本の漢字を紹介している。1945年に国会が行った漢字の簡略化(「新字体」)をとりあげている。『日本語』で、中国の場合ほどには無規則に簡略化が行われていないという。ナショナリズムが現れてくるのは、東アジア漢字文化圏を成り立たせた書かれた言語の衰退からではないのかということをかんがえるヒントになる


ヨーロッパの大学でもアメリカの大学でも、もう日本語は中国語の一部門になっているのじゃないのかな。昔と違って、いまの時代、みんなの関心は中国なので、こういう構成は大変参考になる。比べる方法をもつヨーロッパ近代がスゴイのか。日本語を考える上で面白いよね。


「無観客の五輪」開催って、大島渚『儀式』のなかで父が挙行する花嫁不在の結婚式ー女は逃げ出していたがあたかも新婦がいるかのように式は進行していくーを思い出したな



「礼」といえば、ヘーゲルの精神の客観。荻生徂徠は「礼」の言説に関係しているとおもうが、荻生徂徠の制作論における客観のもとに、伊藤仁斎の道徳学の対自的・対天下的な主観がいかに展開したのだろうか?近代主義者は、朱子学とのラディカルな断絶から説明して、思想におけるリアリズムから歴史への一直線的な発展があったとする。しかしそうだろうか?仁斎の朱子にたいする思想闘争はたしかにあったが、ほんとうに朱子学との断然を簡単に言っていいのか?思想史の舞台において行ったり来たりしてもどることは起きないのか?コスモス(理)が反コスモスを利用して他の見方を生み出したとき、仁(愛)の傍らに反コスモスの無とか空が存在していたとしか説明できない。反コスモスとしての江戸思想史。サイードならばそれをpowerlessness と呼ぶのではないかとわたしは思う。後期近代は「礼」を語るとき、精神の客観に、国家や民族はなくて、市民がその中心に来なくてはならないのではないか?

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ジョイス文学を読みながらアイルランド語の消滅のことを考えたダブリン、イラン戦争によって成り立たなくなったマルチカルチュラリズムの危機をかんがることになったロンドンから、東京に戻ってくると、言語の消滅を気にしない人が多いことに改めて気がついた。マジョリティーは一言語(国語)のほうが国家の統一に有利だとおもうのであろうか?わたしはアイヌ語琉球語ではなくて、漢文を発見したというか。言語を失うと、言語に書かれている多様な見方を失う。漢文に則して言うと、明治維新150年の破綻した近代を批判的に相対化することもできなくなる。たしかに夏目漱石などはアジアの形而上学をもっていたが、しかしほんとうに彼の文学にそれほど期待していいのか?『こころ』を読んで段々疑問におもうようになってきた。海外で読んだ江藤の漱石の時代もどうなんだかね?


3月11日は仮に本質的欠如でも、何の為の豊かさだったのかをラディカルに問う意味の反省に充足させられているかぎりにおいて欠落に非らず。復興幻想・令和五輪によって欠落である


自民党しか政党が無いとおもう理由?正直わからない。やはり明確な社会のネガテイヴなイメージをもっていないからではないか?香港の若者は自由に喋れない、何でもかんでも金がものをいう社会(中国共産党)に対するネガテイヴなイメージをはっきりもっているのに、遡ると、全共闘運動学生はラディカルに近代を問うたが、明確な社会のネガテイヴなイメージがあったとはいえない。同時代の最も影響力をもった思想家サルトルは『存在と無』で対自的自己否定の<無>を書いただけではなかった。『奇妙な戦争日記』で、<ファシズムにたいするドイツとの戦争に勝っても、直ちに資本主義が勝利するだけではないのか>と書いている。サルトルは明確な社会のネガテイヴなイメージをもっていたーオーソンウエールズ監督の『市民ケーン』における社会のネガテイヴなイメージを理解できずに「歴史を嘲弄している」と非難したけれども。日本学生は純粋な徹底した自己否定と共に自己が属する大学も破壊した結果、マルクス主義研究者が追放される口実をあたえた。明治維新を批判しているふりをしているだけでよく話を聞くと賛同しているような、今日自民党提灯持ちばかりじゃないか?ポストモダン自民党批判として作る体制の絶望を表現したが十分に成功したとはいえない。今日われわれは原発ジャパンアズNo.1が帰結したものに対する憤りを通じて改めてこのことを考える必要がある。これから何ができるか。自由に喋れない、何でもかんでも金がものをいう社会のネガテイヴなイメージをはっきりとつくりだすことから始めることではないか。自民党の社会ではやっていけなくなってきた演劇に期待するのはこの私一人だけだろうか


延期とか中止の発想ではなくて、オリンピック主宰権のトルコへの返還を考えましょう。そもそもイスラム世界の国が国際デビューする機会を奪った東京五輪は国際犯罪的でしたから


悪魔に操られる大臣の言葉に顕にされるものよりも隠されていたものー声なき声ーが見えてしまう。国家は自らが齎らした災害から一番最初に逃げ出したのだ。問題は今も逃げている


“Wir müssen auf unverschuldete Härten und Notlagen reagieren und sie ausgleichen. Das muss uns nicht nur die Wirtschaft, sondern auch unsere durch die Absagen schwer gebeutelte Kulturlandschaft wert sein“


ポストモダンヘーゲル感染のワクチンだったはずだが。ヘーゲルとはなにか?ヘーゲルの言語は近代を体系的に示し




推敲中

ἀνέχου καὶ

Sustine et abstine.

ー Epictetus

エピクテトスの「権能」ーアリストテレスを応用した epi heminーは、「われわれの力が及ぶもの」にしようかと、フェースブック友達のEiji Kunikata さんから教えていただきました。どれも大した絵ではありませんが、何とか内部の感覚の全体を以って<力が及ぶもの>を描けないだろうかという課題をもっています。努力しては描くことができないこの制作はどうも絶対他力的ですけど(笑) まだ続けているのは、秩序と別の秩序も間の説明不在の揺れ動く境界線が形成される過程の面白さですかね


人間は、おたがい、死者と語らう死者なのだということを忘れる。ー ボルヘス


推敲中

Godard 

ゴダールは『右側に気をつけろ』でポピュリスムの問題を議論している。歴史は自ら編集するという『映画史』では歴史修正主義の問題を考えている。と同時に、そこで原理主義の他の道がないとする言説も批判していた。21世紀からはグローバル資本主義の問題をヴァーチャルな立体空間を通じて議論している。いる。

(超越的なもの、天、音楽 は人間に内面化されない。収容所の弦楽四重奏団の映像とレンブラントの映像の関係を打ち立てるためには、これら二つの映像の関係を媒介する他としての映像(重ね合わせの状態)を必要とする。命題論理的に構成することによって言語の中から変数Xを作りだしている)



MEMO


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母音もまた孤立させられて、慣用によって忘れられていた太古の名詞の秘密をあかすだろう。Aは所有(持つavoir)、Eは実在(existence)、Iは力(puissance)、Oは驚き(まるく見開いた眼)、Uは湿気(humidité)したがって体液(humeur)をあらわす。

ーフーコ『言葉と物』、Court de Gébelin 1816 に言及した一文)


 ‪今朝BBCで女性がナショナリズムと日本文化のミソジニーに憤慨していた。天皇は飾り物でなくなった。天皇の本質は変わらないならば、この権力に人間性を読むことは不可能だ


近代の国家の時代の計画し過ぎた官僚と後期近代の何でもかんでもカネがものをいう市場の時代の何もしない官僚。両者は求められることが互いに正反対だが、共に「優秀」なんだろうが、責任を取らないことと、官僚養成機関の東大法学部が民主主義を教えるはずがないことはまったく変わっていないと思われ


政治家と官僚がバカになったと嘆くのはどうして?権力に支配されている市民が賢くなるチャンスじゃないか、喜ぶべし!ネットは3.11以降の対抗メディアとしての出発をもった。ANAを支持したり神戸大教授が利用するネットは言論の自由をはかる尺度だとおもう


「不快」?寧ろ小池は反省して。国際社会にデビューするイスラム国から奪ったオリンピック開催で、国際的犯罪と言われても仕方ありません。ロンドンは奪うつもりはないです。勿論安倍みたいに情報操作を行ってはいません。この大変なときに東京はロンドンの申し出に感謝の言葉を口にしなっくちゃですね


プラトンイデア説の要点は、経験的現実を原型として先に置くことである。だが、”作家“の理論(ないし構造)は原映画(アーキーフィルム)などでは全然なう。(...)だが、反プラトン的議論の根底には、映画そのものを見るという「生きられた体験」を少なからず遠ざけるようなどんな説明に対しても、しばしば敵意が見られる。しかし明らかに...映画と批評とのあいだに、またテクストとメタ=テクストのあいだに距離を、ギャップを含んでいなければならない。‬

‪ーピーター・ウオーレン『映画における記号と意味』(1976岩本憲司訳)‬


プラトン大好きの国、アイルランドに8年間もいたので、恥ずかしながら、ピーター・ウオーレンのよい読者ではないのでござるが、今日彼の一文を拾い読みしたら、何かはじめて、4年間いたロンドンの批判知ー現象学批判ーがわかってきたとおもわれ


1、“エコノミスト誌“がグローバル・デモクラシーの危機”Global  democracy is in in decline として民主主義指数をはかる4つの分類をしている(日本はflawed democracyである。) 火星から地球の民主主義の状況を眺めているような感じでいて、一国民主主義を自明とした近代主義の視界ではないだろうかとおもう。

2、なるほど、flawed democracies とAuthoritarian regimesと指示された二つの領域が互いに惹きつけ合うように隣接しているのがわかる。(互いに、一方の民主化が他方の民主化の条件であるという可能性も考えられる。)ただ“エコノミスト誌”によるこのようなこの分類は言語の問題を最も重要な問題であるとは考えていない。言語の問題を考えていないようでは世界の半分しかみていないと言わざるを得ない。

3、他方で、「グローバル・デモクラシー」と子安宣邦氏が命名した見方では、言語の問題を考えることが重要である。自立的一言語(国語)主義と一国民主主義が後期近代のナショナリズムを形成していて多元主義ー平等を実現するーを妨げている。「グローバル・デモクラシー」は、ネオリベグローバル資本主義に抵抗する理念であるが、21世紀の問題は、新しい普遍主義の模索が極右翼によって非常に悪い形で行われることである。またヨーロッパの一部の国々も日本と同様にflawed democracyだが、ヨーロッパはナチスを裁いている。考えなければならない決定的な点は、日本の歴史修正主義の極右翼が戦前の形をとってあらわれていることである。



‪「クロソウスキーにおいては分身の、模造の外在性の、<自我(moi)>の演劇的かつ錯乱的な多数化の体験とともに」(フーコ『外の思考』豊崎光一訳)。クロソウスキーウィットゲンシュタイン論理哲学論考』を訳しているのはどうしてか?もちろんわたしに答えはない。言えることは、映像と批評とのあいだにギャップを含んでいなければならない。テクストとメタテクストとのあいだに距離があるべきだ。だがそれだけだと世界の半分しかみていないから(したがって透明となっているから)、再び新しく(はじめて?)映像を見る。テクストに帰るのである。つまり世界の半分しかみていない構造を解体するとはこういうことではないか‬


したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値…というものは、一つの背理…のように思われる(K・マルクス


ダブリンでリアル・カトリックという言葉をきいた。自発性を失った既存の枠組みより広い範囲で人々に生存の意味を与えるものにリアルの接頭辞をつけるが、FWのジョイスの原初の神話に向かう脱構築性にリアル・カトリックの精神を読むことに、近代の知識人は警戒する。どうもリアル平田篤胤もあるらしい


1)性愛はあまりにも多様な生成変化を結びつける。それはいわばn個の性であり、一貫した戦争機械であり、恋愛はそこを横切っていく。(…)重要なのは、恋愛自体が奇妙な、そして、ほとんど恐怖をいだかせるほどの力をもつ戦争機械たりうるということだ。


安倍の政治ではもうやっていけなくなったかんじである。政治は、だれが倒れないで一番タフなのかを競うゲームになってきた。言葉の崩壊のほうもおそろしい


古典は、何でもかんでも金がものをいう社会に対するネガティブなイメージをしっかりもっているんだな

Quid faciant lēgēs ubi sōla pecūnia regnat? 金だけが世の中を支配するとき、法律に何ができるというのだ?(ペトローニウス「サテュリコン」)



‪La nature juxtapose les différence et les lie de force ; la réflexion découvre les ressemblances, les analyse et les développe. ーFoucault ‬


自然は相異なるものをならべて否応なくつなぎあわせ、反省は類似を発見し分析し発展させる。

ーフーコ『言葉と物』より、第四章「語ること」、指示


‪近代の日本人の宿命は、西欧とその西欧を日本人としてどう理解するかという二重化の囚われにある。東洋美術といわれる物の見方にその二重化があらわれるのかもしれない。そうして世界の半分しかみないことになるとしたらどうしてか?フーコがいうように「自然は相異なるものをならべて否応なくつなぎあわせ、反省は類似を発見し分析し発展させる。」つまり近代においては東洋美術は西欧の類似に整理されるだけだろう。結局西欧の普遍しかなくなる。たとえば中国美術の見方では西欧の中に構造化されてしまう。そこから世界の半分しかみていないことが起きる。だからこそ岡倉がアジアという方法をつくったのではなかったか。それは自明に繋いでいく中を解体しいく外の思考。ポストモダンは岡倉を見いだしたとおもう。ついでだが岡倉のアジアという方法は西田の無の場所に先行している


1973年にトイレットペーパー騒動があったが、またパニック?この50年間進歩がなかった。というか、戦前と何も変わっていないのかも。渡辺一民安倍晋三は戦前について何も知らないと憤慨していた。凄い勢いでパーと広がるらしい。そのうち、「貴様フランス文学を読んでいるのか、生意気だ!」と殴ってくる軍人が現れてくるよ。知においても、近代批判なんかダメだと言っているのだから、そうすると、この立場は、昭和十年代ファシズムに帰結した明治維新の近代をたたえる安倍と同じということになる


1、保守伝統は鎖国というネガティヴなイメージがある。徳川日本は西欧列強の植民地化・従属化を避けるために鎖国した。また中国文明からも自立する必要もあった。保守伝統は普遍主義(朱子学)だ。民族主義を異常だと考えた。横井小楠は侵略に対する国防さえ整えれば、開国して万国の普遍に委ねようと主張した。

2、さてこの時期に隣国にヘイトスピーチすることほど危険なことはないのに、問題を起こしているのは、アジアに共感をもっている保守伝統ではない。かつての社会党アジア主義だった。日中国交回復をすすめた。再び現在問題を起こすのは、他ならぬ、ヨーロッパと米国にしか共感をもたないナショナリストである。

3、ナショナリストの中には、ラディカルに近代的なものが存在する。ここで誰々がそうだというのではなく、あくまで理念的に言うのであるが、ナショナリストは自立的<一言語>(国語)主義なので「漢文」(明治以前の)が不要だ。書記言語の前に遡る古代に日本があるとする<一国>民主主義の近代主義者である



1973年にトイレットペーパー騒動があったが、またパニック?この50年間進歩がなかった。というか、戦前と何も変わっていないのかも。渡辺一民安倍晋三は戦前について何も知らないと憤慨していた。凄い勢いでパーと広がるらしい。そのうち、「貴様フランス文学を読んでいるのか、生意気だ!」と殴ってくる軍人が現れてくるよ。知においても、近代批判なんかダメだと言っているのだから、そうすると、この立場は、昭和十年代ファシズムに帰結した明治維新の近代をたたえる安倍と同じということになる


アレッサンドロ・フランチェスコ・トンマーゾ・アントニオ・マンゾーニ (Alessandro Francesco Tommaso Antonio Manzoni


Wikiより 「1823年『ロマン主義について』を書き、新しい流派の説を詳しく展開しているが、その要旨は神話と古典への盲従を排し、修辞法則を否定し、それに対して「意図としては有益であること、主題としては真実であること、方法としてはおもしろさ」を追求するべきである、というものだった。さらにイタリア語の統一という問題について多くの論文を書いて、イタリア語の中のトスカーナ性を擁護し、名作『いいなづけ』によってトスカーナ語を基本とする近代イタリア標準語をいちおう完成させたといえる。」


推敲中


『フィネガンズ・ウエイク』とはなにか?その全体像を公式的に言ってしまうのは躊躇いを感じるが、「第一部 両親の書」は貴族の世界が表現されていると私はおもっている。「第ニ部 息子たちの書」では僧侶の世界がえがかれるのだ。貴族の世界が体現する戦争の原因となる報復の互酬性が終わり、僧侶の世界におけるものとしての天における超越性が始まるのだ。だけれどこの超越者は大き過ぎるのだ。そうして、必然として、「第三部 人びとの書」では民衆の世界が呼び出されることになる。貴族における従属物としてあった王と民衆とが台頭したのは、貴族同士の争いが招いた彼ら自身の没落によってである。王と民衆が直に結びつく。王は『ユリシーズ』ではブルームがその役割を演じたし、父の時代のパネルの後のジョイス自身であることをみると、それは文学的王(チャンピオン)としての市民である。「第三部」において人間全体の視点と人間の内部的視点を切り離せない。ジョイスにおいて問題となってくるのは、人はどこからきてどこへいくのかと未来を思い出すことによって語り得ないものを語るという一線を超えた過剰に古代的な祭政一致的国家の理念像が呼び出される復古主義の政治をいかに解体するかである。「自己で決めた亡命」の戦略もそれほど勝ち目はないが、ジョイスは外部的位置を以て、国家と時代と対等な世界を書こうとしたことは確かである。ジョイスの文学的世界はstóry-tèll-erが要請される。‪stóry-tèll-erが語りかける、人類的河として表象されるordinary people も要請されている。‬stóry-tèll-erは、宇宙に散在する隙間を厳密にコントロールするこだわりを嘲笑う、人間世界と等価の物語素を構成できる。とりあえずその場で手に入る古くて汚いものを利用すればいいが、物語に再び孤立する人が出てこないように気配りするアマチュア精神が要請される‬ということだろう


マスクという記号が広げる「全員」が増殖している。その「全員」によって感染が弱まってきたと安心しているけど減っていないでしょう?要請によって自由の制限を行う権力も大満足


コロナ対策費を比べると、中韓は兆単位、シンガポール、香港、台湾は数千億単位。日本はたったの120余億円。休業補償とか、中止を言うならばきちんと補償しなければいけないのに。お金がオリンピックにフィックスされてしまったので、必要とされているところにまわらない。ロンドン・オリンピックの問題もそこにあった


「現場」を離れて書斎のなかでばかり考えていると、世界はすべてお見通しになって、自分がとてつもなくえらぶつであるように思えて来ることがあるにちがいない。『人間みなチョボチョボや』1985


「非-資本主義的な文化」とはなんだろうか?まだわたしはわからないけどね。資本主義は人間の成立とともに17世紀近代から始まる。「非-資本主義的な文化」は、アジアで展開した、17世紀の道徳学、18世紀の制作学、国学、19世紀の神学、政治神学、20世紀の倫理学政治学、そしてグローバル資本主義が成立するなかで‬「非-資本主義的な文化」を考えはじめた後期近代である21世紀の思想史、そうしたセリー(系列)ではないだろうか


「世界が、資本主義に特有のこの西欧的な「権力」形態を越えねばならない。今や、非-資本主義的な文化は、西欧文明の圏外にしか生まれまい。西欧は、西欧文明は、西欧の「知」は、資本主義の鉄の腕によって屈服させられている。我々は、非-資本主義的な文明を創出するには、疲弊し尽くしている。」フーコ



フーコー『言葉と物ー人文科学の考古学』の新装版、書店が書いた宣伝文を読む。 「1966年に発売され人々を魅了してきた思想書」とある。信頼できる翻訳である。日本では広がらなかったのか一考の価値がある。「外来思想」(苦笑)の常のこととして土着化の問題ではなく、純化の問題があるかもしれない。フランス現代思想の幻想が純粋ポスト構造主義の幻想をうむというか。また成熟する前に、ナショナリズムの言説にやっつけられれてしまった。後期近代の近代主義ナショナリズムとの関係には警戒しなければならないと思っていいる。だけれどまだK.Oではない。まだ「ふーこのポストこうぞうしゅぎ」に非らず。時々反権力の側から、ポストモダンの見方を非難する批評の言葉を読む。「じゃあ、あなたは、昭和10年ファシズムを帰結した明治維新の近代を信じている安倍晋三と同じなの?」と質問したいのだけれど、どうなの?


‪亡命のこというときは、気がつかないのだが、永久革命的に定住する端っこをもちたいからではあるまいかとおもう。永久革命といえば、ネオリベの市場至上主義は永久革命的であるといえよう。だれも市場が約束している永久革命の成就する日まで生きてはいない。他方で、折衷という真ん中は、なんだろうか、ノマド的であるから動かずとも常に動く国内亡命を構成する。常に外へ脱出する作戦を考えている。ダブリンとロンドンから東京に来たのは東京から脱出を考えるためであると言ってもいい‬などと勝手に考えはじめたからいい気なものである。思い返すと若いときはどちらかというと原理主義的だったので現実迎合的にみえた折衷を憎んだのではなかっただろうか。現在はそれが近代という時代の折衷的なものだとわかってきた。知識ないわたしのようなものでも、何とか、江戸思想の展開を学んで方法としての折衷がもつラディカルな意味を理解しつつある(朱子学の普遍はそれを脱構築した古学の後に発展した)。


天保のフーコなら関心がある


見えない領域に憲法の法則は適用されずという境界線はヤバイ。見えない戦争ならば憲法は気にしなくてもいいと同じ危険性がないか。それ以上だ。対象の存在が問われない。憲法が精神の自由を規定する傍で、反論できぬ形で価値中立的に線を引かれて、精神が従う憲法の中の見えない絶対権力者が増殖する?


元祖寸劇

安倍「立法府の長であるわたしは国会休会を決めました。」

野党「何を言っているんだ!?」

安倍「国会休憩です。つい言い間違えました。」


ハンカチでマスクつくったり、国滅ぶの川柳をつくったりする日本人の器用さに疎外感をかんじる。外国にすみたい


学問として、非協力的関係において合理性を追求する合理主義のもとでは必然として合理性が成り立たなくなるあり方を数学的に説明できた点はみとめるけれどね。数学は美しいんだけど。いつも思うことだが、安易に具体的事例に適用していないか?もし買い占めなければ、知らない他者にやっつけられてしまう、しかも最大限に、という前提がね。知らない者どうしの両者のあいだで買い占めないという協力が困難であるとしているのもなんだかな。言葉の世界に生きる現実があるのだしね。逆に、為政者の言葉に真がなくなって、信の構造がなくなると、数学で記されるこの通りのことが起きるのかもしれない。


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ハンカチでマスクつくったり、国滅ぶの川柳をつくったりする日本人の器用さに疎外感をかんじる。外国にすみたい


推敲中

対象の不在?

リアリズムによっては包摂されないし、

ロマン主義

純粋な外部的独立から得ることもない、

過剰としての空白、

そこに依拠する文学

わたしたちは

神話的リアリズム


推敲中


岡倉天心「東洋の理想」(1903)を読む


近代日本は戦前が二回ありました。第二次世界大戦の戦前と日露戦争の戦前です。だから「東洋の理想」は戦前に書かれた本、もっといえば、戦前において書かれる必要のあった本だったと考えることができるかもしれません。▼「東洋の理想」の範囲を説明した文を読むと、「(岡倉天心)氏は、インドにおける芸術発展の現実に見られる類縁は多く中国的なものである指摘すると同時に、このことの理由には、一つの共通の初期アジア芸術というものが存在したということをおそらく求められるべきものであると述べ、この共通の芸術は、そのもっとも遠い周辺の波跡を、ギリシャの浜辺、アイルランドの極西部、エトルリアフェニキア、エジプト、インド、および中国に、ひとしく残っているものであるといっています。」(マーガレット・Eノーブルによる解説)とあります。▼共通の初期アジア芸術の痕跡が「アイルランドの極西部」にも。兎に角、理念型として東洋が構成されているということが大事なのですね。▼岡倉の有名な言葉「アジアは一つである」でいわれる連続性とは、なにがホンモノでなにがニセモノといったことを排他的に選別して整理することになる理念の病とは関係がないと私は読みます。異なる時代ではありますが、あえていうと、今日のアーチストが開かれた世界にむかって語る口調で、平等になんでもかんでもわれわれの精神に繋がっている世界に生きるのだとする自身を代表する言葉とそれほど違わないのだろうとおもうのです。▼「思想史研究会」で岡倉天心の後継者としてかんがえてみようとされる大川周明の意味は何かと考えています。1928年の昭和ファシズムの形としての帝国主義国家としての日本、この日本のファシズムイデオロギーに転化していくことになりましたが、しかし大川は1921年においてはまだ第一次大戦後に成立したアジアの革新思想の一つだったこともまたみておかないとフェアーではないでしょう。大正期の大川に「右翼」の接頭語は必要ないという意見があります。▼アジア的主体を介して植民地主義のヨーロッパ近代の限界を乗り越えていくことを思想の問題とした大川は、岡倉天心から読んだものは、岡倉のアジアにたいする比類なき共感ではなかったか。岡倉の本をよむとき、今日の日本の決定的な問題が見えてこないでしょうか。それは、小泉元首相から始まりましたけれど、アジア性を完全に喪失した安倍晋三首相、あるいは自民党だけしかアジアのヴィジオンーただし時代遅れの無効なーを持っていないという矛盾である、と、子安氏は「大正を読む」の最終講義で訴えました。▼「美しい日本」をいうこの歴史修正主義者が原因をつくる<外>の民族紛争の恐怖、と同時に、拡大してきた<内>の経済的格差。内外のこの二重の搾取を受けるアジアの人々はどうしたらいいのかという問いかけが、偏狭な一国的ナショナリズムによって、隠蔽されてはいないでしょうか。集団的自衛権の2016年、岡倉天心が生きていたら戦前のわれわれにむかって何を言うだろうかと不安におもいながら今日は考えていました。




MEMO


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20世紀における存在は戦争における叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体の表象で成り立っていた。存在は死を投射した。絶対の過去が死だった。そして死から存在それ自身を投射する。死に切った過去から問われた存在はずっと死に装束だった。背後から突き刺してきた投射の矢が精神だと気がつかなかった



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ポストコロニアリズムの教科書の序文を読むと、現在イギリスではimperialismが帝国主義という意味をもたないと書いてある。「一生懸命屋さん」という意味でしか理解されないという。たしかに、「植民地主義者め!」という非難の言葉はない。宗主国の真似をする現地住民は自分たちでは歴史を作ろうとしない「怠け者」としてステレオタイプ的に表象される。明治維新の近代という反復する歴史の悪夢から目覚めたいのだけれど、「怠け者」とされてしまう


英国は去った。EUは中でコミュニケーションをするために英語で喋り続けるのだろうか?英語を母国語とする国がないのに。長期的にいって英語の衰退がはじまるのかという見方もある



生というこの不可解な謎、偶然、暗号、バベルの不和、……ーボルヘス


Πλάτων 

『国家』をギリシャ史に照らせば、プラトンが哲学者に要求している「転換」がホメロス的世界秩序の転倒に等しいことがすぐわかるだろう。プラトンの場合、「洞窟」に位置しているのは、ホメロスのハデスの場合のような死後の生活ではなく、地上における普通の生活である。ハンナ・アーレント「人間の条件」41

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近代世界をかわして偉大な過去へ行く?英国ラディカル・ナショナリズムの派手な国際的実験のインチキ。北アイルランドスコットランドが意思に反してEUから引き抜かれることに


思考も揺れる。われわれはどういう時代に生きているのか知りたい。後期近代は1960-1970年からはじまった。1980年代はどういうものだったのか。現在NATOはもうあんまり意味なくなったようだし、大島渚じゃないんだけど、出ていくイギリスのかわりに、死刑制度を廃止した日本をEUに入れてもらえないだろうかと頭の中でちょっとかんがえたりしたとき、1980年代にやっておくべきことがあったのだ、日本とヨーロッパとの差がつきすぎてしまった。EUモデルの東アジア共同体の意義深い構想もあることはあったが、英国のラディカルナショナリズムがもたらしたネガティブなEU像のもとでは、もはや無理だろう。この国は戦前の祭祀国家を否定したあり方でなんとかやっていくしかないとおもうのである。500年間の歴史の視点を以ってもっと勉強しなくちゃ


ポストモダンは知識人の不可能性をいうが近代批判をやめない。日本における知識人否定のラディカルモダニズムとは理念性なき理念性なのかー本居宣長津田左右吉、90年代柄谷行人


The election result is so sensational that it is easy to miss what is at the heart of it: a desire for normality. Like the American military spokesman in Vietnam who explained that they had destroyed a village in order to save it, voters have destroyed the familiar political system in an attempt to make it ordinary. They have confronted the two great anomalies of Irish politics: the half-in/half-out status of Sinn Féin and the duopoly of the Civil War parties. They have decided to get rid of both of them. ーFintan O'Toole


推敲中

‪「人類皆平等」の近代は、フランス革命から始まったことは確かだ。だけれどナポレオンの共和主義の反対に行くことになる方向を、あのベートベンですら、見抜くことができなかったエピソードを読むと、何が「人類皆平等」であるかの判断は簡単ではないのである。第一次大戦後のワイマール体制は「人類皆平等」の方向を打ちだしていた。だがこの体制から、ヒトラーという「人類皆平等」のラジカルな否定があらわれてきた。この混乱はどう説明できるのか?この混乱はフランス革命が百年間を以って行ったデモクラシーをドイツが僅か十数年間という縮約して実現しなければならなかったその無理から生じたのではなかったか、そういう説もある。この問題は、ほかならない、アジアの問題である。ヨーロッパはルネサンスから500年かけてデモクラシーの近代を獲得したが、アジアはそれを百年とか二十年でやろうというのだから、このような大変な圧縮のなかで、どういうことが起きるのだろうか?「人類皆平等」の民主主義を全体主義とかんがえたり、また全体主義を「人類皆平等」の民主主義とかんがえたりするという転倒が起きるかもしれない。東アジアは二十年ぐらいで民主化を行うが、比べると、日本は150年の期間があった。しかし昨年のことを考えると、民主化運動のリーダーを「人類皆平等」の否定者の烙印をはってはいなかっただろうかという危機感すらないではないか。これが東アジアのデモクラシーを先行した"150年間"の達成なのか?ここから、戦後の民主主義は本当にそれほど「人類皆平等」なのだろうかとどうしても考えることになる。大正デモクラシーというのは戦争さえなければ順調に完成するはずだった、だから戦後はこの<純粋>大正デモクラシーから再びはじめれば宜しいと楽観的に考えているとき、帝国主義の議会こそが戦争(日中戦争)を準備したかもしれないということは疑われることがない。こういうことをかんがえながら、「人類皆平等」の近代はなんだろうかと思ってしまう。果たして、「人類皆平等」は不要な観念だろうか?ベートベンの後期のピアノソナタをききながらおもう。そうはおもわない。理念としてもたなければやっていけなくなるだろう、と


書くことも描くことも、平面の上において同一性も差異性もなくて曖昧な本質しかなければ、区別があるのか?「文字で描く」は正しくない。外部に逃げゆく文字で描くというべきだ


このヨーロッパ翻訳語の日本語ではなに言ってんだか話がみえないが、西田と和辻はカントが大好きなんだろうってことはわたしにもよくわかる


「我々の真の自己と考えられるものは人格的でなければならない、単に身体的と考えられるものは真の自己ではない。むろん、何らの身体的欲求なくして自己というものはない、人格というものすら広義に於ての身体性なくしては考えられない。(西田『私と汝』)


「おまえはだれだ?」

「無であります」  

カフカ日記1922年


Foucault 


Parce que nous ne voyons que cet embers, nous ne savons qui nous sommes, ni ce que nous faisons. Vus ou voyant ? ーFoucault

裏側しか見ないのであるから、自分が誰か、自分が何をしているのかわれわれは知らないからだ。いったい見られれているのだろうか?それとも見ているのだろうか?( フーコ 渡辺訳 )

 「裏側」とフーコが言っているのはこのベラスケスの絵のなかに描かれている画布の裏側のこと。王が立ち後に観客のわれわれが立つことになる同じ位置から、モデルたちは自分達が描かれている裏側を見ようとしても、(ここで順番が大切)、鏡を見てからその鏡から画布の方を見ると、裏側しか見えない。見えない限り、誰が誰であるか確定されていない。これは、同一性にたいして思考が揺れるなんと演劇的な配置であることか!問題は、現代にとってこの配置がもつ意味である。‪物事は表と裏でできているのだから、表だけでなく常に裏側も考えよ。と、‬どんな思考が成り立つのか?


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啓蒙主義というのは初心者をあたたかく迎いれる。17世紀の京都の「古義堂」の前でうろうろしているお百姓さんを伊藤仁斎が中に招きいれたという話がある。外国には、わたしは何が正しいか正しくないかは本を読んで知ったと言ってくる知識人がいるんだよね。孤児院で育ったので両親がいなかった場合もあるが、これを外国人(半他者)に告げるのは啓蒙主義の伝統が生きていることをおもう。わたしもこの年になってなのだけれど、フーコの本を読んで正しいことを学びつつある。大袈裟なことではなくて、たとえばご飯を食べる前に手を洗うとか(まえは気まぐれで逆のこともよくあった)。これは衛生上の理由でそうするようになったのではなくて、順序を重んじる古典主義の思考を見倣ってのことである。‪‬最初に書かれたことが大切である。必然だから大切なのではない。17世紀に立ち返ったポストモダンの精神からいうと、偶然だから大切なのである。『言葉と物』の書き出しはこうである。


画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥を与えているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆をまだおろされていないのかもしれない。画筆をもつ腕は、パレットの方向、左にまげられている。いま彼は、画布と絵具との間で身動きしない。その馴れた手は視線に吊られ、視線は逆に、静止した動作にささえられている。画筆の鋭い先とはがねのような視線とのあいだでは、光線がその立体的空間を解き放とうとしている。(渡辺一民訳)


Le peintre est légèrement en retrait du tableau. Il jette un coup d’œil sur modèle; peut-être s’agit-il d’ajouter une dernière touche, mais il se peut aussi que le premier trait encore n’ait pas été posé. Le bras qui tient le pinceau est replié sur la gauche, dans la direction de la palette; il est, pour un instant, immobile entre la toile et les couleurs. Cette main habile est suspendue au regard; et le regard, en retour, repose sur le geste arrêté. Entre la fine pointe du pinceau et l’acier du regard, le spectacle va libérer son volume. 

ー Foucault‬


安倍についてはボリスとそれほど違わないけど、英国では権力分立の融解はない。この国は“王政復古”という名のクーデターで天皇に全部の権力を集中させたのが出発だからな


マスコミは政治家の心のなかを追って、腹話術みたいな口調で「高い支持率があるから俺は平気だ」という。公職選挙法違反で買収した内閣総理大臣に対する支持率に意味があるの?


英国は去った。EUは中でコミュニケーションをするために英語で喋り続けるのだろうか?英語を母国語とする国がないのに。長期的にいって英語の衰退がはじまるのかという見方もある。しかし待って、アイルランド英語がある。アイルランドの経済はEUの生産の1パーセントでしかないが、アイルランド英語がこれから英国英語にかわってEUのために働こうとしているのである。要請されているが、それは可能だろうか。アイルランド英語とは、ゲール語(大英帝国の19世紀に絶滅言語となった)、16世紀シェークスピアの時代に遡る英語(地主となる植民者が持ちこんだ)、現代の英国地方の英語からなる。Hiberno  English という文学演劇界の英語もある(ジョイスやフリールは標準英語で書いたと考えるべきだろう)


西欧文明にとって異教徒であり、中華文明からは東夷であるわれわれは、国の内外に周辺をつくる天皇の祀る大御心に行くナショナリズムよりも、グローバルデモクラシーの異教徒かつ東夷である疎外によって可能となるような外部の思考が成り立つ多様な諸関係ー貧富の格差の解決を含めてーを思考できないか


‪1916年はロシア革命とダブリンのイースター蜂起の年。恐怖した英国王室はドイツ起源の名を隠蔽して政治から中立的距離をとる。英国国教会の守護者という立場に自らを限定した。英国の自由の歴史は民が王から権力を奪う歴史。比べると、津田左右吉によると、江戸時代は事実上の象徴天皇制だった(徳川幕府が政治権力をもち、京都の天皇は文化権力をもっていた。) 天皇が政治権力をもつのは王政復古というクーデターの明治維新から‬である


『ザ・デッドThe Dead』(『ダブリンの人々』)の雪の描写が有名だけれどこの国は雪は滅多に降らない。シベリア寒気とメキシコ暖気とが衝突して雨が降るのだと教えられる。雨雲は死者が傍にいるようにくっついてくる。雨にうたれた言葉が裂かれて解き放たれた何かは何か?視線が先行するのか、観念が先行するのか?


華厳経の名前は『大 方広仏華厳経』(mahA-vaipulya-buddha-avataMsaka-sUtra)



大拙の「日本的霊性」の緒言に次のような記述があります。『日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのです。無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被(こうひ、光が広くゆきわたること)して来る所以を、最も大胆に最も明白に明らかにしているのは、 法然親鸞の他力思想である。』


「華厳教学の中心は、第4祖の澄観が立てた「四種法界」の世界観です。「四種法界」では、世界をまず人間が普段感じている事物の世界である「事法界」と、すべては「空」(実体がない)であるとする理の世界「理法界」の二つに分けます。そして、この二つが互いを邪魔することなく存在している状態を「理事無礙法界」、理が消え、事物のみがそこにある「事々無礙法界」とするのです。普通の人間から見れば、4つの世界はそれぞれ別々に存在しているように思います。しかし、実はすべての世界は一つであると華厳教学は説くのです。」



丸山真男は戦前講座派を再構成した。永久革命としての民主主義ーこれは命題をラディカルに分解してばらばらの素材としての要素(要素の要素)にする近代における音声中心主義の言語観をもつのではあるまいか。‪(だからといって、思考実体を解体する分子の運動における思考の方法としてのリゾームにいくほどではない)。‬後期近代の世界史の構造の柄谷行人もここに絡み取られてきたようにみえる(主人と奴隷、あるいは中心と周辺の弁証法、超越するコミュニスムという名のXという亡霊的理念の反復。これらはラディカルモダニズムによる分解ではなくて何だろうか?)。だが言語が言語となるのは語のうちにおいてなのか?言語が定位する言説を分解しては、世界の半分も見えないし抵抗もできないと考えたのが市民である


言説とは何か?一番最初に叫んだ人を考えよ。彼以前に叫んだ人は存在したが、叫びが「境で見知らぬ人を見たら叫べ」という判断又は陳述としての価値をもたなければならない


‪昨日は、「昭和思想史研究会」(子安氏主宰)の懇親会にいらっしゃったある編集者から伺った話では、最近はルイ・アルチュセールの思想を知ってもハンナ・アーレントの思想を知ろうとしない。ハンナ・アーレントを読んでもルイ・アルチュセールを読まない。これが現在の知の問題だと指摘なさった。アルチュセールアーレントを読んでいても、この両者を関係づける理論をもっているかと問われると、正直わたしはもっていない。そんなわたしでも、『「大正」を読み直す: 幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川』(藤原書店)と『帝国か民主か:中国と東アジア問題』(社会評論社)を読んでこの両者の関係をなんとか考えることができるかもしれないと思っている。前者はアーレントの見方をもっており、後者は直接の言及はないが暗黙の前提としてアルチュセールの見方をもっているとおもわれるからである。さてアルチュセールは『資本論』を読み直した。表象は正当化をもつ。そうして商品の交換価値の言説が再構成されることになった。表象は盗み即ち剰余価値である。思想から考えられたこの表象の理論を再び思想に適用できないだろうか。ハンナ・アーレントが「わたしはドイツ語を喋る」と語ったが、「ドイツ人」というのは「表象」とアルチュセールが呼ぶものではなかったか?柄谷氏の『世界史の構造』もまた表象である。グローバル資本主義の分割が「帝国」であると分析できたが、しかしそれを前提に『資本論』の読み方をアジアの知識人に教えるとき、そこに内部に絡みとられた一元主義の表象が機能していないだろうか?表象は市民の新しい経験をなす多元主義を搾取しているとしたら、『世界史の構造』(=『帝国の構造』)は多様体の一的多の思想とはいえないだろう。他者なき構造の見方に依存する限り、他者なき世界の半分しかみていなかった‬のである


小説『日の名残り』の召使いに王室とブルジョアへの全国民の従属が表象される。和辻のいう「全体意志の表現」に仕える召使いではいつまでも主権を自分のものにすることができない


ベラスケスの『ラス・メニーナス』は、ネットに投稿すると、「馬鹿な連中」と、人間の従属性を読み取って腹を立てる人がほんとうに多いことを知りました。だけれど主人よりも召使について考えるほうが面白いのは、たとえばモーツァルトフィガロとかですね。観察される関係が複雑になりますから。その点、ジョイスは没落していく中流に仕える召使を描写するのが上手いのです。中流の分身を表現しているようでいて、必ずしもそうではありません。たとえばThe dead は、議論がありますが、神の平等な視点を体現する形で召使いから書き出すという画期的な視点を指摘する読みもあります。要領よく説明できませんが、リアリズムに還元されない文学が語る、無の存在を利用していくロゴスの脱構築というか、反コスモスとコスモスというか

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Et comme si cette épreuve des formes de la finitude dans le language ne pouvait pas être supportée, ou comme si elle était insuffisante ( peut-être son insuffisance même était-elle s'est insupportable), c'est à l'intérieur de la folie qu'elle s'est manifesté- la figure de la finitude se donnant ainisi dans le language, (comme ce qui se dévoile), mais aussi avant lui, en deça, comme cette région informé, muette, insignifiant où le language peut se libérer. (Foucault)‬


二十代初めのときは、『存在と時間』が反コスモスで、『資本論』がコスモスと考えてより大きなロゴスへ行くつもりが、思考が足りず『資本論』への拘りはカオスになったと思われ


緊急事態条項は必要なのだろうか?法で対応できるのではないか。どうせ緊急事態条項を解釈改憲するだろう。自民党の御用伺いの学者たちがワイマール憲法解釈改憲しているからね


元祖寸劇

フクロウ猫「ホーオリンピックってニャ、これほどの「人混み」がほかにあるの?」

安倍晋三「意味のない質問だよ」


戦争機械とともに、そして遊牧生活において、数は数えられることをやめて<暗号>になる。そして<暗号>として数は「団体精神」を構成し、秘密と秘密をともなうもの(戦略、諜報活動、謀略、待ち伏せ、外交交渉、等々)を発明するのである。――(下)p89


ポストモダンに理念があるのか?後期近代にまだ思想があるのか?この問いに答えるために、反コスモスとコスモスの関係は弁証法的近代の対立であると考えることはできないという点から考えはじめたいとおもう。反コスモスはコスモスの対抗概念ーカオスーを意味しない。もし反コスモスをカオスと理解すると、カオスとコスモスの対立を語る構造主義の近代になってしまう。カオスというのは、反コスモスなきコスモスからみると、多様性が意味のない分裂ーカオスーにみえる。多様性を統合しなければならない。これは帝国主義の言説である。また今日の文化的ヘゲモニーの帝国の言説である。まそして今日復活している、国体は天皇を全体意志を表現しているのだから何も変わっていないという言説もそういうものである。他方で、反コスモスとコスモスの関係はこの関係から関係を消すことができないという意味でポスト構造主義的な多元主義である。デリダを読んだわれわれは、ハイデガーはこれを存在から存在を消去できないと表現したことを知っている。後期近代において別のあり方が問われるとき、脱構築的な、反コスモスとコスモスの関係が問われる。多様性を無理に統合する明治維新の近代に帰る必要がない。ポストモダン多元主義だから差別を容認するときめつけている意見を読むが、反コスモスというのは人間を平等な空集合と考える。まさにこの平等から絶えずコスモスがつくられるのであるー反コスモスとともに、ポストモダンに理念があるとすればここである。アジアから‪新しい普遍を‬考えることができるか


‪「不条理が、列挙された物の分られる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙をささえる<と>を崩壊させてしまう。」(フーコ『言葉と物』序 渡辺一民訳)‬

‪近代合理主義の行き詰まっている時代にこのフーコの一文がある。文中の「不条理」を<反コスモス>とおきかえてみる。「列挙された物の分られる場所」は<コスモス>である。そうして読み直すと、<コスモス>は<反コスモス>を利用して別のあり方を模索するということを言っているような一文であることがわかる。市民は、近代の批判的相対化とアジアにおける多元主義を自分たちのものにするためには、明治のヨーロッパ翻訳言語である日本語が”前近代”として軽蔑してきたアジアの言語で考えることが大切ではないだろうか。その意味で「漢字は不可避の他者」である。飯田橋RENGOの「仁斎論語塾」(子安宣邦氏主宰)ではポストモダン孔子と『朱子語類』を読んできたが、四月からは、江戸思想の文献を読みつつ、<反コスモス>と<コスモス>の関係を考えるために、西田幾多郎が影響を受けた中国の仏教である華厳経の思想も考えることになるようである‬。

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童子問』では、「人のほかに道なく、道のほかに人なし」=道とは高邁な哲学ではなく、普通の人の日常生活に流れている道理


" Le propre du langage est de reposer sur des mécanismes inconscients. Quand nous parlons nous ne sommes absolument pas conscients des lois que nous observons pour parler et même le linguiste qui fait la théorie de ces lois, n’en prend conscience que pour autant qu’il les expose dans des livres ou dans des cours. Mais pendant qu’il parle, elles sont exactement aussi inconscientes que pour n’importe lequel d’entre nous. "

- Claude Lévi-Strauss -


‪最初に撮った写真はこの斜めに崩れおちた建築物。結局これ以上の写真を撮れなかった。ここに十年以上すんだが追い出された。当時隣人のフランス人が写真にエネルギーが感じられると言ってくれたがその意味がわからなかった。斜めの世界において成立していた力を垂直方向につりあげたらそこでなにが起きるか見ようというのである‬ーそうして愚かものは音楽をつるしあげるということだろうか


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‪愚か者は類似しているものを同一のものとかんがえると隣人に説明したら、ジャムをパンにではなく皿にぬっているあんたが愚か者だと言われた。この年になって気がついたが、そういうことなんだな‬。付け加えると、似ているか似ていないかは問題ではない


近代英国の議会は全員が一斉に喋った。段々ルールが出来た。国会もヤジ飛ばしあいのこの原点に帰れ。そうすれば自ずから王様が処刑されることになるのだから。民主主義はその後



seq2 動かないことによって、移住しないことによって、一つの平滑空間を保持し、そこを立ち退かないことによって、新たにそれを獲得するためか死ぬときしかそこを立ち去らないことによって、彼らは遊牧民となるのだ。――(下)p263


大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい。ーボルヘス


 それからもう一つ、書くことと言語表象」のことを申し上げておきたいです。先ほどもお話したように、近代言語学言語の本体は音である」と断言しているのですが、どうして人々は文字問題に強い関心を抱き、感情的になりやすいのでしょうか。 ある言語の全体」の表象が成り立つのは、その言語の書かれた」すがたを思い浮かべることができた時だと思います。そういう意味において国字問題は、日本語をどのように表象し価値づけるかと深い関わりがあります。ーイ・ヨンスク


「ある言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができた時だ」(イ・ヨンスク)。子安宣邦氏は不可避の他者として漢字の意味をとらえる。しかしラディカル・モダニズムは知識人が依拠してきた漢字の存在にネガテイヴなイメージをもつ(津田左右吉)。われわれは音声中心主義による革命をやめたら化石になってしまう。‪「神」をカミと読んだアジアのバベルの災厄をもたらす形で、‬過去の姿も絶えず発明しなければならない多元主義(本居宣長)。‪過去の言語の「書かれた」姿を真っ二つにして、‬デモクラシーを反近代の永久革命にしてしまう普遍主義(文化大革命)


アジアの問題は、ヨーロッパが五百年間かけてやった近代化を、僅か20年でやらなければならないとか、100年でやったとか(明治維新150年万歳!)、歪に圧縮された近代化の問題につきる。西欧列強の植民地化を避けるために知識人の普遍言語を否定したラディカルモダニズムの国家では、多元主義全体主義と考えたり、反対に、全体主義であるに多元主義であるとおもうことが繰り返し起きるのである。‪アジア共同体における言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができたときなのに、現在こそ、17世紀漢文エクリチュール多元主義を思い出すべき所に、透明な自立的一国言語主義(そしてそれを支える一国民主主義)のナショナリズムしかないとかんがえている‬


‪「真理とは、悟るもので、論ずることはできぬ」(ボルヘス)。ここで、「真理」はロゴスのことならばつまり理ならば論じることができるが、「悟る」は仏教と儒学を統一した朱子的な、したがって禅的なものなので「論じることはできぬ」というわけである。子安先生によると、儒学は道理である。道理をどう理解するかであるが、やはり先生が取り組んだ伊藤仁斎の思想を無視できないだろう。井筒俊彦氏の考えを参考にすると、道理はコスモスを構成する。他方で仏教は空とか無である。西田が影響された華厳経の思想に尽くされている。「大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい」(ボルヘス)。空とか無は反コスモスである。コスモスが反コスモスを利用していくと脱構築的なあり方を考えようとしている。だがどうしてフーコも読むのか。多分そこにヨーロッパのすべてのことが書かれているからである。これほどの本は強力なヨーロッパ翻訳言語である日本語を必要としたと言わざるを得ない。日本近代の学問のピークは和辻が活躍した1930年代であるといわれる(和辻の天皇論はすでに構造主義を先取りしていた)。1970年代から後期近代であるが、日本近代が終わった1960年代に『言葉と物』が現れたのは必然だった。『言葉と物』はボルヘスから書き始めた。日本近代が捨て去ったアジアの形而上学はこの本を超えるものとしてあるのは、日本語から自立したアジアの言語の全体の表象をもっているからだろう。少なくともヨーロッパの形而上学と対等である。いつでも誰でも参加できるテクストを読んで先生のもとで勉強している


ゴダール:


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‪ある言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができたときであるという。先ず表象が自己に記号を与える。記号は「書かれる」姿である。つぎにその「書かれる」すがたを思い浮かべるときに表象が成り立つ。後期近代は現代はセリー(系列)が問題となる。たとえば「映画史」に20世紀が住処としているともいわれる。もはや20世紀の大切な映画たちが投射されるスクリーンは存在しないのだけれど。映画の歴史の「全体」のセリー(系列)についていうと、セリー(系列)は自己に記号を与える(投射する)。記号は、思考の画布のような見えないスクリーンによって二重化されている「描かれる/書かれる」すがたである。いわゆる「モンタージュ」である。そしてゴダールにその「描かれる/描かれる」すがたを思い浮かべるときに、セリー(系列)が成り立つ。リア王‬God-Artという言説

存在すること、それは死に切った絶対の過去。20世紀における存在は戦争における叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体の表象で成り立っていた。存在は死を投射した。存在は死をみた。そして死から、存在それ自身を投射する。死に切った過去から問われているという意味において、存在はずっと死に装束だった。そしてだれも、背後からやってくる投射の矢が精神だとは気がつかなかった

暴力革命のことを言うけど、安倍がたたえている明治維新薩長なんかやったクーデター、もし戦犯の血が流れているおまえは現在もテロじゃないのといわれたらどうなの?

‬ 突然の過労死で他界した友人の死のことがあるのだけれど、現在、死から問われている時間の意味について考えている。映画といえば銃とセックス。映画の歴史を回顧すると、映画は叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体によって死の表象で成り立っていた。だが死から、映画それ自身を問う映画はなかった。スクリーンはずっと、死に装束だったのに... だれもその投射が精神だとはおもわなかった
on porta le deuil de cette mise à mort‬ et c'est avec les couleurs du deuil avec le noir et avec le blanc que le cinématographe se mit à exister ‬ 
‪ ー Godard Histoire (s) du cinéma


推敲中
SERIE(S)
「国内亡命」は、エクリチュールの読み直しにすんでいる。一考の価値あり?解釈で壊さぬ、解釈しない読み直しは可能か?知と弱さがいる。至高性と卑近性の間で、結びつかないもの同士を近づける流れ、セリー(系)を作り出すことのほかに何もできないし一人でもこれをやるだろう


ゴダールの映画『イメージ・ブック』の前半は、ゴダールの『映画史』(Histoire(s) du cinéma)を発展させたもので成り立っているから、『映画史』をしっかり見て欲しいと願うものである。『映画史』は、1988年 - 1998年の間に断続的に製作および発表され1998年に完成した、ビデオ映画シリーズである。『映画史』とはラングロワとトリフォーへのオマージュであると言っていい。『映画史』はいかに目に見えないものを目に見えるものと関係づけるかという言説的構成をもっている。ラングロワとトリフォーの魂の気とは、それが散じ尽くす前に時間があるから、コミュニケーションをとることができると考えてみるのである。それによってどういうことが言えるか?『映画史』を形作っているのは、天地の間、すなわち目に見えないラングロワとトリフォーとゴダールの間に往来している感化の大きな運動である。『イメージ・ブック』では、目に見えない、ヨーロッパにとっての他者とのコミュニケーションのあり方が問われることになった。『イメージ・ブック』は、『映画史』のポール・ヴァレリーに言葉をひいた言葉を呼び出す。「かすかな声、おだやかな、か細い声で、大それた、重大な、驚くべきことが、深く、そして正しいことが語られる」と。この言葉に加えられる映像はただ一つである。映像はイスラムの女性とおもわれる人間の身振りとジェスチャーである。『イメージ・ブック』と『映画史』のナレーションは反時代的精神が吃る形而上学的ロゴスである。はじめにロゴスありき。垂直的に、ロゴスは感化の運動の上に泊まっている。ロゴスは言語的存在が自身が存在する宇宙論的な意味を問う。ロゴスは時間に先行する論理である。時間のイメージに先行する思考のイメージである。天との関係において世界に存在する諸々のものは水平的全体性(平等性)である。 ‪

真理とは、悟るもので、論ずることはできぬ。

舞台をみると観察できますが、多分映画のほうがもっと観察できるかな、身振りとそれによって示されるものとのギャップ。意味するものと意味されるものがかくも違うのに、両者の関係が成り立つのは一体何故なのか?たとえば叫びと恐怖は似ていません。境界付近で見知らぬ者を見たら叫ぶのは共同体の約束だったのか?そうだとすれば、一番最初に叫んだ人はだれだったか特定できる筈です。しかしそれにしても何故別の仕方で叫ばないのですか?経験からいってもっと自然に叫ばないのでしょうか?そもそも自然とは何か?こういうことを考えたのは近代からです。近代の力とは何でも考えてこれらを説明し尽くすことにあります。近代になって同一性と差異性が思考の中心を占めます。そこで恐怖は表象すること、言語化することが要請されます。叫んだだけでは野生児の叫びおなじで何の意味もなさず、少なくとも「わたしは恐怖を感じた」と語らなければいけません。意味をなさず、「わたしは恐怖を感じた」と語らなければいけません。かつての類似するもの同士の力は類似の想像力という形で背景に追いやられることになります。

暴力革命のことを言うけど、安倍がたたえている明治維新薩長なんかやったテロリズム、戦犯の血が流れているおまえは現在もテロじゃないのといわれたらどうなの?

‪ー After Godard Histoire (s) du cinéma ‬ ‪
on porta le deuil de cette mise à mort‬
‪et c'est avec les couleurs du deuil avec le noir et avec le blanc que le cinématographe se mit à exister ‬ ‪

trug man Trauer über diese Grablegung und mit den Trauerfarben mit Schwarz und Weiß begann die Existenz der Kinematographie ‬

‬嗚呼、突然の過労死で他界した友人の死。現在、死から問われている時間の意味を考えている。映画といえば銃とセックス。映画史を見ると、映画は叫び・歪んだ顔・天に仰ぎ地に伏す身体によって死の表象で成り立っていた。だが死から映画それ自身を問う映画はなかった。スクリーンはずっと死に装束だったのに... だれも、背後からやってくる投射の矢が精神だとはおもわなかった

米豪韓加から「救出」するために次々にやってくるらしい。日本会議が応援する安倍王朝に「感染」された民を救いにきてくれるのはいったいだれか...?

樹木は動詞「である(エートル)」を押しつけるが、リゾームは接続詞「と……と……と……」を生地としている。(…)どこへ行くのか、どこから出発するのか、結局のところ何が言いたいのか、といった問いは無用である。――(上)p60

ボクシングといえば、アメリカが最も得意とする映画分野。ボクシングはスムーズに対峙する二人が入れ替わるので映画的だといえる。チャップリンが確立したシステムは、主人公が非常に紳士なキャラなんだね。対戦相手と握手、他の皆んなと握手する。試合が始まると、彼は決してズルをしているのではなく、よく見ればわかるが、勇敢にたたかっている。面白いことにバレーみたいに舞う。チャップリンは休暇のときに愛する女性の幻覚をみる。これが凄い。チャップリンの前に誰もこんなことは考えつかなかった。『ユリシーズ』のブルームの幻覚の描写ー神話的介入でもあるーを喚起するのだけれどね、もしこの場面がなければ、レイジング・ブルやロッキーは無かっただろう。というか、ボクシングの場面に限らず、ハリウッド映画における叙事詩的場面がこのチャップリンのルールにしたがうことになる。リアリズムと神話の共存、19世紀オペラが既に20世紀映画に先行していたことをおもう

クルーズ船実験室化はオリンピックのことがいわれるが、そうであれば人権に配慮して下船させる筈だ。あれはオリンピックにあらず。残酷な<日本>おりんぴっくの生贄なんだよ


1970年代は専ら自己否定の観念で、今日の香港の若者と比べると、それほど社会のネガテイヴなイメージをもっていない。80年代は、70年代から始まった近代批判があったし、隣国で天安門広場事件もあった。だがやはり開発と戦争と同化主義で覆われる社会のネガテイヴなイメージをもってない。小泉の靖国公式参拝に抗議しなかった異常といわれても仕方ないその80年代が今日権力の中心を占めている。若者たちが社会のネガテイヴなイメージをもつのは2011年からではないか。この150年間に、自由に喋らせてくれという声がはじめてでてきたのである。再び曖昧な観念ー歴史修正主義ーに戻る必要がない。‪明治維新の近代の虚構を批判して‬明確なイメージをもつこと

推敲中

SERIE(S)

「国内亡命」は、エクリチュールの読み直しにすんでいる。一考の価値あり?解釈で壊さぬ、解釈しない読み直しは可能か?知と弱さがいる。至高性と卑近性の間で、結びつかないもの同士を近づける流れ、セリー(系)を作り出すことのほかに何もできないし一人でもこれをやるだろう


推敲中

‪Le Maître dit: <La vertu suprême est-elle vraiment inaccessible? Je désire la vertu suprême- et la vertu suprême est lá > Confucius, Les Entretiens ‬

‪「子曰く、仁遠からんや。我れ人を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。」‬ ‪「これ仁の甚だ近きをいうなり」(仁斎『論語古義』子安訳)。他者の立場に立って、人の惻隠の心との連関でとらえる仁がいわれる。仁斎の思想は道徳思想である。政治思想ではない。だけれど、飯田橋での講義の後でカフェの場で話題にあがったことだが、他者の視点と、人と我との隔てなき共通性の視点を切り離してはならないのは、政治思想の条件を為す?‬


MEMO

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麻生は自明のこととして、「一つの民族」と言っているけれど、そもそも「民族」の語は百年前に出てきた‪近代の新しい概念。それ以前はどうだったのだろうか?言葉がなかったのだからそれが意味しているものを考えることができなかった。‬


‪• 明治に出たもので、これは1912年発行のもの。ヨーロッパの後期啓蒙(とくにイギリス功利主義)の影響を受けながら朱子学的に訳をつくっている。‬ (子安氏の配布資料)


井上哲次郎の訳語をみると、Nationality には、「民族」という言葉が出てこないことがわかる。‬Nature をどう理解するかが近代概念で問題となるが、たとえば、Law of nature は、「性法」とも訳されている。朱子学的な性理学の影響をたしかめてみることができる。‬ 「必然」という語も、朱子学的に(または脱朱子学的に)訳語が作られたことばの一つで、調べてみると、Necessity は「必至」、「必然」。井上哲次郎たちは、17世紀の伊藤仁斎の「童子問」(「天有必然之理、人有自取之道」)に依っていた。


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江戸時代は政治的自由はゼロだったが、思想論争は現在より活発だった。現在日本はそこそこの自由があるからかえって隅々まで議論がない。不平等は「前近代」よりも広がっているのに


天皇に人権がないことが問題なのか?解釈改憲的に、天皇の(象徴性を超える)大御心の象徴行為と交換に、国民主権を奪われようとしているわれわれは彼の人権を心配するというの!?


社会学ボット

【従属理論】周辺地域から中心地域への余剰流出という搾取関係に注目し、支配と従属の点から発展途上国を分析する理論。中心―周辺の二極構造理論という性格をもつ。世界システム論へ発展した。


和辻が物語る「日本の神々」の特徴に「限定せられない」あり方を読み出すが、だけれど神々における大御心の連続性は「限定される」ものである。「現人神」である「天皇」は「無の場所」であるとはいえないとおもう。‪わかっていることだが、常に、和辻は饒舌に語るが、西田は沈黙する、というか、和辻について語ることができるが西田を読むと語れなくなるのである‬..。だが敢えて語るとしたら、なにを語るのか?一般概念として限定せられないとはどういうことなのか?宣長からは、中国の神(シン)の相違としての神(カミ)の多元主義の概念が現れる。これは「無の場所」と西田が呼ぶものではない。一般概念の限定があるからである。また同様に、西欧の一神教的神の相違として再構成された和辻の「日本の神々」も「無の場所」ではないようだ。連続的な<一>かつ<多>における一般概念の限定があるからである。西田がいう一般概念として限定せられないとは、同一性と相違性の見方を棄てるものなのか?「無の場所」といわれるものは結局、無からの自己差異化なのだろうか? 西田についてまだよくわかっていないなあ...しかし和辻からみえてきそうなものがある



映画は、映画として成り立つためには、われわれの視線を、われわれの自己の欲望に適う世界と交換する(置き換える)。われわれとは身分的帰属を失った都市の大衆のことで その世界は、スターリズムなのかファシズムだったのか。否、夢の工場、ハリウッドだった?この百年間にだれでもなかったわれわれはなにを見たのか?なにも。20世紀としての映画を考えようとしても、21世紀からはその映画も忘却されて存在しない。思考を、思考における白紙の本のようなスクリーンに、死に装束に、一行づつ書き綴るだけだ...


もう明治維新が作った日本なんか無くなってもいいじゃないですか。荻生徂徠はわれわれは「東夷」だと言っていますし、今年から東夷の国になりましょう。「東夷」とは何でしょうか?『仁斎論語塾』(子安宣邦氏)で江戸時代の読みで『朱子語類』を読んでいます。朱子のコスモスロジーでは、天から物(人と物)に理が同一的平等に与えられていました。でも経験的に言って人間同士の間、人間と動物の間に相違があるようです。何故でしょうか?そこで朱子は説明します。理との関係において、人間は完全だが、(人間に似ている故に動物のなかで最も)霊性が高い猿は不完全です。朱子の知において‬透明性が記号を貫くのですが、だけれどまったく不透明な外部のものがいる、それが夷狄なんです。東西南北に夷狄がいますが、当時中国にとっては北夷が問題でした。面白いのは、孔子は道徳が廃れたとき東の海を筏で渡ろうと考えていたのですね、つまり「東夷」の国への亡命。いま風にいうと、「東夷」は中心に絡みとられないという意味で外部の思考です。幕末の尊皇攘夷は日本が中国でシナが夷狄だと言っていましたが、これが底無し互酬的ヘイトスピーチナショナリズムの原因です。むしろわれわれは地球とアジアを拠り所にする「東夷」の市民であることを選択します


‪推敲中

ゴダール『中国女』(La Chinoise 1967)に文化大革命の政治的災害はない。ブルジョワ学生のマオイズムの部屋で起きる偶像破壊は別の偶像を呼び出すのではないかという危ない感じがする。ブルジョワから生まれたイデオロギーを拒否した後に、「明確な映像に曖昧な言葉をぶつけよ」というような美学的原理の包摂の復活がくる‬ように


 ‪ゴダールの天と地の間を語る形而上学においては、天から平等に物にロゴスが与えられる。「映像」も「言葉」もロゴスをもっている。だけれど「明確な映像と曖昧な言葉」(『中国女』1967)といわれる。ここでは映像そのものと言葉そのものとの関係について考えられているとしよう。すると、映像(明確な秩序)は完全な同一性で、言葉(曖昧な秩序)が不完全な同一性とされているのはどうしてなのか?平等ではないではないか。同一性と相違性のフレームにおさまらない、意味作用をもった不透明な外部の思考が存在すると考えようとしているからではないか?‬それは映画と呼ばれる...

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 投射は二つある。<自然から人への投射>と<人から自然への投射>である。前者は国家的祭祀の方向をもち、後者は帝国のコスモスポリタンの方向をもつといえるのではないか。

「公式的な,中国の,国家的祭祀は,世界のいたるところと同じく,ただ共同体の関心にのみ奉仕し,祖先の祭祀は氏族の関心に奉仕した。純 粋に個人的な関心は,両種の祭祀に無関係であった。偉大な自然精霊を ますます非人格化し,これらの精霊の祭祀を官職的儀式に還元し, この 儀式のなかのあらゆる感動的要素を抜き取り,ついにはこの儀式をたん なる社会的な因襲と同一視するやり方は,―ーすべてこれらは高貴な教 育を受けた知識人階層のしわざであったが一民衆の典型的な宗教的要求を全く無視していた。」(マックスウエーバ『儒教道教』木全徳雄訳, 1971年,創文社)


‪ 常のこととして、和辻は饒舌に語るが、西田は沈黙する。というか、和辻について語ることができるが、西田を読むと語れなくなるのはどうしてなのか?和辻が物語る「日本の神々」の限定せられないあり方は、西田幾多郎からの影響もあるのだろうか?「私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない」と西田は語っていた。和辻は「日本の神々」の特徴に「限定せられない」あり方を読み出すが、だけれど彼がみとめる神々における大御心の連続性は「限定される」ものである。この意味において、「現人神」である「天皇」は「無の場所」であるとはいえないとおもう。ところで一般概念として限定せられないとはどういうことなのか?宣長からは、中国の神(シン)の相違としての神(カミ)の多元主義の概念が現れる。これは「無の場所」と西田が呼ぶものではない。一般概念の限定があるようにみえる。また同様に、西欧の一神教的神の相違として再構成された和辻の「日本の神々」も「無の場所」ではないようだ。連続的な<一>かつ<多>における一般概念の限定があると言わざるをえない。結局西田がいう一般概念として限定せられないとは、同一性と相違性の見方を棄てるものなのか?すると、「無の場所」といわれるものは、無からの自己差異化なのだろうか? わたしは西田についてまだよくわかっていない。しかし和辻からみえてきそうなものがある。何にしても、無からの自己差異化を読む思想史が意味をもつためには、それは天皇ファシズムをささえた国家祭祀を止めた無からの出発をかならず考えたものでなければならないだろうとおもう‬


記憶の中では、茂った所で姿が見えなかった、飼育係が抱かせてくれた、動かない、地球のリズム。オーストラリアはショックだろう。コアラこそ自分(東夷)にとっての外部である


<戦争に勝てば問題は解決する。文学は負けない>(昭和日本ロマン主義)+<大衆がやれ>(吉本隆明)+<戦争を終わらせるために戦争せよ>(三島由紀夫)= 0


何をしているか、何を言っているか。そして二つのあいだ、内容と表現のあいだにはまだ地層には見えなかった新しい関係が確立される。つまり言表または表現は非身体的変形を表わし、この非身体的変形は、このようなもの(特性)として、身体または内容に帰属するのである。――D=G(下)p305


論理に「国語」、文学に「国語」をどうしてもくっつけなくてはならないのでしょうか、嗚呼、「国語」というイデオロギーの呪縛よ



どうして学者が関心をもたないのか?近代のわれわれからするとただのお飾りの本じゃないとなるわけだね。しかしなぜ飾るのかを考えてみよう。近代のテクストは言語が透明になっている(解釈し尽くすとき言語は透明になる)。それとは違って、『ケルトの書』はルネッサンスの本みたいに、言語が透明でなかったからこそ飾ることができるんだね。ジョイスは『ケルトの書』を見ながら『フィネガンズウェイク』を書いたらしい(ホントか?)。『ケルトの書』を言語の存在を象徴している本と考えていたにちがいないんだ。アイルランドのときは『ケルトの書』と『フィネガンズウェイク』を以って言語の存在の象徴のことを考えた。東京では17世紀が読んだ『朱子語類』が新しい読み方を構成しようとした四書の漢文から言語の存在を考えるようになったのだけれど


‪ロンドン時代にバービカンセンター で’future city’という建築の歴史を考える展示を見学した。建築は、デリダ脱構築によって、壁も階段も無ければ床も屋根も無いないものが成り立ってくる(写真左)。Daniel Libeskind (写真右)の場合は、言語の存在の象徴であるジョイスのテクストを貼り付けた建築である。バベルの塔の再建ではないか?‬

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「フランス現代思想」はアジアのなかの解体日本思想史が喋るのをきいているとフーコを思い出したらしいが、わたしは逆だ。フーコが喋るとアジアの解体日本思想史の像が来ていた


東京タワーを眺める。その下で、350年前、荻生徂徠は落語で語られるようには民への思いはなく、国家しか関心がない。徂徠は思想史を語り出した。聖人による命名制作論の成立とともに武士のアイデンティティが確立していくだろう。武士の活動家的知識人としてのあり方は幕末と明治維新を待たねばならないのである


日本知識人の他の国にない『資本論』への拘りは日本ファシズムかもしれない。「自由に読み、語れる言語環境」(内田樹)も天皇のおかげとは言わないでね、愛国心が読む『資本論』?


自分が不利になっていくのになぜ彼方側にいる独裁者に惹かれてしまうのか?世界の半分しかみていないからではないか。新聞も大学も?2011年から揺れはじめた。市民が世界に介入するしかない



‪私なんかは、ヨーロッパ翻訳言語である日本語で読んだスピノザの思想であるが、翻訳のために参照された朱子学のほうがどんどん気になってきた。昨日学んだことだが、なるほど、ヨーロッパ合理主義が危機に陥ると、隠されていたアジア的神秘主義が表にあらわれるらしい(井筒氏の仕事等々)。「天理」は普遍的公理だいうしね(横井小楠がこれを発展させたという。彼はヨーロッパ対日本の対立を超えたところで考えることができた)、だけれどこれは近代(明治)になって失われていく。さてここでは敢えて朱子の思想から、 普遍的公理によって考えたスピノザを考えてみよう。「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。」(畠中訳、『エチカ』岩波文庫) The object of the idea constituting the human mind is the body, or a certain mode of extension which actually exists, and nothing else. 仏訳も示すと、L’objet de l’idée constituant l’Esprit humain est le Corps, autrement dit une manière de l’Étendue précise et existant en acte, et rien d’autre ‬

‪身体は、厳密に言って、神を表現する属性そのものではない。「延長の様態」といわれている。延長とは何か?様態とは何か?これについては専門家の解説に委ねるとして、ここでは朱子学的に考えてみると、延長の様態とは、何か、同一性に対する差異性である、もっとはっきり言うと、同一性でも多様性でもないものと理解していいのではないか。ところでポストモダン的にいうと、神の世界の中で、身体を住処とするわれわれの周りに近くに存在するものといったら神ぐらいしかないことを考えると、結局われわれは神に属するとしても神の部分ではない(したがって神に支配されない。ただ人間に自由意思が存在するかどうかは別の話である。)何か、スピノザが身体と呼ぶものは、神の世界における外部の領域を成立させるようである。

‪最後についでに書くと、普遍主義者スピノザオランダ語よりもラテン語で考えたほうが楽だったといわれてきたが、普遍主義批判のポスト構造主義とポストコロニアリズムの時代は、実はポルトガル語スペイン語で考えたほうがうまくいくと訴えていたのではないかという有力な説がでてきた。議論のある所である。‬


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大岡昇平『野火』は「野火の煙が海草のように揺れながら、どこまでもどこまでも、無限に高く延びる」という。記号の「煙」は何を意味するのか。能記と所記のズレ。終わりなき不在における意味作用。その煙は「明治維新」だったのか?ならばその帰結は何か?その意味は何だったのか?小説の最後は、「天皇陛下様、ヘリコプター様、どうぞ助けに来てください」


演劇はどこにも存在するが、社会がどこにも存在しているとは限らない。社会対個人という視点をもってリアリズムが問う<反抗する個人>の視点は、フランスみたいに社会が存在した所でのみ成り立つ。アイルランドのように植民地化されてしまって社会が無いというのは、地球の多数派の経験である。社会が存在していないので、<反抗する個人>の「個人」が成り立っていない。国によって異なるが、独立を獲得してもその影響は大きいことは研究されている。ここで戦後イタリア映画とヌーヴェルバーグの影響を受けたアフリカ映画のことを考える。自主制作の映画のほうは社会の存在を自明とする言説にたいする闘いを得意としているのかもしれない。しかしである。後期近代のネオリベグローバル化によって、開発と戦争と同化主義によって、ヨーロッパからどんどん社会がなくなってきたではないか。新しい普遍主義、新しいロゴスを構成しようにも、極右翼の台頭によって非常に悪い形にならざるを得ないだろう。日本の現実についても説明する必要がない。もっと酷い(戦争責任の問題すら解決していないのだから)。だからこそ現代ドイツの戯曲『揺れる』の問いかけに意味かあるとおもうのである。「やだ、私たち、第三世界にいるわけじゃないのよ。違うよ、ベービー、第一世界だ」

自分が不利になっていくのになぜ彼方側に惹かれてしまうのか?世界の半分しかみていないからではないか。これが2011年から揺れはじめたのである。もうやっていけなくなった。市民が世界に介入するしかない


ポストコロニアリズムの教科書の序文を読むと、現在イギリスではimperialismが帝国主義という意味をもたないと書いてある。「一生懸命屋さん」という意味でしか理解されないという。たしかに、「植民地主義者め!という非難の言葉はない。宗主国の真似をする現地住民は自分たちでは歴史を作ろうとしない「怠け者」としてステレオタイプ的に表象される。歴史の悪夢から目覚めたいのだけれど、「怠け者」とされてしまう



推敲中

‪Le visage est présent dans son refus d'être contenu. Dans ce sens il ne saurait être compris,c'est-à-dire englobé. Ni vu , ni touché, ー car dans la sensation visuelle ou touché, l'identité du moi enveloppe l'altérité de l'objet qui précisément devient contenu. ( Levinas, visage et éthique )‬



 2009年にヨーロッパから移ってきた。東京で、ヨーロッパ対日本の対立を越えたところで考えることができないだろうかとおもった。渡辺一民氏から、‪アジア大好きの代表選手は竹内好で、ヨーロッパ大好きの代表選手が和辻哲郎だと教わったときは、ヨーロッパ対日本の対立を越えたところで考えようとした両者であるが、竹内はアジアから考えたのであり、和辻はヨーロッパから考えたというふうに私は理解していた。問題は、和辻が到達した功績は疑うことができないが、しかし現在では、とくに若い人たちの間では、和辻については天皇を中心とした人倫的国家共同体をいう彼の戦争との関わりが忘れられているらしい‬。子安先生が問題にしている「祀る神は祀られる神である」という和辻の言説のことを考えながらこれらの文を読むと私も非常に心配になってきた。ロンドンのユダヤ人たちが私に言っていた言葉を思い出す。「あまりに完全すぎる理論も危険な偶像なのだよ」、と。


建武中興の大きい運動を背景として生まれた『神皇正統記』は、尊皇思想の大きい道徳をなすと共に、また人倫的国家理想の伝統にとつても一つの巨大なモニュメントである」、「明白に公的な立場に立ち、日本国家の人倫的意義を闡明し ようと努めてゐる」(和辻)

 「三種の神器が神器たる所以は皇統の神聖なる伝統に存するのであつてこれらの徳に存するのではないが、しかし神器の表示する意義はまさに正直、慈悲、智慧の本源たることにほかならぬのである。従つて三種の神器は、天つ日嗣高御座の業の神聖な伝統と正直慈悲智慧による統治の伝統とを同時に指し示してゐる。さうしてこの正直慈悲智慧による統治とは、正義を実現するに私なき明浄心と仁愛と思慮判別とを以てするところの 道の支配と異つたものではあり得ない。」(和辻、『神皇正統記』にみられる「三種の神器」 をめぐる北畠親房 について)


建武中興の大きい運動を背景として生まれた『神皇正統記』は、尊皇思想の大きい道徳をなすと共に、また人倫的国家理想の伝統にとつても一つの巨大なモニュメントである」、「明白に公的な立場に立ち、日本国家の人倫的意義を闡明し ようと努めてゐる」(和辻)

 「三種の神器が神器たる所以は皇統の神聖なる伝統に存するのであつてこれらの徳に存するのではないが、しかし神器の表示する意義はまさに正直、慈悲、智慧の本源たることにほかならぬのである。従つて三種の神器は、天つ日嗣高御座の業の神聖な伝統と正直慈悲智慧による統治の伝統とを同時に指し示してゐる。さうしてこの正直慈悲智慧よる統治とは、正義を実現するに私なき明浄心と仁愛と思慮判別とを以てするところの 道の支配と異つたものではあり得ない。」(和辻、

神皇正統記』にみられる「三種の神器」 をめぐる北畠親房 について)


In the plane

Every continuous function from a closed disk to itself has at least one fixed point.


This can be generalized to an arbitrary finite dimension:


In Euclidean space

Every continuous function from a closed ball of a Euclidean space into itself has a fixed point. (Wiki)



I

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「死ねば黄泉の国に行くしかない。」(理念的儒学)の思考性を排しながら、救済の「安心」に限定されぬとする思考の思考性に、宣長における虚構を以って虚構性を貫く近代が際立つ


デリダは、パロールエクリチュールの関係を逆倒させて、パロールに対するエクリチュールの優位を主張し、パロールを程度の低いエクリチュールだといった。その根拠として、デリダは次のようなことを言う。パロールは音からなっているが、その音は発せられる先から消えてしまう。にもかかわらず我々は、発せられた言葉を有意味なものとして一体的に理解するのであって、無意味な音の連続としては理解しない。何故かというと、普通の考えでは、音が時間の中で持続するからだと思われそうなものだが、デリダはそうは考えずに、言葉に空間性があるからだと考える。空間性というのは、エクリチュールの属性である。何故ならエクリチュールは文字によって表記されるのであるし、その文字に空間性があるからだ。文字というものは、一定の空間を占有することを本質とするのである。」引地博信齋 閑 話
閑 WANDERING ROCKS

ジョイスユリシーズ』第十挿話’さまよう岩々’では英国の植民都市ダブリンを行き交う人々の様子が19の視点によって物語られる。第十挿話を総括するような馬車の総督の視点もある。支配者に誰も挨拶するが、注意すると一人も彼に挨拶していないことがわかる。記号‘さまよう岩々’をどう読み解くのか?空間を奪われてはならない視差のエクリチュールが、全体を祀る身振りを以ってする大御心の如きナレーションの近代ー植民地主義の声ーに抗う。これは、天皇ファシズムにおける戦争責任ー15年間の日中戦争ーが果たされないうちに、天皇が復活するという21世紀の日本の話ではないかと私は第十挿話’さまよう岩々’を再構成して考えはじめた...
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記号「彷徨う岩々」とは何か?孤児たちの抵抗?空間を奪われてはならない視差のエクリチュールが、全体を祀る身振りを以ってする大御心の如きナレーションの近代ー植民地主義の声ーに抗う


‪子安先生のもとで『朱子語類』を読んでいる。朱子は天が賦与する理の平等性と気による多様性を考えたのであるが、経験的にあらわれる差異についてなんとか説明しなければならない。弟子たちの質問に大変苦労している。多様性については、差異があるのは人と人との間だけではないようである。動物の間にもである(猿は人間に似ているが故に動物の中で霊性が最も高い)。この場合、文化人類学のように、中華文明における人と東の海の向こうにいる東夷との関係は、猿と他の動物との関係であるかのようであるとは考えなかったようである。東夷は理において完全である人でもなく猿でもない。東夷が成立するのは外部の思考においてあると言わざるを得ないという。なるほど荻生徂徠は人類の視点に立って、日本は東夷であると語ったのはそういう意味か。学ぶことが多い。‬『千の高原』のポスト構造主義からいうと、われわれは東夷である、だから内部に絡みとらわれてはならない。21世紀においては呉叡人さんがいう「台湾ナショナリズム」がそういう外部のあり方ではないかと考えはじめた...


Rien n’est plus explicite à cet égard que les textes célèbres de Lévi-Strauss concernant le totémisme: dépasser les ressemblances externes vers les homologies internes.( D=G)

レヴィ=ストロースの主張は、外的な相似を乗り越えて内的相同性に向かうべきだ、という点に集約されるからだ。そこで求められているのは、(…)悟性の象徴的・構造的秩序を作りあげることである。千の高原



Ecrire à n, n-I, écrire par slogans; Faites rhizomes et pas racine, ne plantez jamais! Ne semez pas, piquez! Ne soyez pas un ni multiple, soyez des multiplicities ! Faites la ligne et jamais le point ! La vitesse transforme le point en ligne ! Soyez rapide, même sur place! ligne de chance, ligne de hanche, ligne de fuite. ne suscitez pas un Géneral en vous ! Pas des idées justes, juste une idée (Godard). Ayez des idées courte. Faites des cartes, et pas des photos ni des dessins. Soyez la Panthère rose, et que vos amours encore soient comme la guêpe et l'orchidée, le chat et le babouin.

 Deleuze&Guattari


Rien n’est plus explicite à cet égard que les textes célèbres de Lévi-Strauss concernant le totémisme: dépasser les ressemblances externes vers les homologies internes.( D=G)

レヴィ=ストロースの主張は、外的な相似を乗り越えて内的相同性に向かうべきだ、という点に集約されるからだ。そこで求められているのは、(…)悟性の象徴的・構造的秩序を作りあげることである。千の高原



ユリシーズ』の最後の挿話におけるおそるべき独白。ベッドのモリーの最後の言葉は、Yes、Yes、Yesだった。しかしそこでほんとうはNo、No、Noと言っていたのではないだろうか?YesかNoかの対抗言説ではなくて、‪無意識の、中産階級の同化主義の近代から逃走したい宇宙の中心からの声。聴こえるか‬?


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社会対個人という視点をもってリアリズムが問う<反抗する個人>の正義は、フランスみたいに社会が存在した所でのみ成り立つ。アイルランドのように植民地化されてしまって社会が無いというのは、地球の多数派の経験である。演劇はどこにも存在するが、社会がどこにも存在しているとは限らない。社会が存在していないので<反抗する個人>が成り立っていない。たとえ国が独立してもその影響は大きい。戦後イタリア映画とヌーヴェルバーグの影響を受けたアフリカ映画。だけれど自主制作の映画のほうは、ヨーロッパ演劇のロゴス、社会の存在を自明とする言説にたいする闘いを得意としているのかもしれない。しかしである。後期近代のネオリベグローバル化によって、ヨーロッパからどんどん社会がなくなってきたではないか。日本の現実についても説明する必要がない。だからこそ現代ドイツの戯曲『揺れる』の問いかけに意味かある。「やだ、私たち、第三世界にいるわけじゃないのよ。違うよ、ベービー、第一世界だ」


イギリスはBrexitといわれるものに賛成して投票したことは事実なのだが、彼らは何を投票したのか本当に理解していたのだろうか?


内閣支持率世論調査も意味があるのは国民主権があるからで、天皇ファシズムの戦争責任ー15年間の日中戦争ーが果たされないうちに象徴行為の天皇が復活したら意味がなくなるよ


推敲中

言葉と物のコンパクトな世界 No. 11


本居宣長の仕事のユニークなのは、言語の存在と人間(共同体)の存在とを同時にあつかっているところにある、と、私のような素人でもそれなりになんとかわかります。ただ、この「同時」というのは、何でしょうか。宣長の場合は、一方で、漢字で書かれた古事記から「大和言葉」といわれるものをどう読みだすかの研究と思考(「神」(シン)をカミと読むのが宣長の読み)があり、他方で、他の文明(中国文明)から自立することをもとめた(思考に還元できない)書く行為があった、というのが私の理解です。しかし加藤周一のように、カントがともかくもその分割を示した、経験的なものと先験的なものを、あらかじめ、ひそかに混ぜ合わせてしまうと、「宣長問題」が生じてくるようにみえます。子安氏はその「宣長問題」について言及しています。加藤が「ハイデガー問題」との関連で「宣長問題」を行ったのは朝日新聞夕刊(1988年3月22日)掲載「夕陽妄語」の「宣長ハイデガー・ワルハイム」と題された文章においてです。加藤がいう「宣長問題」とは次のような「宣長における謎」を指しています。「今さらいうまでもなく、宣長の古代日本語研究が、その厳密な実証性において画期的であるのに対し、その同じ学者が、上田秋成もしたように、粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えたのは、何故かということである」。これにたいしては、子安氏がそれは「加藤が作り上げている謎」とズバリ指摘しています。近代主義の顕著な先験性の思い上がりというか、日本思想史も「知の巨人」とたたえられた近代主義者と同じようにしか考えないという話がでました。


推敲中

Criticism or Praise? 

Bertrand Russell said;With subjectivism in philosophy ,anarchism in politics goes hand in hand. ("History of Western Philosophy")

Although I really hate a wait-and -see policy in Zen, I think no one has intellectually come closer to "Zen"'s spirituality than Russell. Wittgenstein, A TORTOISE, would break open its shell and come out.


MEMO

今週のお題「二十歳」f:id:owlcato:20200105125701j:plain

Noh theatre ‪

「さては昔の道しるべせし、人は朽木の柳の精」‬

‪「御法(みのり)の教へなかりせば、非情無心の草木の䑓に至る事あらじ」‬

‪ー『遊行柳』‬


初夢は、詩を語る誰かの言葉を心の中で解釈しようとしているのに、途中から口をパクパクしているだけになって音が届いてこないのでプレッシャーを感じた。余計なことだが、『古事記』が稗田阿礼について「目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳にふるれば心にしるしき」と書いているのは、何を言っているのかはっきりとはわからない。ソシュールが示すような近代の音声主義のことをいっているわけではない。仮に稗田阿礼太安万侶における関係は下の図のようなAとBだったと考えるのは、もし冗談でなければ、ラディカルモダニズムの類いか近代主義のドグマかもしれないとおもうのだけれど



ピカソ(1902)はどのようにグレコの作品(1607-1614)を解釈したか?これは、グレコピカソをスケッチした私の勝手な解釈の解釈によることなのだが、ピカソグレコにおける類似性のイメージを同一性と差異性のイメージにかえているようにみえる。グレコは外部を示している(稲妻が闇を裂いている世界が世界自身に巻かれている、と同時に、世界は巻き返す。)。ピカソにおいては二人(私と私のなかの汝?)が共通のもの(彼らが立っている場所)をもっている。抱擁されているのは、私と私の中の汝の下で、微かに呟き続ける即自的に影のように私につきまとう身体ー何処にも属するがどこでも部分になることのないーかもしれない。

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イギリスでは、啓蒙主義は議会制の拡充をもとめていく比較的穏健な政治運動として展開したといわれる。『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト(1667ー1745)はアイルランドからこのイギリス啓蒙主義を痛烈に批判した。1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた

スウィフトは彼自身の墓碑銘を書き、それをウィリアム・バトラー・イェーツラテン語から翻訳した。

Hic depositum est corpus
JONATHAN SWIFT S.T.D.
Huyus Ecclesiae Cathedralis
Decani
Ubi saeva indignatio
Ulterius
Cor lacerare nequit
Abi Viator
Et imitare, si poteris
Strenuum pro virili
Libertatis Vindicatorem

イェーツの翻訳

Swift has sailed into his rest.
Savage indignation there
cannot lacerate his breast.
Imitate him if you can,
world-besotted traveller.
He served human liberty.

日本語訳

スウィフトは休息に入った。
そこでは激しい憤怒に
胸を切り裂かれることもない。
もしできることなら彼を真似てくれ、
世界に夢中になっている旅人よ、
人間の自由のために尽したこの男を。

イギリスでは、啓蒙主義は議会制の拡充をもとめていく比較的穏健な政治運動として展開したといわれる。『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト(1667ー1745)はアイルランドからこのイギリス啓蒙主義を痛烈に批判した。1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた


FW7ページから


本がウインク😉してきた?FWを開いてジョナサン・スウィフト(1667ー1745)について調べていたら、「フクロウの球体世界に見えてくる若い槍持ち..」ではじまる何度も見ていた文だが、HCEと伸びすぎたバベルの塔が類似していると物語っていることに気がついた... (ここでは認識が重要ではなく言語が大切なのである)。1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた、『ガリヴァー旅行記』のスウィフトはイギリス啓蒙主義を痛烈に批判したのであるが、FWはイタリア(エーコ)からみると普遍言語の探究なのだけれど、アイルランド(カイバード)からみるとデリダ的普遍合理(!)がもたらす迷路である。

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‪「記号の成立は、分析と不可分のものである。分析なしに記号が出現しない以上、記号は分析の結果である。同時にまた、記号は、ひとたび規定され分離されると新たな印象にも適用される以上、分析の手段でもあり、その場合には新たな印象にたいしていわば格子の役割を演じるのだ。精神が分析するから記号があらわれる。精神が分析をおこなうがゆえに、分析は際限なくつづく。」(記号の表象作用 フーコ『言葉と物』)‬

‪• このフーコの文は『鬼神論』における「精神」の意味を問うた子安氏の講座のおかげで何とか読めるようになったかもしれない。ここからゴダールがやったことも考えられるようになったのは、ゴダールにおいて成立している映画における形而上学的視点によることのようにおもう。撮影のためのクローズアップと編集のためのモンタージュを分析したうえで記号としたのである。そうして『映画史』においては精神が分析するから際限なく分析がつづく。ここで敢えてゴダールをフーコに関連づけると、差異が差異化されていく‬運動として映画のあり方が再構成されていくときゴダールによってそこで問われているのは、近代における(古典主義時代における)記号の表象作用ではなくて、外部の思考が外部の思考としてあるポストモダンの思考する記号の作用である...

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罪刑法定主義推定無罪原則という近代における基本中の基本もわからないのかという非難を利用して、近代をわからないふりをしてどんどん権利のない社会にしてしまう。この国はそのぐらい怖いところにきているかもしれないよ



ネオリベ的似非ポストモダンは多様性にヒエラルキーを与えかねない多神教の様相をもつ。一神教は平等を構成して近代国家を創ったが、一神教的近代の永久革命は多様性を否定する。わたしの理解では、和辻哲郎一神教多神教の問題を乗り越えたつもりでも、「祀る神が祀られる神である」の天皇を物語る言説は多様性も平等性も破壊し尽くしたようにおもわれる昭和ファシズムの経験をまったく反省していない。『日本倫理思想史』の和辻がいう最高の祭祀者としての天皇のもとでは、「倫理」ー個人にして同時に社会であるところの人間の存在の理ーが成り立たないことは明らかではないか。明日の講座で考えてみたい


FILM 曖昧な本質 

a region of vague and material essences ‪

死にきったときから、絵と詩がはじまる。死が終わりつつあると、それは生きる間が始まるということで、絵を描き詩を書くことが終わろうとしている。

‪「生きている間は人間で、死んでから芸術家たるべきだ。」コクトー『雄鳥とアルルカン』‬



それは絶対者をノエーマ的に把捉した意味での神ではなく、ノエーシス的な絶対者がおのれを現わしてくる特殊な通路としての神なのである(和辻哲郎)


正しく理解するはit sounds good だが、ファシズムにすら純粋なファシズムにこだわる態度(大抵ナチスしか念頭にない)は、天皇ファシズムを逃してしまう危険がある


ノエーシス的絶対者が自己顕現する特殊な通路としての神は尊いのは、超自然的超人間的だからでなく、媒介者であるからだという(和辻哲郎)。よろしい、そうだとしよう。どの人も媒介する物であり得る。そして沢山の通路が存在する。国家に独占されるひとつの通路(伊勢靖国)が特別のものである理由がないではないか


古代天皇と中世天皇と近世天皇はそれぞれ違うのだから、戦前天皇と現在の天皇においても違いがあるはずだといえるだろうか。だが古代天皇と中世天皇と近世天皇はそれぞれ違うのは自明なことだ。問題は天皇の構造がなくならないことにあると子安氏は言う。和辻は戦前に日本の神々のあり方を分析して天皇の構造をはじめて明らかにした。媒介者として「祀る神は祀られる神である」の祀る戦前天皇と、(象徴性を過剰に逸脱して) 象徴的行為をなす大御心を以て媒介する祈る戦後天皇の間に違いはないのである。おそろしいことではないか。否、おそろしいこともわからないままに、祈る、祀る天皇における「私」の否定を国民が思い込んでしまって結果として国民の主権が危機にある。と、われわれはまったく天皇の構造を脱構築していないことに気がついたのである。



朱子は同一的平等性があるが多様性の方向がない。古学は多様性があるが平等性の方向を欠く。二つの間に線を引くことー近代のノエーシス的絶対者の自己顕現のブラックホールを避けて


ゴダールの映画の捉え方に、沢山の部屋に繋がっている開かれた廊下として考えてみようというのがある。部屋が偉いのではない。部屋と部屋を媒介する廊下が偉いのである。これと同様に、沢山の通路のあり方を考えることができるのではないか。国家におけるただひとつの通路が特異ではない。ノエーシス的絶対者が自己顕現する特殊な通路を差異化していく天(宇宙)における複数の通路を考えてみたいf:id:owlcato:20200112153337j:plain



学問と文化は明治維新から50年後にピークに達した(1930年代)。戦後の人文科学。近代という虚構を隠蔽できなくなったその50年後の1980年代に近代知の解体が始まった


外国では色んな人から話を聞いた。目的がないほうが続く。東京でもただ話を聞く。「大学」の知から何の価値もないとみられても、もしかしたら市民としては失格ではない気がしてきた


seq1 人称や主体、あるいは事物や実体の個体化とは違った個体化の様態がある。われわれはこれを指して<此性>hecceiteと呼ぶことにする。
―Mille Plateau (中)p208


書紀をよむには、大に心得あり、文のまゝに解しては、いたく古への意にたがふこと有て、かならず漢意に落入べし、次に古語拾遺、やゝ後の物にはあれども、二典のたすけとなる事ども多し、早くよむべし(うひ山ぶみ

和辻哲郎は近代日本の学問と文化のピーク(1930年代)の人。同時代に三木清九鬼周造がいる。ヨーロッパへ行くときはすでにヨーロッパと対等だった。ヨーロッパから戻って期待されたのは、彼の世界文化の歴史をヴィジュアルに(視覚的に読ませる)編集する力である。ここで、倫理学における岡倉天心の継承、和辻監督による映画『倫理』を読んでみようではないか。問題は、和辻のマルクス主義から始まったラディカルさは最後まで貫かれたか?否、和辻は映画の冒頭をカットしてしまう。映画の最後に、復古主義の恐るべき偶像再興を呈示する。そうしてラディカルモダニズム津田左右吉がインチキと考えた「王政復古」(明治維新)の近代の虚構を見事に隠蔽してしまったのである。国民主権なき「祀る神は祀られる神」の誕生を、天皇を利用する歴史修正主義の長期政権の時代に考えることほど幸せなこともない...

こんな世の中にした壇上のお偉方さんに自慢話させる成人式なんかで税金を無駄にするよりも、20歳全員に無料でパスポートを支給してあげてください


二十歳の皆さん、おめでとうございます。国家祭祀を止めた歴史を考える頭をもたない人間の一生をあらわした鶏の丸焼き、<ひとり立ち>を描いてみました。肉体に美しい野菜が刺してあります。テレビで高笑いしている右翼大臣に喰われる最後に、乾杯!

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市民的不服従の曖昧な観念が、台湾と香港がもっているネガテイヴな社会に対する明確なイメージにともなわれる。開発が進んでも政治的多元主義がない。精神的自由を編集できない

彼らは訪ねてもいいと思うその国がマイノリティーをどうあつかっているのかがやはり気になるー自分がどうあつかわれるのかを知りたいから。始まりはそこ。われわれもそうなんだから


ポスト構造主義の知は近代批判として知られる脱普遍である。議論はあるが、デモクラシーの政治多元主義に理解を示す。ポストコロニアリズムの知は、立場の多様性があるが、グローバル資本主義を推進しているポストモダンの「普遍」を批判することになった。ポスト構造主義とポストコロニアリズムから影響を受けた、マルチチュードをいう帝国理論のマルクス主義アメリカ帝国を批判する。アジアから、世界資本主義の分割である帝国(米中露拡大EU)を批判する言説を展開する注目すべき思想も現れたが、ヘーゲル的というか現状肯定的で、アジアにおける政治多元主義を十分に重視しているようにはみえない。ポスト構造主義、ポストコロニアリズム、帝国理論の知は世界の全体をみていた。間違いがあったらそれを議論した。しかし「天安門事件」から事件性を消去している日本知識人の言論に影響力をもった一部は世界の半分しかみていない。その意味で彼らの視野は外部の思考を伴わず構造主義的である。アジアにおける独裁政権を擁護していているのではないかとみられても仕方ないのである。‬その中に天皇に共感をもっている論客が多く目立つのは偶然だろうか?

現在石井さんたちのお仕事と研究が多くの人々に伝わっていますこと、喜んでおります。まだ本を読んでおりませんが、わたしは市民社会の近代という見方で具体的歴史を整理なさった石井さんの投稿されたコメントを読んで成る程とその通りだと思いました。ここでは、かならずしもわたしが理解していない「事件」とは何かということをできるだけ明らかにしてみようとしました。それはやはり市民が介入する思想史の特異点というかそういうものではないかと考えています。事実をどう解釈するかという支配的な物の見方とその中からそれとは異なるどのような見方が出てくるのかがわたしが考えたい事柄なのです。こういうことを最初に書くべきでした。残念なことに、わたしを「彼ら」に近いと感じたのは、わたしが市民社会の近代という見方に全面的に立っていないからかもしれません。現在進行形の歴史ですが、不十分ながらわたしの観察では、(わたしをわれわれにいれてもらえればの話ですが)われわれと彼らとは同じものをみているのに、(もしそうだとしたら)、市民の立場に立たないゆえに彼らが依存してきた近代の構造主義的理解のままでは事件をとらえることができないのではないかと考えています(事実を意味づけられないというか)。市民から考えるわたしの「方法」の努力が足りないことを反省しつつ、「事件」的に、方法的に、市民がそこに生きる具体的歴史の事実を十分に考えることが思想史を考えるうえで必要だとおもっています。

‪「わたしのエクリチュール」というのは、母国語の中で外国人になっているような...何だろうな。「母は流れいくエクリチュールとなった」とかいう一文があるのですが、これは何だろうかとおもって、30歳ちょっとぐらいのときでしたか、フランス語は超あやしい独学一ですから、一か月かけて本を書きうつして訳文を考えてみる必要があったのですが、結局わからないままだったことを思い出しています。バベルの災厄以降、言語は崩壊したのですが、人間の顔が崩壊したように、だけれど、エクリチュールを傍にたえずおいておかなければ自分のものとして存在させることができないというかーあれほど高くて遠いものが存在することなんて不可能でしょうが。『言葉と物』を30代で訳した渡辺一民なんかは晩年、驚くべきことに、「フランス語は日本語だ」と言っていて、大丈夫だろうか?と本当に啞然としたときがありましたが、まあレベルが違うでしょうが、やはり大先生も森や田んぼのなかで彷徨っていたエクリチュールの片割れだったのかなとやっと気がつきました。(<ー意味不明)

フッサールの「曖昧な本質」は、意識のあり方のように、曖昧だが厳密に規定されているものであるという。ドゥルーズの<母国語のなかで外国人に成れ>はこの場合の「曖昧な本質」なのか。母国語というのは自立的一言語の近代。12世紀『朱子語類』は母国語の部分を為さぬが書き下された文は母国語に属するとかんがえられようか?ならばそこは母国語のなかの外国人の領域(外部)ではないだろうか...結局漢字仮名の書き下し文は日本語の基礎を作ったことをかんがえると、母国語が母国語であるためには不可避の他者をもたなければならないのである

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いま考えていることをやはりAlain Badiouが書いていた。分析哲学からは数学ではないと非難されることがあるが、別に構わない。Badiouも言っている、自分のは詩なんだと。外部の思考としての(絶対)差異(同一性と相違性の枠組みを超える空集合の意味)と固有名の問題

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アジアの詩

此の物性は本質なき流れいくものを本質なきままに分節化するあり方で、固有名が無から自己差異化するのは、固有名における此の物性による。アジアは即ち無。無は国家祭祀の集合をもたぬ。アジアは即ち固有名。固有名として、中国とヨーロッパとの同一性と相違性に還元する物の見方を棄てる危険をおかす



die Gründung‬
‪der Grundervater‬
‪der einzige Sohn‬
‪(Les enfants terribles)‬
‪und es muß einfach so sein‬
‪das diese Geschichte hier l'assiette
‬ ‪(After Godard, all the histories)‬

推敲中
LES MOTS ET LES CHOSES
‪フーコ『言葉と物』のどの章が一番大事ですかときいたとき渡辺一民氏は「最初と最後」が大切だと語ってくれた。その「最初」は「序文」のことだったのだけれど、わたしは「第一章 侍女たち」のことだと長い間勘違いしていたことにひどく呆れた。「あんなものは訳せないことはないんだ。」と。あのときは何も言えないままに黙っているしかなかったが、今なら少し何かを言えた。「第一章 侍女たち」は絵を解説している文ではない。画家をあたかも文字で描く画家の如くロゴスとしてとらえている変な文なのだ。ロゴスはトータルに自らのあり方を説明するときどうしても言葉を必要とする。これがわからないのである。‬ ‪「画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥をあたえているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆がまだおろされていないのかもしれない。画筆をもつ腕は、パレットの方向、左にまげられている。いま彼は、画布と絵とのあいだで身動きもしない。その馴れた手は視線み吊られ、視線は逆に、静止した動作にささえられている。画筆の鋭い先はとはがねのような視線とのあいだでは、光景がその立体的空間を解き放とうとしている。」(フーコ『言葉と物』第一章 侍女たち、渡辺一民訳)‬

推敲中
日本人は『朱子語類』を中国研究者による訳文を読むが、江戸時代の書き下し文で読もうとはしないという。ところが講座に参加なさっている中国人留学生から感想を伺うと、書き下し文が面白いという。この感想が面白かった。このとき、日本近代というのは、近世が行った朱子の書き下し文を消した白紙の本で成り立っているようなものなのかと考えてみた。近代は本を書くゲームに喩えると、それは空隙のスペースがひとつある規則によって構造の多様性が成り立つゲームを発明したわけだけれど、しかし明治維新から150年、近代のゲームは失敗だったことはもうわかっている。漢字の前近代を消し去ってしまった白紙の本に書かれていく多様性は本当にそれほど多様なのかということを考えざるを得ない。この点について子安氏によると、荻生徂徠以降、外国語として中国語をよむことが課題となり、近代において書き下し文で考えられた思想が忘却されていくことになったというのである。横井小楠をはじめ、明治維新を批判した朱子学的批判も含めて


MEMO

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Chaosmos of Alle 

万物のカオス(コス)モス


ーFinnegans wake  James Joyce



‪映画というのは、方法としての神話だ。フレームは操作による(世界の)変形だ。フレームのなかに世界をとらえようとすると、世界は全体であると同時に枠づけられた世界は部分である。全体は全体である。全体を部分にすることができないのだから、これはフレームにおける矛盾だ。(スクリーンへの投射はこの矛盾を隠蔽してしまう。) そこでレヴィストロースが言うように、フレームに起きる矛盾に仮面を被せてみよう。何がみえてくるか。カオスがコスモスに先行していたのだ。ロゴスはギリギリ要請されるとしても、統一などできやしない。フレームから考える映画の方法としての神話的思考は、デリダ脱構築論、ドゥルーズリゾーム論‬とおなじ物の見方をなすとおもう


ダブリン時代のピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は全部みたのですが、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけでした。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきました。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているこちらのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。それから二人は闇のなかに...あとで、そのときは彼がダブリンに来ていて映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。


Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse.  Gilles Deleuze


恵比寿の「去年マリエンバートで 」L'Année dernière à Marienbad


‪「去年マリエンバートで 」とは何か?それは、自己のまわりから外部を考えることができるかという問いかけである。われわれはフランス風の庭園から彫刻と共に立って建築を見る。その中では、長い廊下に沢山の類似しあった部屋があるのに、もはや記号はものを引きよせ結びつける力が失われていることを知る。記号は認識でなければならなくなっている。過去における類似物と相似の意味世界は認識にとって周縁となってしまった。それにたいして、映画は、記号を、ラディカルに記号が記号として成り立たたない認識の体制から脱出させた。そうして今度は記号が外部から自分のまわりを考えようにできるために。外部からなにが自己のまわりに見えてくるか?ここから、不可避の他者が立つ外部における卑近から、「去年マリエンバートで 」とは何かを問うことの意味がでてくる‬


トリエステまでいくと南ヨーロッパとトルコが感じられたものだ。ブルガリアの女性が、スペインから排除された人々をオスマン帝国が助けたと喋っていたのを思い出す。ヨーロッパのイスラムとの関係についてこれを一体的にすることは難しいのは何故か?問題は、スペイン行った「ホロコースト」の16世紀に遡る。イスラムは自分たちを排除することによって成立した「近代」を全面的に受け入れることは不可能なのだ。‬この排除された人々ースペインのイスラム人ーの歴史を忘れてしまっては、新しい普遍主義を再構成していくことはできないのじゃないかね


アルチュセールがやったように、マルクス剰余価値の理論を国語という思想に適用できないか?日本語は一国的自立言語であると教えられる。それは記号であるかぎりにおいて内部に普遍的な表象能力をもたなければならない。透明な自己自身のために整えられているとする音声主義の言説の極端において、漢字には豊かな文化を実現してくれる表象能力がないのである。しかしほんとうにそうか?この思想の問題は、漢字圏の言語から、「多様的漢字受容世界」(子安氏)から、意味作用の配置を盗んでいる点にある。一国民主主義の思想と共に、ヘイトスピーチナショナリズムを生み出している。


「ラジオになること」、「エレクトロニクスになること」、「分子的なものになること」といった万人の生成変化に武器を提供するものなのだ。これらすべての決定不可能な命題を通過しない闘争は存在しない。すべての闘争は、公理系による接合に対して、革命的な連結を構築するのである。―D=G (下)p245



‪かつてオーストリア帝国に属していた、ハプスブルク家別荘があるトリエステに、カフカの城みたいな城跡がある。ジョイストリエステにいた。ダブリンから行くときは、ドウルーズのマイナー文学の意味を考えた。動物に成ること、イデッシュ語を以て、ゲーテ普遍主義を解体する、周辺の普遍主義を政治的に書くマイナー文学の意味。脱出ならば、それと同様に、他者('学者さん')に成ること、17世紀の漢文読みを以て、徳川ジャパンの普遍主義を書くという、解体朱子学の古学にもあった、そう考えることができないだろうか。



もう人間とはおさらばだ、

妖精と共同生活しよう

とりあえず現在もっているものと

できそうなことをクレヨンで書き出してみた...

国際便で何ヶ国も彷徨う19箱の本たち、

マイナーなものづくり、地下茎のように

共通の部分が腐ったガラクタ学問、

そして思想史的遠足


The Logic of the Place of Nothingness and the Religious worldview (1945)

ーKitaro Nishida (trans. David A.Dilworth)


Not everyone is an artist. But to some extent at least everyone can appriciate art. Nor is everyone a theologician, and rare is the man who experiences a religious conversion. To some degree, however, any person can understand religion. There is probably no one who does not feel a strong resonance in the depths of his heart when he reads the fervent confessions of belief of the great religious figures. Moreover, upon falling into condition of extreme unhappiness, there is probably no one who does not feel some religious sentiment welling up from the depths of his own soul. Religion is an event of the soul. Philosopher cannot fabricate religion from their own thought system. They must explain this event of the soul. To do so、they must experience religious in themselves to some degree



‪ダブリン時代にハロルド・ピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は毎日映画館に通って(IFC)、全部みました。問題提起がありました。ただ正直、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけ。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきたのです。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているわたしのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。アイリッシュではない。沈黙。それから二人は闇のなかに...。あとで、映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。‬彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。闇のなかで誰が何を喋っているかわからない場面があります。パッと舞台が明るくなると、死体があります。と、この芝居の闇によって、あのときの闇は何だったろうのかということを考えていました。わからないままですが、「黒板」のようなものではなかったでしょうか?誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書き続けるしかないわけで、「意味」がでてくるまで...‬


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昨年から脚を痛めてもう遠くにいけないかも...痛いと知らない暗いところに歩くのが大変とおもってしまうのだね。わたしはこの芝居を知らないのだけれど、面白そう。「指令」「察知」「不安」かあ、なるほどね、ハロルド・ピンタの世界かもね。中々字がうまい!「外部」もあるとおもうよ。それから「意味」。ところで、「指令」「察知」「不安」と「殺し屋」との間に共通なものはなに?

わたしも、手も足も出ずという感じで彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。今回投稿された写真を見て、「指令」「察知」「不安」と「殺し屋」に共通しているとみえたものは...「黒板」でした。誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書くしかないわけで、意味がでてくるまでね


Becoming walk of Duchamp's bachelor-machine, becoming girl and plant, becoming process itself, becoming space of...

ー D=G


アレンジメントは内容と表現の区別に従属しているかぎりでは、まだ地層に属している。(…)しかし内容-表現の区別が新しい形象をおびているかぎり、厳密な意味ではすでに、地層とは別の要素にわれわれは直面しているのだ。――(下)p306


彼(三木清)の言う修辞学というのは、つまり社会を分析するんじゃなくて、社会をいかに動かすか、いかに変えるか、というような手だてとしての学です。そういう修辞学がわれわれには欠けているということを三木氏は力説しているんです。

小田実『対話篇(中村真一郎との対談)』1973


「アジアになること」も、「分子的なものになること」と同様に、万人の生成変化に武器を提供するのだろうか?『漢字論』のあとに、だれが良質なアジア主義の修辞学を書くのか?


ヤジは自由であるが、やじってきた相手に「ヤジるな!」とただすときは先ずは自分をたださなくてはね。安倍の問題は、隣国を批判するときはまずは自分をたださなくてはいけないのに


‪昨日は高田馬場の喫茶店で象徴性をめぐってワイワイガヤガヤと話し合う時間をもった。これは、国民に主権があるということは国会に議論があることであるはずなのにー選挙制度によらずー、国民の間で危機に感じられていない危機を考える視点を与えてくれた。今朝思い出しながら不十分ながらも私なりに理解した仕方で整理してみた。あるものの見方が一度確立されるとそのなかでそれとは異なる見方をするのが困難となるこの意味で、戦前において確立した国家祭祀と天皇機関説は両立しないように、平成から確立した祈る天皇の象徴性がつくりだす統合と国民主権は両立することがないのである。象徴性の代償としてこれからわれわれはなにを犠牲にしなければならないのか?これは民主主義の問題である。これに関してきちんと思想史的に子安氏が12日に大阪で、14日東京でお話しするので、そこで考えを深めたいとおもう‬


The idea that free-trade imperial states use informal controls to secure their expanding economic influence has attracted Marxists trying to avoid the problems of earlier Marxist interpretations of capitalism. The approach is most often applied to American policies. (Wiki)


Reviewing the debate from the end of the 20th century, historian Martin Lynn argues that Gallagher and Robinson exaggerated the impact. He says that Britain achieved its goal of increasing its economic interests in many areas, "but the broader goal of 'regenerating' societies and thereby creating regions tied as 'tributaries' to British economic interests was not attained." The reasons were:


the aim to reshape the world through free trade and its extension overseas owed more to the misplaced optimism of British policy-makers and their partial views of the world than to an understanding of the realities of the mid-19th century globe.... the volumes of trade and investment...the British were able to generate remained limited....Local economies and local regimes proved adept at restricting the reach of British trade and investment. Local impediments to foreign inroads, the inhabitants' low purchasing power, the resilience of local manufacturing, and the capabilities of local entrepreneurs meant that these areas effectively resisted British economic penetration. (Wiki)


国事行為ならば儀式である。しかしその逆は真ならず。それは国事行為でなければ、無限定に国民を統合する象徴性をつくり出して国民主権を破壊する危険があると憲法は抗議している




seq2 事物(もの)のあいだとは、相互に一つのものからもう一つのものに及ぶ定位可能な関係を指すのではなく、一つともう一つを両方ともまきこんでいく垂直的方向、横断的運動を指すのだ。始めも終わりもなく、両岸を侵食し、真ん中で速度を増す流れなのだ。p.61



‪Kleist, Lenz ou Büchner ont une autre manière de voyager comme de se mouvoir, partir au milieu, par le milieu, entrer et sortir, non pas commencer ni finir. ... C’est que le milieu n’est pas du tout une moyenne, c’est au contraire l’endroit où les chose prennent de la vitesse. Entre choses ne désigne pas une relation localisable qui va de l’une à l’autre et réciproquement, mais une direction perpendiculaire, un mouvement transversal qui les emporte l’une et l’autre, ruisseau sans début ni fin, qui ronge ses deux rives et prend de la vitesse au milieu.‬


D=G





土曜日の子安氏の講座で、尾崎秀実の、ひとつともうひとつの両方を突き動かす為に先ず日本が自らを変革する横断的運動、世界革命としてのアジア主義の透明な意味を考える。津田左右吉におけるラデイカモダニズムは「シナ」を消去するが、尾崎のアジア主義の言説は中国を書いたのだ。だが尾崎の知的誠実さは、明治維新の近代が極端へ行く昭和十年代にとって不透明である


統合の象徴性は憲法の分裂する力を奪ってしまう。「立場を超えて皇室に共感」(大澤真幸)という。No!それは意味があるのかと問う分裂が人間であるかぎりにおいて必要である


明仁天皇が実現していったのは「解釈改憲」的象徴天皇像である。」「そして今、新たな象徴天皇の即位に当たって歓呼する国民は、新たな「ノモス的主権者」たる象徴天皇に真の主権者たる自負も自覚も譲り渡してしまったことを知らないのである。」

(子安宣邦氏 天皇の「象徴的行為」について)


ナルちゃん、ピンチ!君のパパの象徴的行為(清宮説)は解釈改憲的で、意図せずに戦前との連続性もあるかもよ。この天皇のあり方を継承してはならない。賢いマサコさんが教えてやれ


それゆえアレンジメントにおいては、これらの表面よりもなお深い何か、前提しあう二つの形式、つまり表現の形式あるいは記号の体制(記号的体系)と、内容の形式あるいは身体の体制(物理的体系)とを同時に考慮するような何かに達しなければならない。それをわれわれは抽象機械と呼ぶ。――(上)p289


宮沢は天皇機関説を支持していた。象徴が象徴となるのは宮沢説がいう憲法の定める国事行為のうちにおいてであって、清宮説がいうような象徴行為のうちにおいてではない。令和天皇はex天皇の象徴行為的天皇像を継承するという。万歳三唱!未来を思い出す悪夢ー戦前からノモス的主権の言説が国民主権を奪ってくる


権利のない社会に反対!象徴行為的天皇像と共に、戦前からノモス的主権の言説が国民主権を奪ってくる時代において、新しい転向というものを考えるとしたらが誰が転向しているのか?



‪ ‪現在は『朱子語類』と宣長を読んでいるのだけれど飯田橋『仁斎論語塾』の二次会のワイワイガヤガヤのお喋りのときだったのだけれど、最近「思想史研究会」講座から参加してきた洋書翻訳をよく読んでいる仲間と喋っていると、「注釈」についてのイメージが彼と違うことに気がついた。その人がもっている「注釈」は語の説明なんだね。点と点との翻訳的対応をおもいえがいているように感じた。‪わたしは思想史アマチュアだが‬、私の考える「注釈」はむしろ線と空間との関係である。思想は自らをあらわすためには言語を要する。命題が言語となっていく時代がある(フーコはこれを「古典主義時代」という。はじめて言説が命題のかたちで言明されるようになった) 。命題とは、自らをも分析する、分析の順序をもっているという線的構成である。それに対して思想というのは平面なんだね。われわれは空間を考えるときは絵をみるときのように同時的に全体をみる。そうだと考えると、問題は、線はいかなる権利にもとづいて、平面をあらわすことができるかということ。言語は分析の順序をもってみていくかぎり、空間を同時的にとらえることができない。線は不可能性をいかに解決するのかである。おそらく解決できないだろう。そこで注釈の出番ということになる。空間の普遍的なものは存在しているのではなくて線において要請されているのである。「注釈」はこのことを書くのである。それは「注釈」を超えた思想かもしれない。語というよりは、言説への従属を拒む<言葉>なのだ。そうして『童子問』の仁斎は、中国における言語支配者の垂直的に遠く高くある普遍主義に対して、水平的に自分のまわりにある卑近なものにこそ普遍主義があると考えたとき、<言葉>から「理念性」を発見したのである。中心は言う。思想の普遍性を書くためにはその言語に普遍性がなければいけないと。 その普遍性は周辺において存在しないからこそ要請されるのである。 17世紀のその「理念性」は垂直と水平から成る新しい思考の斜線であったとわたしは理解している。‬儒者たちはこの斜線において多様性の思想を権利として自分たちのものにしたのである。



‪古典主義時代における「語ること」は命題の線的構成によって可能となる。それは分析の順序をなす。そこに言説がはじめて成り立つことになったとフーコは言う。さて思想は絵画のように全体を同時的にみなければみえてこない平面であるとき、思想は自らをあらわすとき命題すなわち順序の分析である線的構成において可能なのか?不可能だと答えることは単純すぎる。渡辺一民氏がやったように多分『言葉と物』の絵画分析をかんがえながら第四章『語ること』を読むときは、そう単純にはならない。問題は、問いが前提としている全体の概念である。よろしい、還元され得ない思想の空間は普遍主義であるとしよう。だけれど思想はそれほど全体性なのかという問題がある。どうしても全体性というならば、それは線が関わるのはベラスケスの絵画において構成されていた全体性なき全体性ではないだろうか。全体性は魂のように消滅し切るかといえばそうではなくて魂の如く現れるのだ‬ね。わたしは思想史アマチュアだからこんなふうに考えるのだけれど、普遍主義という名の全体性なき全体性を多様性と呼ぶことはやはり急ぎ過ぎた理解なのだろうね


17世紀の知識革命‬ 

近代においては、価格が価値をきめる。ネオリベラリズムの思想が席巻する現在、何でも彼でも金がものをいう。そこでは社会と市場とが 、価値が価格と同一視される。そういう物の見方が確立したのは、そう遠くに遡らない。500年前からの17世紀、交換の時代から始まること。だけれど、この時代の支配的思想は、価格と貨幣に先行して、先ず価値あるものは何かを問うたのである。価値あるものをいかに分類し名を与えるか。二つの価値あるものが交換されるのはなぜか?それを文のどこで言語化できるか?17世紀の思想は、複雑な世界から自立しはじめている、簡単な世界の現れをみている。17世紀の思想革命は、複雑な世界をみる物の見方にたいして リアルにかんじられないときはじまった知識革命であった。同時代的に、アジアでも町人が推進した知識革命が起きた。‪「道あり人あり」という「道」よりも、「人あり道あり」の「道」のほうが価値があるのはなぜかを‬根本から問うラジカルさをもっていた。ここから、仁斎は、当時東アジアを代表する思想ー朱子学ーにたいして思想闘争を挑んだ。改めて、思想革命とは何か、私なりに整理すると、それは、究極的に依拠できる価値あるものを学において発見していくことではないか。学問は近世まで寺社と宮廷貴族に独占されていた。町人が学の要請された意味を発見していく。江戸時代の学問する町人たちは、複雑な世界(奥深い内面)から自立しはじめている、簡単な世界(天と地の間の往還)をリアルにみはじめているのである。思想の解体的ラジカリズムを、あえて『論語』を選んでその読みを再構成していくことによって、万民のために普遍化していく‬ ‪。 ‪アベノミックスと呼ばれる安倍政権に体現された‬、ネオリベラリズムの近代は、17世紀において卑近さから語り始めた自らの画期的な視点を生かしているだろうか? 

17世紀の思想は、複雑な世界から自立しはじめている、簡単な世界の現れをみている。17世紀の思想革命は、複雑な世界をみる物の見方にたいして リアルにかんじられないときはじまった知識革命であった。同時代的に、アジアでも町人が推進した知識革命が起きた。「道あり人あり」という「道」よりも、「人あり道あり」の「道」のほうが価値があるのはなぜかを問うラジカルさをもっていた。ここから、仁斎は、当時東アジアを代表する思想ー朱子学ーにたいして思想闘争を挑んだ。改めて、思想革命とは何か、私なりに整理すると、それは、究極的に依拠できる価値あるものを学において発見していくことではないか。学の要請された意味。それは人においてはじめて可能となるものである。17世紀思想が発見した学びこそ、万人が依拠できる多数の入り口をもっている。近代は卑近さから語りはじめたこの画期的な視点を生かしているか? ‪「この道しかない」とする、1%と99%を分割しようとするネオリベラリズムの思想は学に値しない。それは「人あり道あり」の「道」ではあり得ない。‬

( 現代にあってモーツアルトは簡単すぎてかえって演奏が難しいという。是と比べたいのは、『論語』"為政第二"で、ここから簡単すぎて読めなくなる。「天下の儒者たちの語る言葉がただ高遠であって、卑近でないのは、彼らに徳がないからである」と伊藤仁斎が言うようには...

対話による言語を学ぶのはとりあえず思惟だ。思惟は最初に誰が言ったかを読む。思惟と切り離せないもので、行いによる言語を学ぶのは身体。身体は卑近を読む倫理だ。卑近も、高遠と反対の方向からの理念的構成物だから、その解釈はそれほど簡単にそこに無いと知って愕然とする)


L'alphabet et la representation absolu


アルファベットの意味とはなにか? 

ー アルファベットと絶対的代理 

L'écriture alphabétique est la plus muette qui soit, puisqu'elle ne dit immédiatement aucune language. Maid étrangère à la voix, elle lu est plus fidèle, elle la représente miex. Derrida 「アルファベット文字は、直接的にはいかなる言語も語らぬがゆえに、すべての文字(エクリチュール)のうちで最も無言である。しかし、声とは無関係でありながらそれは声にいっそう忠実であり、声をよりよく代理(表現)するのである。」 D

 E

 C

 O

 NSTRUCTION


Behove this sound of Irish sense. Really? Here English might be seen. Royally? One sovereign punned to Peter y'all pense. Regally? The silence speaks the scene. Fake ! ‬

‪So This is Dyoublong?‬

‪Hush! Caution ! Echoland !‬

‪(Joyce Finnegans Wake )‬


Mais l'immobilité attentive de ses yeux renvoie á une autre direction qu'ils ont suivie souvent déjà, et que bientôt, à n'en pas douter, il s vont reprendre : celle de la toile immobile sur laquelle se trace, est tracé peut-être depuis longtemps et pour toujours, un portrait qui ne s'effacera jamais plus.(Foucault)

つまり、すでにしばしば彼の眼がたどってきた、そして疑いもなくただちにふたたびとるであろう方向 、いいかえれば、そのうえに、もはや決して消されないであろうひとつの肖像がおそらくはずっと以前から、そしてこれからも描かれつづけ、描かれたままであるにちがいない、不動の画布の方向のことだ。(フーコ 『言葉と物』渡辺訳)


あなたほど信条をもたぬ保守の政治家は存在しなかったよ、Bye bye!さて安倍退場のあと応援するものを失っても日本会議のウルトラナショナリズムが収束するように思えない


‪ねえねえ、大嘗祭やってもらって、しあわせになったひとがひとりでもいるのかしら?国家は異界の入り口を独占したいらしいけれど、多分入り口は何処にもあるよ。路で拾った4個の石をリズムよく順番に左右のポケットに入れたり出したりすれば時空の歪みへの入り口になる。ベケットの小説に書いてある...‬


「安倍を見る」会の国民のみなさんは飽きないのですかね?


‪日本人を分析しているというわかい香港の女性の観察によると、日本はbuddyが好き。彼らは寂しいからではないかと。なるほどね、そう見られているんだな。わたし自身については寂しさを強く感じるほうだとおもうが、四、五冊の書物以外に一体感をもとめるのはヤバイと感じる。そういう意味で本こそは国内亡命の場所かな。国内亡命者は本の厚さに属しているけれど、そこは部分にはならない偶然とそこから常に新しく成立する連続面がある‬ことに遅かったのだけれどやっと気がついてきた...


トータルに考えることが不可能となっている本当に嫌な世の中だ。それは外部にある過去との関係を考えられなくなったことによる。過去を考えれば、普遍として確立した物の見方ではやっていけなくなってきたときそれとは異なる見方があったことがわかる。‪質問することによって、‬普遍はたえず再構成され得る。倫理的に一つに非ず。 

卑近なところからトータルに考えるためには、外部にある過去との関係を考えることが大切である。たとえば、ゴダールへのインタビューを解釈してかんがえてみたことだけれど、文字を発明したメソポタミア文明との関係がみえないので、現在アメリカが行なっているこの地域への侵略がどんな意味をもつのかをトータルに考えることができないでいるのかもしれない。アメリカは文字を侵略していると質問してみよう。そう考えてみたら、どんなことが言えるか?新しい普遍を再構成しようとするわれわれの思考が依拠する言語と言われるものを支配するつもりではないだろうか?‪これが、卑近なところから‬トータルに考えるためには、外部にある過去との関係を考えることが大切であるということの意味である。‬


来日する習近平にたいして、経済の話ばかりするのではなく、共産主義でもいいから外国と少数民族との関係を解決しなさい、それから政治的自由と法の支配を確立して権力者の支配をやめなさいと言うのはだれなのでしょうか?安倍晋三ですか?自身と自国のあり方を正すことなくして言うことができますか?


ひとくちにヨーロッパ音楽って言うけれども、ヨーロッパにだって多くの民族があって、それぞれのローカリティーがあり、そのローカリティーベートーヴェンの音楽などにも、ある意味では出ているわけでしょう。僕たちが、今、多くの民族音楽のローカルなもののなかに在るすばらしさに本当に気付いて、人間にとって、根源的な大事なものがそこに在ると気がつくのは、それはもしかしたらベートーヴェンなんかを知ってるからかも知れない、とも思う。ベートーヴェンを知らないのと、知っていた上で、ローカルなもののよさを見つけるのとでは、その重さは大分違うんじゃないかな。ー武満徹


BBCはベートーベン全作品(1000)の演奏を放送したことがある。この企画のために、演奏されなかった小作品もたくさん演奏した。18世紀全体が聴こえてくるほどの広がりなのだという。ウイーンの田園交響曲はスラブからの影響があると聞いてはいた。スコットランドから影響を受けた作品も結構あるんだね。残念なことに、現在は、二週間かけて朝から晩まで録音したそれらのテープを再生できずにいる...


ウィーン古典派の音楽家たちが、民族音楽の影響をどんなに喜んで受け入れたかは周知の事実です。たとえば、ベートーヴェンの《田園交響曲》第1楽章の主要主題は、スラヴ民族の舞曲の旋律によるものです「民俗音楽とは何か」1931 バルトーク


Quī nimium multīs 'nōn amō.' dīcit, amat. 


あまりに度々「俺は愛していない」と言う人は、愛しているのだ。ーオウィディウス「恋の療治」


向日葵運動のときのこと、連日台湾から私のYouTubeに1日数百回アクセスしている人がいた。後日、子安先生の講演で台北に行ったとき呉叡人さんが見ていたとおっしゃっていた。早稲田大学小教室の市民大学講座における子安先生の柄谷『世界史の構造』批判をみていたようだ。現在香港で起きていることの日本人にとっての意味をかんがえるうえで非常に大切なインタビューだとおもって私は読んでいる。ただし「香港ナショナリズム」という視点には同意しない。21世紀のどんなナショナリズムも、フランス革命の時代において従属から自立できる平等を実現する意義をもっていないから



ゴッドファーザー映画が描く<血>は、誕生を現す標であることをかんがえると血の場面は人間の誕生を表現している。ただテレビ放送の日本語吹き替えでこの場面を見たものだから、この場面の初めにおいてラテン語が語られていたとは知らなかった。


翻訳ほどおぞましいものはない。翻訳なんかいらない。言語(エクリチュール)の存在と人間の存在は同時的に両立していた。そこに連続性があったのに、諸言語(ラング)の侵入はそれを不可能にしてしまったというわけだ。弁証法的な深読みの謎めいたイメージを作りあげてしまう‬


kre  dans un ordre   peck ti

e   fulminant.     kruk

pte


中国革命のイデオロギーに行かず、香港の民主主義の経験にも行かず、「アベを見る会」の国民に留まる均衡。だけどそれは、一国民主主義と自立的一国言語のナショナリズムのなかに安定しているだけの不均衡かもしれない。不均衡のまま同じであることは不可能である。問われている思考は、困難でも、アジアにおけるグローバルデモクラシーの外部的あり方についてではないか


ああ気持ちわるい!「伊勢に即位を報告」って、報告を受けるのは、「皇室の祖先である天照大神」かよ?起源の後退と回帰というフーコの文を思い出す。人間が存在しない時代に遡りながら、人間の思考(起源についての)を投射する矛盾って何だろうとおもうのですよね、思想の分野ですが、近代になってこういう矛盾にとらわれることが始まったといわれますが、厄介だなとおもっています。何というか、「われ考える、ゆえにわれ存在する」のコギトの思想が飛躍して、「人間は人間の存在を考える、ただしそれは人間が存在しない限りにおいて可能である」というもだと私はおもいます。


「皇室の祖先である(『といわれる』『とされる』だったかも)天照大神」とフジテレビで言った。天照大神って神話の神ですよね?


「伊勢に即位を報告」(朝日新聞)って書いちゃっているのだけれど、報告を受けるのは、NHKやフジテレビで繰り返している「皇室の祖先である天照大神」かよ?と、起源の後退と回帰というフーコの文を思い出す。人間が存在しない時代に向かって遡りながら、人間の思考(起源についての)を投射する人間の歴史認識を問うている。厄介なことに、近代における「われ考える、ゆえにわれ存在する」となんか自然に語るコギトの実証主義的思考が、「人間は人間の存在を考える、ただしそれは人間が存在しない限りにおいて可能である」(‘未来を思い出せ’)といういかにも終末論的なものと共存している。こう教えてくる人間認識の歴史にも耐えられない。そんな言説は時代遅れだよ、と、人間と共に消滅している近代に向かって異議申し立ての言葉を吐きたいのだけれど


人間が存在しない時代に遡りながら、人間の思考(起源についての)を投射する矛盾って何だろうとおもうのですよね、思想の分野ですが、近代になってこういう矛盾にとらわれることが始まったといわれますが、厄介だなとおもっています。何というか、「われ考える、ゆえにわれ存在する」のコギトの思想が飛躍して、「人間は人間の存在を考える、ただしそれは人間が存在しない限りにおいて可能である」というもだと私はおもいます。まあしかし、『といわれる』『とされる』ならば、だれがそれを語っているかを注意することが大事で多分そうして距離をとる判断が成り立つはずですが、場合によっては世界神話の普遍性をかんがえてみる契機になることだってあるかもしれませんが、しかしこういう言語の方向に行くのではなく、神話についての注釈の歴史に関心なくテクストも読まずに、『である』を繰り返して同一性に絡みとられてしまうと、それは日本会議的な思考停止のヤバイ伝達と、アイデンティティーの方向へいく排除の言説になりはしないかと心配です。一番ヤバイのは、信頼していた専門家の中には、そういう事実がないことを知りながら、何かの目的をもっいて、何千年も『いわれてきた』と『である』とを結びつけて言ってしまうのがいるのですね。かくも連続性を実体化すると戦前の考え方に戻ってしまいます(長文失礼)


元祖寸劇

ー善行はプラス、わるい行いはマイナス


閻魔大王「貴様の書いた人生バランスシートはプラスになっているが、馬鹿者!都合の悪いことを隠さず明細書をだすのじゃ」


フクロウねこ「明細書はありません」


‪ Jonathan Swift, who took aim at Leibniz’s thought-calculating machine in his 1726 book, Gulliver’s Travels. In one scene, Gulliver visits the Grand Academy of Lagado where he encounters a strange mechanism called “the engine.”‬

‪Swift’s point was that language is not a formal system that represents human thought, as Leibniz proposed, but a messy and ambiguous form of expression that makes sense only in relation to the context in which it is used.‬


‪By OSCAR SCHWARTZ‬


‪In the 17th Century, Leibniz Dreamed of a Machine That Could Calculate Ideas‬


フーコの精緻であり且つダイナミックな物の見方

表象が物に帰属させられてはいないこと、つまり多様性が予め結合したかたちで主観に与えられてはいないことこそが、他人との諸表象のやり取りを常に可能にする。なぜなら主観はどのように触発されるかによっては規定されず、表象を合成することにおいて自らを規定しているのだから。-『カントの人間学』ー

コッポラの映画を流してくれたテレビのおかげで、自覚なくラテン語を初めて聞いていたのである。血は映画においては誕生をあらわす。と同時に、隠れている観客の欲望も。諸言語(ラング)による吹き替えに観客がもつ幻想が投射されている。それは支配する欲望である。もしかしたらナショナリズムの誕生かもしれない!?

カタストロフィを制御するノセントで勇敢なキートン。これはアメリカの原風景でもある。だが面白いのはそこじゃない。わたしの関心は芸術作品みたいにロープが連接しているのかはっきりしない点にある。どうも家は起源の記号らしい。起源というものを時間の流れから解放するアナーキーなイメージをよむの


なぜ中国と日本とは近代において出会えないのか?不可能にする分散している近代を問わなければね、「自身を語る」こだわりをみせるとき?否、他者との関係に集中するときだ

アイルランド文学といわれるものはアイルランドでそれがはじまる前にすでにイギリスに知られていた。存在していなくとも存在するのである。この事情は不思議でも何でもなく、植民地化された地球の多数派がおなじ経験をもっている。日本文学においても、『源氏物語』とかそういう自立的な文学が出てくる前に、中国文明のなかに存在していたと考えることができる、『古事記』『万葉集』が中国文明のなかにあったように。それなのに存在しなかった「日本古代」という虚構によって、<自己においてはじまる前に既に他において存在していた>そういう配置を隠蔽してしまう。‪オリジナリティの虚構にとらわれる日本文学は帝国主義<日本文学>というべきである。‬