MEMO

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ここで問題提起。演劇の死とはなにか?




死の演劇に交換できない死はない。

死の演劇において死は存在を交換できる存在の存在の如くある

だけれどそこで交換それ自身が成り立たない

不完全なものが交換の構造の外にある。

意味あるその入り口が塞がれようとしている

演劇の死とは多分そういうものであるー


正直、野田氏が言っている「演劇の死」をわたしはよく理解できていません。ただ、<演劇>が<演劇でないもの>(たとえばゲゼルシャフトまたは社会といわれているものですかね、わたしはそれを<死の演劇>ととらえています)にとって不可欠な他者である理由を考えましょうということならばですね、岩井克人ならばどう考えたかななどと考えています。またわたしの理解ではハイデガーは死が内側に向かって自己が存在している自身をみるとしたら(死がとる位置は)外部においてほかはあり得ないと思索しましたが、ハイデガーならばこう言ったんじゃないかとか勝手に考えたことを書きました。この場合は、死に切ったという場所から、ですね


ミクロの世界における見えない領域に憲法は適用されずというヤバイ境界線。ウイルスを利用する危険な「緊急事態宣言」は、憲法の精神の自由の傍で、反論できぬ形で価値中立的に線を引かれて、精神が従属する見えない絶対権力者が増殖する


コロナの詩を書く


われわれは国籍を超えて頑張るのに

ブラウン運動に囚われている

だけどあんたたち人間はどうした?外の思考に向かって

ウロウロウヨウヨ、ワイワイガヤガヤがなければ

わたしの王冠を超えられないよ


“Words ought to be a little wild for they are the assault of thoughts on the unthinking.” 

John Maynard Keynes



“Words ought to be a little wild for they are the assault of thoughts on the unthinking.” ― John Maynard Keynes


象徴天皇制はいつかはやめる。それまでに強力な共和主義の理論を構築しなければいけない。スピノザはこう言っている。議論のあるところである。

If then human nature had been so constituted, that men should live according to the mere dictate to reason, and attempt nothing inconsistent therewith, in that case natural rights, considered as special to  mankind, would be determined by the power of reason only. But men are more led by blind desire, than by reason; and therefore the natural power or right of human beings should be limited, not by reason, but by every appetite , whereby they are determined to action, or seek their own preservation. ーSpinoza


MEMO

現象学の序文は論理学の終わりから書かれている。(デリダ『散種』)


朱子によれば、理が気に論理的に先行する。言語的存在である人間とは何かを問うことが論理的に先行している。同様に、映画とはなにかを問うことは映画の運動とその多様性に先行している


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朱子によれば、理が気に論理的に先行する。言語的存在である人間とは何かを問うことが論理的に先行している。同様に、映画とはなにかを問うことは映画の運動とその多様性に先行している


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 ‪芸術とはなにか?アジアの形而上学を学んであらためてポスト構造主義を読む。論理的に先行するのは芸術とは何かを問うコスモスである。これが第一原理である。コスモスが反コスモスを利用することが常に起きる。反コスモスの全体の表象のためには白紙の本のすがたが思い浮かべられるかもしれない。形而上学は要請されると脱構築的になる。一は一でも、差異が生成する多元主義としての一である。芸術の多様性は第一原理に対する運動である。運動の前後関係は論理の前後関係とは別である‬。両者の関係を考える必要がある。

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世界中の川に「法的な人格」をあたえよう


求愛も集団も領土的アレンジメントの部分であることをやめ、求愛や集団のアレンジメントが自立性を獲得するのである。たとえ領土内にとどまるにしても、このことに変わりはない。――(中)p346


原初において演劇が成り立つのは人間の分身によってであるー役者は観客を必要とし観客も役者を必要とするこの関係は時間なき闇のなかに移って行かない。二重化によって世界の半分と半分をもつことが可能で、言語が空間をとりかえすほど構造的に独立している。これが演劇の強さであり弱さかもしれない。ヨーロッパではしっかり支えられている大切なものがなぜ無理なのか?




‪ドイツのメルケル首相は3月18日の演説で次のような声明を出しました。‬

‪「すでにどれほど劇的に様々な制限がなされているかは承知しています。イベント、見本市、コンサートは中止。そして当面、学校、大学、保育園は開かれず、公園で遊べません。連邦政府と各州が合意した様々なことの中止が、私たちの暮らしと、民主主義社会としての私たちにとっていかに侵略的なものであるかも承知しています。こうした制限はドイツ連邦共和国が経験したことのないものです。」‬


‪2020年3月12日FIA国際俳優連合とFIM国際音楽家連盟が「新型コロナウイルス感染症の緊急対応が、元来生活基盤の弱い日本の芸能実演家を破壊しかねない影響があることに関する声明」を発信しました。この一文に尽きるとおもいます。‬


‪「日本の芸能実演家は、選択の自由のない個人事業主です。専門性のある技術を備えるために、自ら莫大な自己資金を投じているにも関わらず、しがらみのある、無期限の雇用契約をさせるために、法的に労働者性を不当に否定され、社会的な権利の保護が狭められている。日本の芸能実演家は、議論もされないままに、個社(個別取引を行う為に存在する会社)のように扱われています。‬

‪新型コロナウィルス感染症の安全対策を講じるのはもちろん不可欠です。 多くの命がかかっており、経済的利益が人間の安全より優先するべきではありません。 そのために、コンサートや演劇公演での不特定多数の集団行動は慎重に対処し、リスクは回避するべきです。」‬



スポーツイベントを「見下した」「軽蔑した」といって憤慨している人達はですね、読み間違いです。まさかスポーツ観客を「見下した」「軽蔑した」のではありません。読み間違いした人達は演劇を一度もみたことのない者たちが殆どなのではないでしょか?そのことが恥ずかしいといえば恥ずかしいことかも。問題はナショナリズム‬。スポーツと結びついたナショナリズムが同調しない声を非難しています


中江兆民のルソー訳を読むものは、漢文エクリチュールの記憶によって、荻生徂徠の制作論について考えることができた(講座・明治維新の近代8)



‪昔の西欧哲学史を読むと、大陸の災厄から避難してきた古書が集まってきたにもかかわらず、思想史の発展にアイルランドは付け加えるものがなにもなかったと書かれています。ただ文字装飾のアートしか出てこなかったと。古代アイルランド語は読めないので殊更装飾だけが見えていたのかもしれません。少し説明しますと、アイルランド語は19世紀にほぼ消滅します。況やおいて古代ケルト語などは読めないテクストです。ジョイスは唯一、読めないテクストを書くことによって読むことが不可能なテクストとコミュニケーションをとった作家です。彼はケルトの文字装飾からインスピレーションをえました。『フィネガンズウエイク』を読むとき彼が書いたこの本が読めないことを知っておかなければなりません。さてフーコの本が出るまで、文字の装飾が原初における言語の存在を称えていた象徴だということがわからなかったのですね。フーコから、たんに文字を飾る装飾と思われていたものの意味が一気にみえてきました。そして大切なことは、フーコが言語の存在の象徴から反権力的に考えたことです。われわれは死に切った過去の問題をアジアでどう考えるかですね。たとえば中国では12世紀の朱子が読めないテクストになっていると考えてみたらどういうことが言えるでしょうか?明治維新からのラディカルモダニズムが過去の書かれた姿を消し去るように、文化大革命が過去の言語で書かれた姿を破壊し尽くしました。荻生徂徠の読みが現代のオリエント学の読みよりも信頼できるのは、非常に単純なことですが、20世紀よりも彼の生きていた17世紀のほうが12世紀に近いからです。わたしは荻生徂徠の専門家ではありませんが、もしかしたら徂徠の眼からは、朱子のテクストが四書の言語の存在ー死に切った過去ーを飾っていたとみえていたかもしれません。彼は聖人による命名制作を言ったことが画期的でしたが、そうして原初における分節化と絶えざる意味の変容とが展開していく歴史が明らかになります。徂徠の文からは、国家祭祀を禁じる今日のわれわれの制度を考えるための出発を読みとることができます。現在の中国が、伊藤仁斎におけるポストモダン孔子の意味を理解しはじめたのは、アメリカやイギリスの海外に行って英語でフーコを学んでいるからです。アングロサクソンにおけるポスト構造主義の受容によってこのことが可能となりました。東アジア漢字文化圏を表象するためには、現代中国語から思い浮かべることができるでしょうか?書き下し文の漢字エクリチュールに依拠することなく、過去の言語が書かれているすがたを思い浮かべることはできないのではないかと考えたりします。東アジアの憲法を書くときは、最初に、天皇ファシズムを為した国家祭祀の禁止ー祀る神は祀られる神という現人神の禁止ーを規定することになるとおもいます。


「聖人の未だ興起せざるに方りてや、其の民散じて統なく、母あることを知りて、父有ることを知らず。子孫の四方に適きて問わず。其の上に居り、其の物を享けて、その基(はぐ)むる所を識る莫し。死して葬ること無く、亡じて祭ること無し。鳥獣にひらがりして以って殂落し、草木と倶に以って消歇す。民是れを以て福無し。蓋し人極の凝らざるなり。故に聖人の鬼を制して以てその民を統一し、宗廟を建てて以て之を居く。丞嘗を作りて以て之を享ける...礼楽刑政是れ由りして出づ。聖人の教えの極みなり。」‬(子安氏配布資料より)


紙コーヒーカップから、新型手作りマスクをつくってみました。問題はどちらが表の面でどちらが裏の面がわからないこと。マスクなのに、外部からの侵入性が大きいこと。それぞれの点が主辞=属辞関係、分節化、指示作用、転移である「この四辺形は内部関係の図式というより外周を描くものであり、言語がその外部にあるものとどのように絡みあっているかを示している。」ce rectangle dessine une périphérie plus qu’une figure intérieure, et il montre comment le langage s’echevêtre avec ce qui lui est extérieur et indispensable


語るというのはまさにこのこと。知るために語る。顔の下にマスクしたほうがよく語れる。


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法治国家でないと嘆く声を読むのだけれど、法治国家になれなかったのどうしてだろうか?そもそも薩長のクーデターの暴力で成り立ったクーデター国家だった。自由民権運動を弾圧し、政府が議会を作った。天皇に全権力を集中させたまま、大逆事件で市民の思想家達を殺害した。クーデター国家は国家に逆らうと怖いことをみせつけた。満州事変の統制的推進が大正デモクラシーと呼ばれるの?今日は解釈改憲軍国主義靖国公式参拝国家神道を事実上復活させた。さすがに「明治維新万歳」という声はもうなくなったけれど、まだずっとクーデター国家をやっているんじゃない?3、マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』(1852)の読みは専ら20世紀ドイツの全体主義の分析に常に向かう。だけれど19世紀明治維新のクーデターを見逃してきたのはなぜか?天皇ファシズムを差異化していないからではないか。国家祭祀の天皇がもつ見えない権力を分析できていなかったのである


世界が四選の安倍に注目しているって?だれも彼を知らないよ。ロンドンのカフェで隣にいたユダヤ系ギャング(?)の間のこんな喧嘩があった...


「おまえはバカだ」

「バカじゃない」

「バカのバカだ」

「バカでない証拠に、俺は日本の首相の名前を知っている」

「だれだ?」

「アベシンゾウ」

「ほらみろ、やっぱりバカだ」


日本人のウンコの量は変わらないのだから安心してみたいなことをいうけれど、買い占めにきたのはみんなウンコだったとしたら?量が増えている


人間は、一つの言葉、一つの名の記録のために、さすらいつづけていゆく動物であり、それゆえドラマでもっとも美しいのは、人が自分の名を名乗るときではないか。ー寺山修司


寺山修司が言いたいことの全部はわかりません。名指すというのは非常な遅れをともなうこと(「もしもしだれがそこにいるの?」ときいて、1000頁後に返事がくるとか)、同一化できた自己の分身が何であれ、その名を自分の名とすること(花の名前とか動物の名かもしれませんしあるいは原初の名かもしれません)、だれも名前をもっていること、などをかんがえました。同一化を拒んで沈黙する権利もあるだろうとおもいます。何しても、名だけでは思考を自分のものにすることができないので、一文でも文を構成しないといけないだろうとおもいます。寺山はドラマのことを言っていますね


‪現在では留学先が中国から米国に変わって、朱子学ではなくて米国憲法と経済学を一生懸命学んでいる。‬


フランスにおける18世紀から始まるイギリスと地球半分づつ分けあった帝国主義の展開。17世紀の「文法」から「語る」ことが始まったことがちゃんと伝えている。「語る」ことの成立とともに「ユートピア」が思い浮かべられてくるのではないか?アカデミーフランセーズとか、帝国のオリエンタリズムの芸術とか、19世紀の普通選挙の確立も関係がある。


日本の漢字を紹介している。1945年に国会が行った漢字の簡略化(「新字体」)をとりあげている。『日本語』で、中国の場合ほどには無規則に簡略化が行われていないという。ナショナリズムが現れてくるのは、東アジア漢字文化圏を成り立たせた書かれた言語の衰退からではないのかということをかんがえるヒントになる


ヨーロッパの大学でもアメリカの大学でも、もう日本語は中国語の一部門になっているのじゃないのかな。昔と違って、いまの時代、みんなの関心は中国なので、こういう構成は大変参考になる。比べる方法をもつヨーロッパ近代がスゴイのか。日本語を考える上で面白いよね。


「無観客の五輪」開催って、大島渚『儀式』のなかで父が挙行する花嫁不在の結婚式ー女は逃げ出していたがあたかも新婦がいるかのように式は進行していくーを思い出したな



「礼」といえば、ヘーゲルの精神の客観。荻生徂徠は「礼」の言説に関係しているとおもうが、荻生徂徠の制作論における客観のもとに、伊藤仁斎の道徳学の対自的・対天下的な主観がいかに展開したのだろうか?近代主義者は、朱子学とのラディカルな断絶から説明して、思想におけるリアリズムから歴史への一直線的な発展があったとする。しかしそうだろうか?仁斎の朱子にたいする思想闘争はたしかにあったが、ほんとうに朱子学との断然を簡単に言っていいのか?思想史の舞台において行ったり来たりしてもどることは起きないのか?コスモス(理)が反コスモスを利用して他の見方を生み出したとき、仁(愛)の傍らに反コスモスの無とか空が存在していたとしか説明できない。反コスモスとしての江戸思想史。サイードならばそれをpowerlessness と呼ぶのではないかとわたしは思う。後期近代は「礼」を語るとき、精神の客観に、国家や民族はなくて、市民がその中心に来なくてはならないのではないか?

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ジョイス文学を読みながらアイルランド語の消滅のことを考えたダブリン、イラン戦争によって成り立たなくなったマルチカルチュラリズムの危機をかんがることになったロンドンから、東京に戻ってくると、言語の消滅を気にしない人が多いことに改めて気がついた。マジョリティーは一言語(国語)のほうが国家の統一に有利だとおもうのであろうか?わたしはアイヌ語琉球語ではなくて、漢文を発見したというか。言語を失うと、言語に書かれている多様な見方を失う。漢文に則して言うと、明治維新150年の破綻した近代を批判的に相対化することもできなくなる。たしかに夏目漱石などはアジアの形而上学をもっていたが、しかしほんとうに彼の文学にそれほど期待していいのか?『こころ』を読んで段々疑問におもうようになってきた。海外で読んだ江藤の漱石の時代もどうなんだかね?


3月11日は仮に本質的欠如でも、何の為の豊かさだったのかをラディカルに問う意味の反省に充足させられているかぎりにおいて欠落に非らず。復興幻想・令和五輪によって欠落である


自民党しか政党が無いとおもう理由?正直わからない。やはり明確な社会のネガテイヴなイメージをもっていないからではないか?香港の若者は自由に喋れない、何でもかんでも金がものをいう社会(中国共産党)に対するネガテイヴなイメージをはっきりもっているのに、遡ると、全共闘運動学生はラディカルに近代を問うたが、明確な社会のネガテイヴなイメージがあったとはいえない。同時代の最も影響力をもった思想家サルトルは『存在と無』で対自的自己否定の<無>を書いただけではなかった。『奇妙な戦争日記』で、<ファシズムにたいするドイツとの戦争に勝っても、直ちに資本主義が勝利するだけではないのか>と書いている。サルトルは明確な社会のネガテイヴなイメージをもっていたーオーソンウエールズ監督の『市民ケーン』における社会のネガテイヴなイメージを理解できずに「歴史を嘲弄している」と非難したけれども。日本学生は純粋な徹底した自己否定と共に自己が属する大学も破壊した結果、マルクス主義研究者が追放される口実をあたえた。明治維新を批判しているふりをしているだけでよく話を聞くと賛同しているような、今日自民党提灯持ちばかりじゃないか?ポストモダン自民党批判として作る体制の絶望を表現したが十分に成功したとはいえない。今日われわれは原発ジャパンアズNo.1が帰結したものに対する憤りを通じて改めてこのことを考える必要がある。これから何ができるか。自由に喋れない、何でもかんでも金がものをいう社会のネガテイヴなイメージをはっきりとつくりだすことから始めることではないか。自民党の社会ではやっていけなくなってきた演劇に期待するのはこの私一人だけだろうか


延期とか中止の発想ではなくて、オリンピック主宰権のトルコへの返還を考えましょう。そもそもイスラム世界の国が国際デビューする機会を奪った東京五輪は国際犯罪的でしたから


悪魔に操られる大臣の言葉に顕にされるものよりも隠されていたものー声なき声ーが見えてしまう。国家は自らが齎らした災害から一番最初に逃げ出したのだ。問題は今も逃げている


“Wir müssen auf unverschuldete Härten und Notlagen reagieren und sie ausgleichen. Das muss uns nicht nur die Wirtschaft, sondern auch unsere durch die Absagen schwer gebeutelte Kulturlandschaft wert sein“


ポストモダンヘーゲル感染のワクチンだったはずだが。ヘーゲルとはなにか?ヘーゲルの言語は近代を体系的に示し




推敲中

ἀνέχου καὶ

Sustine et abstine.

ー Epictetus

エピクテトスの「権能」ーアリストテレスを応用した epi heminーは、「われわれの力が及ぶもの」にしようかと、フェースブック友達のEiji Kunikata さんから教えていただきました。どれも大した絵ではありませんが、何とか内部の感覚の全体を以って<力が及ぶもの>を描けないだろうかという課題をもっています。努力しては描くことができないこの制作はどうも絶対他力的ですけど(笑) まだ続けているのは、秩序と別の秩序も間の説明不在の揺れ動く境界線が形成される過程の面白さですかね


人間は、おたがい、死者と語らう死者なのだということを忘れる。ー ボルヘス


推敲中

Godard 

ゴダールは『右側に気をつけろ』でポピュリスムの問題を議論している。歴史は自ら編集するという『映画史』では歴史修正主義の問題を考えている。と同時に、そこで原理主義の他の道がないとする言説も批判していた。21世紀からはグローバル資本主義の問題をヴァーチャルな立体空間を通じて議論している。いる。

(超越的なもの、天、音楽 は人間に内面化されない。収容所の弦楽四重奏団の映像とレンブラントの映像の関係を打ち立てるためには、これら二つの映像の関係を媒介する他としての映像(重ね合わせの状態)を必要とする。命題論理的に構成することによって言語の中から変数Xを作りだしている)