MEMO

世界という散文


適合的或いは競合的に、世界の端にきたアルトーの魂と「器官なき身体」は互いに類似している。類比的に、アルトーの精神はアイルランドにおける昼夜のようだ(又は昼夜が精神のようだ)。共感的には、彼の魂は天に向かって上に伸び、肉体は地に向かって下に帰す。だけれど近代知の理性によって、拒まれた魂は肉体(「糞」)に帰還させられるとき、「神の裁き」を終えるために、アルトーにおいてロゴスはロゴスでないものー欲望ーを呼び出す



言語ー名ー言説ー表象


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アイルランドアルトー


新聞記事(アイリッシュタイムズ1997)はアイルランドにやってきたアルトーについて書いたものです。メキシコからヨーロッパに帰還してきたアルトーは、アイルランドへ行き、2週間滞在したここからフランスへ強制移送されました。わたしは彼がアラン島からダブリンにもどってきて拘束されることになった場所の近くに住んでいました。拘束されたときは、僅かなお金と劇作家で詩人のジョン・ミリントン・シングにあてた手紙しか持っていませんでした。それから聖パトリックに返すために持参してきた杖ですね(アムステルダムの骨董品市場で手に入れた?) 残念ながら、現在アイルランドはこの歴史を知るひとがほとんどいませんし、この事件から知的な影響を受けることはなかったようです。

フランスで送られてきたこのアルトーを最初に診断したのは精神分析ラカンで、彼は芸術に深い理解がありましたが、「これはただの馬鹿じゃないか」と吐き捨てたことに、ガタリラカンの限界をみたようです。フーコ『言葉と物』の殆ど最後でアルトーが言及されます。

アルトーにあっては、言説としては拒まれ、衝撃の造形的暴力のなかに奪回された言語(ランガージュ)は、叫び、拷問にかけられた身体、思考の物質性、肉体に送りかえされる。」‬ ‪“ chez Artaud, le langage récusé comme discours et repris dans la violence plastique du heurt, est renvoyé au cri, au corps torturé, à la matérialité de la pensée, à la chair” (Foucault)‬ 

これについては、ネグリによると、ジル•ドウルーズ『アンチ・オイデプス』は「器官なき身体」のアルトーにおける単独性を語ることを課題としていましたが、『ミル・プラトー』からは、関心がアルトーからマルチチュードスピノザへ移って、‘リゾーム’という語で語られることになった、集団における融合状態(en fusion)のノマドのあり方ではなかったかということらしいです。‪

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国際結婚した女性で、「ご先祖様に申し訳ないと思わないのか」と家の祖母から大反対されたと言っていた。「ご先祖様」(“先祖は日本固有のものである”)は最近のもので戦後から


ダブリン時代、三島由紀夫の現代版『卒都婆小町』を教材にしたことがあったー彼はアイルランドの神話と物語を取り込んでいる。最近能舞台を観劇した人の話をきいて、今日、能『卒都婆小町』(梅若六郎)のYoutubeをみたら、中々面白かった。もっと早くみるべきだったなあ。Youtubeにあるとは思わなかった。朱子を勉強してきたので、何とかすこしは舞台における禅問答とコスモスロジーを理解することができる。卒都婆小町の依拠できない疎外感は天の疎外感であるというようなことをおもった。


高田馬場のワイワイ雑談。古代天皇権力は氏神を祀る共同体を統合して成立したの和辻説があるらしい(昔読んだか?)。古代天皇氏神伊勢を奪ったようだ。今日戦前の問題を考えている


バッハ会長は本当に「犠牲」と言ってる。「他に道がない」のだ。これは、貧困層を犠牲にしても格差を広げるネオリベと、市民を犠牲にしても爆撃するタカ派と全く同じ原理•原則だ

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ぼったくり男爵が口にした「We」を「誰もが」と翻訳しては間違いだという意見を読みました。たしかに。「We」は「おまえたちは」の意味ですから。「おまえたちが犠牲になれ」


推敲中

‪「朱子たちの霊魂観は、コスモロジー(宇宙論)を構成しながら、コスモロジーのなかで生と死を考えて意味づけていく」(子安氏)。 朱子と弟子達の間の問答に生じるズレをどうかんがていくのか?そのズレは、コスモロジーの内部における主張にはまりこむ弟子達とコスモロジーそれ自体との関係をとる朱子との間にあらわれる矛盾のようにみえる。先ずあるのは「理」ですか?と弟子達は問うのだけれど、(仮にマルがあるとしてここからどういうことがいえるかというような意味で)「理」は朱子にとって"優先順位" (子安氏の解説)。‬ ‪これから勉強していくことになるが、現在の私なりの不完全な理解を自分のために書き記しておこうと思う。「地」は視えるものと聴こえるもので構成されている。そういう「地」は無矛盾の世界である。他方で、「天」は「其の形見えず」の「形」と「其聲聞こえず」の「聲」にすんでいる。「天」においては、微かな理念でも、理念がなければ形而上学というものが成り立たない。そして形而上学が成り立つ限り、それが物語る「天」に矛盾があるとはいえないし同時に矛盾がないともいえないだろう。さて「體物而不可遺」とされるように、「其の形見えず」の「形」と「其聲聞こえず」の「聲」とが「物」の<中心>に赴くとされる。「物」の奥に「天」を映し出す鏡(宇宙の劇場)があるというふうにしても、このとき、問題は、「天」は「地」によって根拠づけられてしまうことにある。これは、矛盾があるともいえないし矛盾がないともいえないと言っているところで、矛盾がないと言っていることと等しい。というか、これでは、コスモロジーの内部における主張を以て、コスモロジーそれ自体との関係をとる立場を言及しているようにみえる。朱子が行ったことは、「天」は「地」から存在論的に独立していると構成してみること、私の理解だけれども、ここで「天」は自らを「地」に表現できるが、逆はないという感じである。「天」の側からするこうした「天」と「地」の形而上学が成り立つためには優先順位を与える「理」が必要となってくるということではないだろうか。)‬


「五輪に反対する」国民投票


第一江戸思想史講義では伊藤仁斎における朱子学脱構築を読んだ。その前提として、アジア普遍主義の朱子学を自然哲学的にとらえていた。第ニ江戸思想史講義は朱子はそれほど自然哲学なのかを問い直している。そうして再び新しく、鬼神論の言説を読んでいるのは、宗教哲学という大袈裟なものではないが、近代が思考できないものを思考しようとしている。第ニ江戸思想史講義は、「人間の消滅」の後の時代の思想は一体どういうものなのか考えているような気がしてきた

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言説における解体と再構成の運動とはこういうものか。『中庸章句』の朱子は「鬼神」を自然哲学化したときは、「鬼神」は朱子の前から『中庸』に存在していたがはじめて「鬼神」の名を与えた。これは解体である。そして、朱子の前にだれも言わなかった祖先祭祀を彼の前からずっと存在していたとして語るのである。これは再構成である。われわれは子安氏に導かれて、脱構築におけるポストモダン朱子を学びつつある。これについて歴史に即して考えると、宋の時代において、貴族の互酬的祖先信仰のあり方が解体されて、帝国における皇帝と臣下(官僚)との間における社会主義的•起源的なもの(交換様式D?) と両立する体制へと移行したのではあるまいか



子安宣邦氏は鬼神を精神Geistとしてとらえている。その上で、「我々の死の位置がわからなくなっていく結果、近代のナショナリズムが生まれてくる」(第二江戸思想史講義8•鬼神論2)と指摘している。

ジョイス『ダブリンの人々』の「死者たち」において、このテーマを考えることができるとおもう。


下はジョン•ヒューストンの「死者たち」の映画化(ダブリンをハリウッドのスタジオのなかに再建してしまった)。ジョイスの批判的な観察がロマン主義的詩人のような語り(近代の語り)によって隠蔽されてしまう。


His soul swooned slowly as he heard the snow falling faintly through the universe and faintly falling, like the descent of their last end, upon all the living and the dead. 

Joyce THE DEAD, Dubliners


MEMO


書くために鬼神(精神)を必要とすると考えてみたらどういうことが言えるか?鬼神(精神)のために書くのではない。鬼神(精神)は、「これを視れども見えず、聴けども聞こえず」だ。鬼神(精神)は物(人間)をつかさどる。だけれど、厄介なことに、鬼神(精神)は言葉が語るようにはできていない。漢字漢文は宇宙論言葉を語るだけだ。しかし言葉は鬼神(精神)に依拠することは可能である。言葉は鬼神(精神)から出発することも、また鬼神(精神)の入り口を作ることもできる。明らかにその場合は祖先信仰を必要とする。言い換えれば、知識人は書くためには、他者ー祖先信仰の場所と共同体ーと共にでなければ不可能だとはじめて考えたのではないだろうか。近世というのは近代のようには精神と他者を互いに切り離すことが起きなかったのでないかとおもうのである。知識人は書くときは他者が自己を見なければならなくなった


台湾プロ野球、五輪予選派遣断念「非常に苦しい決定」

•もし次々に他の国も「苦しい決定」をするような五輪を決行したら、日本人選手に有利でも、トータルに不公平ではないですか?


思えば、2005年までいたダブリンは、ヨーロッパの他の都市と比べて最もゲイが多いのですが、同性愛に対するタブーが最も大きいところです。オスカー・ワイルドの伝記作家は危険人物でした。しかし2015年アイルランド憲法修正第34条で同性結婚が合法化されました。この変化は何がもたらしたものか考えています。多分、米国イラク爆撃とそれに協力したエスタブリッシュメントの政治に抗議して自発的に集まった10万人の市民の存在ー独立運動を導いた1916年でもこれほどの人数が集まらなかったーが契機だったとおいます(2003)。イラクは遠く、実際にアイルランドは米軍機に食料補給ぐらいのことしか関わっていなかったのですが、普通の人たちが爆撃される他者のことを近くに強く感じておもわず街頭に出てしまったのです。

わたしの考えは、「みんな一人ひとりがマイノリティになる」ことが要請されているとおもいます。よく考えるのですが、ケインズはTransgender(トランスジェンダー、性別越境者)でした。ケインズは多次元における諸要素間の変化量の僅かな変化が繊細に反応し合うような(修正された)貨幣数量説の方程式を示しているのですが、<一>的全体に統合化できない関係の思考はトランスジェンダーである彼の思考の柔軟性を表わす言語表現であるようにおもうのです。ここでは理念的なことを言っています。こういう思考と性における開かれた多元性のことを未だに言えないのですね。経済の話にしか関心がありません。






リア王は言った

スクリーンは死衣装だと

二つの世界大戦の間にあって

映画の歴史は敢えて、

弔う強い倫理性を表現する

白黒で始まる必然性があった

その映画の名は、

カリガリ博士

これは、わたしにとっては、

世界に映し出した己における

位置と機能を炸裂してくるような

精神Geistの普遍的な投射


亀井勝一郎の信と美の話をきくと、対象と同一可してしまっていて理念性がなくなっちゃっているロマン主義かもしれないとおもうけれど、戦争責任の根本について語ったつぎの言葉は聞かなければいけないとおもう。

「私の感情としてあった中国人侮辱感は、その半面にヨーロッパ人やアメリカ人への劣等感を伴っていた。今度の戦争で無条件降伏するよりもずっと以前に、我々は「ヨーロッパ近代」に無条件降伏してきたのではなかったか。それで私の対米英戦争肯定の気持の中には、この劣等感に対する反発のあったことにも気づくのである。少なくともそれが私の民族主義のひとつの根拠になっていたのだ。しかし戦争責任の根本は中国侵略の肯定である」(亀井勝一朗)


亀井勝一郎の信と美の話をきくと、対象と同一可してしまっていて理念性がなくなっちゃっているロマン主義かもしれないとおもうけれど、戦争責任の根本について語ったつぎの言葉は聞かなければいけないとおもう。

「私の感情としてあった中国人侮辱感は、その半面にヨーロッパ人やアメリカ人への劣等感を伴っていた。今度の戦争で無条件降伏するよりもずっと以前に、我々は「ヨーロッパ近代」に無条件降伏してきたのではなかったか。それで私の対米英戦争肯定の気持の中には、この劣等感に対する反発のあったことにも気づくのである。少なくともそれが私の民族主義のひとつの根拠になっていたのだ。しかし戦争責任の根本は中国侵略の肯定である」(亀井勝一朗)


戦争に勝てば全て問題が解決すると大衆に訴える三島由紀夫金閣寺の中で日本人の心をみることができたか?誰も入れぬように鍵を閉めたときに心はそーっと脱出しているのではないか


安全と安心のために日本人だけで五輪をやることにしたらいいと言って私を驚かせた人物は昭和ロマン主義の称賛者だが、明治のロマン主義を支えたような理念が足りないないんだよな


アルマゲドンない限り五輪開催」だって?IOC最古参は相当にヤバイね、原理主義というか、この言葉をつかっていいのかわからないけど、まるで五輪開催が最終解決になってきた?


アルマゲドンない限り五輪開催」の原理主義に動揺を覚えるのはそれ自体にではなくて、グローバリズム的合理主義と両立する点にある。夏はグローバルデモクラシーなきものに鎖国


映像に詩学は存在しない。また映像に民衆が存在するとも思えない。誰が誰かわからない暗闇の中で祖先がヒソヒソ喋るのか、観客の勝手に喋る囁きだけが存在している。

神や死者は山の向こう側にある。山に登っていくにしたがって先祖になっていく。開発され尽くした現代は山が消滅した。サイレント映画が山の代わりとなった。白黒が生死の名である。

われわれの死の位置が分からなくなっていくにしたがって、その代わりに、近代のナショナリズムが成立する。初めてナショナリズムを物語る映画が「アイルランド映画」から現れた。


アイルランド映画」と呼ばれる殆どがハリウッド映画。『クライング・ゲーム』は大衆運動のプロ化ー自発性が失ったーの問題を示したのに、ナショナリズムの物語だと誤解された


大手新聞社の中には、最近社説で開催の中止を言った新聞もありますが、「判断を首相に求める」はまさにわれわれが言いたいことに寄り添ったピタッとした言葉ではないんですね


平安時代後期から鎌倉時代に成立していた宋代の禅問答の言葉で、「這裡」は「ここに」という意味。「是這裡」は、「ここに真理あり」(悟った)という意らしいです。「是這裡」は文章言葉ではないのですね。

禅の悟りというのは、一気に真理が開く世界であるという解説をききます。もちろんわたしのようなものにはわかりませんが、昔は禅とウィットゲンシュタインの哲学との類似性が指摘されていました。

はたしてそうなのかなとおもうことがありますが、そうだとしてどんなことが言えるか考えます。

ウィットゲンシュタインの場合はどちらかというとゆっくりと論理的ロゴスが展開していって、パッと真理が開くような探求ではないでしょうか。わたしはあたまがよくないので、映像の意味について何十年たってわかってきたということがたくさんありますから、ウィットゲンシュタインの探求のあり方に依拠したいとおもうのですね。

ちなみにウィットゲンシュタインアイルランドに二年間きて、「探求2」を書きあげました。ダブリンにいたときの場所はわかっています。彼がいた西部のほうは、荒寥としていて、地図も頼りにならず、近づいていることはわかっても中々、「ここだ」ということにならなくて、カゴメが飛び交う原初的な風景を見ながらフィヨルドの土地をぐるぐるしながら、また同じところに戻ってきたかと諦めたときに、最後はこの方角じゃないかと勘で彼の居場所を見つけることができました。ここはヨーロッパの端の端でした


子供時代の四年間のオーストラリアはまだ、日本との戦争の記憶があった。この時代は多文化主義へ移行していくがまだ白豪主義だった。白豪主義の廃止はベトナム戦争のために遅れたと言われる。当時は、中国人を除いてまわりが白人しかいなかったから、自然に(!)、わたしは自分が彼らに属する白人であるとおもっていたのだとおもう。オペラハウス建設中の砂漠の痕跡がまったくないシドニーを去るときに、隣人から先住民族アボリジニへの迫害や隔離を記録した写真集を貰ったときは、自分たち白人はなんと罪深い排除をして来たのだとおもってしまったほどである。

東京の時代はオーストラリアの記憶の抹消の時代である。「オーストラリアのほうが日本よりよかったでしょう」と聞いてくる大人が大っ嫌いだった。この質問は卑怯である。日本人の他者を異質なものへと貶める態度がこの同化主義的質問に現れているようにおもう。わたしのは子供の英語だったとはいえ、わたしが英語が考えたことを、わたしは日本語で考えることができないからである。両親を苛立たせるのがこの「わたし」という主語の発話であるー「わたしは他者である」と伝える主体的表現というか。

大学卒業のときに、オーストラリアで考えることができなかったことを考えることができるだろうかとおもって、レヴィ=ストロース『野生の思考』を読んだ。レヴィ=ストロースは文学を語る。これも大切だったかもしれない。

『野生の思考』における自然哲学化は本当に凄い(パリの国立民族博物館の展示に、オーストラリアの構造主義化をみることができる。)


しかし岩壁画や砂漠を円弧を保って歩く子供や聖地登山と共にある先祖信仰のイメージが透明になりすぎたのではないかと現在考えはじめている。『朱子語類』を読んでいるからだろう。これは、オーストラリアの「鬼神論」化である..


現在はこの話はタブーであるが、冷戦の時代にアイルランドは自らを韓国に同一化していた歴史を『ブッチャー・ボーイ』(1997)は証言する。勝手に同一化されていたことを韓国は知らないと思うのだけれど。ちなみにアイルランドの人々はヨーロッパ人であると知らされたのは1970年代のEU加盟からである。ケルト人は何のことかだれも知らなかったが、「ケルトの虎」と呼ばれるはじめて経験した好景気の時代にはじめて「ケルト人」であることを知らされた。ソ連崩壊後の東ヨーロッパ諸国の経済モデルとされていた。ダブリンのアイリッシュに「ケルトの虎」はどこにいますかと訊いたら、「ケルトの虎に出会ったらギネスビール三杯飲ませて追い払え」と答えてくれた。自らを何に同一化するか、逆に何に同一化されるのかというアイデンティティの表象なんてそんなものである。何か意味があるとは思うけど。表象(幻想)が表象(幻想)を生むことがある


文学は役に立ちますよ。戦前の文学を読むと、貧富の格差が広がるとともに戦争の体制ができてくる関係を読めます。戦前に罪悪感はなく、それは戦後文学から誕生したことを知りました


憲法の中核にある権利とは何だろうか。宗教の自由を尊重する。自身は無宗教であるけれど無神論というほどではない。家族の権利も尊重する。結婚はどの国の人々の間に成り立ってもいい。N個の性まで多様性が尊重されるべきだ。自由に話す権利を尊重する。街頭はもちろん、レストランでもプールの中でも何処にいても、何となく政府を批判できる相手が必要である。現在はこれが問題である


プローティノスはロゴスを光として喩えた。光が煉獄にもたらされるのはダンテ神曲』においてはじめてであった。それまでは、ホメロスのハデスのように冥界は照らされることはなかった。平田篤胤幽世」はまだ暗闇である


「魂の一人が立ち上がって東方に目を据え「光消えざる先に」を歌い始めると他の魂たちもそれに和した。すると燃え盛る剣をかざした二人の天使が、蛇からこの谷を守るために舞い降りてきた。」(ダンテ『神曲』煉獄 八歌)


今道友信「「煉獄 purgatorio 」は12世紀に浄罪界として新たに提示された(ル・ゴフ『煉獄の誕生』)。ダンテは、それに関する文学的な先例を知らずホメロスのハデス(冥界)からイメージを借りるしかなかった。ホメロスが描いたハデス、そこは灰色の世界で人は影のように生きる。」


「美が感知されるのは何か精神を引き付けるものが存するからで、すなわち精神と同質のロゴスが存しなければ物は美しくない。したがって美の根源はロゴスの明るさの中心として光に譬喩される神であり、超越美 to hyperkalon である一者としての神を頂点として、以下、ヌース、諸徳のイデア、諸存在者の形相、質料、という美の序列が成立する。この構想はプラトン的であり、」(Wikiプロティノス(プローティノス、古希Πλωτῖνος、 Plotinus、 205年? - 270年)


プローティノスはロゴスを光(=精神)として喩えた。光が煉獄にもたらされるのはダンテ『神曲』においてはじめてであった。それまでは、ホメロスのハデスのように冥界が照らされることはなかった。嗚呼本居宣長の「黄泉の国 」も平田篤胤「幽世」はまだ暗闇である


「魂の一人が立ち上がって東方に目を据え「光消えざる先に」を歌い始めると他の魂たちもそれに和した。すると燃え盛る剣をかざした二人の天使が、蛇からこの谷を守るために舞い降りてきた。」(ダンテ『神曲』煉獄 八歌)


So may the light that leadeth thee on high

Find in thine own free-will as much of wax

As needful is up to the highest azure

下の絵はGustave Doré

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ダンテ『神曲』は天国でも地獄でもない煉獄を第三項として照らしだした。13世紀14世紀の世界を表現したのである。外部へ出ていく「危機の17世紀」とともに登場したのが、ミルトン『失楽園』である。最終的にエデンの園を追放されるというもの。ウィリアム・ブレイクの名はミルトンと結びついているが、晩年はダンテに傾倒した。


All hope excluded thus, behold, instead

Of us out-cast, His new delight, 

Mankind, created, and for him this world

Paradise Lost. Milton

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「芸術は役に立つか」の問いには、芸術は役に立たないとおもう。だからといって芸術を弄ぶなと言いたい。先ず自分自身にたいして言う。これで十分である。

しかし「芸術は役に立たない」と答えた後に、相手に分かって貰うために、どうしても、内面の自律性について過剰に喋ってしまう場合がある。

われわれは正しいのだ。主観的であればあるほど無根拠であるというのはそもそも近代の要請だからというわけである。

だけれど、その主観に、国家の起源を神話的に指示する錯認が生じることがなかっただろうか?

このような錯認のもとで、<芸術を包摂する>ファシズム的言説に絡みとられることが起きないか。これが心配である。

問題は、「芸術は役に立つか」を問うのはだれかであったかである。問うものは近代である。そして答えるものも近代である。近代の力は、問う前に答えている体制にある。

わたしはなにが言いたいのか?「芸術は役に立つ」である、多分ね。もう近代のトータルな自己同一的なあり方ではやっていけなくなったから、そのあり方から距離をとるかぎりにおいて理念的に「芸術は役に立つ」。そして文学もきっと


天命とは天が命を与えると読める。問題となってくるのは、命を、「命」令とするか、生「命」とするかである。命令は近代的でないような古くさい感じがする。生命のほうが断然モダーンである。しかし私は命令と読む。なぜか?例えば、天は危険な原発体制をやめよと命令しているというように考えている。その場合、安全神話を含めてやめなければ、民はやっていけなくなったという原発災害の経験を生かさなければとおもう。ところがおなじ『論語』を読んでいるのに私の見方がくだらないと言って非難するものが昔いた。「生命に責任をもて」と私に教えてきた。もう安全だからエネルギーの安定供給のために原発再開しろと言う。it sounds good だけれど、「安全」だったのにメルトダウンが起きたことは事実なのに、生命に責任をもっていると思い込んでいる根源的錯認にわたしは警戒している


私の投稿は1270年の注釈の注釈である。他に、2009年、 1988年 、1920年 、1656年、1969年、 1707年、1966年、2004年、2020年を書く


紀元前5世紀の注釈がチャレンジングである




18世紀を表象できるのは近代的理性をめぐる近代哲学の言説のおかげだ。19世紀と20世紀を何とかこの私が表象できるのは、アンチ•ロゴスをめぐる近代文学と映画の言説によってなのである。普遍主義はヨーロッパ語の優越的地位に定位するから、その解体は、時枝誠記の仕事からはじまったように、ヨーロッパ語の優越的地位の自明視の終焉を意味する。そう考えてみるとどういうことが言えるか? 22世紀の人々が21世紀を表象できるようになるのは、普遍主義の再構成をめぐる漢字の言説を必要とすることだってあり得る。しかしそうであっても、音声化近代主義に委ねる現代国家の中国が漢字の帝国的中心に在るとは限らない。話はそれほど単純ではないようである。





二十一世紀にはいって大切な映画の名が急速に忘れられていく。はっきり言ってしまうと、百年後には映画はすべて残らないが、うつのゴダールの映画だけが生きのびるのではないか


百年後は、ポストモダンのテニスのスタイルを確立したマッケンローと非白人系市民運動(名を記した弔うマスク)の大坂なおみだけを記憶しているのではないか






三浦國雄朱子鬼神論補より


朱子は ,「(祖先の気は)空中に一物として積み重なっていて子孫が求 め る の を 待 っ て い る わ け で は な い( 『語 類 』 巻 3 ・ 6 2 ) と 述 べ , そ れ が何か形体をもっ超越的存在でない乙とに注意、を喚起しながらも,子孫が誠敬を尽くせば祖先は来格する,と繰り返し主張する。つまり,朱子は祖霊の 存在を認めるのである。ここに幾つかの疑問が湧いて来ざるをえない。

仮りに天空のどこかに祖霊が存在するとしても,それがどうして自分の子孫のもとへ誤たず来格するのであるか。気である祖霊のどこにそのアイデン ティティが刻印されているのであるか。乙の問いに対して朱子はただ,祖先と子孫、とは「一気の流伝」の関係、にあるからだと繰り返すだけである (『語類 』 巻 3 ・ 6 2 ほ か 〉 。 この 根 拠 に な っ て い る の は , 綱 領 12 に 引 い た 「 祖考の精神(精なる神)は便是ち自家の精神j」という謝上蔡のテーゼである。 


「以二気言。則鬼者陰之霊也。神者陽之霊山。以一気言。則至而伸者為 神 。 反 而 帰 者 為 鬼 。 其 笑 一 物 而 己 。 」(『中 庸 章 句 』 第 16章 )


講義で伊藤仁斎を解した子安先生によると、自然の誠を人の誠にするのは人の信である(実)。信の字は、人が言にたいして外の関係をとる(講座「『歎異抄』の近代」の最初の板書)


もし朱子は鬼神の陰陽化に尽きるものではなく、祖先祭祀を残しているとすれば、現代における交換様式の視点からみると、どういう意味をもつのだろうか。祖先祭祀において、水平的ヒエラルキーをうみだす交換でも、垂直的ヒエラルキーである集中と再分配でもないような、可能性としての先祖と子孫の間における対等な互酬的関係を要請してみるということだろうか?(だが近代を乗り越える帝国を擁護するイデオローグが語りだすように、帝国を支える民族に、ポスト社会主義におけるものとして、高度な次元の互酬の原理を投射する言説は再び近代主義に陥っているとおもう)


巨大な岩のなかに沈む、広がりにおける単純な形式しかない砂漠の夢をみた


選手達は皆んな苦しそうにやっているあの試合後のtv会見はそんなに意義があるのか?大坂なおみはだれもアクセスできるSNSで自分の考えを語っているからそれで十分じゃない


オーストラリアから選手がやってきて手をふる姿はイノセントの黄金時代。あなた達自身のために、私達の為にも、もう少し日本的近代が隠している陰険さを疑ってみたほうがよいです


Eiji kunikita 

西洋古典叢書編集者)


1)

Non multa sed multum. (Aiunt enim)multum legendum esse, non multa. Plinius Minor, Epistolae VII 9. The reading should be extensive but not diffuse.

多読ではなく精読。

深く読め。その数ではない。(小プリニウス『書簡集』)

2)

intererit multum, Dauusne loquatur an heros. another reading: diuusne It will matter if Davus (or the god) it is who is speaking, or a hero. Horatius (Horace), De Arte Poetica, 114.

重要なのは、語っているのがダウス(あるいは、神)か英雄かであろう。(ホラティウス『詩論』)

3)

ἡ συστήσασα φύσις καὶ διαλύσει. Nature, which has built up, will also pull down. Carneades (Diogenes Laertius. IV 64.

ものを作った自然が、また壊すであろう。(カルネアデス

4)

(At Hercules) Homini plurima ex homine sunt mala.

Plinius Maior, Naturalis Historia, VII 1.

Most of man's misfortunes are due to man.

たいていの人の不運はその人自身のせいである。

(大プリニウス


5)

Calamitas virtutis occasio est.

Misforutne is virtue's opportunity.

Seneca, De Providentia, IV 6.

不運はその人の徳(=人格)をためす機会になる。

セネカ『摂理について』)


6)

Ἰδίας νόμιζε τῶν φίλων τὰς συμφοράς. 

Think of your misfortunes as your own.

Menander. monostica, 268.

友人の不運は自分の不運と考えよ。

(メナンドロス『一行格言集』)


アスパラガスは葉のように見えるものは実際は極端にほそく細かく分枝した茎である。哲学者の名は分枝した茎のように言説(学者的議論)の分裂を示す


Avec le rhizome, plus de figure racine, tronc branches mais un modèle descriptif et épistémologique dans lequel l’organisation des éléments ne suit pas une ligne de subordination hiérarchique.


朱子学=幹にたいして、江戸思想史はアスパラガスの如く言説の細かく分枝した茎をもつ。朱子の性理学もそれほど幹なのか?江戸思想史に向けて鬼神論の言説が分裂増殖しているのに


64は祖父母からきいたと友人の中国人が言っていた。64は本に現れることが許されない。日本はそこそこの自由があるからそこが違うが、天安門劉暁波も存在しない点では同じだ


リーフェンシュタールにおけるオリンピックのイメージは自分自身の権威にもとづいていたと思いました。思想というか。リーフェンシュタールの思想について議論が起きましたが、戦争協力はしていません。ヨーロッパでは問題となるのは、ナチスの戦争を協力したかどうかです。思想を裁くことはありません。

この日本人の監督は、異常である(「普通はない」)と言われても仕方ない、国際問題化している五輪を開催してガースを擁護しなければならないと考えている理由は、「銀座の人混み」のほかに、なんでしょうかね


中国とはだれなのか?

現代中国は西欧と変わらないポストモダン世界である。しかし中国は西欧とまったくおなじかといえばそうではない。一つだけちがうのは、中国に土地の私有がないことである。この差異が決定的であるように思われる。また中国は社会主義であると考えられてきたが、そうではないと言われるようになった。もしそうだったら、中国はソビエトのようにもう終わっている筈である。否、溝口雄三のように「方法の中国」を考えて、多元主義的国家論の視点から、中国の社会主義は独自のものであるとみるべきなのだろうか。社会主義は「礼」(ヘーゲルの客観精神)であるかないか、これから柄谷行人が何を言おうとも、帝国中国は複数政党制なき官僚資本主義である。しかしその「資本主義」もまた問題となるのである。世界システム論は教える。資本主義はあったが、従属させられている世界の多数派の「産業革命」はやっと20世紀に起きると。中国は西欧列強にたいしてそうした従属にあったのである。中国から資本主義が生まれてこなかったという見方もある。それはどうしてなのか?その理由に、市民社会を成立させる封建制の解体がなかったとか、そもそも封建制が無かったとか、あるいは十分ではなかったとか(成立の時期について議論があるが、内藤湖南の説が有力)。または15世紀における帝国の冊封体制がそれまでの商業のネットワークを壊してしまったこととか色々考えられている。いったい真相は何だろうか?大きな歴史は教える。近代の成立とともに人間が誕生すると。人間は二百年前に登場したばかりだと。小さな歴史は言う。否、ヨーロッパだけに近代が起きたのではなかったと。朱子学が支配する宗の時代に人間が成立していたかもしれない。近代の脱中心的なあり方は多様である。しかしフランス革命の近代から、われわれの近代がはじまったこともたしかである。最後に、なぜこれらのことを考えようとするのか?「一国二制度」(帝国の時代における冊封体制?)の構想は民主主義の台湾と香港で問題となっている。「一帯一路」戦略は東ヨーロッパやイタリアに影響力をもちはじめている。中国とはだれなのか?中国をどう考えていくのか。これは反近代の文革の前に市民社会が起きてこない問題、文革の後の天安門事件をどう理解するかにかかわる


『Ulysses 』は昼の本。その神話的リアリズムは「無」の相対化する世界だとしたら、『FW』は夜の本で、その対立する生と死を精神(Geist) は「空」の止揚する世界


フロイト以来、西欧的な狂気は一つの非言語となった。狂気は二重の言語(その言葉においてしか存在しない言語、自らの言語をしか言わない言葉)となったからだ。即ち、何も言わない言語活動の母胎となったということだ。話されていることの折れ目、即ち作品の不在となったのだ。-狂気、作品の不在-


東京五輪の開催目的は?「希望と勇気を世界中に」と答えた、言論によって覆すことができないガースの絶対権威にたいしては、バッシバッシ猫パンチ百万発


近代の主権概念は過去の帝国中国の支配を正当化できない。だからといって知識人の考えた形而上学朱子学と鬼神論ーまでもゼロにしたらアジアを支える何もかもがゼロとなってしまう


ルソーの『孤独な散歩者の夢想』「第五の散歩」では、魂の秘密や物と身体との境界で生まれる印象に対して、ランガージュがおのずから透明となっている。-フーコ『言葉と物』


Tels ces secrets de l’âme, ces impressions née à la limite des choses et du corps pour lesquels le langage de la Cinquième Promenade s’est rendu spontanément limpidel 

ーFoucault


私の魂は社会生活の喧騒が生み出す地上の情念から完全に解放され、できればこの世の圏外にまでしばしば飛翔し、天上の霊たちと交わりたいとおもっている。

ー但田栄訳(大学書林)


Délivre de toutes les passions terrestres qu’engendre le tumulte de la vie sociale, mon âme s’élancerait fréquemment au-dessus de cette atmosphère et commercerait d’avance avec les intelligence célestes. 

ーRousseau


•ルソーにおいてプラトニック的な傾向は全作品に見られると指摘されるが、しかしフーコが指摘するようにプラトンの言語はルソーほど透明ではないとおもう。


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私が提供しようとしているような型の分析によって、「権力」「統治性」「自己と他者達の統治」「自己の自己への関係」、この四者は連鎖して網目のようにつながっていること、これらの概念を中心にして、政治の問題と倫理の問題を連結することができなければならないということが解る。-主体の解釈学-


天皇ファシズム

権力ー憲法に書かれた権力(天皇主権、天皇大権、法律を留保する権力、統帥権、等々)

統治性ー『日本書記』、『古事記』(国体)

Wiki

「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の元首統治権の総攬者としての地位に置いた。この天皇が日本を統治する体制を国体という。

天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である井上毅らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは、後に、高山樗牛井上哲次郎らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。井上らの国体論は、古事記神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。これに対して、高山らの国体論は、当時、広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。憲法制定当初は井上らの国体論を基礎的原理とした。しかし、日清戦争後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、天皇機関説事件以後は、「君民一体の一大家族国家」(文部省「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。

自己と他者達の統治ー死者を支配する権力(靖國神社)

自己の自己への関係ー現人神(祀る神は祀られる神)



読売新聞世論調査の五輪賛成が50%で反対を上回ったというが、朝日世論調査過半数が反対だった。どちらが嘘なのか両者は相手の無責任を暴くべきだ


東京五輪で「途上国にウイルスわたる可能性」 の指摘を知りながら、もし二人のうち一人が開催に賛成しているならば、それは「普通はない」ではなく<異常>と言わざるを得ない


However, the modern age is not the same as the modern world. Scientifically, the modern age which began in the seventeenth century came to an end at the beginning of the twentieth century; politically , the modern world, in which we live today, was born with the first atomic explosion.

ーHannah Arendt


政治から退いても道徳なき政治にカウンターウェイトを保った孔子と、洞窟の寓話を語ったプラトン。死の意味が市民であることをやめるという意味になった枢軸時代は現代世界を支える


‘Dubliners’を『ダブリン市民』としたのは問題があった。だが『ダブリンの人々』にしてしまうと「市民」が無くなった。ジョイスのブルーム=エレミアは「市民」にたいして市民であることをやめることが死であると問うたのに


「WHO、危機管理なければ再考を 大規模行事の開催で」(東京新聞)


絵画それ自身が仮面みたいだ。絵画=仮面を分析してみせたフーコの一文は、<描く=書く>を前提にして記されている。さて未来を思い出す部屋に、求めあう表の世界と裏の世界があった。しかしすべてがそこにあるのではない。隠蔽されているがモデルはバラバラの方向を見ていたことだろう。われわれの視線も彷徨う。この絵を見ているわれわれの傍らに王は存在しているのだろうか?表にも裏にも存在しない王を鏡は映している。これはなんだか、自然哲学に還元できない祖先祭祀のような場である。どうしてこういう不均衡が生じてしまったのか?「ひとりの人物」を導入することによってである。「ひとりの人物」を導入する表象によって崩れた均衡が再び表象のうちに解決することも安定化することもないだろう。誕生してくる国家に中にまだ画家は内部化されていない。画家はそこで近代を支えていく言説ーまさか人間を語る言説っだとはね、どんでん返しだ!ーをさがしているけれど、内部の形成はなく外に立っている。彼は言説と言説の間に立っている。画家は外部から言説と言説の間に立っている自身を「ひとりの人物」(=人間)として描こうとしているがこの企ては破綻しているのではないだろうか。人間は表象の限界に立っているからである。


幕末には学者的活動家たちが現れたのですが長州のテロ権力に主導権を奪われてしまいました。学者的活動家は消滅したがテロは盛んで、現在は安倍晋三が企てた東京五輪のテロ予告です



ふりかえってみると、力不足であるが、フーコからの影響で、ヨーロッパの周辺に行ってダブリンでほぼ十年間、解体-西欧思想(「普遍的」になったデリダエクリチュール論を含めて)を学んだし、そのあとにアジアの周辺に戻ってきて東京の十年間は解体-朱子学を学んできた。周辺はイコール外部ではない。現在は朱子学のために鬼神論を読み直すが、外部の思考とは、もう一度普遍から解体をとらえかえすことによって、成り立ってくるのではないかとすこしづつおもうようになってきた


「私には、特定的知識人の機能が練り上げ直されるべき時点に我々がいるように思われる。ある人々の偉大な「普遍的」知識人へのノスタルジーにも関わらず(「我々は哲学を、世界観を必要としている」と彼らは言う)、この機能は放棄されるべきではない。」

ーフーコ「知識人の政治的機能」


普遍を解体するためには周辺に身を置いて考えること。だが周辺はまだ外部ではない。外部の思考とは、もう一度普遍から解体をとらえかえすことによって成り立ってくるのではないか

普遍主義は多元主義の方向を以って再構成されるということ


D=G , mille plateaux

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母国語でも喋りが下手で「当たらない」しか語彙がないガースはいきなり、G7首脳から五輪開催の確約をとるぐらい饒舌になるのは魔法の絨毯でコーンウォールへ行くからに違いない


宋における『朱子語類』の意義は、原初的経書を読めなくなった謂わばアジアのバベルの災厄後の儒教の自然哲学化にあった。ただし『朱子語類』の鬼神論は原初儒教の祖先祭祀を保っているのではないか。本はコード化であると同時に、脱領土化だった。宋は帝国を確立し明は海に浮かぶ帝国となった。他方で、本にたいして、再領土化の脱コード化的な動きも成り立っている。東夷の古学は解体-朱子学によって天を仰ぎ見たのである。天における誠を人における誠にするのは信においてである。伊藤仁斎における読みは朱子の鬼神論と矛盾しない



the book assures the deterritorialization of the world , but the world effects a reterritorialization of the book, which in turn deterritorialize itself in the world.ーD=G


知性のないものの振る舞いについて知的に考えるのは無理だが、ウイルスの他を必要とするコミュニケーションは分かる。五輪のアベ化、コミュニケーションなき愛国心はウイルス以下だ


映画はコミュニケーションが大切だとヌーヴェルバーグは言っていたが、何故コミュニケーションがそれほど大切なのかあんまりわかっていなかった。SNSは答えをもっているのか?


中止論の言語も開催論の様に透明化している貧しさ。だが「やりたい奴が勝手にやればよろしい」(蓮見重彦)は虚しい。もう来月なので言説の戦略が働かない。YESかNOしかない


ルネッサンス朱子学はまだロゴスにおいて言語的存在である人間が存在の意味を問うた表(タブロー)に書く\描いた。

フランス革命前夜のサドの前に自由に喋らせてくれと訴えるものはいなかった。普遍主義なき表を以って肉体に書く\描く。

表(タブロー)と肉体は、主体の位置と機能を炸裂させるFBにとって不可避的な他者である。


60年前日本首相を語ったドゴール。「トランジスタラジオのセールスマンか? 」。今日は五輪の押し売りか?商売はどんどんすすむが、言論の自由の政治的自由はまるっきりだめだ


伝説上の中世、マルケ王の統治するコーンウォールは戦争でアイルランドに敗れてしまい朝貢を余儀なくされた。朝貢ー集中と再分配ーを思い浮かべる為に中国の歴史の勉強が私に必要だ


トリスタンとイゾルデは、アイルランドからコーンウォールに向かう船の中、「初夜にマルク王とともに飲むように」と王妃から託された媚薬を誤って飲んでしまい激しい情愛に囚われる


ジョイス『フィネガンズウェイク』の「クオーク三唱、王マークに」で始まる第二部第4章。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の福音書記者を喚起する語り手がトリスタンとイズーの「うねる(roll)」愛を物語る。ちなみに、物理学の「クオーク」の名称はここからとられている


ジョイス『フィネガンズウェイク』の「クオーク三唱、王マークに」で始まる第二部第4章。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の福音書記者を喚起する語り手がトリスタンとイズーの「うねる(roll)」愛を物語る。ちなみに、物理学の「クオーク」の名称はここからとられている。ところでハミルトンはダブリンの人だった。彼の研究に関連して、復古主義は現代を古典的世界観が支えることができるだろうか、これは絶えず問題提起される。『ユリシーズ』と『フィネガンズウェイク』を、古典的世界観から量子力学的世界観への移行が反映されていると読み解く見方もある。コスモスの秩序の<状態>は、反コスモスにおける幾何学的線しか存在しないような崩壊し尽くしている世界の<状態>と一体的に隣接している。世界は予定調和的に分節化されているようにみえても本質なき世界の反復である。ロゴスの論理的順番として、コスモスの秩序の<状態>の理解を先行させているだけではないだろうか


イギリスのようにホスピタリティがある国が主宰するサミットで孤立しているとしたら、問題となってきたのは、非合理的なことをいう「日本人」に対する無関心である。本当にヤバイ


五輪開催を8割以上が危険だと考えるが政府は無視。国民主権の死?今の政治は公式参拝した中曽根と小泉から始まった。安倍で国家神道が復活した。次に皇室から独立した天皇教の確立か


太平洋戦争は語られるが日中戦争は語られることが殆どないdark sideにある。本当に「五輪敗戦」ならば、今回で終わりではなくて、行き詰まって別の五輪を始めることになる


精神(鬼神)の眼でみる言説は再び、性に基づく差異化=諸存在の表でなく、「表象を表象するもの」と「存在するもの」の関係の冒険を語る。われ表象するゆえにわれ存在する


アジアにフランス革命の政治思想はなかったが、啓蒙主義も知識革命もあった。アジアのカントは伊藤仁斎である。デカルト朱子?帝国に対する自立としての政治思想は21世紀からだ


古代からの人間の本性ー祀る神は祀られる神ーを語る言説はヤバイ。清宮四郎は非政治的なおことばを「象徴としての行為」とみるが危険だ。被災地で祀る大御心も人間的だから流通する


人間らしい顔したやつが実は一番危険だ。スターリンなんかほんとうに人間らしい眼差しをもっていた。ガースーも「人柄が信頼できる」とみんな答えていたじゃないか


プラトンは魂の不死説だがアリストテレスは魂の消滅を考えた。1500年後に朱子と弟子達の間に魂は気か理かをめぐる議論があった。絶えず根源的錯認の起きる言説的近世の始まりか


漢字文化圏において名づけること、普遍が多元主義の方向をもって思考可能となること。17世紀


名づけること、思考可能となること

朱子学における性の教説に基づく連続的な<差異化の体系=存在者>が解体され、「表象するもの」と「存在するもの」の関係が伊藤仁斎において再構成されることになった。人の往来として表象されるものは「道」と名づけられる。この名からはじめて思考できるようになった、人(「存在するもの」)については、対他的な同情心のような共同的な善に向かう心が生まれながらにしてあるという。これが、漢字文化圏において名づけること、普遍を多元主義の方向をもって思考可能となること、である。


問題はもはや、自然に関わる経験が必然的な諸判断を生じさせることがいかに可能か?ではない。言語的存在である人間は存在の意味を問う明証性から絶えざる狂気の疑いを排除できない


The question is no longer: How can experience of nature give rise to necessary judgment? But rather: How can man think what he does not think, inhabit as though by a mute occupation something that eluded him, animate with a kind of frozen movement that figure of himself that takes the form of a stubborn exteriority? 

ーFoucault


何が問題となっているのか


人口が多いから経済力もあってお金を使ってスタジアムを作ることができますが、全国紙がスポンサーになっているような、言論の自由が政府から距離を取れないでいるという、報道自由度80位ぐらいをウロウロしている国が五輪を開催してはいけないのだと考えはじめました。これは原発を運転してはいけない理由とおなじものです。何もかも政治問題なのに、自然災害における問題になっています。

初めが重要でした。ギリシャ五輪の失敗があり、ロンドン五輪からは、五輪の規模は5000億円以下にして、それほど豊かでない多数派の国にも五輪開催のチャンスを与えようという国際世論が起きてきました。イスラム国にも五輪開催によって国際デビューさせようという考えもリアリティあるものでした。しかし理念なき東京五輪は何もかも踏みにじりました。最初からもっと費用の問題が論じられていたら、もしそれほど金をかけなかったならば、今日東京五輪を中止できたかもしれません。核汚染コントロールの嘘など色々問題はあるが、開催することになった以上、責任をもって五輪を成功させようというような、結局は何でもかんでもありという現状肯定に流れた結果、3兆とも4兆ともいわれる高い値段の五輪になりました。自民党はこれをやめるわけにはいかなくなりました


私は西欧的な革新と日本的な伝統という二つの異なったものを同時に生きています。しかしそれは、人類が共通の宇宙的卵―コスミック・エッグを妊っている今日でも、もはやそれほど特殊なことではないように思います。ー武満徹


“The safest general characterization of the European philosophical tradition is that it consists of a series of footnotes to Plato. I do not mean the systematic scheme of thought which scholars have doubtfully extracted from his writings. I allude to the wealth of general ideas scattered through them”. (A.N Whitehead)


「まこと」と読まれて<まごころ>と理解されている、「誠」の字ほど意味が歪曲されている漢字もない。儒教の日本化である。戦前の吉田松陰の「至誠」は’日本人’のこころの中心から洗脳してくる言葉であった。

菅首相「誠実さ」評価74%(2020年11月、読売・早大共同世論調査)


seq1 蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する。けれども雀蜂はこのイマージュの上に自己を再領土化する。とはいえ雀蜂はそれ自身蘭の生殖機構の一部分となっているのだから、――(上)p29

なにが問題になっているのか?


オリンピックの起源は神々に捧げる競技祭ですから、現代はナショナリズムに捧げる五輪でしょうが、そういうわけのわからないものに絡みとられたら、ひとは自由に喋ることができなくなるに決まっています。小田実古代ギリシャ語の研究していた人ですが、彼が指摘しているのは、古代アテネは、戦争に絡みとられた限界はありましたが、ワイワイガヤガヤ、ウヨウヨウロウロするひとびとから民主主義が生まれたというのですね。おそらく神話的思考から自立した哲学と演説と共に発展した演劇的レトリックを以って、語りあったのでしょう。香港の若者たちはなにを考えているのか十分につたわらず曖昧なところがありますが、しかし自分たちが喋ることができなくなる体制にたいする明確なイメージをもっているように見えるのですね。比べると、此方はですね、間違っても自由なことを言わせてくれという感じで勝手にやっているのは、ギャンブル王の菅首相(「俺は勝負したんだ」)、とくに小泉や安倍です。しかし国民の側は、一人ひとりにおいて、わたしは間違っても自由なことを言わせてくれと要求する声がまだ無いようにおもいます。わたしたちは奴隷みたいに一切の権力を自民党に委ねている現実において、五輪の失敗は全部自民党に責任があるんだと言ってもいいのではないでしょうか。しかし自民党に対する明確なイメージをもっていないかんじです。


漢字の歴史を考える


周辺にある日本は、中国の圧倒的に優越した文明から所与として与えられた漢字漢文を以って、普遍を思考する可能性がでてきた。周辺にある日本にとって、問題は、荻生徂徠の指摘のとおり訓読=翻訳を読んでいるだけなのに、他者言語エクリチュールを読んでいるという錯認がある。厄介なことに、漢字の受容であるここに、内部の形成が起きる。ブラックホールのような、この内部において、外部との関係が成立していないのに、内部化した外部から自らに中国における優越性を投射してしまう。現代中国においても、これとおなじことが成り立つ。現代中国は簡略化を通じて漢字を母国語のなかに内部化するような音声中心主義の方向にあるのに、まだ漢字文化圏の中心にあると自らを考えて(マイノリティにたいして一国家を超える)帝国性を主張する根源的錯認にある。再び、日本の問題を考えると、荻生徂徠の影響で、今日は、『朱子語類』は中国語で読むべきであるとされる。たしかに宋の時代の口語的エクリチュールの解読が必要とされるし、訳文のためには明治からの日本語の体制も欠かせない。しかし江戸時代の注釈した漢文で読んでもそれは意味がないようなことがいわれるとき、漢字論において近代における言説ーオリジナル(本物)とコピー(偽物)の二項対立的関係ーがあまりにも自明に語られてしまうのである


大問題である。清宮四郎は非政治的なおことばを「象徴としての行為」とみるがこれは危険だ。被災地で祀る大御心も人間的だから流通する。清宮はこの後の章で、京城帝国大学にいた尾高朝雄について彼の側から肯定的に論じている(穂積陳重は義理の伯父にあたる)。純粋法学の日本化である。


「君主と国民の間には、一方は統治の主体であり、他方は統治の客体であるという絶対の関係がある。」「これが君主中心・君民一体の原理によって貫かれた立憲君主国家の実定法秩序である」「君主の統治に随順する国民の態度は、もはや人の人に対して捧げる信頼ではない。神格をもって行われる統治は、すなわち信仰によって応えられる。」(尾高朝雄)

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呪術的思考(じゅじゅつてきしこう)、魔術的思考(まじゅつてきしこう、Magical thinking)とは、ある事象について、理性と観察においては因果関係が正当化できない物事に原因を求める思考である。宗教民俗迷信において、信仰心や祈り儀式生け贄タブーの順守などと、それに対して期待される報酬や利益が結び付けられた。臨床心理学においては、呪術的思考を持つ患者は、ある行動や考えと災難・悲劇的な出来事の間に相関関係があると考え恐怖を感じる。呪術的思考によって、人々は、自身が世界に影響を及ぼすことができる、またある行為と何ごとかが照応関係にあると考える

ヨーロッパでは初期近代まで、神によって創造された世界は意味と目的に満ちたものだと考えられ、思想家達は世界の様々な部分の間に類比的なつながりを期待した。自然の中にある類比シンメトリーは、事象の間の現実的なつながりを意味しており、神によって埋め込まれた隠された結びつきを示す合図であった。このような照応の網の目にくくられた事象の結びつきは、「共感」によって機能しており、その媒介が「世界m精気」であると考えられていた。このような考え方は医学にも用いられ、脳に似た形の胡桃は脳の病気に効く良薬であり、葉の形が心臓と似ているレモンバームは心臓の薬として有効ではないかと推察した。人間の運命や生物の肉体が天の星々と照応関係(大宇宙と小宇宙の照応)にあると考えた占星術錬金術医療における武器軟膏(共感の粉)などは、現代人から見ると不合理な迷信である。ジョンズ・ホプキンス大学教授ローレンス・M・プリンチペは、これらの思想は当時においては迷信ではなく、当時入手可能な思想や情報を考慮し「合理的に到達した(現代から見ると)単に『誤っていた』考え」と見なすべきであると述べている

翻訳する\される言語間に表象される平衡からは説明不可能だ。瞬間に、大きな他者と共に成り立つ漢語漢文の存在は私を殺戮してくる。詩人と音楽だけが辿れる物で書かれたものの痕跡


Chinaziは中国にたいする香港の抗議。アジア全体は経済の自由と開発はどんどん進むが言論の自由は全然進まないという意味で現在は寧ろ、アジアの自民党化である


わたしの理解で恐縮ですが、11条は、憲法第一条をもう一度読んでください、戦前のような天皇主権ではありませんよ、これからは国民主権ですよということを言っているのではないでしょうか。

憲法の終わりのところで、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて」とあるように、「人類」の言葉を再び読ませます、97条は、もう一度憲法前文に書いてある、祀る国家、闘う国家を止めたわれわれの誓いの言葉を読みなさいと言っているように思います。

前文でも、「人類普遍の原理」の言葉があります。これは「政治道徳の法則」として「普遍的なもの」と言っていました。97条において、新しく再び、国民主権憲法と共に成り立つわれわれは「人類」に依拠する普遍が要請されていると言っているとおもいます。「人類」が書いた法の法であって、「民族」が書いたものではありませんと97条は言っているというふうにわたしは読みます。

最後に、小田実が言っていたことですが、戦後憲法は非常にユニークで、日本だけでなくほかの国にも「平和を構築するためにこういう憲法になりなさい」と説教している憲法なのですね。わたしの理解ですが、戦後憲法は「普通の国家」を超えた高い理想をもっているので、11条では十分ではありません。全世界に訴えた97条が必要なのです。憲法の世界化ですね。この高さが自民党には受け入れられない点なのでしょう


批評は読まれなくなったというが、高校を卒業したら批評を読むひとは殆どいないのではないか。わたしは読む。どうしてだろうか?われは文化中心主義を疑う、ゆえにわれは存在する。他によって自が、外によって内が作られることを、自己内部化する固有の能力としてしか考えないような自文化中心主義の根源的錯認を書くために批評は存在する


サルトルですらハンバーリー暴動まで批判できなかったスターリニズムを戦前にシモーヌ・ヴェイユだけが批判できたのは、なぜだったのか?彼女は工場での肉体労働の経験から労働を神聖化する教説が根拠がないことを知っていたからだ。シモーヌ・ヴェイユこそ、サルトル批判とともに成り立ったポストモダンの先駆的思想家である

「わたしたちを神に近づけないような学問にはなんの価値もない。だが、もし正しく近づけないようならば、すなわち、想像上の神に近づけるならば、いっそうわるい……」

(シモーヌ・ヴェイユ)


東京五輪に対するポストモダンの声が小さい(distant voice)。日本ポストモダンだけは作り出す近代にそれほど絶望していないならば批評精神が死んでいる


日本最高裁の建物を見ると、巨大な壁のなかに埋め込まれているように日本近代の裁判所があるみたいだ。この壁はこんな当たり前の人権でも市民にたいする大きな恐怖をあらわしている


「世界で日本だけ」の夫婦同姓

夫婦同姓制度は、家族の姓を一つにまとめることは合理性がある」というならばその根拠は何かと問うているのに、「家族の姓を一つにまとめることは合理性がある」と繰り返しているだけの日本最高裁は日本以外のすべての国は「合理性がない」とおもっているのか!?

安倍晋三戦争犯罪人の孫である日本会議の政治家である。夫婦同姓合憲の裁判官の一人は安倍の友だちで1秒でも憲法を考えたことがあるのか?最高裁判所の安倍化が現実となっている

「夫婦同姓は社会に定着している」とっているのは、別姓を認めると、個々人に自立的アイデンティティーをもってもらっては、社会が崩れると言いたいかのようです。同性愛の権利にたいしてもおなじようにかんがえているのでしょう。しかし自立した個人のいない社会に生きていてわたしはほんとうに幸せなのでしょうか?自立した個人がつくる多様な関係に生きる人々にたいして、最高裁の判決は、「あなたは存在しない」と命じています!

最高裁、夫婦同姓は「合憲」 (朝日新聞)

名を以ってかんがえることができるようになるのですから、名を失ったらかんがえることが難しくなってくることが沢山あるでしょう。アパルトヘイトを支持していた人も「これまで何も問題はなかった」と喋っていたとおもうのです。壁の向こうにあるものが見えなくなるのですから、事実上夫の名の向こうにあるものなんかまったく見えません。だから、「当たり前」と思われているような家族の夫婦同姓的なあり方を本性(古代に遡るもの)とかんがえているようですね。そうして夫婦同姓を世界文化遺産のように勘違いしてやめれなくなるのかもしれませんが、全部、「フランス民法では国が滅びる」とかんがえてしまった150年前に明治において確立したとかんがえるべきです。夫婦同姓の制度は実は帝国主義の確立を目指す時代の流れに応じた非常に新しいものであることをしっかり理解できれば、帝国主義をやめた現在、その制度をやめることができるはずです。


これは国民主権に関わる別の問題を構成する危険がないか


東京五輪】「天皇陛下から重要な不信任決議を得た」とワシントン・ポストが報道

Tokyo Olympics just got an important no-confidence vote — from Japan’s emperor

(The Washington post)


7月に国家日本近代の崩壊をともに観戦しようではありませんか、ワハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ


天皇が自由に喋ることをゆるせば戦前憲法との連続性が回復してしまうのに、憲法に「天皇は政治的発言をしてはならない」と書いてないと教えてくる作家は半分だけの天皇を語っている


日本の国民総所得は世界3位らしいけれど、女性は男女格差120位の国の女性でなければいけない..

•世界の男女格差を測る「ジェンダー・ギャップ指数」で156カ国中120位(2021)


ロンドンの移民達は、わたしの知る限り、三代前より昔の先祖があまりわからない。三代前より前の話は断片的に話を聞いたという感じであるのは日本人とまったくおなじだ。ロンドンの移民達にとって、父母の墓はもう帰ることがない外国にある。ユダヤ系だったらドイツにあるとか。アフリカ系だったらナイジェリアにあるとか。イギリスの教育のもとに同化した移民の子供達はもはや祖父母の墓を訪ねて行くことはないだろう。と、そういうわたしも、子供のときにわけも分からず、北村透谷の墓がある寺の曽祖父の墓をみたのは一回二回ぐらいである。これはずっと後の話であるが、叔父さんが、なんか思想に関心あるらしいわたしをみて、少し表情に面影がある?実業家だった曽祖父が若いとき新島襄のもとに行って勉強したいう話をしはじめた(へえー、でも関係ないんじゃないの?)。三代前はどうも国津の廻船問屋だったらしいが、まったく知らない。伊豆にある父の墓も行かない(ごめんなさい)。最後にお位牌を見たのはいつだったのか?茅ヶ崎の母がいる家のどっかにあるはずだ(サランラップに包まれているからわからなくなっているとおもう)。「位牌」の由来は儒教。昨日は伊藤仁斎の話が出た。儒者は皆、祠堂をもっていた。是非見てみたいものだ。朱子の世界は無鬼論だが有鬼論を隠している見抜いていたのは平田篤胤だ。朱子は『論語』の向こう側にあるものから自らを遮断しなかったのである。朱子学を読んだ清沢満之をおもいだす。公である絶対平等の世界の彼方にある天の絶対無限をみていたかもしれない。生きるために果たさなければいけないことがある此方の世界の向こう側にあるのが先祖の世界。子孫たちは先祖を祀ることによって先祖になっていく。近代は先祖祭祀がなくなった。死に場所もどんどん無くなっていく。朱子に反論した、荻生徂徠国学が祭祀のあり方を古代に結びつけていったことは、Natureの自然からNatureの本性(古代に遡る見方に基づく)へ転換していく近代の思想史をかんがえる上で大事である。いつ祭祀主体が国家となっていくのか?祖先祭祀の代わりのものがナショナリズムであるかもしれないという子安先生の問題提起は本当に一考の価値があるとおもう


詳しく言えないが、自民党よりももっと右翼的な思想の勉強会が毎月大蔵省の中にあったから、独自に官僚世界は右翼思想をもっているに違いない。最高裁をコントロールしている法務省はどうなの?


価値中立的近代にみえた官僚世界は独自に右翼思想を研究していた。自民党よりももっと怖い右翼的な思想の勉強会が毎月大蔵省の中にあった。最高裁を支配する法務省の中はどうなの?


Est-ce la même chose, strictement la même chose,

en peinture ? En effet, c’est pas le point qui fait ligne, mais c’est la ligne qui emporte le ligne déterritorialisé , qui l’emporte dans son influence.ーD=G

絵画でも同じだろうか?まったく同じことが当てはまるだろうか?なにしろ点が線を作るのではなく、逆に線のほうが脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てるのだ。


オリンピックのせいでギリシャがなくなっちゃったんだから、オリンピックそのものに反対していたよ。東京の<喜びなき五輪>の開催で、オリンピックもなくなるだろう。国民は「諦めの境地」とBBCから言われちゃっている。復興神話に押し潰されている。明治維新に帰れの安倍政治から、なにを言っても無駄な乱世


人間の死をとりかこむオリンピアの神々の不死。愛国的政治家を惹きつける不死の曖昧な観念は東京五輪の日本の消滅で虚飾虚栄となる。永遠なるものの明確なイメージを発見できるか


朱子の祖先祭祀をともなった鬼神論的言説は何故にアジアの宗教改革であったか。朱子の理念的<永遠性>は古代における<不死>との対決に勝利した。近代的知識人が誕生したのである


This quality of permanence in the model or image, of being there before fabrication starts and remaining after it has come to an end, surviving all the possible use objects it continues to help into existence, had a powerful influence on Plato’s doctrine of eternal ideas. 

ーHannah Arendt , The human condition


モデルやイメージの永続性は、永遠のイデアというプラトンの説に強い影響力を与えた。..


モデルやイメージの永続性は、永遠のイデアというプラトンの説に強い影響力を与えた。(略)彼がこの言葉をはじめて使ったのは、製作の経験によっていた。「哲学的な」別の経験を述べるのにこの理論を用いたのだけれど。例証を製作に求めた。(『人間の条件』19)


哲学者が永遠なるものを発見したのは、彼らが世界はどの程度まで続くのかというもっともな疑念を抱いていたからである。そしてこの発見の衝撃はあまりにも大きかったので、不死への努力は全て虚栄虚飾であるとして、これを見下さざるを得なかったのだろう。(『人間の条件』3)


It may be that the philosopher’s discovery of the eternal was helped by their justified doubt of the chances of the polis for immortality or even permanence, and it may be that the shock of this discovery was so overwhelming that they could not but look down upon all striving for immortality as vanity and vainglorious , certainly placing themselves thereby into open opposition to the ancient city-state and the religion which inspired it. ーHannah Arendt , The human condition 


自由は「他在において自分のもとにある」ことである。精神の真の自由はそういうことである。精神の従属とは何か?自由が「他在において自分のもとにある」ように見えないことである


精神の真の自由は絶対精神によって達成される。芸術は絶対者(理念)を直観と形象によって表現する。宗教は絶対者を表象によって表現する。哲学は絶対者を概念によって捉える。さてギリシャ(古典的芸術)の時代の彫刻は全体性をあらわしていた。ルネッサンスの彫刻に全体性はない。主観的個人的感情の芸術は絶対精神にふさわしくない。ヘーゲルが言ったように、芸術の全盛期はギリシャ(古典的芸術)の時代であったとかんがえてみると、どんなことが言えるか?絶対精神の最高の表現という地位を宗教や哲学に譲った。いまや哲学の時代であって、思考と反省が芸術を追いこしている。周辺にあるわたしも伝染病以来、新しい絵を描くことなく過去のイメージを編集してブツブツと独り言を言っているだけ。包摂してくる全体から逸脱する線を以って点たちをもっと外に逃してやるだけである


ヨーロッパにおける新しい普遍主義の模索が極右に足を引っ張られてわるい形になったが、吉報である。

•仏統一地方選マクロン大統領の与党が完敗 極右も議席伸ばせず(BBC)


Kunikata Eiji さんより

ギリシア語のイデア(idea)は「見る」という動詞から作られたもので、エイドス(eidos)もその意味では同様の語である。ともに見られたものの意味から、ものの本質に変容する。プラトンイデア論を唱えたことはよく知られている。

「美しいものは〈美〉によって美しい」(プラトン『大ヒッピアス』)

〈美〉とは美のイデアのことである。

イデア論は個物(x)=美しいもの、個物の性質(F)=美しい、イデア(Φ)の3項関係で説明される。藤澤先生が『プロネーシス』という雑誌に英文の論文を載せたが、プラトンイデア論の言及箇所を分析し、(1)あるものが美しい(xがFという性質を「もつ」echein)、(2)あるものが〈美〉のイデアを分有することで美しい(xがΦのイデアを「分有する」metecheinことでFである)の区別を明確にしていると論じている。以後の藤澤解釈のベースになる考え方である。

この説の当否は別として、「青」を例にとった場合、完全な意味での青というのは事物として存在せず、つねに「aはbよりより青く、cより青くない」という比較の中に置かれる。この意味では現象界に限ってはヘラクレイトス流の流転説をプラトンが受け入れた、とアリストテレスが言っているのはその通りである。つまり、より青いの系列の彼方に青のイデアの存在を想定し、個物がもつ性質の根拠とみなすわけだ。現象界とイデア界の二世界説を唱えたというのは、イデア論の誤った解釈だ。このような誤りが生じるのは、ニーチェがヒンターヴェルテン(背後世界)という語を使ったことが影響している。」


いずれにせよ、イデアは中世哲学の中では神の思考対象に置き換えられる。これが近代的な思考のなかで、われわれの頭にある観念(ideaアイデア)となっていくわけである。


浅田彰が言ったが、近代のエートスである官僚が実現してみせた60年代の東京五輪のようにいかないの。権力欲と助平のノーパソしゃぶしゃぶだし「誘いを断らない」娼婦が中心にいる


完璧。溝口の時代のようには、もはや東京五輪は完璧にできません。令和の日本人は、古代ローマ帝国の遺伝子を失ったイタリア人のようであって…


西欧では洗練された精神的快を追求するエピキュリアンを目指したけど、明治日本の翻訳に来てみたら、倫理に先行する倫理学の抽象性に絡みとられる事態に。現在は駅ビリアンになった


西欧エシックスの肖像写真は明治日本の翻訳に来たら、「初めに(倫理ではなく)倫理学問題があった」。反発した国民道徳の肖像写真が隣にきた。和辻の登場。彼の肖像写真が間に入る



講義の後に高田馬場駅近くでの居酒屋で話しあったこと。明らかにやり過ぎている同化主義をゆるしているのではないが、チベットに中国は住居や病院、仕事を援助してきた。チベットに起きたことはウイグルにおいて起きているのだろう。しかしやはり精神の従属の問題を考えさせる。比べると、台湾や香港が豊かなのは中国からの援助によるものではない。それなのに、一律に、中華人民として押しつけられたらたまったものではない。


東京五輪を開催されたらわたしは幸せか?」と愚鈍に考えれば良いのに。バッハ会長の顔を思い浮かべながら開催中止について西欧はどう考えるのかを考えたらもうわからなくなる


孤児院では何が正しいかを教える親がいなかったから本を読んだんだと言う知識人がダブリンにいた。up in the air and downの精神というか、道端でかれは「hello!hello!hello!」と声をかけてくれた。トリニテイー大学の周辺にある洒落たカフェでコーヒーをおごってくれ、本をくれる。ジョイスが本に書いたような、人々の往来する道がまだ存在すると考えていた人だった。道について考えるだけでなく、実践する人だった。わたしはpure paganと言われちゃったりしていたが、そういうローマカトリックの宗教の権威を批判していたが、ユダヤの解決を与えてはならないというような議論にも批判的だったようだ。北アイルランドにおける異議申し立ての運動がプロ化したために自発性がなくなっていった問題を訴えていた映画をナシナリズム批判の切り口で分析する大学のメディア論に反発していた。

https://www.instagram.com/p/Bew7oLxBxRP/?utm_medium=copy_link


推敲中

高校教科書はジェイムス・ジョイスアイルランド人の作家だと記すようになった。私のときはイギリス人の作家と記されていた。近代精神の決定的勝利を象徴する、「意識の流れ」というリベラリズムヒューマニズムの"普遍"が覆い隠していた、アイルランドジョイスを『ユリシーズ』の背後にとらえる読み手が現れたことを意味する。(全共闘世代のなかに、もしくはそれ以降の人々に、アイルランドジョイスについて語る私の話に関心をもつ者が多いのは理由があることだろうとおもっている。)『若き芸術家の肖像』はダブリンから近代の神学の意味を知的に構成している。冒頭で、いきなり、天への昇華(プロテーウス神話)と地への転落(学校と日常生活)の提示がある。この天地の間の往復、Up in the air and Down、これはなにか?この小説は、屈折した抑圧のなかで神話とリアリズムとが反転していく言葉(ナレーション)を住処とする「人」を発見している。「人」がリベラリズムヒューマニズムの"普遍"との内在的な関係から離れるとき、「天」とは、ジョイスにとって、自己の外に、自己に向き合う形で見出されてくる。ジョイスは主人公Stephen Dedalusとともに、イギリスでもなくアイルランドでもない所謂国内亡命の場所をさがしている。ジョイスにとって、アイルランドは『ユリシーズ』にすんでいる。結局ジョイスアイルランドヨーロッパ大陸に運び出したことになった。自分で決めた亡命が意味するのはこのことであった、わたしはそう読むようになった

ホーホー、最後までだれが倒れないのか、だれが死なないでやりぬくのか、だれが一番タフかを競うオリンピックという名の最終解決になりそうだニャ


「安全•安心」の東京五輪でやった狡猾なあらゆる情報統制のノウハウを、「安全•安心」の危険な原発の稼働のために利用してくるに違いありません


記者らの行動制限しているのは、実は、報じられたらヤバい腐敗が沢山あるからと言われちゃっても仕方ないよな「ニューヨーク・タイムズなど全米有力紙、行動制限で五輪組織委に抗議」

共産党党員は8000万人ぐらいいる?でも、言論が多少制限されてもひとりが支配する独裁の方が優れているということを言っているみたいに聞こえる。まさか!何たることか

習氏「台湾統一は歴史的任務」 一党独裁を正当化 中国共産党創立100年で式典


明治日本の対抗西洋の近代化の失敗は明清の帝国の構造に絡みとられたことが原因だ。現代中国の脱近代化も再び、その日本の日中戦争で破綻した帝国の構造に依ったらうまくいかない


• 党のリベラル勢力でも、台湾の独立については、日本人が沖縄の独立に反発するような感じで、あってはならないこととして反発すると聞いています。今回の「台湾統一は歴史的任務」と言っているのは段階が高まっているような…台湾はこれまでのように中国にたいして危険な独立の意思表示はしないでしょうが、しかし現実に中国の台湾侵攻が始まると、考えたくありませんが、第三次世界大戦が起きないとは言えません。非常に心配です。日本はこれを避けるためにはどうしたらいいのでしょうか。できることは非常に限られているかもしれないですが、民主主義とは何かをめぐる日中の間の議論をやったらどうでしょうか。これから徹底的にお互いの体制を批判しあうのです。その場合日本は民主主義について語るだけではなくその民主主義を実現していないといけません。ここが大切。日中戦争を反省するという形で戦争責任を果たすことも必要。そのうえで、社会主義でもいいから、隣国との関係、マイノリティとの関係を大事にするアジアにおける<隣り同士の>民主主義をいっしょに考えるのです。明治日本の対抗西洋の近代化の失敗は明清の帝国の構造に絡みとられたことが原因。現代中国の脱近代化も再び、その日本の日中戦争で破綻した帝国の構造に依ったらうまくいかないです

知識革命の17世紀

伊藤仁斎

一七世紀初頭において、真理が生まれる場所は移動したのだ。それはもはや世界の姿の側にあるのではなく、言語の内的で交差した形態の中にある。-アレクサンドル・コイレ『天文学革命、コペルニクスケプラー、ボレッリ』-


「五輪は参加することに意義がある」という。人々は言説文の主語でしかないのに、自らは行なう主体であると勘違いする結果、学徒動員に服従するのではないだろうか

「五輪中止」は「五輪」と書かれる。漢字の表意性が何とか理念性(思考の可能性)をもつ。「五輪」を「オリンピック」と表記したら意味がわからない。ガースとスポンサーは"安心安全"な「オリンピック」を言う。そうして、考えることができないものを"安心安全"だと叫んでいる。

わたしは、「五倫」のほうを思い浮かべるのです。「倫」は和辻的に、関係性(仲間性)であると解釈します。オリンピックは人は集まるかもしれませんが、何かやっぱり、孤立の道を行っちゃているかんじですね


推敲中

剰余価値率無限大まで格差を拡大生産していくグローバル資本主義を分割した<ー>である帝国の構造に平等の方向性は存在しない。<ー>は平等を主張する一元主義(同一性)ではない。‬日本ドウルーズ研究家は思索の純粋な<一>への拘りを示すが、だけれどグローバル資本主義の分割をなす<一>帝国の中のn個の「一国ニ制度」のアジアに起きている全体化に目を逸らさないで‬とおもう。アジアは開発と経済はどんどん進むが、政治における言論の自由は...!?


嗚呼、警戒レベル5のこの状況でも、国家が国家自身のために主宰すると言われても仕方ないような大文字の「五輪」とは遥か遠きシニフィアン。異常に人々を集めては孤立の道へ行く


警戒レベル5のこの状況でも、「頑張ってきた」日本人選手のためを思って、異常とみえても人々を集めては孤立の道へいく五輪を開催したほうがいいとおもうのは何だろうか?日本的情緒か、いや、選手のためをおもう人々は関係を大事にしているからかもしれない。だけど警戒レベル5ならば、感染爆発を考える必要がある。もはや開催は選手自身にとっても危険だろうが、警戒レベル5のこの状況でも伝染病に勝たなければいけないのはどうしてか?国家が国家自身のために主宰すると言われても仕方ないような大文字の「五輪」だからである。大文字の「五輪」とはなんと遥かに遠いシニフィアンなのか。関係を大事にする人々の間に互いの不信感を起こすシニフィアンこそが、罪深いと言わざるを得ない


ウエーバ宗教社会学を読んでいた労働法教授が昔見学したドイツ教会の宗教画を思い出した。罪悪感を植え付けてくるものだと私に語った。愚鈍さに衝撃を受けた。この人は唯物論者なんだ


北アイルランドの爆破された教会に新しいステンドグラスをおさめる宗教画家が映画友達だった。絵を売る為にプロテスタントからカトリックになった。単純に非ず、物事は必ず裏がある


アジア形而上学の始まりは朱子の鬼神論であった。ロゴスは見えないものを言語化しはじめたのである。鬼神は魂が子孫のもとに帰るものとして見えてしまったから、鬼神とは別の見えないものを考える必要が出てきた。理性とそうでないものとの間の線を引き直すとき、わたしにとって問題となってきたのは、理性でも必然性でもなく、人間と存在である。わたしの映画への関心はここにある。アンチ•ロゴスはいかに見えないものを言語化するのか?われ見るゆえにわれ存在するvideo ergo sum


初めに倫理学問題ありき。「倫理」に先行して「倫理学」が明治日本が存在していたのである。西欧倫理ethicsに、あえて、古代漢字の痕跡が辿られ、消されて、この言葉が生きているという前提で仲間性という新しい解釈的意味を付与された。和辻は文献学的ニヒリズムを避けて、同時代のハイデガーと対等に考えたことを評価した上で、子安先生が分析なさっているのは、結局は倫理は国家倫理を示す大文字の遥か遠きシニフィアンとなってしまったことである。倫理のオイデプス化である。倫理の問題がはじめて思考されたのは、原発災害においてであった。安全神話をはじめ原発問題を推進した核体制に、再びその解決を委ねることは倫理的に不可能である。近代主義が言うようには市民社会が十分に存在しなくとも、理念的に市民の存在を想定しなければ解決のあり方を思考できなくなってしまったとき、アカデミズムの倫理学とは何かを問うのではなくて、われわれの倫理とは何かがはじめて問われたのである。


安倍の言う通りだとしたら、国民の3分の2から8割が「反日」ということになります。歴史修正主義者の安倍と日本会議のような一切理念を拒むイデオローグたちにとって、そもそも五輪も「反日」だったでしょう。彼らがやりたいのは、「反日」を撲滅するナショナリズム運動会です


言説<自分が語るのをー聞くこと>は、大いなる他者の言語が思考を可能にしてくれる「不可避の他者」として存在するとは考えない。他言語は純粋な自言語に侵略する。自言語の語彙と文法を豊かにするがそれだけのこと。他者の言語は<自分が語るのをー聞くこと>ができない。他者の言語の解釈をめぐる言説<自分が語るのをー聞くこと>は、他言語は異言語でしかないからだと教える..ここで、自言語において <自分が語るのをー聞くこと>が反復的に起きるのかどうかはどうでもいいこと、大いなる他者の言語をわれら自身の国家から排除することができさえすれば


熱海の谷崎潤一郎が一時期いた家を修復して住んでいらっしゃった方たちは大丈夫かしら?親切に温泉にもいれてくれてお部屋と庭を案内していただいたのでよく覚えている


東京オリンピックは道徳に反する

IOCは、恥ずかしげもなく、若くて健康的な世界中のオリンピック選手への優先的なワクチン接種を検討している。これは日本やフランスをはじめとした、大会参加国の道徳的なスキャンダルなのではないのだろうか。強い者を守ること、そして一般人の観客をスタジアムに入れることなく、広告収入を守るためにテレビ放映を行うことがオリンピック精神なのだろうか。公衆衛生や人命の価値は、コカ・コーラ社の広告の価値よりも低いのだろうか。東京オリンピックは、オリンピック精神とオリンピックの構造の「真実」を明らかにした。」(「Le Figaro」)


東京五輪は道徳的なスキャンダルである。道徳的なスキャンダルとは、恥ずかしげもなく、強い者を守ること、ほかのものたちを排除すること、なんでもかんでもカネが物を言うこと、最後に、これらを精神と呼ぶこと

私は自分がいかに無力であるか知るために投票する。


「リベンジ消費」が起きているという。変な言葉だ。わたしに大地主の娘だった母親から<リベンジ家父長>なるものが起きている。頼りにならない息子への長電話でイジメられている


「リベンジ消費」は起きても、「リベンジ野党」が起きないのか。


「リベンジ消費」が起きているという。変な言葉だ。わたしに大地主の娘だった母親から<リベンジ家父長>なるものが起きている。頼りにならない息子への長電話でイジメられている


「リベンジ消費」は起きても、反自民党の「リベンジ野党」が起きないのか。結局第1党に返り咲いた。小池の都民ファの東京は何の感性の成長もなかった


廣松渉が自らをマルクス主義者と名乗るくせに現象学をやってたように、マルクス主義者は憲法だけに依るようでは、この理論で勝てると思う理論の物象化。安倍の権力とたたかえない


自民党がゼロ議席になると思っていた。「五輪反対は反日」が自民党に勝利をもたらしたか。「日本人とはなにか」をめぐる言説を無意識に展開する安倍の実質を敗北させない限り何も終わらない


天皇が開会を宣言する、東京五輪格差社会

IOC委員などの『五輪ファミリー』や各国の外交関係者、スポンサーらは別枠として観戦を認める方向だ。開会式も入場できるようにする。開会式は無観客で調整


天皇が開会を宣言する、東京五輪ネオリベ的私物化•ヒエラルキー

IOC委員などの『五輪ファミリー』や各国の外交関係者、スポンサーらは別枠として観戦を認める方向だ。開会式も入場できるようにする。開会式は無観客で調整

開発と戦争と同化の自民党の時代にあって「自然災害」は「政治災害」のように語られる。「政治災害」は「自然災害」。「自然災害」は安倍政治の理念を否定した政治から現れてきた


安倍前総理の解釈改憲によって憲法が見えない戦争を作り出している

アベイ劇場での公演『ルナサの踊り』(Brian Friel、Dancing at Lughnasa)において問題提起された(1990)のは、独立国家から排除されローマから異端視されたアイルランドの地域的カトリックは、ケルトの起源不明の秘教儀式と切り離せぬ宗教批判だ。


固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解〔包摂〕された純粋な不定法の主体なのだ。(…)ジルベルトと口にすると、私は自分の口の中に彼女の裸の全身を含んでいるような気がする。――(上)p88

The proper name is the subject of a pure infinitive comprehended as such in a field of intensity. What Proust said about the first name: when I said Gilberte’s name, I had the impression that I was holding her entire body naked in my mouth.

ーD=G


Le nom propre est le sujet d’un pur infinitif compris comme tel dans un champ d’intensité. Ce que Proust dit du prénom: en prononçant Gilberte, j’avais l’impression de la tenir nue tout entière dans ma bouche. ーD=G


古事記』の神々の名を口にすると、漢字だけが溶けてしまったわけのわからん飴を舐めているみたいで、自分の口の中に神の裸の全身をだらだらと含んでいるような気がする😆


古事記』の神の名は漢字の表意性で多元主義の方向をもつテクスト的普遍の理念性をギリギリもつ。近代主義者が非難するようには漢字を読む宣長は理念それ自身を拒否してはいない

近代と反近代。二つのものは一つである。安倍政治は理念それ自身を拒否する近代における反近代的なあり方だ。「反日的」でなければ東京五輪における「人の魂に触れる革命」を語れ


間違っても自由なことを国にたいして言わせてくれと言うことが「反日的」と安倍が呼ぶものである


解決できないかくもおびただしい無知を前にして東京五輪デウス・エクス・マキナdeus ex māchinā )とはいったいなにか?


オリンピックといえば、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」。訳に問題あり?只のスポーツ至上主義を超えて、厄介な目覚めない悪夢。「国体」という国の身体のイデオロギーの反復


サドはこのようなものに書いていたんだ..悪霊から隠れるように隙間なくびっしり文字を書き尽くした耳なし芳一の肉体を思い出した。監獄のサドは肉体の下に這うこのような蛇に欲望の名を書きつけたが、しかし欲望は海のように果てしない。FWのpenman(Joyce)はおしっこインクで羊皮紙のような彼の肉体に書き綴っている


Projected

わたしの関心がむかうのは、解体-思想史におけるもの、曖昧な連続性の観念の成立とともにある似非-連続性、その明確なイメージ。破綻した構造から見つめてくる精神の眼がそこにある。見つめてくる本とテクストも


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ほんとうにつよかったら絵なんて描くことはないと思う。なにも描かないで人生を終えただろう。しかし脆いから他を表現する。そしていまみんなとおなじようにますます他を必要としてきたということである。もはや脆さを隠せない。そうして他に依拠しながら、むつかしいのは、誰でもないままでいられる、あるいは誰でもなくなることではないだろうか


「私たちがとらえがたい者になるのは、もはや私たちには隠すものが何もないからである。(…)つまりみんなと同じようになるわけだが、しかしほかでもない、これを生成変化に鍛えあげることができるのは、誰でもないままでいられる、あるいは誰でもなくなることのできる者にかぎられている」D=G


五輪開催反対の人々は、安倍の放射能コントロールの嘘と開催取り止めの可能性があっ過去を覚えている。いま、観客を戻せと言っている論客はもともと安全神話の担い手だった


「劇場というのは、神のようになった観客が、人生の織物と出会うところ。生命の輝きが、その輝きを一段とますのを見るところ」 (井上ひさし)

演劇はほんとうに奥深い。ここで「神」は鬼神とかんがえてみたらどんなことが言えるか?わたしはひとりの観客すなわち鬼神=死者である。生と死、この両者はおたがいに切り離せない関係にある。論理的ロゴスの順序で最初に生をみる。それから死である自らをみる。生を知れば死を知ることができるとはこういうことだったのであるーそのためには2回見る必要がある。舞台のうえに見えない大きな鏡がある。精神の眼を以ってこれをみる。中世は死に場所もあったからこれが可能だった。近代は死に場所が排除されていく。近代はもはやだれも2回見ることが不可能であるーただ劇場だけが。演劇はオリンピックのようには無観客では成り立たない。


ショスタコーヴィチよ、スガーリンのもとで、ふたたび、強制された「感動をもらった」じゃないか


笑いは他者がいる岬からくるのではないか。平均の部分的知識しか持たない中流大国は、共有するものが無い他者をもてない。日本で笑った人はまだいない。「反日」という異質性の標識を貼ってこれを侵略者として排除し続けるテレビを前に右翼政治家みたいに高笑いするが、それは他者の岬からくる笑いに非ず..


「最も大事なのはチャイニーズピープル」とバッハ会長が言うときはどこの国ではなくカネについて言及している。「ぼったくり貴族」ほどネオリベ•マインドを言い表している名はない


古事記』は日本ではじめて漢字•漢文エクリチュールで書かれた書記言語。‪漢字から離れないところで、息を吹き入れられる、訓を読む。漢字という不可避の他者によって別の思考可能性が与えられる。


‪...アルトーは自らのことば(パロール)が身体から離れたところで息を吹き入れられるのを禁じようとした。‬息を吹き入れられる(スフレ)とは、ある秩序のことばを組み入れんがためにことばを認めているような、つまり本質的真実の秩序、あるいは現実的、心理的、その他の構造の秩序に組み入れんがためにことばを認めているような注釈家たりうる者によって剽窃されることだ、と理解しよう。‬

‪... 息を吹き入れられるとは、あるもうひとつの声が、私の身体の詩や私の身振りの劇よりも古い、ひとつのテクストをみずから読んでいくにしたがって啓示されることだ、とも同時に理解しよう。‬

(デリダエクリチュールと差異』法政大学出版局)


‪...Artaud a voulu interdire que sa parole loin de son corps lui fût soufflée.‬

‪Soufflée: entendons dérobée par un commentateur possible qui la reconnaîtrait pour ranger dans un ordre, ordre de la vérité essentielle ou d’une structure réel , psychologique ou autre.‬

‪Soufflée: entendons du même coup inspiré depuis une autre voix, lisant elle-même un texte plus vieux que la poème de mon corps, que le théâtre de mon geste.‬

‪ー Jacques Derrida L’écriture et la différence.  ‬


十八世紀の宣長が八世紀に成立した『古事記』は読めないテクストだと言うために千年を要したが、解釈に依存せずに存在する実体性を思考可能になったのは不可避の他者•漢字による


書記言語における解釈に依存せずに存在する実体性を思考可能にしてくれた不可避の他者•漢字に、「本来の日本語」でないものを表象する国語学は、「和語」への侵入を語り出す


不可避の他者•漢字に「本来の日本語」でないものを表象していく国語学の近代の、「和語」への侵入を語り出す彼らの言説において、言語は拡散し主体(=日本人)が集中していく

高校の国語は精神の形成に大きな影響をもつ。文学を読む精神にとって自立である、と同時に、教科書のなかで国語=日本語における同化主義のイデオロギーに絡みとられる危機である


実体といえばスピノザ。無限に大なるものは一つだけだ(実体は一)。その神は己を表現する属性を規定するが生成する物を規定すると言わない(実体は多)。彼の実体概念は一AND多

スピノザを再発見したといわれるヘーゲルは精神の多から一へ進む時間的発展を思弁的に考えたが、スピノザは一と多の関係を互いに切り離せないような論理的ロゴスによって理解していたのではないか


「古訓古事記」とは、実は新訓古事記にほかならならぬ。そして、その本質において、以後は、みな、その亜流である。ー亀井孝古事記は読めるか」


世論調査会社IPSOSによると、東京五輪「反対」、28カ国で57%に。日本の反対は78%。菅首相とバッハ会長は歴史を書き換えるのをやめてくれ

ー>「我々は一つの船に乗っている。今回の東京大会はオリンピックの歴史を書き換えるだろう」

選手たちは国のつまらない名誉のためにくだらないメダル争いをやめて危険な東京五輪をボイコットしてください!

子供は母親の背中越しに他人をじっと観察する時がある。喫茶店で子供は此方をじっと見ている。と、姿勢を変えた。うつ伏せ両足ブラブラ。ママ「どうしてネコになっちゃったの!?」

「ぼったくり貴族」に奉仕する橋本•丸川•小池。『ダブリナーズ 』で貴族に表象される軟派的盗みを読んでいるみたいだ。退屈に耐えられぬ娘達は分かっていても身ぐるみ剥がされる


古事記』について最初に言っておかなければいけないことは、『古事記』はよめないテクストであるということ。 すなわち、<n-1>『古事記』は多数多様な入り口をもっている。『古事記』の成立の向こう側に、帝の命令と、太安万侶の書記言語化した作業の企てがある。この配置は近代の視線が支えている。日本で最初の書記言語のテクストである『古事記』を訓むうえで問題となってくるのは、声を住処とする鍵のかかっただれもはいって来れない一人だけの構造の部屋から、いかに脱出するかにある。この問題を考えることに意味があるのは、21世紀における「一国二制度」のような、多を従属させる帝国的<一>ではやっていけなくなったことを精神の歴史は教えるからではないかとわたしは考えてみる。


Durasが語った少女時代の回想。インドシナの映画館に来ると観客席の暗闇は貧富の差を隠してくれたという。これは貧しい少女にとって救いだった。多分、絶対平等の成立の向こう側に、比類なき広がりの形式ー絶対無限からの投射を影として受けるスクリーンーがあったのだろう


推敲中

DURAS『インディアン・ソング』は凄いのは、明白に隠されている画面が目の前にあることだね。『古事記』でも明白に隠されている言語が目の前にあるー本居宣長が起源を言っても

ダブリンのカトリック画家はpersonal historyを避けて顔を描かない。これとは正反対の方向だが、ロンドンの民族の実体化を避ける文化多元主義は顔を描くのは危険だ

危険ラインである二割台に落ち込んだ、事実上、誰も望んでいない現在の政権が、だれもが反対している<感染>東京五輪を支えようたって、それは「東洋の魔女」でもできない話です

灰がこの世に存在するなにものでもないのは分かっている。一つの存在者として残っているなにものでもないと、それはむしろ存在だ、なにものでもなく、あらゆる存在するものの彼方にとどまっている(『火ここになき灰』)


L'Année dernière à Marienbad (1961)

映画は、記憶を、過去とか場合によっては未来(未来を思い出す)に結びつけるのではない。記憶の成立の向こう側にある、比類なき広がりの形式としか言えないような数学的な形式に結びつけている。


計画をよく検討してみたら上手くいかないことが分かった。一生懸命作る時代は終わった。力は廃墟の諸断片の偽の一致で機能するように見えるだけだ。目的無くそれで遊ぶことはできる


『ケルズの書』の文字の装飾は、文字の無かったアイルランドにおけるラテン語書記言語の存在を称えた。『ケルズの書』の成立の向こうにある、古代ゲール語の存在は理念の高慢である

横断する世界文学。文字の装飾を以って言語の存在を称えた『ケルズの書』を見てジョイスはFWを過剰な修飾で構成した。相補的に、文字の装飾が無い『古事記』は過剰な修飾を避けた

差異が先行する。二つのイメージが成り立つ。漢字書記言語がはじめにあったというのはそういうことではないか。漢字書記言語の音声化、このひとつのイメージでは差異が事後的になる

レンブラントを絵を見てスピノザの哲学を思い浮かべられるかどうか?哲学が体している絵だとして、絵をじっと見る。スピノザは、心がロゴス(否定が決定する)を支えるというような唯心論ではないことは何となくわかる。絵のなかに他者が描かれている。ほんとうの朱子もこの意味で唯心論ではなかっただろう。天から与えられた性がロゴスを支える。また祀る共同体と祖考について弟子たちと議論していた。

知識人ならば権利の無い社会に反対すべき問題だが、責任が問われない文化人になりたい人が多いからか、昔の構造主義的な見方みたいにどうにもならない時代のせいにする分析の言葉ばかりだ


大会のモットーである「多様性と調和」(diversity and inclusion)はsounds goodだけど、アジアは多元主義をどう考えるか。


大会のモットー「多様性と調和」(diversity and inclusion)はsounds goodだけど、国家近代が多様性を包摂してしまった、東京五輪を見よ


問題となってくるのは、書記化された多元主義である。「書記化されたテクストは、その成立に前提される言語の再現的な訓みだしを阻む形で不透明なものとして存在する」(子安)

わたしはそれを「書記化された多元主義」と呼ぼう。

「書記化されたテクストは、その成立に前提される言語の再現的な訓みだしを阻む形で不透明なものとして存在する」(子安先生)。ゆえに書記化された多元主義は『古事記』をよめない


警官はデモする人々を車道に歩かせる。マスコミが見ていないところで、怖くて歩道にあがる高齢者を叱り飛ばす。そしてデモする人々のなかを車が突っ込んできたとき自動車通行を優先させる。こんな野蛮はいわゆる文面国において日本以外に存在しない。外国は車の侵入禁止が当たり前


「自由に歩行することができるというのは、近代市民社会における市民のもっとも基本的な権利のひとつである。この市民的権利を侵害するような自動車通行がこれほど公然と許されているのは、いわゆる文面国において日本以外に存在しないといってよい」(宇沢弘文『自動車の社会的費用』)


トップは、聖火リレーのときの企業の宣伝車に「ナチス」みたいなことをさんざんやらせていたくせに、自分たちは非難されたくない

ー> 経団連など経済3団体トップ、東京五輪開会式そろって欠席へ


近代主義全体主義までも理念化してしまうものだから、戦前日本はナチスのような本物の全体主義が無かったということになってしまった。国家祭祀の天皇ファシズムを問題にしなければいけないのに、専らナチスのことだけを喋ってきた


東京五輪は、経験的事実を無視した、理想だけの高慢なばかの祭典の政治化。それは、ずっと前からやっていたが、選手が集まって、始まったときは、もう終わっていた


新聞は東京五輪の光と影を見せると威張っていたが、いちいち海外メディアをみないと、選手村の毎日の感染状況は分からないのはどうしたことか?


段ボール箱を利用して作られたベッドはいくらアイデアがよくても、選手たち一人ひとりにそれを説明したうえで、彼らの了解をとったのかしら?


人権団体が小林賢太郎非難。芸人時代の過去に公の放送で「ユダヤ人大量惨殺ごっこをやろう」と悪意ある冗談を言ったとしている。この人物が平和の祭典の開閉会式ディレクターなの?


人間は、みずから表象を表象する力をもつ言説discoursの至上性のなかに、世界をとりいれる

(渡辺訳、フーコ『言葉と物』)

l’homme peut alors faire entrer le monde dans la souveraineté d’un discours qui a le pouvoir de représenter sa représentation (Foucault, L’homme et ses doubles, Les mots et les choses, p.320)


人権感覚の異常というか、今度はホロコースト•ゲームだなんて極右翼です。隣国へのヘイトスピーチをはじめた歴史修正主義者の安倍のゲームキャラ仮装(リオデジャネイロオリンピック)に拍手をおくることから問題がありました。東京五輪ははじめが間違っているから全部がうまくいきません。五輪委員会に根源的錯誤が起きているとおもいます。東京五輪は平和を爆撃する祭典になっています


言語は「公のもの」です。理念的にそうでなければ、言語は成り立ちません。他者殺戮のホロコーストにたいする共感という「私のもの」を、トランプ的に、「公のもの」にすることは可能ですがゆるされるでしょうか。もしゆるしてしまうと、ホロコーストがまさにそうであった同一性への恐ろしい精神の従属が起きてしまうとおもうのです

モンティ・パイソンは自己省察アイロニーの批判精神を発揮できたのは、BBC放送作家の多くがユダヤ系だったーハロルド•ピンタとかーことによる。ホロコーストごっこの嘲弄とは違う


ナチス表現主義をあれほど嫌ったのはどうしてだろうか?芸術は役に立たない。芸術は鑑賞する心における私のものだからか。不透明な多様なものにたいして、調和とか言って目的をいう公のものー日本民族の心という透明なものーが、心の中を隙間なく覆ってしまう。全体主義ごっこであり東京五輪開会式ごっこ


国家をすでに前提しているものによってどうして国家を説明できようか。[下p28]


記録マニアだったナチスガス室内部のなかを覗き穴から撮影していない筈がない。フィルムが出てきても極右翼は映像から何も感じないかもしれない問題。ホロコーストごっこだから


過去というのは、たんに事実としての過去のことではない。言語に体された過去のイメージthe images of the past embodied in langage、これを絶えずつくらないと、全体主義ホロコーストごっこの化石になってしまう

過去というのは事実としての過去ではない。言語に体された過去のイメージを絶えずつくらないと、過去はホロコーストごっこの化石になってしまう。われわれは言語-内-存在だから


チャーチルは、M16から、強制収容所ユダヤ人大量虐殺の情報を伝えれれていたはずなのに、全く無視していました。ドイツからイギリスに逃げてきたユダヤ人たちを拷問して英国の収容所に入れていたというだれも知らなかったショッキングな事実が十数年前に報じられました。チャーチルの対ドイツ戦は英国のための縄張り争いの軍事的な理由に基づくもので、ホロコーストをやめさせるためのものでは全くありませんでした。ロンドンもユダヤ系の友人たちは怒っていました


制度としての政治権力の理論は、普通法的な主体の法律上の概念に基づいているが、それに対して統治性の分析-即ち、逆転可能な諸関係の総体としての権力の分析-は、自己の自己への関係によって規定された主体の倫理に基づかなければならない。

-フーコ『主体の解釈学』-


特権階級観客の為の東京五輪開会式、排除と選別のホロコーストごっこ、2021


参加規模における普遍性の意義について言いたいならば、将来貧しい国も五輪を開催できるように5000億円の規模でやろうという国際世論が形成されていたなかで、約束を破って、東京五輪のために3兆円以上使っている日本は世界の参加する権利を排除していると言われても仕方ありません。


「五輪開会式、200以上の国・地域から。こうした国際大会はサッカーのワールドカップもあるが、一堂に会する規模でオリパラ以上のものはない。平和の理念で120年続けて中止は第一次、第二次大戦しかない。安易に中止を叫ぶ民放のコメンテーターたちの井の中の蛙ぶりがよくわかるのではないか。」猪瀬直樹


開会式の様子をyoutubeで見た。日本サブカルとかゲーム、アニメで構成されたものは、それなりに成立している世界だとわかったが、海外に発信するわれわれ日本人の勘違いもみえてしまう。「どうだ、凄いだろう」といくら吃驚させようとしても、海外では「凄い」そのものが通用しないとおもう、多分ね


医療崩壊が起きるかもしれないのに、医療従事者の犠牲とは全く無関係に、国家が国家自身をたたえるグロテスクな東京五輪。人権感覚の異常、極右翼の演出。無意味なドローンの儀式。特権階級の観客のなかで、大坂なおみの人権と多様性の意義を必死に訴えた言葉を読んだことのある者は何人いたのだろうか?


戦争責任が果たされていない国でのホロコースト共感の公に為された言葉の影響力は深刻ではないでしょうか。言語的行い、つまり他者への身体的障害を構成すると思います。「受けなくなった」ことぐらいで、市民として公に言うことが禁じられていることを破らないで。どうか自分の影響力を考えて我慢してください


われわれはヨーロッパの17世紀、18世紀、19世紀の明確なイメージをもっているようには、アジアと徳川日本の17世紀、18世紀、19世紀の明確なイメージをもっているだろうか?宗教と精神におけるヨーロッパの統合的背景についてならばなんとか説明できるひとでも、宗教と精神における日本の統合的背景について語ることができない。国家レベルの宗教的統合はアジアで日本が先行していたのはなぜか?清はそれを真似しようとした。この問題提起からはじめてみよう。子安先生はこう語る。台湾を通してみる限り、祖先崇拝の宇宙論であった朱子宗教改革は失敗したのであると。ここから、19世紀における宗教と精神における日本の統合的背景を「鬼神論」をめぐる言説によって見渡すことができるかもしれない。今日の講座で子安先生は17世紀、18世紀、19世紀の明確なイメージを展開する。17世紀は、天皇を京都に閉じ込めて権力を解体した(所謂政教分離)。18世紀は、正統的に、古代中国の宗教的統合性を回想する(荻生徂徠命名制作論)。だが唯神論をはっきり語らない(本居宣長の『古事記伝』)。19世紀は、異端的に、民衆の心に神が宿ると語り出す(平田篤胤の顕幽論)。kyぷわたしは考えたのだけれど、多分、「鬼神論」をめぐる言説とその展開は、「人間は、みずから表象を表象する力をもつ言説discoursの至上性のなかに、世界をとりいれる」(フーコ『言葉と物』)のである。「世界」とはアジアのことである。


アイルランドに行くと、巡礼と聖人について喋っている。人間共同体の始まりは祖先崇拝。これは聖人が制作するという荻生徂徠のように、私は『六経』の聖人は信じるが鬼神は信じない

列聖とは、聖人崇敬を行う教会が信仰の模範となる信者を聖人の地位にあげることをいう。ダブリンでアル中を克服した労働者を聖人にしようとした話の芝居をみた。列聖の政治化である


ホロコーストごっこ」について倫理的問題として考える人はひとりもいない

 「結局、女性差別やいじめ、反ユダヤ問題などは、ただの間違いではない。これらの問題は、島国の日本では外国人が批判したときにのみ問題になるのだ」(南ドイツ新聞)


19世紀における宗教と精神における日本の統合的背景は、ヤバイといえばヤバイのであるが、荻生徂徠の紀元前の古代中国の回想による。宣長を経て、それがわたしたちを語っている


19世紀における宗教と精神における日本の統合的背景は、一番ヤバイのだが、荻生徂徠の紀元前の古代中国の回想による。宣長を経て、それが天皇とわれわれ自身を語っているとしたら


立ったか、立たなかったかというような細かいことをくどくど言っているのは、言論のゲンロン化である


宗教と精神におけるアイルランドの統合的背景は、詩人イェイツのビザンティン帝国の回想による。ロマン主義的に<われわれ自身>を語る。彼にフランスから戻ってアイルランド神秘主義に取り組めと言われたシングは、アラン島に行ってゲール語の言語調査した。同じ復古主義でも、シングの方はリアルである


昨日の講義(『第二江戸思想史講義』)をおもいかえしながら、17世紀に天皇を京都に閉じこめて権力を解体したことから展開した、19世紀における宗教と精神における日本の統合的背景を辿ってみる。荻生徂徠の紀元前の古代中国の回想から影響を受けた宣長を経て、文献学的な<正統>は、天皇の青写真を語っている。宣長は神について非常に分かりにくい言説を語ったが、平田篤胤における神学的な<異端>は民衆の心に神がいると語りはじめた(折口信夫と柳田邦男の言説を準備した)。そして後期水戸学は徂徠、宣長、篤胤から影響を受けながら、儒家神道の枠を超えて、復古主義の言説である近代的な政治神学を形成した。問題は、京都から天皇を連れ出してきた明治政府である。薩長は<明治維新>を<王政復古>にしてしまったのである。平等主義の社会改革運動を行っていた平田派たちは明治政府から追放されてしまった(偶然だが、アイルランド時代の私の教え子の一人がその子孫だった)。20世紀は、天皇に権力を集中させたまま、大正における帝国主義の確立とともに、天皇ファシズムに帰結する昭和10年代に向かって、「祀る国家は戦う国家である」という国家祭祀の体制を展開したが、これは明治における王政復古によって確立したのである。<朱子鬼神論の再読>というテーマをもった講座『第二江戸思想史講義』は、『維新』的近代の幻想に続くものとなってきた。


大会のモットーはレトリックだけか。この機会に考える。<韓>の排除によって成り立った国家が、そのあり方をやめない限り、「多様性と調和」を支えることなんて無理、できないって


アイルランドみたいに貧しい国の選手は世界記録をもっていても自費で五輪に参加しなければならない。そういう選手達を応援したいのに。彼らとわれわれを引き裂く日本政府が罪深い!


ポストモダンユダヤ的なものー砂漠のイメージーの再読は、近代主義におけるプロテスタンティズム的なものに対する対抗としてあったとおもう。ポストコロニアリズムの現在は、イスラムからの近代批判を無視できなくなっている。中国におけるイスラムの影響はあまりわかっていないのでわからないのだけれど、井筒俊彦のコスモスと反コスモスを読みながら、もし形而上学神秘主義としてとらえたら朱子学イスラムの中国化なのかと勝手に考えてきた。『世界史の構造』は、はっきりわからなかったが(分かる人いる?)、神秘主義の国家と宗教に従属しない精神の自由が広範囲に受けいれられたというようなことをペラペラ饒舌に喋っていたと覚えている。だが柄谷が言うようにそう単純に行くのだろうかと違和感を感じて読んだ。必然として、世界帝国と世界宗教は一緒にやっていくものなのだろうか?この見方は時代遅れで、ヘーゲルの事後的読みではないか。

さて昨日の講義のなかで話に出たことなのだけれど、唐の時代の仏教を禁じて、宋代に確立した祖先崇拝の宇宙論である朱子学はアジアを支配する宗教としては失敗したのではなかったか。宗教改革失敗の理由はわからないが、宋の後にモンゴルが支配したこともあるだろう。朱子学は朝鮮において継承される。「理」説の純粋化が起こり、そして祖先崇拝はシャーマニズムに融合した。中国はどうなるか?台湾を通してみる限り、中国は多様なもの儒教•仏教•道教が共存したのである。台湾大学で講演した先生が連れていってくれた「九份」を思い出すが、映画「悲情城市 』(1989、侯孝賢監督)の舞台であるここは、助けてくれる異界の入り口がたくさんあるという感じで、50メートルごとに先祖を祀る宗廟がある。日本は伊藤仁斎荻生徂徠の古学が朱子学批判を展開した。祭祀は古代におけるプリミティブなものに結びつけられていくことになった(本居宣長平田篤胤)。多数の部屋に通じている廊下のように、此方が成立する向こうの世界は多数の入り口があると語られていく。


なんだ、こいつ?われわれが漢字で考えてきた議論の価値をゼロにしてしまうような反知性主義

「コンセプトの日本語は用意していない。世界に分かってもらいたいということで英語のみになった」(組織委日置貴之)


神も聖人も超越者だとすると、世界にたいして中立的にある原理である。梟猫はかく語りき。これは遠過ぎる。此方に成立する彼方の世界は多数の入り口をもっていなければならない


日本における全体主義の問題は行いに関する問題である。だがカント『実践理性批判』ではなく寧ろ『純粋理性批判』を読むのはどうして?ドイツの全体主義をいかに知るかが問題なの?はっきりさせておこう。日本ファシズム天皇ファシズムのほかはない。ドイツの全体主義の定義(?)から説明できなくても、日本ファシズム天皇ファシズムとして存在した。天皇ファシズムは国家祭祀であった。国家祭祀における祀る国家は戦う国家である。‪この全体国家のもとでは、「おまえは非国民だ」と指さされたら逃げるところがないのである。心の隅々まで支配される。‬だから国家祭祀をやめなければいけないというのは、人を殺すなと命じる理念的理性の要請とともにある、行いに関する問題である。憲法は国家祭祀を禁じている。再び天皇に全ての権力(死者を祀る権力を含めて)が集中するあり方を拒んでいる


国家祭祀とは祀る国家が戦う国家である。国家祭祀はアジア人を2000万人殺した。そもそも他者を殺してはいけない。それは不可能か?不可能だからこそ理念が要請される。理念的理性がなければ道徳性が成り立たない。道徳性がなければ人間は人間としてやっていけなくなってしまう。


アメリカ人は映画をみるとき、喋るひとの姿を見なければいけない。だれの姿もないところで言葉をきくとそれは幽霊だとおもってしまう。つまり映画において彼らは独白が理解できない。『タイタニック号』でもみていただくと気がつくが独白というものがない。ハリウッド映画とはそういうものである。<ふきだし>で成り立っている漫画も読者はだれが喋るのかを常に見ている点で、ハリウッド映画とおなじである。今回東京五輪の<ふきだし>に感心しているひとが多いが、わたしはあれをみて嫌な気持ちになった。なんでだろう?赤塚不二夫は『天才バカボン』で<ふきだし>のない漫画ーバカボンもパパがおなじ姿勢で同じところをずっと座っているーを十頁以上描いていた。子供のときはその意図は何だったのかわからなかったが、スランプだとかギャグが思いつかないとかそいう単純なことではないことだけはわかった。彼は<ふきだし>を拒否していた。そうしてかれは人間が人間であるかぎりにおいて人間におけるもっとも大切なものを表現していたのだ。独白である

徂徠は「仁」という物があったと言う。後の時代にこの「物」を概念化していく名を与える。徂徠一番弟子の宣長にとって迦微(かみ)がそういう物だった。この見方は多元主義の方向だ


スポーツは映像がないが、例外的に、重量上げは映像がある。重力の秩序に逆らう不均衡。いきなりの落下。期待外れ。見る人の溜息。不安定な視線の彷徨い。だが今年は見ていられない


Japan's Olympic organizers lied about its weather, and now athletes are paying the price


「鬼神論」をめぐる言説の空間

(子安先生の講義を参考にした)

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MEMO

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「漢字は借り物である」か?「漢字は借り物である」のナショナルな物の見方は、漢字はいつまでわれわれのものではないという。漢字から侵略されたのであって、それ以前に固有の言語があったという。しかしそうだろうか?漢字の受容から1000年を経て、漢字は漢字仮名混淆文の成立とともにわれわれのものとなった。江戸時代に言説が豊かに存在したのはこのためである。江戸時代の前まで天皇・貴族・寺社が独占していた学問をわれわれは自立的に考えることができるようになったのである。「アジアの知識革命」は“危機”の17世紀に起きる。言説<漢字は借り物である>とは異なる物の見方を考えることが必要だ。言説<漢字は借り物ではない>で表象されるのは不可避の他者である。不可避の他者に漢字という名を付与する。そうして漢字の名において不可避の他者性の存在を名指すのである。「漢字論」は言語支配者の中国からの議論を十分に共有するとき、理念的に、これを21世紀の日本文化と考えていいのではあるまいか。新しく?、対抗西欧の近代に日本文化を発見する反復はいつまで続くのだろうか?歴史が送り返す悪夢から目覚めるために、対抗西欧の仮装をやめることにしよう


古典主義時代における「言説」の基本的任務は、<物に名を付与し、この名において物の存在を名ざす>ことである。ーフーコ『言葉と物』


La tâche fondement du <discours> classique,c’est d’attribuer un nom au chose, et ce nom de nommer leur être. ーFoucault


失ったときは失うことができる。それに代わるものをさがす必要がない。東京五輪の復興幻想を失ったのに、聖火リレーが何かの意味をさがそうとして滑る記号として浮遊しちゃっている


マンボウでも止めれないのか?聖火リレー愛国主義なるものの幻想には果てしがない


今日、戦争の目的は革命であり、戦争を正統化できる唯一の大義名分は自由という革命的主張であるというのは、ほとんど当然のこととなっている。したがって、人類が絶滅しない限りは、予見できる未来に残るのは戦争でなく革命であるというのは確かであろう。ーハンナ•アーレント[革命について』序章戦争と革命


京都に来て1970年代の吉川幸次郎講演集を読む。<外国人は規則に従う(従え)>と<わが民族は自由な思考の主体である>という帝国のオリエンタリズム的視点の分割をおもう。古学が見上げる<偽物>として、中国文学が見下される<本物>として、再構成されているような..。吉川の語りに帝国主義の視線はないが、だけれどオリエンタリズムの構造は保たれている


孔子は人間でありますが、実は神のような性質をもっていると考えられた」(吉川幸次郎、”神様のいる文明といない文明“)。ポストモダン孔子には違和感を感じる近代的言説である。


「うたかたと瓦礫」ー平成天皇の即位と譲位という平成の時代に起きた災害で表象される生きにくさ。しかしもっと、平成天皇の被災地での祀りがほかでもない政治的な災害だったーその代償として政治について益々自由に喋れなくなってきたーという点がしっかりと認識されていればアートからの異議申し立てに意味があったと思ったのだけれど


物の見方と思うが、吉川幸次郎は自分が半分は中国人という。すると半分がフランス人か。中国人とフランス人が「鬼神」論をどう考えるかよりも日本人がどう考えてきたか知りたい


宣長の古学と篤胤の神学。後期水戸学の言説は国家を制作するために孔子のような聖人を神さまとして要請したのかもしれない。理念的には神は平等を実現する人のなかに表象される至高者。問題は、王政復古の言説である。生者の権力すべて、死者を主宰する権力も、天皇に集中させてしまった。軍国主義全体主義は同じ方向をもって、アジア2000万の命を奪うことになってしまった


「言説(ディスクール)discoursは、文あるいは言表の連鎖としてまとまった内容をもつ言語表現の意味であるが、ギリシャ語の「ロゴス」logosに由来する語であり、直接的、直観的な表現ではなしに、概念作用と論理的判断をへた秩序のある表現というニュアンスを帯びていることに注意すべきであろう。」(『言葉と物』事項索引より)ロゴスに関していうと、ロゴスと表象は一緒にあるが、思考の優先順位として、ロゴスがはじめにある。ただしロゴスは、近代的に、いいかえれば、ヘーゲル的に、表象を排除するものではないのではないか。プラトンのご研究からそういう指摘をなさっている方の投稿文を昨夜読んだ。わたしの関心が、ギリシャ語の「ロゴス」logosに由来すると言われる」言説(ディスクール)においてもおなじことがいえるのではないかということ。言説と表象は、生と死は一緒にあるように、ともにある。言説は表象を排除しない。ただ、思考の順番として言説の文から考える。そしてあとで表象されるものをかんがえてみるのである。『言葉と物』のフーコが構成すえう言説はそうなっているのかすべての文についてたしかめてみたい。根気よくやってみようかなとおもう


未知の他者と出会うために、今迄は脱出する出口を一生懸命かんがえてきたのだけれど、隅々まで立ち入り禁止のようなこの時代は入り口をかんがえなければならなくなったようだ


東京五輪の根本の問題は、これからは五輪を5000億円規模にして貧しい国にも開催の機会を与える平等の理念を踏みにじった近代日本的傲慢さにあるのではないだろうか


17世紀といえば、世界システム論が語る「危機の17世紀」。17世紀にヨーロッパは外部へ出た。ヨーロッパでは芸術批評が一般の人々に読まれることがはじまったのは17世紀半ばからである。それまでは芸術批評は特権的階級だけが読んだ。17世紀にアジアも外部へ出た。豊臣秀吉の対外進出は明帝国の崩壊の原因となったといわれる。


現在イスラエルにおける軍事の圧倒的優位は米国に支えられているが、百年後は同じではない。ユダヤが大切にする教育で貢献せよ。そうすればイスラムに生かしてもらえるかもしれない


ダブリンに引っ越したとき、殆ど知らなかったYeatsの詩集を近所のコンビニで1000円ぐらいで買った


述而不作、信而好古

「述べて作らず、信じて古えを好む」


A transmitter and not a maker, trusting in and loving antiquity


「述」は祖述。「信」は、イ+言。人間が外に立っている。言葉と向き合う姿。「信」は依拠。

伝染病のこの時代、空間的に、日本脱出が難しくなった。時間的に、「古え」に脱出する。まだ権力はコントロールできない過去のテクストをどう読むか自由である


‪1990年代後半にダブリンに引っ越して1週間後に、「モロイ」のひとり芝居をテンプルバーでみた。ベケットBecketの小説を読むのは拷問みたいに身体が痛くなってくるときがあるが、小鳥が存在する外部に世界の中心を構成している


強気だったり弱気になったり... ネオリベ主催の東京五輪のギャンブル化


「嗟、天我を喪ぼせり」(『論語』)は顔回という学問の継承者を失った孔子の嘆きか、あるいは顔回と共にもう政治に関われなくなったと嘆いたか?書経的世界の「民名」は失われた「天命」の回復なのか?言語の表象的機能の古学から、『朱子語類』との関係において、「十六世紀以来忘れられていたあの生のままの存在(エートル)へとさかのぼった」のか?19世紀の復古主義における反言説的な政治神学的なものついて考える..


「なぜ日本政府は東京五輪を中止しないのか」。彼方は契約と財産権がある。此方は鎖国する権利がある。自らを排除するものを全面的に受け入れることができぬ鎖国はわれわれの伝統だ


ハリウッド映画の女優は叫ぶ。イギリスで最初に叫んだひとはいつだれかわかっている。共同体の堺で見知らぬ者に出会ったら皆に知らせるために叫ばなければいけないという掟ができた


アイルランドでは「元気ですか?」と挨拶されたとき「元気です、あなたは?」と答えなければいけない。これは、村の1キロ先の隣人の生存を確認しに出かけた飢餓の時代から始まった


「Cloch」のほうはもう忘れてしまった。いまこのビデオを再生できないし。何とか覚えていることを書くと、彫刻家が主人公で、荒野の石を前に、いつまでも仕事にとりかからない。なんかいつまでもタルコフスキーの宇宙飛行士のように自然のなかをウロウロしている(アイルランドの芸術家から聞いたことがあるが、彼らはロシアの芸術家にちかいものを感じている。) 

石が叫ぶ、「俺を外に出してくれ!」と


「言語に起源がある」は他者(=言語)を外に追い遣る。「言語に起源がない」は他者を国語に内部化して他者を内に閉じ込める。起源に沈黙する反言説(=文学)が他者との関係をもつ


「漢字は借り物である」は他者を外に追い遣る。「漢字は借り物ではない」は漢字の日本語の内部化によって他者を内に閉じる。また「漢字=エクリチュール」は他者との関係が無くなる


アイルランドが支援したパレスチナ人達は音楽を4年間勉強した後に一時帰国。ダブリンに戻って来れないらしい。死んでしまう。紛争地域を「どっちもどっち」と言う人は一人もいない


「発足後最低」というけど、「コロナ対応評価せず64%」なのに、まだ「内閣支持32.2%」もあるのはどうして?関係を断ち切ることができない。内閣支持率とは日本的情緒率


TOKYO KO


溝口雄三の中国を方法とする世界は、『朱子語類』の読みと共に位相空間の中国化から成るが、溝口が思考したことより思考しなかったことー『鬼神論』の言説ーが重要である


Only 1% of Japan is fully vaccinated against COVID-19. Is it ready for the Olympics?


「仏教の中国化」(華厳思想)とか「儒教の日本化」(古学)を考えたが、『朱子語類』と共に「位相空間の中国化」(溝口雄三の中国を方法とする世界)を問題とする必要がでてきた


「中国を方法とする世界とは、中国を構成要素の一つとする、言いかえればヨーロッパをも構成要素の一つとした多元的な世界である」(溝口雄三1989)


メディア論は、アイルランドを物語るハリウッド映画が発明した言説「アイルランド人は祖母を守る」を分析する。IRAが選挙宣伝文に利用したとき人々はそれを伝統であると錯認した


アイデンティティの政治は時代遅れか。主体無くしてファシズムと闘えるのか。だがファシズムでないものをファシズムと呼んでいないか?われわれと共にあるのは文学の思考の柔軟性


対英闘争では敵を殆ど殺さなかったのに内戦で互いを殺しあった歴史がアイルランド人は痛い。映画『マイケル•コリンズ』がラストに語る「銃の政治が終わった」は嘘のナレーション


彼方は何を考える?香港の学生達は曖昧な観念。中国共産党に対する明確なイメージをもつ。此方は自己否定の解体に曖昧な観念はない。でも自民党を拒む明確なイメージをもたない


「俺たちは豚小屋のブタだ」

自由なのに、いきなり、だれも部屋から出れなくなった。だれも帰らない。内部に絡みとられるブルジョワ社会。日本近代の部屋も出れなくなっっている(『皆殺しの天使』)


ゴダールがもっているのは、入院中に彼が発明した「オーディオ・カメラ」


わたしの一番好きな映画。アンヌ= マリー・ ミエヴィルの力がなければ間違いなく完成しなかった作品。フェミニズムのグループはもっと彼女の役割を明確にすべきだと要求している。『カルメンという名の女』(1982)は、病院の花壇にいるゴダール自身の姿から始まった。ビゼーのオペラは口笛だけ。寧ろ映画はベートーベンの音楽で成り立っている。銀行襲撃の場面で男女が出逢うが、彼らのこの絡みあいは彫刻を表象させる。そして二つの直進的系列。音楽の系列を為すベートーベン弦楽四重奏曲9番、10番、14番、15番、16番と、自然の系列を為す夜明けの波たち。彫刻的なものを映画と呼んでいるようだ。


不均衡のままに成立する安定もあれば、見よ!均衡のままに成立している不安定を。映画『カルメンという名の女』は光と闇とが均衡している。映画の中にゴダール監督自身がいる。人々はゴダールと共に明るく照らされる自らの場所を見る。ゴダールは彷徨っていて、視線を画面の端の隠れている闇へと誘う。均衡のままに成立している不安定さ、これがリルケの美とおなじものを形成するとわたしはおもう。


A Sports Event Shouldn’t Be a Superspreader. Cancel the Olympics.


古事記』の漢字を「借り物である」と考える必要がない。漢字を自分たちのものして思考できるようになった後に、「借り物である\ではない」をめぐる言説を議論しているだけ


『ケルズの書』のラテン語は「借り物である」と考える必要がない。文字の装飾は、ラテン語を自分たちのものにして思考できるようになったという意味で言語の存在をたたえたのだ


アイルランドで一番衝撃を受けたことは、歴史的な巡礼地ツアーで無名のひとの墓標を読み上げていたことであった。コスモロジーがあり、解体されてはならないエクリチュールがあった


参加国の数からいうと、サッカーのワールドカップのポストコロニアリズム世界の方が、金持ち国の社交クラブ<五輪>の近代よりも「普遍性」がある


MEMO


17世紀以降、世界は、人間は、どう変わったのか。人間が世界を考えることが始まった。つまり世界は有限な人間の知にもとづいて語られることになった。有限なものは無限なものを認識できるか?これに答える理念性の言説の成り立ちとともに、思考可能なものが近代において再構成されたのである。だけれど、思想史にとって、常に問題となってくるのは、思考可能なものが語らない思考不可能なものを語ることについてである。このとき、根源的錯認を語ったデカルトは重要であるようにおもわれる。


ワクチンも足りないが、怒りも全然足りない


近代の成立は虚構なくしてはあり得ないが、ヨーロッパは行き過ぎた虚構性(例. ホロコースト)を否定している。トランプの時代の「ファンファジー•ランド」(アメリカ)は過剰な虚構性を拒まないという。比べると、近代主義者からみるち、近代日本は虚構性が足りない。理念性が重んじられない。理念と無関係である肉体の真実に絡み取られる。たとえば、五輪は隅々まで理念的虚構性なのに、肉体の真実そのものであるという錯認のもとで、東京五輪をやめられない。こういう風に考えることは間違ってはいない。しかしもし虚構性/理念性は西欧におけるものと考えてしまうとしたら、それは近代のオリエンタリズムだろう。もっとこれから考えていきたいとおもうのは、ポストモダンのアジアにおける虚構性/理念性とはなにかである。戦前のアジア主義日中戦争によって破綻した。この反省に立って、方法としてアジアをグローバル•デモクラシーのあり方とともに考えてみることは意味があるだろうとわたしは考える。方法として思考する外部の思考を力の場Force fielと名づけることには反対しない


西欧と異質な日本的なものは力の場Force fieldであるとポジティブに語る人に聞きたいが、柳田邦男的な個を消去するような共同体の村に本当に生きたいと思うのだろうか


フーコの「ドンキホーテ」の分析は有名だが、ほかに、Madというのは、一度も会ってないその人をよく知っているし、逆にずっと会った人を全く知らないのである。Madの間違いは偶然による。詩人も間違える点でおなじだが、過去から大きな世界を初めて現出させることができる。これは必然のような世界である。ここで考えてみる。多分聖人を天皇とした復古主義はMadではなく詩人だった。過去を所有したい復古主義にとって、問題は、過去がラディカルに測り知れないほど大きすぎることにあった。この大きさは荻生徂徠宣長における言説空間において構成されているのだけれど。「王政復古」や「対抗西欧の近代」が囲いこむことができない。


箱根オフィーリアと呼んでいる母がいて、きょうはmadの日である


近代日本は古学からしか生まれなかった。復古主義は過去を所有し植民地化したかった。だが無根拠な過去はラディカルすぎる。復古主義は王政復古でも対抗西欧の近代でもありえない


日本国家は精神分析して貰う必要がある。かくも五輪開催にこだわるのは何故?無意識に、まだ対抗西欧的に、西欧を支える彼らの過去を植民地化する欲望の近代に絡み取られている?


2022北京五輪のことを考える。マルクス・ガブリエルが言うように、中国に人権のことを言っても耳を貸さないだろう。ヨーロッパは何もできないと彼は言う。これについてチョムスキーアメリカは何もできないとはっきりと語っている。しかしガブリエルは日本は漢字が読めるのだから中国と対話できるはずだと指摘する。だから中国を孤立させずに中国と対話できるのは日本だという。これについては、漢字支配者である中国は、漢字マイノリティの日本が漢字を自分たちのものにして思考できるようになったこと、そして中国論の言説を展開できたことに関心をもっているようにみえる。たしかに、対話の可能性はある。

ガブリエルは漢の時代に注目しているようだ。漢字の「漢」は、「漢」の「漢」である。帝国の支配を正当化してきたものこそは漢字なのである。しかし現代もそうであるか?ここに根源的錯認があると言わざるを得ない。現代中国の漢字はどんどん音声化しているからだ。つまりそれは一国家の国語(母国語)となっている。アジアの国々にとって、問題となってきたのは、アジアにおける帝国の支配ではなく、アジアにおける一国支配なのだ。

中国との対話が重要だとマルクス・ガブリエルが言う。中国を孤立化させるなと。ポストモダン中国が自らのアイデンティティを置く宋の時代の思想を研究して議論できることが大切となってきたのだ。

あらためてアジアとはなにかおもう。アジアは漢字文化圏であり、祖先祭礼のコスモスロジーをもっている。もうひとつ、破綻した対抗西欧の近代(=日本)をもった。アジアは国家祭祀を止めることを書いた憲法をもっている。逆に、漢字文化圏における国家祭祀を禁じた祖先祭礼のコスモスロジーをアジアとわたしは呼ぶのである。


貴族は奪う。言説「バッハ会長はぼったくり男爵」で表象されるのはこれだ。しかし産業革命の敗者である貴族は農民と同じような発想をもっている事実にオスカー・ワイルドは驚いた


中国との対話が重要だとマルクス・ガブリエルが言う。中国を孤立化させるなと。ポストモダン中国が自らのアイデンティティを置く宋の時代の思想を研究して議論できることが大切


四年前から言っているのだけれど、日本主催の東京五輪は、イスラム国の国際デビューを奪った国際犯罪の疑いがあるという声がまだない


神のいない文明と神のいる文明との交差?


人は死んだ後に魂は上へ魄は下へ行くというふうに鬼神の言説は自然哲学化される。ここから、自然は鬼神であるということになる。顔は鬼神であると。文字が無かった時代の洞窟のなかに描かれた絵は抽象性をもつ。イメージが独立すると、物で書かれたものは何の言説であったかがわからなくなる。文字があらわれると文字がどんどん抽象化していくが、絵は線の抽象性を失っていく。クレーで再び絵は抽象化していく


憲法改正の不可欠な条件として、「全有権者過半数」を手続き的要件としてもたなければ意味がないでしょう。自民党の集票マシーンに委ねることはできません


二十世紀思想を代表するハイデッガーとハンナ•アーレント。『存在と時間』は死の意味を、『人間の条件』は出世の意味を考えた。出世としての移民を受け入れる多文化主義世界市民


なぜ、公害大企業への異議申立ては場所を必要としたのか?なぜ哲学は人々と話す場所を必要とするのか?場所とは情報の流通に全て置き換えてはならない知性をもつ倫理的なものだから


東京五輪は、間違ったグローバリズムー世界市場に流通するもの、増えるもの、経済活動の加速が善だーの発想。もっと人々が持続的に共存できるグローバル•デモクラシーの哲学が必要


生物学的危機を民主主義によっては克服できるとおもっていない世論は、ファシズムでもできなかったような二人以上の社会的距離を厳密にコントロールする憲法崩壊へ駆け込み始めた?


思考は知性のあるものから充実するのではないか。現在はウイルスという知性なきものだけを考えさせられていて、売れる本がよい本というような似非統計的世界観が爆発的に増殖した


デュラスとゴダールの映画は現代アートの方向と一致している。言説的なものと可視的なのものは互いに独立している。どちらがどちらに依存しているのではない<と>的関係の探求


夜は監視カメラよりも街灯を増やした方が犯罪防止効果があるという。言説「全員を監視するカメラで安全である」は可視的なものとは独立している。権力が包囲してくるだけなのに


『監獄の誕生』のなかでフーコが分析している、一望監視方式監獄がある。簡単な権力仕掛けで全体をコントロールできる鎧戸も見ることができる。一望監視方式の天窓は大英帝国の「善」のシンボルらしい。しかしこんな場所では冬は凍え死んでしまう。実際に多くの囚人が死んだらしい。包囲してくる可視的なものは、言説的なもの(刑法は何の罪を犯したらどのくらいの罰で払うか示すような価格表という解釈をめぐる言説)とは独立している。たとえば、言説「全員を監視するカメラのおかげで安全である」は可視的なものとは独立している。効率よく権力が包囲してくるだけなのに


『監獄の誕生』のなかでフーコが分析している、一望監視方式監獄がある。簡単な権力仕掛けで全体をコントロールできる鎧戸も見ることができる。一望監視方式の天窓は大英帝国の「善」のシンボルらしい。しかしこんな場所では冬は凍え死んでしまう。実際に多くの囚人が死んだらしい。包囲してくる可視的なものは、言説的なもの(刑法は何の罪を犯したらどのくらいの罰で払うか示すような価格表という解釈をめぐる言説)とは独立している。たとえば、言説「全員を監視するカメラのおかげで安全である」は可視的なものとは独立している。効率よく権力が包囲してくるだけなのに


Women and Hollywood 


Marie Magdalene “Marlene” Dietrich was born in Berlin in 1901. Dietrich began her career as a vaudeville performer in Weimar Germany. She moved to Hollywood and eventually became a revered film actress, “bisexual sex symbol, willful camp icon, [and] paragon of feminine glamour” — “comfortable in top hat and tails, ballgown, or gorilla suit.” But the actress did not forget about what was happening back home in Germany; Dietrich became involved in the fight against fascism during WWII. She “used her likeness to fundraise for Jewish refugees escaping Nazi Germany and performed on USO tours, earning her the Metal of Freedom and Légion d’honneur by the French government,” the press release details. Dietrich died in 1992 at the age of 90.


By Rachel Montpelier


近代は伝統的なヒエラルキーを軽蔑した調子で「前近代」と呼ぶけれど...


‪「つまり、近代の転倒は、一つの包括的原理がなければいかなる秩序も不可能であるから、人間のすべての活動力には人間の同一かつ中心的な第一義的関心が支配しているにちがいないと仮定している点で、伝統的なヒエラルキーと同じである。‬」


‪The modern reversal shares with the traditional hierarchy the assumption that the same central human preoccupation must prevail in all activities of men, since without one comprehensive principle no order could be established.  ‬

‪ーHannah Arendt ‘ The human condition ‘‬


フクロウ猫はかく語りきー


理(形而上学)において考えられるものは、気(形而下)において根拠を与えることができない。そうでないと、形而上学が成り立たなくなる。同様に、死において考えられるものは、生において根拠づけられ得ない。そうでないと、死を考えるために生から考えることが、死を解体してしまう危険がある。

そう理解したうえで、性理論と理気論の成立と共にある鬼神の言説にしたがって、近代国家を確立した19世紀は生者の間に祭祀共同体を制作したが、21世紀は、2000万人を殺戮した戦前の国家祭祀との連続性を断ち切ってアジアとの関係を制作することが課題であるとわたしはおもう。


知識人の近代は自分の国を選ぶ。日本知識人のように土地に執着したりしない。マルクスの妻イェニーについてだけど、亡命先のロンドンには死に場所が無いと感じたと私は思うのだよ


知識人達の無神論ではないが唯物論である批判精神はドイツ観念論の英国化だろうか。英国に長くいればわかるものか?否、イギリス人になってしまっては見えなくなるものかもしれない


ポルトガルとスペインの迫害からアムステルダムに逃げたユダヤ人でユダヤ教に戻ることがなかった人達は宗教をもたなかった。ヨーロッパが知らなかった無神論の歴史の始まりである


相手に民主化を求めるときは先ず自分を民主化しなければなあ。もっと一緒にやりましょうと。しかし相手に民主化を求めるときに、こちらが非民主化してどうするつもりなのだろうか?


マルクスの妻イェニーを不安にさせたのは、だれも判読できない文字ではない。彼女だけは夫マルクスの原稿を読めた。エンゲルスのために読めるようにした。マルクスの言語は古代帝国的である。それに対して、エンゲルスの書き方はターナーの絵あるいはバルザック文学みたいに平面上に何でも間でも貼り付けるように書いた。ではイェニーが何をしたのかとイギリスのフェミニズム演劇は問うた。アイルランドのマックギネスは問うた。わたしも彼に感化されてイェニーの戯曲を書いてみた。もう少しでイェニーの入り口に入りそうなのに、しかしいつも遠ざかる。イェニーはエクリチュール的媒介である。多分『資本論』のエンゲルス化が起きた。しかしイェニーにとって彼女を不安にした大きな他者は何だったのか?問われるべきなのは他者の名である。マルクスでもエンゲルスでもない。


東京五輪は、国家権力の集中を正当化する契機としての復興した日本のシンボルでなければいけなかったのですが、政財官マが推進する東京五輪そのものが災害になる危険がでてきました


・「礼」とはヘーゲルの客観的精神Der objektiven Geistのこと。


(Wikiより。「客観的精神はヘーゲルによって提唱された概念であり、主観的精神と絶対的精神の中間に存在する精神とされた。この段階というものは人間の精神の成長の過程にあり、自由となった精神が外的には法律として表れ、内的には道徳として表れ、これらが統一されることで人倫となるということであった」)


•帝国は古代的世界の「礼」が支えることが果たして可能なのか?『世界史の構造』の柄谷と中国のイデオローグがいうようには..


朱子の鬼神論の言説は漢字文化圏コスモロジーである。鬼神論の言説で表象されるものは絶対無限と絶対平等を語る。絶対無限と絶対平等をアジアと名づける。そして精神は鬼神として理解できるとすると、アジアにおける共同体について何が言えるだろうか?


•誰も語らなかったポストモダンの国家は権力の集中を解体することが要請されるー外にたいしても内にたいしても


... mais celle qui la supporte et se conserve dans elle qui est la vie de l’esprit. Il ne gagne sa vérité qu’en tant qu’il se trouve lui-même dans le déchirement absolu.

死に耐え、死のなかでおのれを維持する生命こそが精神の生命である。精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。(ヘーゲル精神現象学』Hegel, Phänomenologie des Geistes 長谷川宏訳)


Mais l’esprit devient on-jet, car il est ce mouvement de devenir à soi un autre, i.e. ob-jet de son Soi, et de sursumer cet être-autre. 

が、精神が対象となるのは、精神が、自分の外に出て、自分が自己(意識)に見つめられる対象となり、さらに、この外なる存在を破棄するような、そういう運¥動だからである。(ヘーゲル精神現象学』Hegel, Phänomenologie des Geistes 長谷川宏訳)


「意見がない」と言うことが意見を形成しているように、「政治的に中立」は政治的な態度である


ゴダール『新ドイツ零年』(1991年製作)という映画が日本で公開された年が1993年12月25日。このとき、映画館で蓮見重彦が映画を解説した。政治について滅多に口にしないが、近衛内閣と比較しながら、細川護熙にたいして警戒の言葉を語っていたので驚いた。大きな政治の変化を予言していた。わたしの関心は思想である。近衛内閣の初期は三木清がいたが、段々と思想の幅がなくなってくる。遂に思想の幅がゼロになる。蓮見の危機感にしたがって敢えて30年代と90年代を比べてみる。2001年に出た柄谷行人トランスクリティーク カントとマルクス』は、カントを論じたのはよかったが、日本知識人だけがやるという意味でファシズム的と言わざるを得ないようなマルクス資本論』の読みへの拘りを示した態度に不安を感じないわけではなかった。知識人であることをやめたという発言には大いに不安だった。しかしその意味が本当にわかってきたのは、十年後の『世界史の構造』(それに続く『帝国の構造』)においてであった。アジアは帝国か民主かを考えている。しかし日本の知識人だけが十分にこの問題意識をもっていない。遅れてしまっている


思想史をやる者は中に入りすぎてはいけない。だから散歩でも京都御所の門を潜るのは不安だった。桜の美しさに心を奪われたときの後悔といったら..


昔株屋の新聞と言われていた日本経済新聞に、一行も読めない故に世の不安を煽っていた「やさしい経済学教室」が存在感があった。Fbは「やさしい思想史教室」が必要な時ではないか


朱子語類


岡倉天心の講座に出た和辻と大川と九鬼は感動した。和辻はヨーロッパに行ったときは当時のヨーロッパの学問と対等にやっていくことができたが、漢文を読めなくなった世代であったという。これはなにを意味するのだろうか。わたし自身について言えば、漢文の詩は李白とか簡単なものを学校で習って読んだ。夏目漱石草枕』の漢文を読んだが、漢文を書いたことは全く無かった。これがはじめて書いた漢文。「泊」という字が好きである。アジアから、上から下へ、右から左へと読む漢字の文が急速に無くなっている。新聞と国語の教科書ぐらいか。漢文訓読とは、漢文の語順構成を維持しながら、訓点を付して日本語の文体に置き換えて読解すること。アジアの国はそれぞれの漢文の読み方があったが、アジアの知識人は日本の知識人のように読んだものをいちいち文として書いたりしなかった。日本の場合、書いた文が段々元の漢文に戻らなくなってきたらしい。これが日本語の歴史であるという。思考するために、大いなる他者から与えられた漢字を自分たちのものにしていった歴史なのだろう


インドネシアの人々が新聞をインドネシア語と中国語の両方で読めることに関心していた(fbのインドネシ中国系の方が十数年前に嘆いていたが、若者がオーストラリアの支援もあって英語を一生懸命勉強していて中国語を読めなくなっているらしい。)田中角栄の日中国交回復のときに北京に関税の取り決めのために行った父は、体制が違う中国との関係はトータルに50年間もつだろうが、問題となってくるのはそれからだろうと言っていた。それは当時の官僚たちに共有された認識だったのだろうか。思えば、来年の2022年がその50年後にあたる。


季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ能く人しに事うることあたわず、焉んぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」([論語』先進第十一)は、フランス語訳ではこうなっていた。「鬼神」は、les esprits et les dieux である。これは朱子たち宋学の概念で、”精神”と読める。子安先生の言説によると、鬼神はドイツ語Geist 、英語Spirit に対応する。鬼神を“お化け”fantômeとか”強い神”(戦争中に使われた)と読むとわからなくなる。

さて鬼神を朱子的に精神として読むと、非常に思弁的な文である。わたしの勝手な理解だが、生はリアリズム的同一性とかconsistencyならば、死は同一性の否定、inconsistencyである。生と死、この両者は形而上学において互いに切り離せない。論理的先行するのは生であると先生は言う。先ず生を考えなさい、その後に死を考えなさい、と。この鬼神論の言説で表象されるものは他者との関係である。よければ、共同体と名づけてもいい。

たしかに、死における無矛盾性は、生のなかでそれに沿って否定項として考え得るとすると、それは何か違うのである。生と死を一緒に考える仕方で、死を内部化•構造化してしまうと、死が解体されてしまうのではないか。新しい時代の精神を迎える共同体は精神が解体されていれば成り立たない。


フーコ『言葉と物』を読むために、渡辺一民氏にとってシモーヌ・ヴェイユがなぜ大切なのかわからなかったが、サルトルに顕著な「無神論」の近代がもつ問題を朱子理解の近代のなかで考えることができるかもしれないと思っている。

「円と直線との接点(タンジェント)。それは高次の秩序が低次の秩序の中に、無限に小さいものとなって姿をあらわしているということである。キリストは、人類と神との接点である」ーシモーヌ・ヴェイユ

(ヴェイユの言説についてわたしの勝手な理解では、無限に小さなもの=他者が解体されてしまう。だから他者は接点において要請されるのだ)


憲法記念日は、憲法をそのままにして改憲せずに、その代わりに、憲法が禁じた公式参拝国家神道軍国主義を復活させる解釈改憲を推進した日本国家の現在の問題を考える日だと思う


Question .なぜ大新聞は「五輪は中止せよ」と明確に書かないのか

Answer. 朝日新聞日本経済新聞毎日新聞、読売新聞は「オフィシャルパートナー」


過去の映画を語るのは失われた時を求めている。過去の欠片は欠片で、一つに集められない。だけど失われた時は「失われたもの」が無い。自己の力が及ぶ徴が至る所にある

 過去の映画を語るのは失われた時を求めている。過去の欠片は欠片で、一つに集められない。だけど失われた時は「失われたもの」が無い。自己の力が及ぶ徴が至る所にある

 孔子は「いま」できることを対人的に実践的に語った思想家だった。だが晩年に十年単位で考えたのはなぜか。彼の時代も現在のように何を言っても通じない乱世だったからではないか


ベケットは小説を書くときは先ずフランス語で書いてそれを英語に自分で翻訳した。これは何を意味するか?ベケットは自分自身を翻訳したのだろう。他者の言語の存在が自分自身である


鑑真木彫像を見て『天平の甍』をおもいだした。仏教の中国化。漢字の文の成立と共にあった思考可能性。日本で鑑真が翻訳される。同時に、鑑真は自らを翻訳していると考えてみる


映画論は、エクリチュール論がエクリチュールだけを論じてはならないように、映画だけを語ってはいけない。映画の成立とともに大いなる他者との関係が論じられる必要がある。


東京五輪の学童(小中学生)80万人の動員?これは戦争責任をとっていない国の極右翼を都知事した罰なのか?自民党支配に対してファッショ的人物しか出てこないというこの国の問題


「私たちは “捨て駒” ではない」


#看護師の五輪派遣は困ります


2009年はロンドンに開催されたG20に抗議してイギリス中央銀行広場前を4000人で占拠した年だった。自発的にあつまった人々は最初はみんなシニカルだった。しかしもうやっていけなくなったのだからもっと怒らなければいけないとかんがえていた。アメリカにおける「オキュパイウォールストリート」は二年後である。政治の現場に立つときは思考するためイメージが必要である。しかし思考が成り立つまえにイメージは消えていってしまうという問題がある。アラン・バディウはこれを考える。ゴダール映画はアラン・バディウとの対話をもつことは必然である。


<百科全書=円環知>はみずからを出産する。概念の受胎〔概念化〕は自己-受精なのだ(デリダ『散種』)


16世紀のフランスの知識人はむさぼるように知識をもとめたという。知識はラブレーによって食べ物に喩えられている。ガルガンチュワは大食いの巨人で、フランスじゅうの食べ物をむさぼったために、国に食べ物が無くなってしまった


はじめにロゴスありき。言語的存在である人間は存在の意味を考える


言説「議論は自由だが解決を与えてはならない」で表象されるものは距離である。距離を理と名づける。理の領域は空の領域の傍らにあるが、遠くから理と空を見ると直に隣接すると思う


アベ政治を許さない」と言っていたマジョリティだけれど、どうしてアベ歴史修正主義を許しているの?


精神的隷属の拒否。アジアの言論の自由をもとめる人々がオリンピックをどうみているかがわかる。

ミャンマー 競泳選手が東京五輪不参加を表明 軍への抗議の意志」(NHK)


差別をやめよ!


東京五輪出場選手のために医師・看護師500人派遣要請。東京五輪のために指定病院30箇所」


見ることができないブラックホールに影があるように、エクリチュールにたいする音声中心主義の言説のラディカルも影がある。無神論である


ダブリンで考えることになったリアル•カトリックポストモダン的言説はキリスト教は近代が解釈するほど無神論的ではないとしてジョイス文学を読み直す。また東京で学んでいるリアル朱子学ポストモダン的言説は朱子学は近代が解釈するほど無神論的ではないとして江戸古学の『論語』を読み直そうとしていくのだろうか


東京では観れなかった溝口と小津の映画は全部、海外で観た。映画館の外に出れば「日本的情緒」がないので、作家達の映画を批判的に考えることができた。だが外国が消滅してしまった


ジョイスユリシーズ』の始まりは「テーレマコス」挿話であるが、この挿話で始まる必然はない。また「ペーネロペー」挿話で終わるが、この挿話で終わる必然もないのである。どの挿話もアルケー(根源・始原)に非ず。ただ昼と夜が生と死のようになっているように、各挿話が自然哲学的に配置されている。昼は誰がなにを喋っているのがわかる。だが「キルケー」挿話を契機に、夜は誰が何を喋っているのか見えなくなっていく。『ユリシーズ』の終わりでは他者の魂の帰還が宇宙論的に物語られている。その語りは再び分節化されているが本質に支えらる事がばく深さもなく、表層的である


ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』は世界神話を探している。前者が昼の本、後者が夜の本で、自然哲学化されているが、人類としての祀られる共通の祖先は解体されていない


ジャン=クロード・カリエールは2月に亡くなったんだ。graveな存在だったが、パリで、母があなたが脚本を書いたルイス・ブニュエル『昼顔』が大好きだと告げた


スポーツ、スポーツ、スポーツ?オリンピックなんかやっている場合か!?

「コロナ禍 死にたいと思った」俳優や音楽家などの3割以上」(NHK)


祖先祭祀と自然哲学は両立しないか。近代は両立しないとする物の見方をとる。しかしポストモダンの見方は両立すると考えることができる。近代の永久革命原理主義によって、あるいは国家の同化主義と開発とによって、祖先祭祀が解体された共同体はどのように考えるのだろうか。祖先の精神を子孫の精神は受け継ぐことができなくなってしまったと考えるだろう。それは、読むことが不可能であるという理念性を含めて、読めなくなった本の「居場所」がなくなってわれわれは「死に場所」がなくなったと思うときとおなじものではないだろうか。そう考えてみる。すると何が言えるか?祖先祭祀の解体がおきると、宇宙のなかにもうひとつ別の宇宙があるというこのコスモロジーを思い描くことができなくなるのではあるまいか


吉川幸次郎は宋代の朱子と徳川日本の宣長を考えて、「神のいない文明」と「神のいる文明」について語ったようだ。「いない」とか「いる」とはどういうことなんだろうか?「神のいない」とはそれほど無神論的「存在しない」だったのか?近代では無神論はイコール唯物論である。その意味で、朱子唯物論的だったが、彼が無神論だったときめつけてはいないだろうか。他方で、宣長は文献的読みにおける神の存在をかんがえた。文献学的「存在する」である。だが宣長が読んだように神(シン)をカミと呼んではそれが何のことかわからなくなった。寧ろわからなくしたというべきか?これは解釈というか、言説によるものだったとかんがえるべきだろう。と、存在をめぐって、「いない」とか「いる」を考えるとはどういうことなんだろうか?


吉川幸次郎は「神のいない文明」と「神のいる文明」を語ったが、「いない」とはそれほど無神論だったか?「いる」も、神(シン)をカミと呼んではそれが何のことかわからなくなった


「鬼神」は「精神」という意味でとらえようとおもっています。ヘーゲル精神現象学の「精神」Geist ですね。あと、朱子唯物論的だと思うのですが(死後の魂も消滅すると考えた)、近代主義朱子無神論とみなす問題。無神論ではないような唯物論の意味をこれからわたしはかんがえようとしていますー朱子学近代主義から取り返すために、あるいは、過剰な物言いですが、21世紀の精神を考えるためにかもしれません。さて子安先生も「第一江戸思想史講座」は古学の朱子学批判を展開した脱構築でした。伊藤仁斎がどう朱子学を解体していくか考えました。「第ニ江戸思想史講座」では今度は、朱子学をポジティブにとらえてみようと先生はご説明なさっていました。今日はその意味がわかりはじめました。生死を昼夜として解釈するような鬼神論の自然哲学化は鬼神論を解体したととらえる近代主義(朱子学を解釈する)にたいして、子安先生は朱子学をポジティブにとらえています。鬼神論を自然哲学化することによって鬼神論を再構成しているのだという見方をきいたときは、「第ニ江戸思想史講座」における近代主義脱構築するあり方をかんがえました。「第ニ江戸思想史」は「第ニ脱構築」。今日の講座で脱構築のことを考えることになった、と、宇波先生の講座からいらっしゃった髭さんが指摘なさっていました。下は配布資料


カメラは命題論理としてある


“The historical fact is that cinema was constituted as such by becoming narrative, by presenting a story, and by rejecting its other possible directions. The approximation which follows is that, from that point, the sequences of images and even each image, a single shot, are assimilated to propositions or rather oral utterances [...].” 

Gilles Deleuze, Cinema 2: The Time-Image


「緊急宣言」は「五輪と無関係」だってさ、ホント?だれが最期までたおれないでいられるか、だれが一番タフなのか競う肉体政治になってきた?


鏡というのは鬼神の眼。鏡像を撃って自殺を図ったラホールの副領事の立ち姿を捉えようとカメラがゆっくりと煌めく闇へ向かって旋回する。と、外部からきこえてくるはずの彷徨う彼の叫び声が奥の部屋からきこえてくるではないか。映画は、内部を形成する崩壊の静けさ、だれが語るのかわからなくなったざわめき、狂った女乞食の歌声をインディア・ソングと名づけた。マルグリット・デュラス、はやすぎたポストコロニアリズムの作家といわれる場合がある


ロンドン時代のBBCは先ずどうしてビルマではなくミャンマーと呼ぶのかを解説する必要があった。東京でFbに投稿する友達のおかげでミャンマーを再び認識しつつある


テレビは国の圧力を避けて、No Commentの中立的表示を示せば、もっと聖火リレーの抗議の様子も、トリチウム汚染水の海洋放出の現場も映像を流すことが可能ではないか


ユリシーズ』はmirror in the shrineのマーテロー塔において始まる。西の端に立って鏡を見る。東ーアイルランドーを映し出した。私は東の端も見える


ジョイスの「自己で決めた亡命」はヨーロッパのなかの国内亡命みたいなものだったのではないか。亡命というのは確信がなければできない。しかしジョイスの場合は亡命にまったく確信がなかった。『ユリシーズ』冒頭のマーテロー塔を舞台としている書き出しは、パリに自由をもとめて亡命した前衛作家が集うカフェのコピーのようにとらえる考えがあるが、だけれどジョイスは前衛ではない。晩年まで外国語の文法を学び続けた作家だ(こんなことはシュルレアリスムの芸術家は屈辱に感じる。ヨーロッパ周辺の作家にとってはそうではない。) さてジョイスは文学のなかで言語の死を考えたたときは鬼神論的に考えたのかもしれない。簡単ではないけれど、そんな感じがする。彼は言語の死が起きたのは、アイルランド人自身が生活するために起きたと考えていた。死んだ言語は復活することはあり得ないのは死んだ文化の場合と同様である。死んだ言語を帰ってきた魂のようにかんがえて、土地における同一的なものにこだわるのは根源的錯認である。ジョイスにとっては、帝国主義者が領土をもとめて土地を奪えと主張するのも、反植民地主義者が祖国のために土地を取り返せと主張するのも、共同体の思考を土地に還元する同じ間違いであった。寧ろジョイスが問題にしたのは言語の共同体的<居場所>ではなかったのか。ジョイスが言語の死を鬼神的に考えた意味というのは、未知の他者のために書かれたが読めない言語の<居場所>を、自立的言語(国語)で読める<土地>に置き換えてしまう近代のあり方にたいする批判を構成する点にあった。読めない言語というのは、読めたとしても、読めないとする理念であるとおもうのだけれど。十年前のわたし自身の経験のことを書くと、ネオリベの時代の大阪府中之島図書館において見た伊藤仁斎『語孟字義』に<居場所>が無いとおもった。「宇宙第一」の書である本を見て気がついたーわれわれの死に場所がなくなっていたことを。


ユリシーズ』はmirror in the shrineとしてあるマーテロー塔において始まる。西の端に立って鏡を見る。東ーアイルランドーを映し出した。私は東の端も見える。


「鬼神」論は中国ではありふれている。しかし「鬼神」論について言説としてとらえる議論は中国ではまだ無いらしい(言説はフーコのポスト構造主義による。) 日本では、宋代の中国語を通じていた溝口雄三の『朱子語類』の翻訳で『鬼神論』を読めるが、現代中国語で読んだ読みの限界があって、どうしても生と死の関係についての近代的な物の見方がみえてしまう。さて子安先生のもとで『鬼神論』を(朱子の時代により近い)江戸思想家達の読みにしたがって読んできたが、ポストモダン孔子を深める方向でもっと朱子の鬼神論の言説についての考察を深める必要があるという。これは、溝口の現代中国論ー中国共産党のイデオローグと柄谷が規定されている帝国的な中国論ーに対して、別の中国論ー民主の中国論を形成する議論となるかもしれない。「鬼神論」は形而上学の枠組みのなかにであるけれど、アジアにおける共同体のあり方を理論化しようとしたからだ。そして大切なことは必ず中国が関心をもつだろうとわたしはおもっている。われわれは止まることができない。


「社会崩壊に近い」の「社会」も言説である。個人vs.社会という<反抗する個人>はリアリズム文学が発明した物の見方である。植民地化された国は社会がないので(産業革命が無くその形成を邪魔された)、アイルランド人はリアリズム文学をヨーロッパ人にようには読めない(ただしだれがアイルランド人かという問題がある)。リアリズムは世界少数派である。しかしどうしてもリアリズムを言いたいなくなってならば、リアリズムが啓蒙主義と同様に多様であることを考える必要がある。例えば江戸時代に、アムステルダムのリアリズム、中国のリアリズム、古学が発展させたリアリズムがある。近松のリアリズムが指摘されるが、明治の近代が過大評価したのではないのか。「人間交際」を「社会」と呼ぶ福沢諭吉のリアリズムもある。彼は1835年生まれで、1840年は藩校や寺小屋などが充実する教育のピークであった。


「鬼神」論は中国ではありふれている。しかし「鬼神」論について言説としてとらえる議論は中国ではまだ無いらしい(言説はフーコのポスト構造主義による。) 日本では、宋代の中国語を通じていた溝口雄三の『朱子語類』の翻訳で『鬼神論』を読めるが、現代中国語で読んだ読みの限界があって、どうしても生と死の関係についての近代的な物の見方がみえてしまう。さて子安先生のもとで『鬼神論』を(朱子の時代により近い)江戸思想家達の読みにしたがって読んできたが、ポストモダン孔子を深める方向でもっと朱子の鬼神論の言説についての考察を深める必要があるという。これは、溝口の現代中国論ー中国共産党のイデオローグと柄谷が規定されている帝国的な中国論ーに対して、別の中国論ー民主の中国論を形成する議論となるかもしれない。「鬼神論」は形而上学の枠組みのなかにであるけれど、アジアにおける共同体のあり方を理論化しようとしたからだ。そして大切なことは必ず中国が関心をもつだろうとわたしはおもっている。われわれは止まることができない。


1920年代の西欧留学中に時枝誠記は言語支配者の漢字漢語の影響という「国語の事実」に気がついたとき、言語の集中が起きる可能性があった。漢字を、「書く」という記載主体の表現機能において見るとき、「もはや漢字は言語主体の外部にあって借りる者と借りられる者といった関係でとらえられるものではない。」(子安氏『漢字論 不可避の他者』2003、第5章漢字と「国語の事実」」)。しかし30年代から40年代にかけて新国語学の成立とともに、時枝は帝国の植民地朝鮮で他者言語文字•漢字を内部化していくことになった。近代日本の国語学が推進した「大いなる他者の言語」の痕跡の消去の問題の解決を、再び国語学に委ねることは倫理的に不可能である。そうして開かれた多元主義の方向に時枝の学において言語の集中が十分に起きずに、したがって西欧普遍主義的人間の拡散が起きなかったのではないか


ヴィスコンテイーの『夏の嵐』。ブルックナーの7番は襞をゆっくり開く。街の運河。驟雨。一切の音が消えた空白の端からベニスの全体があらわれれくるーオペラ劇場


ほんとうならば訳文と注釈を示しておくのだけれど。中国人の先生たちは荻生徂徠の文を中国語として読めるが、伊藤仁斎のは読めないらしい。変な中国語らしい。わたしのようなものでも彼が書いた漢文を読むと、これは何だろうかとちょっとおもう。詩を書いちゃっているというような感じである、これは。仁斎は仁は愛であると言っているのだけれど、「混在のもの」とフーコが呼んだものをかんがえる

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大学時代の労働法の教授はヘビースモーカーで、ゼミ開始の30分はタバコを示して、「君たち、タバコを認識するとはどういうことかね」と問うた。スパスパ吸っている教授に、カント的に説明しなければいけなかった。現在カントの文を読むと、読めないのであるが、カントは表象の時代の哲学者ではないことだけはわかる。表象の時代の哲学者ライプニッツにとって、思考の対象に記号を配して計算できるということが普遍であるが、カントならばこういうだろうか。そんなこと言っても、認識する有限な人間が介入しなければ意味がないと。諸能力の機能は人間に即して働く。近代的な調和がある。だけれどポストモダンの見方からすると、日本的近代を成立させる諸能力の機能が働かないことこそが「万事順調」なのである


INVESTIGATION OF THE QUESTION; WHETHER IN THE JUDGEMENT OF TASTE THE FEELING OF PRESURE PRECEDES THE JUDGING OF THE OBJECT OR THE LATTER PRECEDES THE FORMER


The powers of cognition that are set into play by this representation are hereby in a free play, since no determinate concept restricts them a to a particular rule of cognition. Thus the state of mind in this representation in a given must be that of a feeling of the free play of powers of representation in a given representation for a cognition in general. Now there belongs to a representation by which an object is given, in order for there to be cognition of it in general, imagination for the composition of manifold of intuition and understanding for the unity of the concept that unifies the representation. This state of a free play of the faculties of cognition with a representation through which an object is given must be able to be universally communicated, because cognition, as a determination of the object with which given representations (in whatever subject it may be) should agree, is the only kind of representation that is valid for everyone.(Kant)


ロンドン時代にパウンドの研究者であったラビの作家の講演をきいた。イスラエルはアジアであるという。だとすると、アジア人どうしで争わせる帝国主義は終わっていないということ?


明らかに反権力なのに、同化主義的言辞を弄する人になりたくない。他者との関係を構成すべき所に、共通なものがあるという包括的原理を前提にして異なるものを排除するのが同化主義


混在なものとしての神話的リアリズムは、神話<と>リアリズムを名づけることを防ぐ。混在的なポストモダン孔子も、国学的な神のいる江戸 <と> 朱子学的な神のいない江戸を名づけることを防ぐ


国学の神(カミ)のいる江戸は言説的に、神(シン)を解釈不可能として神を否定した。朱子学の神のいない江戸は、朱子学脱構築だが、<天= (聖人が名づけた)鬼神>を構成する


物  No.1


不条理が、列挙された物の分けられる場所である<なかで>を不可能にすることによって、列挙をささえる<と>を崩壊させてしまう。ーフーコ『言葉と物』序(渡辺一民訳)

L’absurde ruine le et de l’énumération en frappant d’impossibilité le en où se répartiraient les choses énumères.ーFoucault 

Absurdity destroys the and of the enumeration by making impossible the in where the things enumerated would be divided up. ーFoucault


徳川光圀は『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。日本では『日本書紀』以下六国史など史書編年体で編纂されるのが常で、『史記』のような紀伝体(東アジアの歴史書の書式の一つ)の史書が編纂された先例はなかった。林羅山の死などが契機になったと考えられている。南朝正統論を唱えたのは、北畠親房の『神皇正統記』の影響を受けていたとかんがえられる。全体的に水戸学=大義名分論とする尊皇論で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えた。


ガースは私腹を増やす悪代官のイメージ。宇都宮さんは選挙に出るならば、小池のサリーちゃんに対抗して、五輪中止を訴える水戸黄門のコスプレしたらいいと今朝ちょっぴりおもった


「どっちもどっち」と言う権利があるのは、ユダヤ商人とイスラム商人によって奴隷として売られたアフリカの人々だけである。柄谷的には、交換システムの外の話をするなだけれど


小学生の時は鑑賞の時間によく先生からほっぺをおしゃもじで叩かれた。「お前は何で寝ているんだ!」。鑑賞の効果アリで気持ちよくなったのだから褒めてくれと反論。2度めのピシャ


黒澤明は、ゴダールはもっと評価すべきだったとおもうと言っている。西欧の論理をもって展開する演劇的なものから距離をおいたヌーヴェルバーグからの黒澤の評価は非常に低くかった。『影武者』(1980)もいかにもという感じで評判がわるい。だが同化する操り人形的なものへの関心から、『影武者』を擁護するポストモダン的映画評もあった。少し説明すると、近代の前の共同体は人が死んだらバイバイと言っておしまいになるのではない。共同体は生者と死者が一つになっている見方をもっている。死んだ人に類似している生まれかわりが共同体において発見されるのである。平田篤胤の勝五郎的生まれかわりのテーマを読み取ることもできるかもしれない。朱子の生と死は二つの理があるわけではないとした思想のことも考える。ポストモダンは、『影武者』における有為転変に解放の視点ー反言説的な性と芸術の政治化ーを読みとるだろう


武士の滅びに同一化する(変な?)美学は黒澤明『影武者』に表現されていたが、祀りではない、弔いにおける許しあう美しい世界は能『敦盛』の謡曲に在るようだ


誠者,天之道也;誠之者,人之道也。

(そうでないとやっていけなくてヤバイねという話。誠は天の道なり、之を誠にするは人ひとの道なり。だよねー)

『中庸章句』


MEMO(李氏朝鮮儒学)


•李退渓の学問は徹底した内省を出発点としており、この立場から朱熹の学説を整理した。四端七情と理気との関係をめぐる奇大升との長年にわたる朝鮮儒学史上著名な論争でも、論理的整合性を重視する奇大升に対して、人間のあるべき道徳的な姿を求めて、理気の互発説(四端は理の発、七情は気の発)を主張して、さらに理自体の動静(運動性)を明言した。(ウィキより)

•奇大升は「最後まで四端と七情を分けるべきではないと主張し、一方の李滉は分けて考えるべきだという主張を曲げませんでした」。」(金教斌「韓国哲学の系譜』より)



孔子廟の意味は?

漢代以降の歴代王朝が儒教を重んじたことで、孔子は次第に「先聖」・「先師」として 広く崇められるようになりました。隋代には科挙が開始され、その後に続いた唐代以降に は、都および全国の学・廟で孔子を祀り定期的に祭祀する制度が整えられました。こうし て孔子は、歴代王朝によって祭祀される重要な対象のひとつ、そして各王朝を支える官僚 層の崇拝対象となりました。国の都や地方に設けられた学・廟で孔子を祀るという制度は 、朝鮮、日本、琉球ベトナムなどにも影響を与えました。台北孔子廟では毎年春と秋に 、様々な祭品を供え、「楽」(音楽)や「佾舞」(舞踊)を用いて孔子を祀る祭礼(3月 「春祭」/9月「釈奠」)が催されています。







































MEMO

「これは黄泉の国の光景であり、今後の人間の精神に大きな影響を及ぼすだろう」(シネマトグラフについてゴーリキー)。20世紀を支えていた大切な映画たちの名が思い出されなくなった21世紀のどん底に来た私は「映像の世紀」(20世紀)の精神を千年前の朱子鬼神論ー目に見えず耳に聞こえないものについて考えたアジアの形而上学の始まりーを以って読み解くのは必然だとかんがえるようになった

f:id:owlcato:20210330083531j:plain 東京五輪の根本の問題は、これからは五輪を5000億円規模にしてどんな国も開催できるようにしようと考えはじめた平等の理念を踏みにじってしまった傲慢さにある


帝国主義とは知の組織化である。アイルランドではイギリスの植民地主義を文学で読み解いた。新しい普遍主義を模索する現在のヨーロッパをみる見方に関わってくるから、帝国主義の問題を批判的に考える必要がある。昨日は、中国から出た、子安氏の中国論の書評を読んだ。内藤湖南に言及した文を検討した。京大と台湾大学、東大と京城大学の関係を考えながら日本帝国主義儒学儒教で読み解く視点について考えた。現在のアジアをみる見方に関わってくる


清沢満之朱子、仁斎


“向こう側にある『歎異抄』はみえる。朱子の『論語』はこうであるかもしれない"。向こう側にある絶対無限は卑近から初めてみえる。これは、どちらかが先に来てどちらかが遅れてくるのではなくて、向こう側と卑近は同時に起きるというふうにポストモダン的に理解できるだろうか。近代というのは、有限的存在にとって学を媒介にする無限に出会うのは時間を要するのである


下は大変興味深い清沢満之の「有限無限録」。わたしのレヴィナスの理解などは彼の文の拾い読みの理解だけれど、レヴィナスレヴィナス清沢満之清沢満之だとおもっている。わたしの清沢満之の関心は、清沢満之レヴィナスで深めることにない。


娘は神の前の平等を言う。父も神の下にある。彼女は漢字を書けない。アメリカの平等を尊重しつつ祖先崇拝の父。両者の間の葛藤を考える脚本を書くならばその芝居の名は「アジア」


鬼神とは先王の作るものなりー>鬼神を祀りなさいー>そうして共同体が形成されるー>国家が国家自身を祀る、そこで現人神の自身を祀る帝国的あり方はアジア共同体を形成しない


昨夜、池上線の車中で座ってる人達を見てパリとかロンドンと違い過ぎるんだよ。ふと気がついたが、世の中に迷惑なひとがいなくなった。Kで加速化しているんじゃないか、大丈夫か?


官僚合理主義的近代の社会の中心にいるのは、私自身も大した抗議が無かったが、中曽根公式参拝に抗議しなかった異常な世代。腐敗したこの場所にいてはヤバイと感じないといけない


スコットランドは信を重んじる啓蒙主義の伝統をもつ。テイクアウトのカレーに表象されるのは英国から独立したインド。自立的に国を制作した後はもうあのカレーを食べないと思う


後期水戸学は徂徠の制作論を以って国家祭祀を利用した国造りを考えたが150年は続かない。再制作は、権力の分散(今度は国家祭祀の禁止)、言語の集中(母国語中心主義の終わり)


ノーパンしゃぶしゃぶの接待と比べられているが、あの時は超恥ずかしく思った父の名刺から何と「大蔵省OB」の肩書きが消えて結局大化の改新に遡る役所の名が消滅したのでござるよ


何故、清沢満之における「儒教的なもの」を考えるのか?

ー「外部の思考」に立つためにである


国家が大学に介入してくる時代のヨーロッパの支那学とインド学ーオリエンタリズムを物語る帝国主義の知ーを乗り越えたいというか。オリエンタリズムでは、アジア知識人における「ヨーロッパ的なもの」を考えることにしかならない。言い換えれば、ヨーロッパの中心からその周辺を考えたことしかならない。その周辺は所詮、ヨーロッパ自身の内部に位置するものでしかないようなものなのだが。だからこれとは別に、清沢満之における「儒教的なもの」を考えるのは、アジア知識人における「アジア的なもの」を考えるためである。つまりアジアからアジアを考えてみようというのである。これは他者をみようとするヨーロッパとは別の見方を構成する(外部の思考が成り立つ)。清沢満之は考えるのは、古学(江戸儒学伊藤仁斎、右下)が取り組んだ朱子学である。そうして、「向こう側にある『歎異抄』はみえる。朱子の『論語』はこうであるかもしれない」と子安先生は語る。向こう側にある絶対無限は卑近なものとともに初めてみえるとくか..。これは、どちらかが先に来てどちらかが遅れてくるのではなくて、向こう側と卑近は同時に起きるというふうにポストモダン的に理解できるかとわたしはかんがえている。他方で、仁斎の近代(17世紀)というのは、有限的存在(ひと)にとって学を媒介にする無限に出会うのは時間を介してなのである(『童子問』)。有限的存在(人間)は時間の形式のなかに定位するとする言説がかんがえはじめた思考である。


普遍主義(グローバルの歴史)とのギャップを「スクリーンがない」と語るゴダールの言説がある。スクリーンで表象されるのは、法と一人ひとりの間の媒介


BBCで「性の歴史」の英訳とフーコについての議論をきく。アジアは19世紀的な西欧近代の普遍主義の言説だけでなく、中国の普遍主義の言説がどう批判されたかも考える必要がある


公共の電波の政府からの独立を担保する為に、独立行政法人が電波の許認可を管理する(欧米先進国や韓国)。政府管理は日本のほかに共産圏や独裁国だけと学んでいる


フーコは権力の存在を考えるよりも、権力関係を考えるほうが大切だと言ったんだね。マルクス主義の権力理論の再考をもとめたこれが画期的だった。ほかに、例えば、西欧近代の帝国主義の権力関係の中で展開した日本における対抗西欧の近代が不安定な理由を考えさせる。国内のことをみても、明治維新とか大正デモクラシーとか、権力関係でないものは無かった。そして、権力関係のなかで、解釈改憲軍国主義国家神道が事実上復活してしまった現在の話、社会契約的な方向が塞がれてしまったから、戦略的に、別のやり方を考えるときがきていて、そのために議論する政治的自由が本当に必要だとおもう


「権力関係は戦略的関係です。つまり、一方が何かするたびに、相手はそれに反対する包囲行動、行為を展開し、それから逃れようと試み、一時的回避をし、攻撃すること自体を支えにします。ですから権力関係の中では、いつ何時であれいかなるものも安定した状態ではないわけです」(フーコ)


「学者さん」という言葉は近世からの伝統。学者は戸籍に登録されない身分なき者となると誰でもなくなってしまうが、昨日の自己の思想から自由であるー市井の学者の特権ではないか


哲学者というのは禁欲を尊重しつつ禁欲をそれとまったく反対のものに役立てようとする。中井履軒は文章•博学を専らとする文芸者としての学者ではなくて、哲学者だったみたいね


東京五輪は典型的な肉体政治。現実を媒介された現実(虚構性)より重んじる日本リアリズムのあり方を丸山真男は正しく批判した。西欧と比べて遅れていると言うのは余計な上から目線


paka..と吃る外国人に、「私の名にshitが含まれているので先ずshit! と言ってからtakashiと言え」と教える。Fbで菅義偉も菅よシットひでと呼ばれている


二ヶ月まえは暗闇の覆われたところではじめに言葉ありきだった。それから、静けさのなかで無限に遠い所に行ってきた。現在もうそこにはいない。感覚がおきてきた..


14世紀中ごろ、ヨーロッパで大流行した疫病は黒死病と言われ、ペストと考えられる。百年戦争の最中であった西ヨーロッパでは人口の3分の1が死んだと言われ、人口減少から封建社会の変質の一つの要因となった。ペストをどう克服するか、近代の成立はこの課題と無関係ではあり得ないだろう。空間をいかに再構成するのか?たとえば監獄の空間。一望監視方式が導入されるまえは監獄はこのようであった。官吏が囚人たちを監視している(整然としても、偶然にカオスになる危険もある)。フーコは秩序を語った本である『言葉と物』のあとに、『監獄の誕生』を書いた。一望監視方式が導入されたあとに何が起きてくるかが分析される。言説<一望監視方式>は功利主義的な原理をもっている。しかしなにが言われようと言説的なものと可視的なものは互いに独立している。問題となってくるのは可視的なものがもつ効果である。一望監視方式では身体が中央塔からいつでも見られている。中央塔の中に、監視する人間がいようがいまいが関係ない。たとえていえば、今迄は神がいるときにわれわれは神に見られていたが、これからは、神がいようがいまいが関係なく、いつでもわれわれは見られているのである。簡単な機械仕掛けのようなこの配置が近代を再構成していく。われわれは情報の客体であって、決してコミュニケーションの主体になれない。国家が必然として起こす戦争のときは生活の隅々まで国家によって監視されていくだろう。それでも戦争が終われば解放された。しかしこれからは、見えない戦争に生きる時代のトータルな監視体制のことを考えなければいけない。僅かな逸脱行為が国家の敵と見做されるようになるのかもしれない。大袈裟か?しかし安倍戦争法をみよ


Chaque jour mon amour pour toi devient plus intense, en espérant qu’un jour tu ressentiras la même sensation. 十代のときに逃れられないような神秘的体験...


テクスト、言説、イマージュ、語は、19世紀的な統一に還元できないポストモダン的断片fragmentである。屋根も壁もなく、柱も床もないような家の部屋のようなものであるとわたしはかんがようとしている。

さて柄谷行人氏と子安宣邦氏はポストモダンの時代の知識人•思想家である。子安宣邦とのインタビューで、柄谷氏の物言いと子安氏の物言いが違うことをはっきり指摘した杉田俊介氏(『対抗言論』ー複合差別を解きほごす。江戸思想史とアジアの近代ー日本人と差別の歴史)は本質を見ぬいている。

東日本大震災原発の危機のときを思い出す。脱原発デモの現場に、柄谷氏はマスコミが待ち受けているところに姿を現した。子安氏の姿はいつも市民の中に見つけることができた。柄谷氏は言説を打ち出すことができる。彼が突き崩す均衡を政治的統一に向かって安定させる。彼の思想闘争は自己がいる場所を他者から奪わなくてはならない。他方、子安氏は政治的統一によってはもうやっていけなくなったような均衡を不安定にさせるのである。子安氏の思想闘争においては、市民が由ることができる開かれた場所を考えることと、居場所を奪われた他者とともに成立する現場に在る行いとが一体である。ここが大切である。

下の左は子安氏の全著作である。杉田氏がこれらを読んでインタビューを行った。これはほんとうにすごい!右は最近の中国と韓国の翻訳である。子安氏の重要な本は台湾からも出版されている。中国語もハングル語、台湾語を読めないが、わたしはこれらと一緒でなければ子安氏の仕事の全体を考えることができない。われわれは杉田氏の子安氏に行ったインタビューから何を考えることができるか。負の互酬のような無制限なヘイトスピーチに絡み取られてしまった情報の客体ではなく、他者とともにコミュニケーションの主体となるような言論を開こうとするわれわれがなにを考え何を行うどんな知識人の発言を真としかれに信をおくことができるかである


•左の絵はゴダールの映画(右)とよく似ている。ゴダールは映画において人間の顔をいつもこんなふうに言説の風景として示したのだ。

•テクスト、言説、イマージュ、語は、19世紀的な統一に還元できないポストモダン的断片fragmentである。屋根も壁もなく、柱も床もないような家の部屋のようなものである。

•この部屋は鍵がかけられている。わたしのほかに誰も入ることが禁じられている。しかし部屋は可能か?

•普遍主義(グローバルの歴史)とのギャップを「スクリーンがない」と語るゴダールの言説がある。スクリーンで表象されるのは、法と一人ひとりの間の媒介

朱子学の普遍主義から映し出されていた。だが媒介してくれるスクリーンではなかった。このことを考えるためには漢字が不可避の他者である


フクロウネコかく、語りき


哲学者は禁欲的であるのは禁欲をそれと正反対の目的のために利用するのです。そうして欲望にまかせておけば、孤立して躰が痛くなるので、欲望は自己の原則にしたがってここから脱出します。自己の思考を、欲望のなかにある知の秩序の場の外に、定位させるのです


‘ Shem was a sham ’

(物書き)シェムはシャム(いかさま)


ーFW『フィネガンズ・ウェイク


視線、顔、そしてついに表象が表象されているような表象の成立と一緒に、人間はイカサマであることを‘ Shem was a sham ’で語られる。主体は存在しないのだ


ロゴスの成立とともに、主体は存在しないことを考える思惟は自らが思弁になりすぎないように、祭祀に即して考えたが、もっと日常卑近に考えることはアンチロゴス的に脱構築的となる


‘ Shem was a sham ’ー(物書き)シェムはシャム(いかさま)ーで表象されるのは、言語的存在である人間は存在することの意味を考えるロゴスではないか


均衡を求めるのはいけない。想像でそうしているにすぎないのだから。復讐はそうだ。たとえ、実際に自分の敵を殺したり、苦しめたりしていても、ある意味では、想像でそうしているにすぎないのだ。

シモーヌ・ヴェイユ


《Le centre est le deuil》


《中心とは喪だ》(『エクリチュールと差異』)


Jacques Derrida s'est fait connaître par sa théorie de l'écriture, qui est aussi une théorie du deuil. .


 《中心とは敷居のことだ。

レブ・ナマンは言っていた。「神が中心だ。自由思想家が神は存在しないと宣言するのはこの理由によるのだ。何故ならば、もしリンゴや星の中心が、天体や果実の芯ならば、果樹園や夜の中心とは何だろう」

.............

そしてユーケルは語る。

中心とは失敗だ。.....

《中心はどこだー灰の下だ》


レブ・セラー

.............


《中心とは喪だ》


Et Yukel dit; 

Le centre est l’échec...

<Où est le centre?

ーSous la cendre.>


Reb Selab

............

<Le centre est le deuil.>


Artaud a voulu interdire que sa parole loin de son corps lui fût soufflée 

Jacques Derrida L’écriture et la différence 

  

アルトーはみずからの言葉(パロール)が身体から離れたところで息を吹き入れられるのを禁じようとした


弔う<詩ー演劇>の自らの言葉は、身体から離れずに息を吹き入れられるー過去から来る注釈的もう一つの声にともなわれて。身体から離れた、戦う国家が自らを祀る一点の息とは異なる


不真面目だといつも思われてしまうのよ。ハワイ音楽でリラックスさせる歯科の歯磨きの練習でも、「ブラシは音楽に合わせてでなく一定の速度で動かして下さい!」と幾度も叱られる


時々、野党に政権を担当する能力があるのかと心配しているに出会いますけれど、「自民党ですらできるのだから大丈夫。寧ろ心配なのは、自民党が責任ある野党としての能力がないことです」と言ってやるんですけどね。イスラム国の国際デビューのチャンスを奪い取ってしまったような東京開催に決まった日に読んだ「ファイナンシャルタイムズ」の記事を覚えています。東京開催でいいんだと、これから四年間、外国メディアの記者たちが、政府が公表しない放射能の状況をしっかり監視できるからと書いてありました。世界にとっては、東京五輪は、安倍政権と日本政府の出鱈目を監視するための手段だったというわけです。伝染病のことでこういうことがわからなくなってきたかもしれませんが。「歴史に残る大会に」と語る現在の安倍の発言に違和感しか感じません。「歴史を忘れる大会に」が本音ではないでしょうか?


ホホー、ペンローズの本にあるイラストはこれを眺めているだけで結構おもしろいニャリ。暫し瞑想。朱子学の思弁のことを想像して、この解釈体系は中心にあるとかんがえてみる。メタレベル的に逐次的に解釈体系を解釈していくと(この語はそれほど重要ではないというぐらいの解釈でよろしい)、その解釈体系が定位するのは解釈体系の「外」になっていく。元々中心にある解釈体系は外部があるわけではなかった。そうして朱子の思弁からズレた、オリジナルとは別の、<わたしの思弁>が構成される。と、何だか、これは中井履軒の脱構築みたい。仁斎のように白紙の本のページにしたり、徂徠のように本(パッチワーク)にしたりと脱構築も色々あるのだが、脱構築多元主義とは普遍主義を外部に基づけようとする戦略である。外部である限りにおいて入り口が沢山ある


小田実は1995年の阪神・淡路大震災からラディカルになった。「明治維新」の近代を批判して、国家像をめぐる「ひとつの原理では解けない」言説上の差異の空間を考える思想史から、後期近代の多元主義的な制作論がはじまるー後期近代の国家論は「ひとつの原理」にもとづく 19世紀的国家中心主義の国家哲学に戻る必要がなくなった


カソリックでも、仏教でも、マルクス主義でも、ひとつの原理では解けない。これまでの文明の堆積の上に形成されているのが「市民変革の思想」なんです」

ー『小田実の世直し大学』2001


宣長の「遺言書」は二つ墓を設けることを指示した。樹敬寺の墓は表象全体を支えている画布の裏側みたいだ。表を見ようと山奥にある墓の前に立つとそれも画布の裏側みたいである


本居宣長の「遺言書」は二つ墓を設けることを指示した。小林秀雄宣長の二つの墓のことを大変面白く追っているが、最後までその理由が分からなかったようだ。樹敬寺の墓は、表象全体を支えている画布の裏側みたいだ。表に描かれているものを見ようと、二つめの山奥にある墓の前に立つと、なんだか、それも画布の裏側みたいであることに気がついた。どうも、宣長の二つの墓を指示する「遺言書」も、言説上の差異の空間を構成していたのではないかとかんがえてみたらどういうことがいえるか?二つの墓は、近代がいうところの二重化ではあるまい。普遍主義を朱子学的「理」の言説と同一化した上で、<普遍主義に対する>というほどではないが、<普遍主義から自立する>という宣長の自らの姿を書いた見方なのだとわたしはおもう


1、言説「漢字は借り物である」への抵抗

2、漢字中心主義の言説への抵抗

3、漢字論をデリダエクリチュール論に還元することへの抵抗(言語支配者である中国との関係を消してはいけない。帝国の植民地朝鮮で時枝誠記は漢字漢語をどうかんがえたか?山田孝雄の自言語意識という内部の形成の問題)


(テクストの単一主題への還元における問題は、)不可能性ではない。なぜならそれは普通になされているのだから。むしろそれは、そうした還元になじまず、なすがままにならないエクリチュールの抵抗〔resistence〕—われわれはこれを残抗〔restance〕と呼ぼう—である。ーデリダ『散種』


1920年代の西欧留学中に時枝誠記は言語支配者の漢字漢語の影響という「国語の事実」に気がついたとき、言語の集中が起きる可能性があった。漢字を、「書く」という記載主体の表現機能において見るとき、「もはや漢字は言語主体の外部にあって借りる者と借りられる者といった関係でとらえられるものではない。」(子安氏『漢字論 不可避の他者』2003、第5章漢字と「国語の事実」」)。しかし30年代から40年代にかけて新国語学の成立とともに、時枝は帝国の植民地朝鮮で他者言語文字•漢字を内部化していくことになった。近代日本の国語学が推進した「大いなる他者の言語」の痕跡の消去の問題の解決を、再び国語学に委ねることは倫理的に不可能である。そうして開かれた多元主義の方向に時枝の学において言語の集中が十分に起きずに、したがって西欧普遍主義的人間の拡散が起きなかったのではないか


京都駅は、かけらを組み合わせたようなポストモダン建築だが、水平的モダンでもある。境が曖昧だが、中にはいって、龍みたいなものが舞っている天井を見上げるときはプレモダン


「台湾」明記は同時に「民主」明記を意味する。帝国中国に対する帝国アメリカに利用されているとする指摘がある。ならば軍隊を外に出すなと命じる憲法を利用するときがいまだと思う


ゲームの規則が変わった、伝染病克服の証しから、質問無視のガースー主宰の世界の団結の証しへと。新しく、公衆衛生を無視してどの国が一番タフか競う肉体政治を五輪と名づけよう


どうも人工知能が薦めてきた「友達の友達」とは友達になりたくないのは、「友達の友達」の名はなんか、普通名詞(共通の名)におもえてしまうから。普通、友達の名は固有名である


大島渚『儀式』の結婚式は前夜に花嫁が逃げ出したのに何事もなかったように進行したように、無観客の東京五輪も五輪が逃げだして国家の他に誰一人来ないような儀式を強行するの


経済関係は競争に基くから不安定。民主主義が大切。米国との関係を失わないためにも「台湾」明記は意義がある。中国との関係も失わないように戦争責任を果たせー日中戦争を反省せよ


日米、共同文書に「台湾」明記へ 首脳会談、5Gも議題ー朝日新聞


いかなる有用性もなく、交換もされず、貨幣による平等化を拒んでいる対象物がある。交換市場に入る場合でも、勝手に価格がつけられているだけである。いうまでもなくそれは芸術作品である。

ハンナ・アーレント『人間の条件』23


Among the things that give the human artifice the stability without which it could never be a reliable home for men are strictly without any utility whatsoever and which , moreover, because they are unique, are not exchangeable and therefore defy equalization through a common denominator such ads money; if they enter the exchange market, they can only be arbitrarily priced. Moreover, the proper intercourse with a work of art is certainly not “using “it; on the contrary, it must be removed carefully from the whole context of ordinary use objects to attain its proper place in the world. 

ーHannah Arendt , The Human Condition


独裁者ガースー、米国に亡命か!?


死を観念化しない思想は世界思想にあらず。生と死、『古事記』における漢字漢文と大和言葉。精神が成り立つのは死からの再投射によるが、思考の論理的順番は漢字の存在が先に来る


アリストテレスの場合「世界(コスモス)」はもともと始まりを持たないものと考えられている。

ーハンナ•アーレントアウグスティヌスの愛の概念』第2章付録


恵比寿にいた20代のときのアパートの取り壊し。此処に十数年いた。当時の恵比寿駅なんて山の手線の窪みのようであった。いまと同じ感じで、あきらめて生きていたが、隠れてたのしんでいたのであった。開発がすすむなかここを壊されたときは、死に場所を見つけるようにして、海外に出てしまったのかな。中世の時代から巡礼者がやってくる煉獄があるアイルランドへ行く(煉獄は火山のあるシチリアか、岩々の大きな穴がある?アイルランドの島にあると考えられていた。これは20世紀だけれど、ジョイスユリシーズ』の中に煉獄を示す坂道がダブリンにあるよ)


物で書かれたものの間の類似性を見つけては(それを纏めあげる)言説とのズレに茫然とするかのドン・キホーテの世界の散文の旅のことをおもう。破線を横断して新たな類似者をさがしにいった。かけらをまとめることはできない、かけらはかけらであるから。リアルな人々の物笑いの種になるが、だけれど過去の時代の衣装を着るのは、差異の反復、すなわちだれも知らない何か未知のことがかけらにおいて起きているのであるー同じことは起きないー多分下級武士が推し進めた復古主義の政治がそうであったように


ツイッターフェースブックが薦めてきた「友達の友達」は驚くほど共通のものがない友達である。人工知能が大したことがないのか、本来的に友達の友達とはそういうものなのか


MEMO 「物で書かれたもの」


言語の存在に信があった時代は、「物で書かれたもの」すなわち言語が尊敬されていたので言語と一体である自然が尊敬された。しかし言語が軽蔑される近代ー音声中心主義の言説ーは言語と一体となった自然にトリチウムが無感覚に捨てられることになる


フーコ『言葉と物』から言語の存在が語られる。『ケルズの書』の文字の装飾は過去の言語の存在を称えた。仏教の中国化である華厳経典も思想だけでなく言語の存在を称えたと思った


ハンナ・アーレント「世界の安定性は芸術の永続性の中で透明になったかのようである。そしてその結果、不死性が触れる形で現れ、輝き、音を発し、語っては読まれるようになったかのようである」(『人間の条件』)。‪It is as though wordly stability had become transparent in the permanence of art, so that a premonition of immortality, not the immortality of the soul or life but of something immortal achieved by mortal hands, has become tangibly present, to shine and to be seen, to sound and to be heard, to speak and to be read. ‬

‪ーHannah Arendt‬


It’s Time to Rethink the Olympics 


The New York Times


Awful 


Fukushima Wastewater Will Be Released Into the Ocean, Japan SaysーThe New York Times


先週は京都国立博物館の鑑真展ー凝然没後700年ーを見学した。華厳教は仏教の中国化。凝然は華厳教を研究した13世紀の学僧らしい。英語パンフレットはトラりんが説明していた


虚数のある空間の積分は何と違うのか。積分すればどんどん位置がわからなくなっていく。また必ず外部ができる。文系の戯言であるが、われわれの思考は統合はいらぬが積分が必要だ


吉川幸次郎伊藤仁斎の思想を平等主義と言い切る。江戸時代に平等の思想はあった。江戸時代に武家政権を批判することは政治的に危険であったから、近世の儒者たちの間では政治的平等を達成する方法は論じられなかったが、道徳学を以って批判した。多元主義の方向で平等を考えたのである。それに先行して、京都国立博物館で展示をやっていたが、華厳の思想は絶対差異における平等の思想をもっていた。しかし吉川幸次郎のように平等主義を生命主義としてまとめてしまうのはどうなのか?植民地化された経験をもつヨーロッパ周辺において、帝国のオリエンタリストの口から生命の語をきくときほどムカつくことはない。なるほど京都で読む吉川幸次郎は示唆に富んでいて面白い。漢文を中国語で読んでくれる。だけれど吉川の講演集を読んでいると、もしかしたら大川周明の方が仁斎をよく理解していたのではないかとおもうときがある。大川周明はどうしてこんなに知っているのだろう?一般に、近代の知識人は近代の向こうにあるものをさがそうとして中国へ行くが、恰も立ち止まるかのように前近代である江戸を考えることになったのは、どうしてだったのか。思考の論理的先行というか、近代に先行していた、江戸(部分)に中国(全体)がくっついていた思考の必然だったのだろうか?たしかに、アジア主義日中戦争によって破綻してしまった。しかし、アジアをゼロにしてしまったら何もかもゼロになってしまうのだったら、戦後の竹内好が指摘したように、あえてアジア主義を考えてみる。アジアを理念として方法的に再構成してみたら、アジアと江戸の両方にかかわる言語の存在がみえてくる。いったいこれはなにか?明治が考えることができなかったことを考えはじめる思考のなかにおいて、江戸(部分)に帝国(全体)がくっついている。帝国の成り立ちと共に鬼神論の言説が中国において成立したことは何か意味があるのだろう。多分だれも言わなかったアジアの共同体の形成ー国家祭祀の共同体から自立したーを思考する契機があった..


『江戸問答』の田中優子氏は江戸という都市のなかにもうひとつの都市があると言う。そこで多様なリアリズムが成りたつ。更に江戸(部分)に帝国(全体)がくっついていると思うな


朝の数分間だけだが、京都の山々の輪郭を発見した。歴史文化を考え始めたら輪郭は見えなくなる。思い出のなかのダブリンの黄昏。だけれど輪郭はベケット的暗闇に包まれる


安倍晋三原発推進議連の顧問に。実は国際社会が放射能汚染を監視する為にあったような東京五輪が終われば、危険な原発<体制>が国際法違反の核兵器開発と共にどんどん進むのか


「言説(ディスクール)discoursは、文あるいは言表の連鎖としてまとまった内容をもつ言語表現の意味であるが、ギリシャ語の「ロゴス」logosに由来する語であり、直接的、直観的な表現ではなしに、概念作用と論理的判断をへた秩序のある表現というニュアンスを帯びていることに注意すべきであろう。」(『言葉と物』事項索引より)ロゴスに関していうと、ロゴスと表象は一緒にあるが、思考の優先順位として、ロゴスがはじめにある。ただしロゴスは、近代的に、いいかえれば、ヘーゲル的に、表象を排除するものではない。プラトンのご研究からそういう指摘をなさっている方の投稿文を昨夜読んだ。わたしの関心が、ギリシャ語の「ロゴス」logosに由来すると言われる」言説(ディスクール)においてもおなじことがいえるのではないかということ。言説と表象は、生と死は一緒にあるように、ともにある。言説は表象を排除しない。ただ、思考の順番として言説の文から考える。そしてあとで表象されるものをかんがえてみるのである。『言葉と物』のフーコが構成すえう言説はその通りになっているのかすべての文についてたしかめてみたい。根気よくやってみようかなとおもう


未知の他者と出会うために、今迄は脱出する出口を一生懸命かんがえてきたのだけれど、隅々まで立ち入り禁止のようなこの時代は入り口をかんがえなければならなくなったようだ


宣長の古学と篤胤の神学。後期水戸学の言説は国家を制作するために孔子のような聖人を神さまとして要請したのかもしれない。理念的には神は平等を実現する人のなかに表象される至高者。問題は、王政復古の言説である。生者の権力すべて、死者を主宰する権力も、天皇に集中させてしまった。軍国主義全体主義は同じ方向をもって、アジア2000万の命を奪うことになってしまった


「うたかたと瓦礫」ー平成天皇の即位と譲位という平成の時代に起きた災害で表象される生きにくさ。しかしもっと、平成天皇の被災地での祀りがほかでもない政治的な災害だったーその代償として政治について益々自由に喋れなくなってきたーという点がしっかりと認識されていればアートからの異議申し立てに意味があったと思ったのだけれど


孔子は人間でありますが、実は神のような性質をもっていると考えられた」(吉川幸次郎、”神様のいる文明といない文明“)は、ポストモダン孔子には違和感を感じる近代的言説だ


「自己にあっての差違においてでなければ。おのれを同一化しえず、「わたし」あるいは「われわれ」と言えず、主体の形式をとることができないというのである。この自己にあっての差違がなければ、文化や文化的同一性は存在しない。」(デリダ『他の岬』)


帝国なき岬


京都に来て1970年代の吉川幸次郎講演集を読む。<外国人は規則に従う(従え)>と<わが民族は自由な思考の主体である>という帝国のオリエンタリズム的視点の分割をおもう。古学が見上げる<偽物>として、中国文学が見下される<本物>として、再構成されているような..。吉川の語りに帝国主義の視線はないが、だけれどオリエンタリズムの構造は保たれている


今日、戦争の目的は革命であり、戦争を正統化できる唯一の大義名分は自由という革命的主張であるというのは、ほとんど当然のこととなっている。したがって、人類が絶滅しない限りは、予見できる未来に残るのは戦争でなく革命であるというのは確かであろう。ーハンナ•アーレント[革命について』序章戦争と革命


嗚呼マンボウでも止めれないのか?聖火リレー愛国主義なるものの幻想には果てしがない


弦楽四重奏曲第1番は今のところ完全に濃霧に包まれた何物かだ。疑いもなく未来に属する音楽だ。バルトークはここで、とても我々この世のものについていけない道に迷いこんだ。」1910年3月20日(あるブダペスト紙に出た批評)


失ったときは失うことができる。それに代わるものをさがす必要がない。東京五輪の復興幻想を失ったのに、聖火リレーが何かの意味をさがそうとして滑る記号として浮遊しちゃっている


Who jumps into the void Owens no explanation to those who stand and watch ーGodard


「漢字は借り物である」か?「漢字は借り物である」のナショナルな物の見方は、漢字はいつまでわれわれのものではないという。漢字から侵略されたのであって、それ以前に固有の言語があったという。しかしそうだろうか?漢字の受容から1000年を経て、漢字は漢字仮名混淆文の成立とともにわれわれのものとなった。江戸時代に言説が豊かに存在したのはこのためである。江戸時代の前まで天皇・貴族・寺社が独占していた学問をわれわれは自立的に考えることができるようになったのである。「アジアの知識革命」は“危機”の17世紀に起きる。言説<漢字は借り物である>とは異なる物の見方を考えることが必要だ。言説<漢字は借り物ではない>で表象されるのは不可避の他者である。不可避の他者に漢字という名を付与する。そうして漢字の名において不可避の他者性の存在を名指すのである。「漢字論」は言語支配者の中国からの議論を十分に共有するとき、理念的に、これを21世紀の日本文化と考えていいのではあるまいか。新しく?、対抗西欧の近代に日本文化を発見する反復はいつまで続くのか。歴史が送り返す悪夢から目覚めるために、対抗西欧の仮装をやめることにしよう


La tâche fondement du <discours> classique,c’est d’attribuer un nom au chose, et ce nom de nommer leur être. ーFoucault


古典主義時代における「言説」の基本的任務は、<物に名を付与し、この名において物の存在を名ざす>ことである。ーフーコ『言葉と物』


この小説はいつも最初の数頁でやめてしまったのだけれど、三島『潮騒』の神島。三島は現代を古典的世界が支えることが可能かと問うた作家とおもうけど、そうして古典ギリシャ劇を訳したヘルダーリンのことを考えはじめて、だけれど西欧の枠づけの内部に沿ってその中から、征服されない対抗西欧の近代のグロテスクに絡みとられてしまうようにみえる。執拗に、現代は決定的なはじめと終わりがどうしても必要だと三島はかんがえているみたいだけど(最後の小説は何度もはじめをやり直しをする)、古典的世界のはじめは宣長が読み解いたようにそれほどはじめではないというか...


2016年は「思想史遠足」ではじめて伊勢に来た。伊勢サミットで安倍首相はG7首脳達を何と神社の奥に招き入れて記念撮影した。米大統領と英国首相の宗教の自由を侵害したのにたいして、日本は伊勢神社が文化施設であると説明。これは戦前における国家神道ー国家祭祀ーの主張を思い起こさせる。統治権の象徴である三種の神器を預かる伊勢神社は憲法よりも上にあるのだ。戦前の分かりにくい二重体制を説明すると、戦前の国家神道は自らを国家とかんがえていて自らを宗教と規定していなかった。キリスト教とかにたいして政教分離をまもれと言っていたのだ(!) 2021年再び伊勢にきたのは、今回は伊勢で真珠の養殖をやっていた方の弔いのために鳥羽にきた。緊急事態のときに東京の外に出ることができなくて葬儀にいけなかった。2016年のことをかんがえながら、伊勢神宮にも立ちよった。あれからどうなっているんだろう?先ず参拝客の数の多さに驚いた。宿泊先の従業員によると、緊急事態解除の前からずっと多いのだという。6年前とくらべて若者が多い。年配の方たちは簡単に外出できないのかもしれないが、それにしても多い。参拝するのは自由だ。しかしこんなものに期待を持っている彼らの姿を見るとこれでいいのかという気持ちになってくる。静かな気持ちだったのだが、だんだん、安倍政治は終わっていないのだと苛立ちとともにわたしは参道を歩いている..


コカコーラ、トヨタ日本生命など「ナチスと同じ愚は犯すな」と叱られている五輪スポンサー企業の大行進に街頭のだれひとりも手をふっていない


どうしてわたしは東京五輪に反対するかその理由をよくかんがるのです。東京五輪は権利のない社会だからです


どうしてわたしは東京五輪に反対するかその理由をよくかんがるのです。東京五輪は権利のない社会だからです


近代日本知識人の宿命だが、ヨーロッパの本を読むときヨーロッパ人がどう読むのかを考えるとともに日本人としてどう読むのかも問題となってくる。わたしは日本人はだれかがわからないので、アジアの周辺にいる人々と言おうとおもう。そうして冒頭の文をもう一度言い直すと、そのアジアの周辺にいるわれわれは、ヨーロッパ人がどう考えるのかを考えるだけでは足りないのであって、アジアの周辺にいる人々としてどう考えるのかを考えることが大切なのであると。こういうふうに書くと、言語支配者であるアジアの中心にいる人々のことも考えなければいけないことが自ずとわかってくる。『漢字論』の‘あとがきにかえて’を読むと、子安先生が文化帝国主義エドワード・サイードが呼んだものついて考えた書いた面白い文がある。わたしの理解であるけれど、間違いを恐れずに説明してみると、アジアに言説「漢字は借り物ではない」で表象されるのは思考を可能とする不可避の他者である。不可避の他者を漢字と名づけるのである。そうしてみるとどんなことが言えるのかである。明治が造った語「言説」「表象」無くしてこの文は成立しない。だがヨーロッパ語翻訳に支えられた漢字中心主義はアジアに対しては、文化帝国主義ー自分たちの物の見方は他においても自明だとする物の見方、ここでは明治のヨーロッパ語からの翻訳語「表象」が台湾で通じるという錯認ーの様相を呈すのである。『漢字論』は中国語に翻訳されている。言語支配者である中国はどう『漢字論』を読むのだろうか。「漢字は借り物である」というナショナルな物の見方はだめだし、また、一見文化帝国主義的に見える漢字中心主義の見方でもいけないと主張する言語マイノリティの知識人の考えかたを中国はどう読むのだろうか。江戸古学と共に大いなる他者・中国を考える視点は言説支配者が知らないものだろう。『漢字論」が『江戸思想史講義』とともに、アジアに共有される未来をおもう。


「確かに本多さんが指摘したように、今や近代日本の知識人による中国をめぐる語り(子安『近代日本的中国観』原題『日本人は中国をどう語ってきたか』)を現代中国の知識人がどう読んだかが求められ、日中知識人の相互認識をめぐる議論がなされることが可能な段階になってきた。私の『近代日本的中国観』(三聯書店)についての李公明氏の書評が上海の書評紙に昨年11月に掲載され、その内容を陳璐さんの翻訳によって3月の講座で紹介した。そのことをネット上で報じると、それに答えるように厦門の郭穎氏から氏もまた「解放日報」紙に『近代日本的中国観』の書評を書いていることをそのコピーとともに伝えられた。さらに省略されている紙上の書評の原文をも送って下さった。われわれはいま近代日本知識人の中国観を現代中国の知識人がどう読んだかを知るための貴重な材料を手にしたことになる。郭穎氏の書評の翻訳をも陳璐さんにお願いしている。この翻訳ができ次第、あらためて講座で話し合いたい。その前に原文でお読みになりたい方のために郭穎氏から送られてきたコピーを添付します。」

https://www.jfdaily.com/journal/2020-10-31/getArticle.htm?id=302709

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放眼“江湖”,而非置于“鱼缸” 10-读书周刊/书评-解放日报

jfdaily.com


『日本人は中国をどう語ってきたか』(2012青土社)。日本における学者的議論の言説に関心をもつ「中国人が日本人は中国をどう語ってきたかをどう語るのか」が問題となってきた


カズオ・イシグロ日の名残り』。アイルランド人がこれは英国における全階級の王室への精神的従属を物語るという。英国は階級という視点、アイルランドは共和主義の視点がある


Projected worldliness 投射される世界性


「枢軸時代」のヤスパースがいう古代的世界は現在を支えることが可能か?スクリーンとして17世紀をかんがえてみる。スクリーンのなかのどこかに、現実を支える古代世界の痕跡がある。Zである一点から投射されている思想史空間からは、重なり合う諸々の断片のあいだにある微小な流れたちが見えないが、像を見ることができる。


トッドが講演で言っていたが、家父長制は女性の知性を破壊してしまう。その通りだ。男尊女卑も、正確にいうと、おじさん尊女卑。私もおじさんだが、おじさんは諸悪の根源だと思う


海外からメッセージ有りの友達申請に、チューリングテスト(?)をしながら、私が機械と喋っていないようにと願うが、かえって間違いが多い日本語を書いてきたら一応人間と判定する


枢軸時代のヤスパースのように紀元前の孔子とエレミアを考えるためには思考の媒介が私に必要だ。仁斎の孔子の17世紀を考え、レンブラントが描くエレミアの17世紀を考えてみる


「これは黄泉の国の光景であり、今後の人間の精神に大きな影響を及ぼすだろう」(シネマトグラフについてゴーリキー)。20世紀を支えていた大切な映画たちの名が思い出されなくなった21世紀のどん底に来た私は「映像の世紀」(20世紀)の精神を千年前の朱子鬼神論ー目に見えず耳に聞こえないものについて考えたアジアの形而上学の始まりーを以って読み解くのは必然だとかんがえるようになった


フィネガンズ・ウェイク』は読めないが、言語を与えてくれた大きな他者がみえる。問題は天における大きすぎる父とのギャップと恐怖。絶対者のもとに行かない天地間の円環を書く


正確な日づけは意味がない。

ボルヘス


「見ている」と「見ていなければいけない」の差異


先祖が自分を「見ている」と思うと語ってくるひとがいるとするよね。それにたいして「見ていなければいけない」とわれわれは言うんだ。何故か?世界思想としての宇宙論死生観を考えようとおもっているからなんだ。しかし死を内部に向かってすなわち民族とか国家においてとらえるひとは、この「見ていなければいけない」というわれわれの言葉を不愉快に感じて反発してくるのだろうな。この彼がかんがえているように、民族と国家しかないならば、魂は民族と国家から「見ている」だけだろうな。言説「魂はそこにある」で表象されるのは魂の民族•国家-内-存在である。しかし「お天道様はみている」というのは、天に上った魂は民族と国家を超えた天から私を「見ていなければいけない」のだ。近代以前はこれは日本だけではない。世界的に見いだされるギリギリ倫理的な要請だったんだな。問題となっているのは、コスモロジー形而上学を失った近代のわれわれは帰ってくる魂を迎え入れる準備をしていないのだ。だからだろうが大正からの日本ロマン主義は道徳的内面性の掘り下げが決定的に足りない。世界性が無い


見よ、売名「火」リレーの死神大行進


Edward W. Saidはthe worldliness of world literatureについて語っている。テキストを読む我々には世界性(worldliness)があり、またその世界の中で生きている存在(世界内存在)でもあるという。わたしの世界性は?ヨーロッパの周辺とアジアの周辺で考えてきた復古主義は、政治=歴史に先行して、始めと終わりを語ること無しには自由な物語が成り立たない。しかし人間の条件はそこにあるのかと問う


「物がない芸術が物の表出に取って代わっても芸術家の世界性は変わらない」(ハンナ・アーレント)。ここで「物がない芸術」とは表象性のない芸術。「世界性」(worldliness)とは...これが問題だ。「世界性」と「世界」は違う。ここで、「性」はその質・傾向を持つことを表す接尾辞だが、これは実は大問題なのかもしれない。


This inherent worldliness of the artist is of course not changed if a “non-objective art” replaces the representing of things; to mistake this “non-objective art” for subjectivity, where the artist feels called upon to “express himself,” his subjective feelings, is the mark of charlatans, not of artists. The artist, whether painter or sculptor or poet or musician, produces worldly objects, and his réification has nothing in common with the highly questionable and, at any rate, wholly unartistic practice of expression. Expressionist art , but not abstract art, is a contradiction in terms. 

ーHanna Arendt


「物がない芸術が物の表出に取って代わっても芸術家の世界性は変わらない。この物のない芸術を芸術家が自分自身を表現するのに訴えたと考えている芸術家の主観と取り違えるのは、知ったかぶりの人であって、芸術家ではない。」ーハンナ・アーレント(人間の条件』第6章注87


バイデン大統領はウイグルの弾圧を問題にして中国を批判しているようだ。「民主主義と専制主義の対立」を言う。今朝新聞を読むと、「経済安全保障」をめぐる米中の対立のことが分析されている。日本は何もしなければ米中との結びつきを失う危険がでてきたというのである。日本は何があってもアメリカにくっついていけば大丈夫なんだというゲームの規則が変わったのだ。兎に角、米中の対立を緩和するためには、日本は国内のマイノリティとの関係をよくすることを中国にもとめるときがきたのではないか。精神の従属を起こさせる同化はやめなさい、と。日本は中国にそれを言う以上、自らも、精神の従属を起こす国家祭祀的あり方をやめなければいけないだろう。靖国神社公式参拝を止めること、明治維新の帰結であった日中戦争を反省して、 国家神道のもとでアジア2000万人の命を奪った A級戦犯の合祀をやめるべきだとおもう。安倍がいたためにそれができなかったが、いまそれができる。発想を大転換しなければいけない。これからはアジアをみる立場


今朝の朝日新聞によると、「経済安全保障」をめぐる米中対立で日本が米中との結びつき失う恐れがある。米中との結びつきを失わないためにはどうするのか?日本は自らをもっと民主化した上で中国に民主化を求めるしかないのではないか


ポストモダン的制作は全部を変えるために何も変えてはならない。国家を作るためには国家祭祀を変えてはならなかった。現在は国家を解体するために国家祭祀の禁止を変えてはいけない


みんな一人ひとりがマイノリティに成る、N個の性に成る。権力の祀る=祀られる<一>の包摂から逃げる、線を描く、文を書く。すべてを変えるためになにも変えてはならない


神(他者)は同一か、差異か


『エチカ』のスピノザによれば、その本質に存在が属する実体は、ただ神のみである。これが分からないが、マイモニデスからの影響を考慮してイスラム哲学入門やユダヤ哲学入門で調べると、存在は本質に貼り付けるラベルのようなものとイメージ的に説明している。では、神において、本質なきものに存在が属することがないのか、本質なきものに存在を貼り付けることができないのかとかんがえはじめたら、まったくわからない。しかし神は本質でなければいけないということを言おうとしていることはわかる。これが優先的に大事なんだと。とすると、テキトーなことを言うが、そもそも、本質なき(再)分節化は神が行うことが不可能なのではないか。これをアリストテレス的に文の構造に即して考えよう。文において、主語である神は、述語にならない主語として、多数化してはいけない。主語面からみると、否定的に、一は一である。このようにかんがえられる神とは天における同一性だろう。しかし話はここで終わらない。スピノザは言説的解釈を展開した。実体像をめぐるスピノザの言説「神=自然」で表象されるのは神の多数化•差異化である。主語面からみると否定的に、一は一である、と同時に、述語面からみると、一は多である。この地上で卑近なものと言ったら神ぐらいしかいない。神は近傍である。神は差異として存在する。そして隣同士の関係というものは常に多様なものである。関係は同じままではありえないという意味で、神との関係も差異である。差異は時間の中にはない。差異は論理的に先行する思考の順番である。と、こんなことをベラベラ喋り続けると、「被造物」であるおまえの話は危険な「偶像崇拝」だ、ポストモダンの「無神論」だと言われるだろうか..


中心と周辺


世界資本主義を分割する帝国の時代です。拡大EUの現在は中心はベルギーですが、brexit によって、ヨーロッパの中心に再びウィーンがくる可能性もあります。ウィーンは文化をもっています。東欧諸国からの観光客で賑やかですね。政治における新しい普遍主義の模索が極右翼によってうまくいかないことも現実。今日中心を考えるためにウィーンを考えることは意味があるようにおもいます。ヨーロッパの中心の一つだったイギリスはヨーロッパの周辺になるのでしょうし、気がついたらアジアの中心だった日本も十年前ぐらいから経済力で中国の周辺になっていました


ヨーロッパの周辺とアジアの周辺で考えてきた復古主義は、政治=歴史に先行して、始めと終わりを語ること無しには自由な物語が成り立たない。しかし人間の条件はそこにあるのか?


That every individual life between birth and death can eventually be told as a story with beginning and  end is the prepolitical and prehistorical condition of history, the great story without beginning and end. ーHannah Arendt


語る事ができるということは、始まりも終わりもない大きな物語である歴史の条件である。

ーハンナ•アーレント人間の条件』25


パッチワーク(patchwork 布切れ・つぎはぎ)


フィルムの編集とペンローズ図、そして朱子『中庸章句』の注釈


「世界でもっとも多い統治形態は民主主義の理念を掲げる独裁国家である」と言われはじめました。この言説への自分の違和感は何だろうかと考えてみました。簡単に<独裁国家>と言い始めると、ホントウの独裁を見逃してしまうのではないかと心配します。このことを前提にしたうえで考えますと、「世界でもっとも多い統治形態は民主主義の理念を掲げる独裁国家である」が真ならば、「独裁国家」同士、隣国同士で、「あなたたちの国は多様性がありません。わたしたちの国の多様性がまだまだです。わたしたちは努力しなければなりません。一緒に努力しましょう」という考え方が要請されてくるのではないでしょうか。具体的には、もっと野党が政府の外交のあり方を問いただしたらいいとおもってはいるのですけれど。


理念性を問題にしているところに、肉体派は「リアリティが無い」と言えば何か批判できたつもりになっている「日本リアリズム」が問題だ。「虚構性がない」というべきである


独裁者は選挙によって選ばれることはローマからはじまることです。全体主義の選挙を停止した経験をもった戦後は、選挙を通じて、複数政党制の議会の成立とともにある言論の自由多元主義を現実化していくことになりました。トランプのような人気のある大統領に議会が危機感を感じているのは、彼が大統領を尊重しても議会を尊重しないからです。大統領と議会の対立のことは、フランス革命に遡ることだろうとおもっています。大統領ではないですが、変な話、アメリカ大統領と親しくして人気をもつような小泉と安倍は、恥もなく大統領を演じることによって、国会を軽視しているのをみると本当に腹が立ちます。世界ことにアジアに増殖しているのは、こういう議会軽視の自民党政治だとおもうのです


古代世界は現代世界を支えることができるか?現代世界はもはややっていけなくなった近代のことならば、不可能である。とりあえず、近代から古代世界を逃してやらなければいけないー大いなる他者とエクリチュールのもとに


「古代的世界は近代の後に来る世界を支えることが可能か」という言説についてだけれど、そもそも「古代的世界」が住処としているのは漢字漢文テクストである。ところがこれがわかっていないー自戒をこめて。漢字漢文テクストの漢字について「漢字は借り物である」と考えてしまうことの問題がある。日本語の固有性というような自言語意識の奥にむかって絡みとられる。『古事記』に「古代日本人の心」を実体として深読みしていくようなことが起きる。この錯認は、漢字を侵入者とみなすような民族主義のナイーブさからくるのだろう。また話し言葉を過剰に評価する音声中心主義のラディカルモダンの言説の普遍主義と無関係ではない。

また「借りた物は返さなければいけない」というような漢字中心主義に絡むとられてもならないことが大事。漢字受容から1000年要したが、漢字は漢字仮名混交文によって、言語支配者(中華帝国)の周辺にあるわれわれの思考となった。漢字における他者性は、翻訳にあるということでは説明できない。漢字は思考不可能なものを思考できるかを絶えず問うような存在としてあるのだ。漢字そのものが思考不可能である。思考不可能なものを思考しようとする、子安宣邦氏の全著作において一貫しているのは、漢字、他者の言語の存在についての探求にほかならず、トータルに問われるのは、大いなる他者との関係であり、共同体理論としての鬼神論を書いた漢字漢文の存在である。


(「近代の後に来る世界」を分析する理論はrepresntation という語が大切な役割をもつが、「表象」と翻訳されている語はあくまで翻訳語であるという了解がある。曖昧な共通性に心地よく依存して、恰も語源を探すように、中国語のオリジナルを参照することはできない。まったく新しく、フーコが言う前に誰もいわなかった表象についての言説を考える必要がある。だから未だに「表象」が十分に理解されているかという問題が『言葉と物』を読むときにある。)

(下は、子安宣邦著『漢字論ー不可避の他者』(岩波書店 2003)からの引用)


パウンド(Erza Pound)のこの詩はゴダール映画史のなかのナレーションを通じて知った。パウンドはオリエンタリズムだ、現代は同郷の友人であるウォーレ・ショインカの時代であるとわたしに言っていたアフリカの詩人の言葉を思いだす。彼がパウンドに距離を置こうとしたのは、パウンドの背後に見えてしまうヨーロッパ帝国主義の人類知に反発していたからかもしれない。しかし近代の成立とともに、どんどん死に場所がなくなってくるこのことについては、かれらはナイジェリアからロンドンに来て考えていたに違いない。西欧では死んだら死者にバイバイでそれっきりであるけれど、アジアは、おそらくアフリカも、バイバイということにはならないのはどうしてなのか。そして開発と戦争と同化のグローバリズムに反する法はあることはあるのだけれど、人々に媒介するスクリーンが無いのだ。どんどん開発と戦争と同化は進むが、人間は自由に喋ることができないままである。こうして、映画が映画のなかで物を通じて饒舌に喋っただけでなく世界にむかって語った時代の思い出の中にあるスクリーンが死に装束に見えてくるということがゴダールのような反時代的精神において起きたわけで.. 。死に装束としてのスクリーンは白紙の本に似ている。偶然だろうか。白紙の本とともに懐疑精神の思考がある。目に見えないもの、耳に聞こえないものを考える、形而上学的ロゴスの果てしない呟きかもしれない。言語的存在である人間は存在することの意味を思考するために祀るのであって、これは多分逆ではないとおもう


‪だが最初に現れたのはエルペーノール‬

‪葬られもせず、広大な大地に打ち捨てらた、

われわれの友エルペーノール‬

‪キルケーの館に、われわれが残してきた遺骸‬

‪憐れみ深い霊魂を、他の仕事が追いたてたために‬

‪嘆くことも、墓に納めもせずに」

‪(エズラ・パウンド)‬


‪but first Elpenor came ‬

‪our friend Elpenor ‬

‪unburied, cast on the wide earth‬

‪limbs that we left in the house of Circe ‬

‪unwept, unwrapped in sepulchre‬

‪since toils urged other pitiful spirit‬

‪(Erza Pound)‬


 近代イギリスの精神的支柱はウィリアム・ブレイクだとおもう


From Wiki


カール・ヤスパースは、1949年に『歴史の起原と目標』(Vom Ursprung und Ziel der Geschichte) を刊行して自らの歴史観を述べ、あわせて歴史の将来と歴史の意味について語っており、「第1部 世界史/ 第1章 枢軸時代」では、紀元前500年頃を中心とする前後300年の幅をもつ時代を「枢軸時代」と称して、その輪郭を叙述して読者に注意を呼びかけている。


この時代には、驚くべき事件が集中的に起こった。シナでは孔子老子が生まれ、シナ哲学のあらゆる方向が発生し、墨子荘子列子や、そのほか無数の人びとが思索した、—インドではウパニシャットが発生し、仏陀が生まれ、懐疑論唯物論、詭弁術や虚無主義に至るまでのあらゆる哲学的可能性が、シナと同様展開されたのである、—イランではゾロアスターが善と悪との闘争という挑戦的な世界像を説いた、—パレスチナでは、エリアから、イザヤおよびエレミアをへて、第二イザヤに至る予言者たちが出現した、—ギリシャでは、ホメロスや哲学者たち-パルメニデスヘラクレイトスプラトン—更に悲劇詩人たちや、トゥキュディデスおよびアルキメデスが現われた。以上の名前によって輪廓が漠然とながら示されるいっさいが、シナ、インドおよび西洋において、どれもが相互に知り合うことなく、ほぼ同時的にこの数世紀間のうちに発生したのである。


古代的世界は近代の後に来る世界を

支えることが可能か

どこへ帰るのか、どこへ行くのか?

「どこ」が問題ではない。

「どこ」は確率的でしかないから。

古代ギリシャ哲学とブルームとエレミヤの

のぼっていく天であれ、

棺桶グラムフォンと繋がった岩々の

釈迦の降りていく地であれ、

17世紀の仁斎は往来の運動を道と名づけたとき

紀元前5世紀の孔子が天を見上げたのをみた


講義の後、京城大学の宇野哲人『中庸』を買って読んでみた。『中庸』と『大学』、この両者は宇野において互いに切り離せないかのように前提される。そうして経書は政治と倫理は一体だと教えると説明してみせるオリエンタリズムの知が成り立つ。オリエンタリズムは自らの見方を、古代的世界に投射して現代をみる。現代世界と古代的世界の調和を称える。宇野の『中庸』は声を出して読み上げるために書かれたのかもしれない。彼の文体は、高さと広さ、比類なき単純さにおかれたリズムをもっている。だがその代償はなにか?帝国主義者の透明な言語が従属における問題を隠蔽している。経験から言って、近代国家が推進した問題(例.不平等)の解決を再び国家に委ねるのは倫理的に不可能なのだ。『中庸』を読み解く帝国日本のオリエンタリズムは、「(古学の)伊藤仁斎は誤解している」とあちこちできめつける。逆に、17世紀の伊藤仁斎における思想の大切さを、易しくはないけれど、あらためて考えてみようという気持ちになった。


ロンドン在住のイスラエル人の友人は骨董品にかこまれて、イディッシュ的カバラ世界を生きる人物だった。移民労働者の彼は、英国の教育に「同化」した息子がベケット役者になりたがっていると嘆き、また娘が彼女にとって全くの外国であるイスラエルの言葉を勉強しはじめたことも非常に心配している。友人は、彼の両親の墓があるドイツのユダヤ人墓地と比べて英国の墓地に不満をもっていた。迫害はあったが、ドイツのユダヤ人のほうが遥かに裕福に暮らすことができたという。父はベルリン大学法学部を出てボルシェヴィキに行ったが失望して、初期のキブツ運動に加わったという。街中のチェーン店のカフェで、ゲマインシャフトゲゼルシャフトについて盛り上がったときに、ドイツ時代の祖先の活躍を語るこの彼に、ユダヤの死後の世界はどうなってるんだとちょっと好奇心で聞いてみた。と、いつも饒舌な彼はこの時は青ざめて震えているではないか。ゾンビみたいに復活するのだと怖がっていてぜんぜん説明できないのだ。今からおもうと、これは、祖先崇拝が宇宙論に理論づけられている東アジアの共同体とは随分ちがう感じ。アジアの知識人はコスモロジー(人はどこからきてどこへいくのかを説明する知)を構築したとき古代儒教の祖先崇拝を保ちつづけたのが特徴なんだね


EUが駄目になって東アジア共同体構想が挫折した現在、別の仕方で、アジアに成立する共同体を思い浮かべることが必要となってきた。そこで、問うーなぜ中国は廟と墓があるのかと。天に昇った気を祀るために廟があり、他方で地下に降りていった気を祀るために墓がある。祖先祭祀を宇宙論のなかで理論づけていった魂と身体を語る朱子学鬼神論をめぐる言説をアジアは共有していた。魂の行方を問題とする共同体の理論化は日本固有のものではない


『「アジア」はどう語られてきたかー近代日本のオリエンタリズム」(子安宣邦著 2003)は、『江戸思想史講義』(1998)と『「近代の超克」とは何か』(2008)の中間に位置する。中間とはその両端に対して最も活発に運動する場所である。

第五章『東洋的社会の認識』はオリエンタリズムは他者が二つあることの意味を考える。<西欧>と<西欧から見たアジア>である。これらは、わたしの理解の仕方では、<見上げる他者>と<見下げる他者>を意味してくる。<見上げる他者>をホンモノとみる見方は、「近代日本」はニセモノであるとする見方をともなう。見下げる他者の位置に置かれる自己をニセモノとみる自己理解的言説が働く。そして<西欧> <見上げる他者>の近代主義に対抗して、ホンモノのアジア人になろうとするアジア主義という自己理解的言説が生まれてくるのだ。(ヨーロッパの周辺の近代化は自己を否定し尽くす近代を全面的には受け入れない。近代に抵抗する伝統を残すのである。だが下級武士たちが推進した明治日本の近代化は伝統をゼロにしていくような近代化となっていった。江戸思想は「前近代的」である。)

絶えず見上げたり見下げたりするシーソーゲームのように働く二項対立に絡みとられない外の思想として、岡倉天心が語る「東洋」がある。東洋美術史は、それまで<西欧から見たアジア>を体現した中国美術史ではなくて、「日本」から見る物の見方に意味を見いだす構成的な見方である。岡倉天心の言説「アジアは一つ」で表象されるコンパクトな多元主義、それは「日本」によって実現する。「日本」は東からきた多種多様な文明と思想の集積点であると言う岡倉天心は、「日本」の博物館としての理念的意義を積極的に打ち出したのである。岡倉は言う。「日本民族の印度韃靼的な血そのものが、この民族をして、これら両個源泉から汲み、かくして全アジア意識を映し出すかがみとなることを得しめた天賦の能だったのだ」(『東洋の理想』)


津田左右吉皇国史観を批判できた思想家であるが、「東洋」を否定する。単に否定するのでなくて、彼のラディカルモダニズムは「反」アジア主義近代主義を超えるものである。また福沢諭吉は人民(people)の自立的思想を考えることができたが、彼の近代主義は常に中国に対するネガティブな見方をともなって「脱亜論」を語らなければならなかった。明治維新以降、アジアことに中国の見方は福沢諭吉に責任があるとおもわれる。

グローバルな物の見方のなかでそれとは別の見方をつくる思想史的線は岡倉天心から竹内好にむかって引くことができる。(「方法としてのアジア」という竹内好の見方は、「世界史」イデオロギーとポストコロニアリズムと帝国論の言説的配置において、「方法としての中国」に置き換えられていく問題は別の機会に論じたい。)


「近代日本はアジアに在ってアジアではない」の文は、述語面を考えると、意味が否定と否定の否定とのあいだに揺れ動いて仕方ない。この一文は、意味をゼロにするところまで突き進んでいって、ついに自らだけを前提としてだけ考えていくような、そんな絶えずゼロから出発しなければならないラディカルさをもっているのかもしれない。しかし意味をゼロにしては何もかもゼロになってしまってしまうのではだろうか。「近代日本はアジアに在ってアジアではない」については、意味の成立が要請されることを考えつつ、何とかこの文を思考できるのは、文における主語が漢字であることによるのかもしれない。この場合、「主語が漢字である」ことが発見である。漢字の主語は存在でありそして理念的である。漢字は蘇ることがない死にきった伝統を住処にしている。それは他者のために書く言語が存在したことの痕跡であって、共同体にとって絶対であるような不可避の外部を構成していたのであるまいか


現代建築は脱構築という思想の(非)中心に建築をもつことになった。ザハ・ハディドから建築を奪った東京五輪。女性建築家が思想をもつ意味を考えることができなくなったよな


オデュッセイア』第十歌は魔法使いキルケの館で豚にされた人間達を物語る。オデュッセイアだけはヘルメスから貰った薬草のおかげで魔法が効かない。ジョイスユリシーズ』の第十五挿話キルケは、大英帝国の植民都市ダブリンにあった当時ヨーロッパ最大の赤線地帯を舞台にしている。ブルームは、キリスト教ユダヤ教イスラム教という、あらゆる宗教が対等に扱われる「New Bloomusalem」の建立を宣言する。だがだれがなにを喋っているのかわからなくなるような言語の暗闇のなかで彼はナポレオン三世みたいな皇帝になってしまう


https://www.instagram.com/p/BywBNF6npCV/?igshid=k3hx31nliyjm


『「近代の超克」とはなにか』(青土社)は、2008年に出版された。著者の子安宣邦氏は、竹内好とその彼が再び読んだ「近代の超克」論を読んでいる。「日本人」における実体としてのアイデンティティの対立(近代主義民族主義か)を再解釈してはいない。問題となっていたのは、言説空間を読む方法だからである。これ<と>あれを名づけることを防ぐ『「近代の超克」とはなにかと問う』言語は、「近代の超克」論に表象されるものを砕く新しい言説である。『「近代の超克」とはなにか』は、『江戸思想講義』(岩波書店)の十年後に現れた、現れなければならなかった本なのである。「方法としてのアジア」と「方法としての江戸」は、フーコが言う意味で、<混在なもの>である。<混在なもの>は不安をあたえずにはおかない。


「私は明治の末から昭和の敗戦に至る日本の足取りを考えると、どういうわけだかつい『ドン・キホーテ』の物語を連想する。」(尾崎行雄)


<混在なもの>は渡辺一民がつくった訳語


<混在なもの(エテロクリット)>は不安をあたえずにはおかない。むろん、それがひそかに言語(ランガージュ)を掘りくずし、これ<と>あれを名づけることを防げ、共通の名を砕き、もしくはもつれさせ、あらかじめ「統辞法」を崩壊させてしまうからだ。断っておくが、「統辞法」というのは、たんに文を構成する統辞法のことばかりではないー語と物とを「ともにささえる」(ならべ向き合わせる)、それほど明確ではない統辞法をも含んでいる。(フーコ)


第4波では、好きな国に行って好きな本を読むのも無理で半強制終了の感じか。「好きな国で好きな本を読む」は理念かも。しかし時間は感染されないだろう。書物は時間のなかを旅する


同性婚認めないのは違憲法の下の平等に反す」 札幌地裁


「自分で決めた亡命」は「女」と逃げる。「女」はアイルランドすなわち妻ノラのことだと言われる。ノラはアイルランド西部出身である。国家を女性として表象するのは帝国主義の常套。ジョイスはそれを逆手にとる。とすれば、亡命はジョイスの国家からの亡命だけでなく、ノラ=国家も亡命することを意味する。これはなにを意味するのか?つまり亡命とは、強気の言葉と裏腹に勝算は全くなかったのであるが、ジョイスにとって外へ行くやまざる運動をいうのかもしれない。「フィネガンズ・ウェイク」のどこから来たわけでもないただ運動だけであるというこの表象をジョイスは「亡命」と名づけた。これが自分たちが国家から生かされていると思い込んできた日本読者に衝撃を与えるのかもしれない。『フィネガンズ・ウェイク 』は、1939年出版から翻訳しはじめて、現在迄に物凄い種類の翻訳がある事実にヨーロッパの研究者は皆驚く。だがジョイスの「自分で決めた亡命」について注意したいのは、亡命する前衛作家の伝説とは違うことである。それは、たしかに権威に対する反抗であったが、政治は独立したが経済は従属したままの国内に仕事口がなくて国学に出るような普通の人々の移動も意味していた


中江兆民はルソーの自然と作為に表象したものを「天命の自由」「人義の自由」と名づけたのではなかったか。対抗西欧の近代とは別の近代のあり方ー国家祭祀の近代ーに嘗て賭けた、漢文を読む、自由民権運動の活動家的知識人達のためにである。その自由民権運動は敗北し、中江兆民の名が思い出されるのは1970年代までである。今日まだ中江兆民に可能性があるとしたら、言説空間の外部の歴史からとらえることが大切である。兆民の『民約論』はルソーの社会契約論を単に解釈的翻訳ではなくて、ルソーを脱構築した制作論である、と、『「維新的」近代の幻想』(作品社)を読んだわたしは考えようとしている。だれが国家祭祀の近代を解体してここからアジアとの関係の構築を制作するのか?


人間が誕生した近代に表象の限界に直面したサドは欲望を名づける。文学が誕生した。表象から欲望に変わっても名づけることは変わらず。多分ベケットから欲望を名づけることをやめた


なぜ悪徳は栄えるのか?それまでは表象の秩序ある空間が表象を名づけたが、1800年前後を境に、人間が欲望を名づける。欲望は海の如く深く限界もないのでサドは書き尽くせない


表現は言説が自らに折り重なる所に可能となる。例えば、伊藤仁斎は「路」で表象される往来の運動を「道」と名づけた。ゴダールは思考の形式で表象される投射を「映画」と名づけた


梟猫共同体は自然哲学と倫理学がある。<一>と<多>は共通なものがない。要請される平行関係は、<一>に成らずに<多>を保つ契約性、そして<多>に成らずに<一>を保つ祭祀性


Give me the liberty to know, to utter, and to argue freely according to conscience, above all liberties.

ーJohn Milton 

いかなる自由にもまして、良心の命じるままに知り、語り、論ずることのできる自由をわれに与えたまえ。ージョン・ミルトン


日本はパニクると国家祭祀へ行く。英国はパニクると市場へ行く。多分国の成り立ちの違いに関わるが、祭祀的なものに契約的なものはないか、契約的なものに祭祀的なものがないのか


荻生徂徠といえば、命名制作論。聖人は鬼神をつくったという。これは、聖人は鬼神という名を与えてくれたおかげでわれわれは共同体の祭祀を考えることができるようになったという意味である。性を私物化するが如く鬼神を理とするような祭祀論では、死んでいるのか生きているのかわからないようなものをかんがえているようである。三木清によると、伝統は死に切ったという意味での死せるものの生命の論理に基礎づけられる。芸術の絶望は死に切ったという意味での滅びつつあるものを永遠の生にする創造にある。芸術は創造に絶望するーわれわれは「作る近代」に絶望しているように。芸術は不可能であるからこそ理念的である。どんなにやさしい作品に見えても、理念的であるかぎり難しくなるのだ..


三木清『人生論』より


 伝統の問題は死者の生命の問題である。それは生きている者の生長の問題ではない。通俗の伝統主義の誤謬ごびゅう――この誤謬はしかしシェリングヘーゲルの如ごときドイツの最大の哲学者でさえもが共にしている――は、すべてのものは過去から次第に生長してきたと考えることによって伝統主義を考えようとするところにある。かような根本において自然哲学的な見方からは絶対的な真理であろうとする伝統主義の意味は理解されることができぬ。伝統の意味が自分自身で自分自身の中から生成するもののうちに求められる限り、それは相対的なものに過ぎない。絶対的な伝統主義は、生けるものの生長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基礎とするのである。過去は死に切ったものであり、それはすでに死であるという意味において、現在に生きているものにとって絶対的なものである。半ば生き半ば死んでいるかのように普通に漠然と表象されている過去は、生きている現在にとって絶対的なものであり得ない。過去は何よりもまず死せるものとして絶対的なものである。この絶対的なものは、ただ絶対的な死であるか、それとも絶対的な生命であるか。死せるものは今生きているもののように生長することもなければ老衰することもない。そこで死者の生命が信ぜられるならば、それは絶対的な生命でなければならぬ。この絶対的な生命は真理にほかならない。従って言い換えると、過去は真理であるか、それとも無であるか。伝統主義はまさにこの二者択一に対する我々の決意を要求しているのである。それは我々の中へ自然的に流れ込み、自然的に我々の生命の一部分になっていると考えられるような過去を問題にしているのではない。


ジジェク、精神(Geist)を語る。


形容詞としての "undead" が登場したのは14世紀ごろ。 "undead" が名詞として使われ始めたのは20世紀になってからとのこと


神聖な天皇国家という理念性の成立とともにある、国家そのものがもつ宗教性、祭祀性のヴァリエーションは、フランス革命後の、国家とヒーロー(死者)が単一の意思の形成を以って<寺院>にすむような建築空間において見ることができる。水平方向に、革命の記憶が永続化されなければならない。社会契約的国家論のあらゆる言説が自らに折り重なる。国家のために死ぬことができる国民の像を表現する。国家は垂直方向に自らを祀る。その国家の対外戦争に表象されるのは政治的統一である。祭祀性は議会を統一体として構成し直す水平方向と垂直方向を通じて、劇場性を帯びる。(下図の上と左は、構想された議事堂の図案)


昔は言葉は声を住処にしていたのに。「会食」すると、盗聴された録音を聞かなければ自分が誰と何を喋ったか思い出せなくなる。否聞いても、確かに私の声だが私の言葉ではないという


昔は言葉は声を住処にしていたのに。「会食」すると、盗聴された録音を聞かなければ自分が誰と何を喋ったか思い出せなくなる。否聞いても、確かに私の声だが私の言葉ではないという


Everything and more 

      =

脱構築論+制作論+鬼神論


『てぶくろ』はウクライナの民話だったのか。手袋の裏側に、階段(梯子)があるのがおもしろい。外部をみるためには裏側からでなければいけない。触角なく触れること


世界は有限であると判断する者たちは、遠く離れた場所では、回廊や、階段や、六角形などが思いがけず消えている――これは不条理なことだ――と仮定する。

ボルヘス


1、報道自由度が低いことの問題は何だろうか?わたしは明確に答えることができないが、海外で生活した経験がこれを考えさせる。外国の報道が進んでいるというような単純なことではないとおもう。日本の新聞も事実がある。新聞は原発事故が起きたとき、われわれの危険な原発体制に対する抗議(200人から2000人になっていた)を3か月間、一面に報じなかったが、しかしその事実を隅っこの所に取り上げてはいた。現場から報じられることは報じられる、だがぴったりと事実を語る言葉が足りないと感じてしまう。事実を言葉は複数の見方から成っている。だから捏造される合意で曇らされてしまってはいけない。チョムスキーが言うManufacturing Consent(マニュファクチャリング・コンセント)は捏造される合意というような意味だと思うが、捏造される合意は人間の言語だけが持つ高度な特質と両立しない。問題はここだ。

2、ここからはわたしの言語にたいする関心に引き寄せて書くことだけれど、人間の言語は差異を産み出す虚構性をもつ。そして言語が定位するのは、理念的に構成された共同体である。だからジョイスの文学は自らをこう表現した。‘ Shem was a sham ’ー(物書き)シェムはシャム(いかさま)ーである。この虚構性で表象されるのは、人間の無根拠性であり、と同時に、言語的存在である人間は存在することの意味を考えるロゴスであった。だけれど虚構なものは、grammatical but not acceptable(文法的•理念的だが受け入れられない)として常に拒まれる。「(物書き)シェムはシャム(いかさま)である」とジョイスは書いたのである。

3、近代は話し言葉の創造性がたたえられる。異議はない。問題は、それを言うことによって文化をナショナリズム的にとらえる教説(イデオロギー)である。話し言葉の肉体共同体が呪縛されている肉体言語とは、近代が再発見してそれが都合よく再構成した古代人の心が指示される神話の世界だろう。神話世界の肉体共同体が喋る肉体言語のなかで、統合に還元されない差異が消去されていくが、しかしほんとうだろうか?神話のテクストは近代が解釈するように卑小な言語自己同一性の純粋に絡み取られているのだろうか?これは神話を説明する構造主義の問題である。『古事記』は支配者にとって都合良く書かれていると理解されるが、そうだとしたら、なぜあのように統合の難しさを痕跡として残すのかという疑問が残る。神話としてわれわれが読んでいる透明なものは、近代が差異を解釈し尽くす自らを描いた自己肖像画的言説ではないのか


思想史遠足


岡倉天心


アジア主義を議論する。


人間の顔は言説の風景である。


テクスト、言説、イマージュ、字義は、19世紀的な統一に還元できないポストモダン的断片fragmentである。

屋根も壁もなく、柱も床もないような、海に投げだされる部屋のようなもの


朱子学の普遍主義から映し出されていた。だけれど普遍主義(グローバルの歴史)とのギャップがある。法と一人ひとりの間を媒介するもの、それがアジア主義の包摂


Everything and more 

     =

脱構築論+制作論+鬼神論


詩人は自己の声を自己の身体から遠く離れてきくことが近代からはじまったのではないでしょうか。


嗚呼、なんか取調べを受けているような、サルトルから来る言葉は何だろうか?分割についていかに分割されるのか考えるのではなくて、不要なものとして分割そのものを非難する。しかしそれも分割を構成している解である。わたしに読み解く力は無いが、サルトルの話をそのまま聞いていると、「外部」は超越的なもののバリエーションで、無意味とされる。サルトルバタイユのこき下ろしをフーコは許さない。フーコはサルトルを超えるためには強力なバタイユ論をもたなければとおもったに違いない。バタイユを語った本の名は『外部の思考』であるーほかにアルトーブランショクロソフスキーを語っている


Everything and more 


アジア主義を議論した思想史遠足。つぎはどこへ行くかという話し合いで、色々意見が出たのですが、先生は現在を批判的に相対化できる場所として、筑波山が大切だとおっしゃるのですね、正直このときはなんのことかわからなかったのですが、この思想史遠足のあとに、「仙境異聞」がベストセラーになりますし、寅吉と彼を書く平田篤胤明治維新に先行していたことを考えました


戦後は思想が貧しい。「江戸思想史」(子安氏)のようには言説空間の場が機能しないのは、戦前からの「祀る神が祀られる神である」(和辻)という死に与えられているままだからだ。精神が死を見るときは、死を禁止しなければならない。禁止とはなにか?フロイトとレヴィストロースにとって禁止は大切な役割をもつ。しかし構造主義の近代のように禁止を自然か文化かとどちらかに指示しなくてよい。禁止は自然と文化だからである。そして禁止は鬼神と無の傍らにある制作である。つまり禁止によって絶えず脱構造化する言説空間の場が働く。つまり柄谷の好む言い方をすれば思考は可能である


「性即理」は他者の二元論的思考である。「心即理」では「心」が「理」を支えるのが難しいとおもう。「私と天」も関係を保つ多元主義論の言説。伊藤仁斎において「天」は理念である。要請されるそこで、天下的「公」も成り立つかもしれない(ただし最後は仁斎は天との内在的関係から離れてしまう。『論語』テクストにはじめて人間孔子が見出される。) 第三項なき「私と公」のような二元論的思考だと、この「私」の存立が危ういに違いない。分割されているものがかくもわたしの思考をとらえるのは、別のあり方と第三項をそこに考えることができるからなのだとおもう


芸術は役に立たないか?役に立たない。芸術を弄ぶか?弄んではいけない。芸術が定位する私の領域を覆い尽くすか?否。私を一切消し去って公を読み出す全体主義的文化論に反対する


「十年前」と言えば何かを語ったことに?嗚呼私は全く思考できていないよ。「十年間」という分節化は、自己の力が及ばぬ所に思考を遠ざけてしまう言語の拡散を感じる..


•「十年前だった」と言えば何かを語ったことになるのかしら?開発と戦争と同化がどんどん進むが、人間にとっての豊かさとは何かを根本から問う言葉が十分に始まらないのはどうしてか?これについて考える十年間だった。否、全く思考できていない十年間だった。「十年間」という分節化は、自己の力が及ばないところに思考を遠ざけるような言語の拡散である。


• 1970年に遡って考えてみると、近代における自己のあり方をラディカルに否定したが、自民党に対する明確なイメージをもっていない。比べると、香港の若者たちはどんな考えがあるのかよくわからないところがあるが、トータルな従属を強いてくる政府に対する明確なイメージをもっているのがわかる。自民党の何でもかんでもカネがモノをいう体制を受けいれることは遂に自己の存立を排除しなければならぬところまで突き進んでいくことになるだろうが、それでも「生かしてくれる」存在として表象するの?「生かしてくれる」は超越的すぎる見方だ。別のあり方を考えるためにはもっと思考の柔軟性がわたしに必要だ。


•可視的なものは言説的なものから独立していることを指摘した後期フーコのポイントは何だったのだろうか?実践的なものは原理原則とは違う。


•戦争中のように生活の隅々まで監視してくる監獄の成立とともにあるのは、言説「生かしてくれる」である(そういうふうに表象するように設計されている)。しかし問題となっていることを解決するためには、言説の中に絡み取られながら内部に沿って考えるよりも、方法論的に、言説闘争とイメージ闘争の両方が働く外部がなければならず、だけれどそれは一体どこなんだろうかと悪い頭で一生懸命考えるー世の中に増殖してきたトランプ的嘲笑いに全否定されてしまいそうな恐怖のなかで...


嘆願書ー今日は署名ーが上手くいくのか迷うのは、権力者と共有するものがないからである。だから特権階級の仲間に出すような嘆願書は成立しない。それを謀叛と呼ぶのは真がない。だけれど散歩で来た墓で無名の維新の死者たちにおきた言葉にできない感情の動きを書いているが、多分これだけは信じてもいいとおもう


昭和思想史研究会の懇親会では「プルースト」の名を口にすることは結構タブーなのであるが、最近宇波研究所から来ている方がプルーストを読んでいることもあって、考えている作家である。宇波先生はドゥルーズの『プルーストシーニュ』を訳しておられた。


「長いこと私は、早くから床についた。時には、ろうそくが消えるとすぐ目が閉じてしまって、ほら眠るぞ、と思うひまもないほどだった。そして、半時間もすると目が覚めるのだった。」


19世紀はイギリスとフランスが地球を所有した。帝国主義の知の組織化は、現在はネオリベの何でもかんでもカネがものを言う知だが、すべてにおよぶ。ジョイスの課題は、すべてから自立したすべてを書くことにあった。これは、オスカー・ワイルドアナーキズムを体現している、と、ポストコロニアリズムの言説から言われるようになった。だけれど絶えずだれも語らなかったすべてを書くことは、やはり知のヒエラルキーではないかと指摘した女性アーチストの発言を覚えている。ところで20世紀精神史の講座のときだったが、池袋の喫茶店渡辺一民氏はプルーストの本にすべてが書いてあると言っていたこの場合の「すべて」はどういうことなんだろうか?ポストモダン多元主義の時代に見出された、「わたし」の成立とともにある、精神史が定位するようなコンパクトで周密な表現の問題をかんがえる。「長いこと私は、早くから床についた。時には、ろうそくが消えるとすぐ目が閉じてしまって、ほら眠るぞ、と思うひまもないほどだった。そして、半時間もすると目が覚めるのだった。」。これはベケットみたいに知のヒエラルキーを突き崩すような書き出しだとおもう..


ダブリンの生活がはじまったときのこと、労働ビザの発給前にお小遣い稼ぎに簡単な日本語を教えるアルバイトしたことがあったが本当に少額だったので問題がないと勝手に思って、乗り継ぎしなければならないロンドンの空港の入国審査官に喋ってしまった。「入国を許可できない」と言う。大変なことになった。困ったわたしは下手な英語で弁解した。と、黒人の入国審査官が涙を流しているではないか、どうしたんだろう?「しかしおまえが喋る英語はダブリンで育ったおばあちゃんの英語の訛りと全く同じなんだ。ほんとうに懐かしい...何かひとつアイルランドの話をしてくれ。絶対にここを通してやるからな」。書類を作って色々電話している。20分後に通してくれた。


平等とは何か?性は天から平等に与えられる。性は心の方向性。「性即理」だ。性は死後に天に帰す。朱子は子孫の祖先祭祀は死者を不死とみなすのと等しく、性の私有視だと非難した


「礼」をヘーゲルの客観精神として解釈的再構成しているような帝国のイデオローグが世界史の構造を語っている。この場合、国家だけが普遍主義から自立する多元主義である...


古代儒教は差別どころかそもそも女性が存在しない。全く擁護できない。「七年男女、不レ同レ席」の『礼記』はいつの時代のものかわかっていない。分離的差別主義は国家近代のもの


真ん中になにがある?『言葉と物』(ミッシェル•フーコ)の半分、第二部が始まるところに「鏡」がある。『江戸思想史講義』(子安宣邦氏)の半分の所に「鬼神」がある。「質問者たちが「性」に固定しようとする精神とか魂魄、あるいは知覚を有するものとは「気」なのだと朱子は明言する。そして「鬼神」もまた気である、それを性とすることはできない。」


反復しないもの(差異)が反復する


「統体一性」への還復をいい、知覚の現象が消滅しても知覚の原の死後の残存をいう朱子の弟子たちの解釈的言説を読むと、わたしは哲学の門外漢だが、わたしにも理解できたジョイスが再構成したアイルランドスコトゥスやバークリーの見方のことを考えた。さて大変興味深い『江戸思想史講義』の子安氏の分析を読む。朱子の弟子たちは、「我の精神は即ち祖考の精神」の言説を脱構築した朱子に一見脱構築の身振りを以て執拗に質問して、祭祀来格を根拠づけた。三宅尚斎がやったことは、「理に根ざして日々に生ずるもの」、この朱子が語った言葉を朱子が考えたようには考えずこれを積極的に言って、朱子の普遍主義を脱構築してしまった。反復しないもの(差異)が反復する。「理に根ざして日々に生ずるもの」は、江戸思想史の前にだれも語らなかった言説だったが、中国哲学においてずっと言われてきた言説として言われるのである。反復しないもの(差異)が反復する知に生きるわれわれは、絶えざる根源的誤謬のなかに投げ込まれている。デカルトは正しく言った。われ考える、ゆえに、われ存在する、と。ただし、”絶えず間違っていると考える限りにおいて”、と言うのを忘れた。少なくとも近代という時代は、われわれにこの人間の存在するあり方を教えてくれた(近代の産物である自己自身を、神ではない有限な人間が読むから、絶えず誤読するというわけ)


‘Do you want me to endure... exile?’ Wherever I go, I will be fine, because I was already fine here—not on account of the place but as a result of my principles, and I am going to take them with me. No one can take them away from me; they are my only possessions, irremovable ones that are enough for me wherever I am and whatever I do.

ーEpictetus


No matter what happens, it is within my power to turn it to my advantage.

ー Epictetus


法が無い!法はどこにある?パゾリーニ『ソドムの市』に似た人がいたが、ガースが鞭で腐敗官僚を三回打て!ガースも悪い。「親爺、何か言えよ!」と息子がガースを鞭で百回打て


"In proposing to relate symbolic language to self-understanding, I think I fulfill the deepest wish of hermeneutics. The purpose of all interpretation is to conquer a remoteness, a distance between the past cultural epoch to which the text belongs and the interpreter himself. By overcoming this distance, by making himself contemporary with the text, the exegete can appropriate its meaning to himself: foreign, he makes it familiar, that is, he makes it his own. It is thus the growth of his own understanding of himself that he pursues through his understanding of others. Every hermeneutics is thus, explicitly or implicitly, self-understanding by means of understanding others."

ーJean Paul Gustave Ricœur


"This is why philosophy remains a hermeneutics, that is, a reading of the hidden meaning inside the text of the apparent meaning. It is the task of this hermeneutics to show that existence arrives at expression, at meaning, and at reflection only through the continual exegesis of all the significations that come to light in the world of culture. Existence becomes a self – human and adult – only by appropriating this meaning, which first resides "outside," in works, institutions, and cultural movements in which the life of the spirit is justified." ーJean Paul Gustave Ricœur


1,<未来を思い出す> 国家とは、復古主義の政治である。社会契約的な市民革命の実現が難しい国が模索する復古主義の政治は、良いとか悪いとかではなくて、現実の条件においてその方法しかなかった。復古主義の言説的な戦略のことをしっかり認識していれば、それが作った現在を批判的に相対化できるし、もはややっていくことが無意味になってしまった制度をやめることができる。


2, しかしこのことも<起源>に絡み取られると難しくなってしまうとおもわれる。たとえば、国家祭祀の建築物は死者の間にヒエラルキーをつくってしまうからもうそれをやめなければならない。19世紀に作られた近代建築でしかないのに、何か太古遡る文化遺産みたいに感じられると、そこに<起源>があり、取りのぞくことが不可能なってしまう。


3,「初めにロゴスありき」という言語的存在である人間は存在の意味を考える。だから思考できないものを思考する「鬼神論」の言説を考えるのは必然である。しかし偶像的建築物に吸収される危険がある。国家祭祀としての日本人のアイデンティティといったようなくだらないことが声高に言われる。議論の自由がなくなる。


4、社会契約的な市民革命があった国でも、戦争のときは、偽の<起源>に絡み取られることが起きる。ここで、偽の<起源>と書いたが、<起源>というのは人間の思考を人間が思考できなかった時代に遡らせる点において例外なく偽である(というか虚である)。文学や芸術においては意味があるが、問題は政治が<起源>を利用する場合である。


5、ポストモダンの時代に読むプルースト文学。抵抗は、わたしの<未来を思い出す>別の近代にあったのではないかとおもう。わたしはいかなる意味においてわたしか?自己の力がおよぶ限りにおいて思考できないものを思考する。そのとき<わたし>は一個の他者である。自らを全否定しなければならないようなラディカルモダンを全面的に受けいれることはできない理由は、全否定は<わたし>の力が及ばないからである。


6、プルーストにとって、「見出された時」は、<未来>の向こう側に見えてくるかもしれない別の近代。プルーストと同時代だったジョイスエピクテトスを語った清沢満之を考えつつ、ジョイス的に書くことだけれど、<わたし>は、ブルジョアの卑小なリアリズムー加速化する開発と戦争と同化主義ーの運命に委ねることはできない。また、<思い出す>ことは、自己の力がおよぶ限りにおいて人間を人間たらしめる人間的なものである。だが神々が大地を闊歩する大いなる神話を排他的なナショナリズムの語りのうちに<思い出す>ことはない。神々に、自己の力がおよぶことが不可能だからである


白黒映画が先で、カラー映画は後だ。これは時間の順番ではなくて論理的な順番である。白黒の倫理を以って、映画のスクリーンは、国家祭祀に殺される人々を弔う装束だった


白黒映画が先で、カラー映画は後だ。これは時間の順番ではなくて論理的な順番である。白黒の倫理を以って、映画のスクリーンは、国家祭祀に殺される人々を弔う装束だった


ポスト中江兆民幸徳秋水大杉栄の懐疑精神はヨーロッパの場合とおなじで国家から自立したあり方を考えた。だが幸徳と大杉について左翼ー特に文学者ーの理解は検察の作文によっている。国家に逆らうと怖い目にあうぞとする後の陸軍ファシズムのモデルとなる当時の検察権力と左翼が共に作ったイメージに、市民はいない。逆に言うと、日本ファシズムが一番畏れていたものがわかる。それは、ほかならない、幸徳と大杉のように国家に隷属しないあり方を考える市民の存在である。ボルシェヴィキフランス革命の見方とは別の見方を考えて、白紙の本に一文一文を綴った。神話から自立しようとしたギリシャの哲学の萌芽のことをおもう


理性の笑み(懐疑精神)

このあと、

正義の怒り(フランス革命)が来る


「暗い時代」はブレヒトの「あとから生まれるひとびとに」から借用したのだが、そこには混乱と飢餓、虐殺と虐殺者、不正に対する暴動と「悪のみあって暴動の存在しないこと」への絶望、人を醜悪にしても正統なる憎悪、声を騒音にしても根拠ある憤激などが描かれている

ハンナ・アーレント『暗い時代の人々』はじめに


嘗て中国文明の漢字は未知の他者が読むために文を書いた。仏教を伝えた。国家中国は現在、話す言葉の音声化された母国語を押しつける自らを文明であると錯認する根源的誤謬にある


•戦争はアメリカと戦争した4年間だけだと誤解しているが、しかし実際は、日本の戦争は日中戦争を含めて8年間、満州事変から数えると14年間である。竹内好はわれわれがほんとうに反省しなければいけないのは、アメリカとの戦争ではなくて中国との戦争-侵略戦争-であると言った


•戦争を理念化すること(理想化ではないよ!)は、死を理念化するのと等しく、人類が取り組むべき世界思想であるとおもう。戦争を理念化していないから、日中戦争が無くなってしまうということが起きるのではないだろうか。歴史修正主義者に都合よく、記憶がブロックされているような..


自然権を言ったホッブスは彼の前に誰も言わなかったこと言った。ホッブスから統治の正統性だけを取り出した明治の啓蒙主義は、彼がはじめて言った自然権についてあまり語らない。これは近代の卑小なリアリズムの間違いである。社会契約説の問題もある。自然状態における万人に対する万人の闘争を防ぐ国家が必然として必要とされるのだと説明する。しかし反対ではないか。外部を破壊するものは国家である。20世紀の全体主義、これほどの同化主義は、国家の無かった時代にはなかったのである。自然は、公の向こう側にみえてくる天である。自然は、過剰なほどの権力の集中のもとで他者殺戮に陥いる国家(例.国家祭祀)に対する抵抗。自然権天皇を、死者を主宰する権力の外部におく権利をもつと考えてみることはできないだろうか?国家が祭祀権を自然(アジア共同体)に譲渡する。外部がそうして保証されてこそ、人間ははじめて思考ができるようになる、と、ポストモダン的にわたしはこのように考えてみる。作為と自然、この両者は互いに切り離すことは倫理的に不可能であるー丸山真男がきっぱり言うようにはね


•女性議員たちはあんなに自民党に過剰に同化してしまうのはどうしてなんだろうか?だがわたしは.. 結局自民党女性議員と程度の差ではないか


•オーストラリアから戻ってきた数年間は「同化」という言葉を口にする大人を心の底から憎んでいた。「適応」という中立的な言葉を使うんだね、今は


自民党の成立とともにある、そこそこの「自由」が与えられらてしまったから、わたしはすっかり諦めてしまった同化ではあるまいか。過剰同化ではないとしても


•この列島はこんなに日本人になりたくない人が生活しているのだから、同化を強いるよりも、一度、拒まれている国家を解体すべき道があるとおもう。共同体を作る意思をもつマイノリティと共存できる国家を作る責任があるこういう見方がもっとあるべきはずなんだ


•江戸時代は同化主義だった。武家政権のもとでは政治的自由についての議論は大変危険だった。だから批判するときは道徳についての議論を通じて世の中を批判したのかもしれない。国学本居宣長なんかは最初から諦めていたが、幕府に全部委ねている以上、何もかも責任は幕府にあると言う


•戦争は生活の隅々まで監視して同化を強いる体制


•女性議員たちはあんなに自民党に過剰に同化してしまうのはどうしてなんだろうか?だがわたしは.. 結局自民党女性議員と程度の差ではないか


•オーストラリアから戻ってきた数年間は「同化」という言葉を口にする大人を心の底から憎んでいた。「適応」という中立的な言葉を使うんだね、今は


自民党の成立とともにある、そこそこの「自由」が与えられらてしまったから、わたしはすっかり諦めてしまった同化ではあるまいか。過剰同化ではないとしても


•この列島はこんなに日本人になりたくない人が生活しているのだから、同化を強いるよりも、一度、拒まれている国家を解体すべき道があるとおもう。共同体を作る意思をもつマイノリティと共存できる国家を作る責任があるこういう見方がもっとあるべきはずなんだ


•江戸時代は同化主義だった。武家政権のもとでは政治的自由についての議論は大変危険だった。だから批判するときは道徳についての議論を通じて世の中を批判したのかもしれない。国学本居宣長なんかは最初から諦めていたが、幕府に全部委ねている以上、何もかも責任は幕府にあると言う


•戦争は生活の隅々まで監視して同化を強いる体制


ω(オー) εις(エイス) ει(エイ)

   ομεν(オメン) ετε(エテ) ουσι(ν)(ウーシ(ン))


「漢字借り物論」の近代からみると、漢文の語彙と文法にエネルギーを使い果たした「前近代的」知識人は創造に関心がない。しかし共同体と精神の曖昧な概念に明確なイメージを与えるのが、ほかならない、漢字。若い人ならば、わたしがそうだったように、もう読めなくなった漢文はただ文字を飾る装飾のような断片としか見えないかもしれない。500年前の昔の人(江戸時代の儒者、下の文は古学の荻生徂徠によるもの))は彼らがたたえていた1000年前の昔の人(朱子)が書いた文を読めなくなっていたのだし、その1000年前の人も彼がたたえた1500年前のひと(孔子)が語った記録を読めなくなっていたのである。歴史の反復せざる反復とはこのことではないだろうか。本についてまず言っておかなければならないことは、読めないことである。だけれど、読めなくなくったとしても、言語の存在をたたえる言語の中の過去のわれわれの姿(イメージ)を考えることは意味がないわけではない。われわれは原初テクストにおいて現在の声とは別のもう一つの声に定位していたわれわれの存在を考える。ロゴスとは、言語的存在である人間が存在することの意味を考えることである。


漢字借り物論の近代からみると、漢文の語彙と文法にエネルギーを使い果たした「前近代的」知識人は創造に関心がない。共同体と精神の曖昧な概念に明確なイメージを与えるのが漢字


Das Dasein , begritten in seiner äußersten Seinsmöglichkeit, ist die Zeit selbst, nicht in der Zeit. ーMartin Heidegger


Dasein, conceived in its most extreme possibility of Being, is time itself, not in time. ーMartin Heidegger


プルーストベケットの小説、そしてこのブライアン•フリールの芝居translationsに出てくるBaile Baegは、何処にもあるような小さな村を表す名。だが地図にない。目に見えない。この土地の名は思考できる為に与えられた。見えない「鬼神」と同じ。この150年間、ヨーロッパの中心にあってとくに教育において哲学は、言語的存在である人間は存在することの意味を問うことをやめてしまった。しかし哲学がやらなければヨーロッパの周辺であるアイルランドの文学が問う


プルーストベケットの小説、フリールの芝居に出てくるBaile Baegは何処にもある小さな村を表す名。思考できる為に与えられた土地の名は見えない「鬼神」と同じ


名はそれが指示した物が分からなくなる。『失われた時を求めて』の”土地の名”を読んだアイルランド知識人がプルーストが読んだケルト神話を話す。永遠に失われる危険もあるがあえて忘却に委ねよう。思い出される偶然は、眠りの中で思い出すひとを待っていた植物が死から蘇えるみたいだ


名はそれが指示した物が分からなくなる。『失われた時を求めて』の”土地の名”を読んだアイルランド知識人がプルーストが読んだケルト神話を話す。永遠に失われる危険もあるがあえて忘却に委ねよう。思い出される偶然は、眠りの中で思い出すひとを待っていた植物が死から蘇えるみたいだ


本居宣長の「遺言書」は二つ墓を設けることを指示した。小林秀雄宣長の二つの墓のことを大変面白く追っているが、最後までその理由が分からなかったようだ。樹敬寺の墓は、表象全体を支えている画布の裏側みたいだ。表に描かれているものを見ようと、二つめの山奥にある墓の前に立つと、なんだか、それも画布の裏側みたいであることに気がついた。どうも、宣長の二つの墓を指示する「遺言書」も、言説上の差異の空間を構成していたのではないかとかんがえてみたらどういうことがいえるか?二つの墓は、近代がいうところの二重化ではあるまい。普遍主義を朱子学的「理」の言説と同一化した上で、<普遍主義に対する>というほどではないが、<普遍主義から自立する>という宣長の自らの姿を書いた見方なのだとわたしはおもう


















































MEMO

On the line 

4年越し?で仁斎論語を学んでいたときは、線を描こうとするといつもこういう感じで二つのものが現れた。夜の線と昼の線が交わらないフラットな平面(指たち)と、夜の線と昼の線が交差する襞のある面(掌)

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江戸思想の喚起とともに、朱子的普遍主義に対する仁斎の四端の心、脱構築的「水平的平等」がある。現在は、中断を余儀なくされているが、「垂直的平等」の朱子の思想を見直すことによって、ポストモダン孔子を深めることが課題となっている。戦後は、竹内好を除いて、思想の形成が無かったが、現在こういう形で思想は反復する。つまり差異は反復する。正確にいえば、ここでは江戸思想と呼んでいるものについて語っているのだけれど、過去と同じものの繰り返しが起きることはないのだから、思想の反復については、差異の差異化が生じると言わなければならないとおもう。

(上下の写真で上のは昨年一月の講座での子安先生の板書)

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La valeur a cessé d’être un signe, elle est devenue un produit. ーFoucault “Ricardo”

価値は記号(シーニュ)であることを止め、生産物となる。



マルクス経済学とケインズ経済学が終わり、経済学が美しい数学で書かれるレーガノミクスが始まる後期近代に、「価値は記号であることを止め、生産物となる」といわれる表象と言説の関係を明らかにしているフーコの文をかんがえていた。そのときは、映画は投射であることを止めていて、言い出される言説となっていた。思考の形式として見いだされた映画の始まりを投射するためには闇の中に輝く光があった500年前に遡る必要がでてきた。そうして呟きがはじまる...


五輪は連帯の記号であることを止めて、思考停止の復興ナショナリズムが一人占めする生産物とならなければならない。

ー> 菅首相「コロナで世界の団結必要、象徴として五輪開催」


The universal must remain open, its differences and potentiallies must remain so; other wise we are forever trapped in the present in the future...



武者小路公秀『国際政治を見る眼』を読んだ後にレーガンが出てきた。世界的にコロナ対策で財政支援している去年をもってレーガノミクスが終わったとクルーグマンは言っている


器官なき身体」と書いた詩人はペストとして表象される。殆ど一文無しでシングの手紙だけ持ってアイルランドにやってきたアントナン・アルトーも「幽明始終、初無二理」だとおもう


ジオットとダンテはどちらが偉大か?


ケニス•クラークKenneth Clarkの文明’Civilisation’のなかで、画家ジオットと詩人・哲学者ダンテはどちらが偉大なのかというような話をしている。美術史ではジオットはいきなり現れてきた画家である。ジオットは意味の喪失を映画みたいにナラテイヴに表現できた。絵の端にマルクスエンゲルスとよく似た人物が描かれているのは大変気になる(後でこのことは述べよy。)左側の嘆きの舞台は地上の堅固な世界である。ジオットのイメージは、文明が教会からイタリアの銀行システムが確立する豊かな都市へ移行してくる時代を告げる。右側のダンテは、ジオットのようには地に制約されないような、形而上学的な天の光を書く(『神曲』)。光は言語的存在である人間が存在の意味を問うのである。トマス・アクィナスとゴシック的世界からの影響がダンテに読みとれる。ダンテはジオットより上であるとクラークは結論する。なぜならダンテは哲学と正義を考えたからだ。ここで、ルネッサンスの都市を、グローバル資本主義の分割である帝国中国が現れてきた今日の文脈に置き換えてみたら、どんなことがが言えるだろうか?『資本論』の新しい読みとともに成立する高度の互酬Xの実現として中国をとらえる柄谷行人氏はジオット的だし、これに対してグローバル・デモクラシーから民主を批判的に問う子安宣邦氏はダンテ的であるとおもう


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忘れてはならないのは、〈啓蒙〉の時代に古代ローマの模範が二重の役割を果たしてきた点である。共和制のその相貌のもとでそれは自由の制度そのものであったし、軍事中心のその相貌のもとではそれは規律訓練という理念的図式であった。-フーコ監視と処罰-


生の始めと死の終わりは別々のものか?別々ならば、意味の問いから曖昧な文学を切り離すようなものだと思う。ロゴスが形式論理学の計算する卑小さに還元される近代とは何だった?


近代というのは、過去のあらゆる権威を否定し尽くすエネルギーをもっていますが、「真理は一つである」(あるいは「真理は一つではない」)というような「真理」の絶対的権威に同一化します。そういう近代の根源的誤認に私が同意できない理由とはこういうものです。「真理」の絶対的権威とは、議論を以って覆すことができないようなあり方をいいます。「真理」の絶対的権威を覆すために人間は政治組織を作り上げるでしょう。経験は教えますーそこで人間は「兄弟殺し」で消滅してしまうことを。近代の成立とともに現れた人間をゼロにしてしまうと、何もかも全部がゼロになってしまうというような危険がないのでしょうか。

「暴力ははじまりであった。暴力を犯さないでは、はじまりはありえなかった。どんなに人間が互いに兄弟たりえようとも、それは兄弟殺しから成長してきたものであり、どんな政治組織を人間が作りあげてきたにせよ、それは犯罪に起源をもっているのである。」

ーハンナ•アーレント『革命について』序章 戦争と革命


アイルランド映画アイルランド映画が作られる前から既に存在していた。映画はスペイン市民戦争の継承。抵抗する大衆の自発性は運動がプロ化すると失われてしまう歴史を伝えてきた


おそらく、古代においてまったく神秘的感覚をもたなかった唯一の民族、ローマ。そのふしぎな理由は何だろう。イスラエルのように、亡命者によってつくられた人工の国家だったのだ。

シモーヌ・ヴェイユ


Mais comment un mot , impropre à seulement nommer la cendre à la place du souvenir d’autre chose, pourrait-il, cessant de renvoyer encore, se présenter lui-même, le mot , comme de la cendre, à elle pareil, comparable jusqu’à l‘hallucination? Cendre, le mot , jamais ne se trouve Ich、mais là.  ーJacques Dérrida


A word, unfit even to name the cinder in the place of the memory of something else, and no longer referring back to it, how can a word ever present itself ? The word, like the cinder, similar to her, comparable to the point of hallucination. Cinder, the word, is never found here, but there. 


時間とはなにか?自己にたいして、自己のなかの自己が、遅れるか、あるいは先じているのか?


What is time?

時間とはなにか?自己にたいして、自己のなかの自己が、遅れるか、あるいは先じているのか?自己のなかの自己とはギリギリ要請されるのか

What is being?

存在とは何か?弔うときはあなたたちの存在の記憶に関わる。国家が自身を祀るときははじめから存在するに関わることができない


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過去のものをひっぱりながら形成してゆく制作のプロセス。過去を捨てるがちっとも新しくない。極大化してどんどん希薄となって極小化する。名を与える近代


バイデンの圧倒的勝利を無視したトランプ大統領と彼の支持者達は選挙そのものを占拠する反民主主義の声か?オキュパイ運動とその言説が包摂されてしまったのではあるまいか?



精神の眼、鬼神の眼

デリダエクリチュールと差異』は、この私は読む力がないのですが、何を言いたかったのでしょうか?この本のなかで批判されている、ソシュール『一般言語体系』とレヴィストロース『野生の思考』は、なにか、<生きている言葉>と<死んだ言葉>とのせめぎあいを書いていたのでしょうか?<生きている言葉>は、ものを住処としている<死んだ言葉>を、生きているのか死んでいるのかわからないように語ります。言葉は過去の蘇りの近くで声を聞くように語るのですけれど、だけれどそこで死に切った過去を開く精神の眼、鬼神の眼を哲学的に思考することがなければ、<死んだ言葉> に隠れている<生きている言葉> を考えているだけかもしれません。文明論はそういうものかもしれません。文明論は死に切ったものを実体として指示しますが、死に切ったものとは思考の対象です。実体として考えてしまうと、死に切った過去としての <死んだ言葉>から見つめられる意味を、名はあるが意がわからなくなった他者の言語が存在する意味を、考えることができなくなるのではあるまいかと不安に感じてしまいます



「合理主義」を読み直す


フーコは西欧の問題をいう。わたしなどはこのフーコの一文を読んだときは、「最も価値のない」カントとヘーゲルの哲学しか考えられなかったほどで、まあ西欧中心主義で、西欧のオリエンタリズムでなければ価値すら成り立たない江戸時代の儒者(古学)が漢字仮名文で何とか読み解こうとした朱子の思想のことを考えることがなかった。アジアに位置する近代日本のことを論じる可能性のある問題なのに、いつものように近代ヨーロッパを考えていた。いや待て、近世日本の思想と文化もヒューマニズムがある。ヨーロッパとアジアと共通のものがある。しかしそれはヒューマニズムという言説のなかにそって論じられなければゼロなのだ。たしかに合理主義は東西にある思想だ。その場合は、アジアの普遍主義・啓蒙主義朱子学の合理主義を考える必要がある。それはこの世とあの世に「二つの道理がある」と考えないような合理主義である。詳しく知らないが、ポストモダンドゥルーズを読むと、中世ヨーロッパのドゥンス・スコトゥスもトマスアクナスにたいしておなじように考えたかもしれないが、それはプラトニックな神秘思想におけるものであろう。しかし朱子は合理的に考えたのである(先ず、生を考えなさい。それから死を考えなさい。) 

現在も文明論は、近代は中世のような偉大な哲学がないのはどうしてかという問いにたいして、17世紀は絵画で、18世紀は音楽で、哲学をつくったf:id:owlcato:20210112002640j:plainと説明する答えをきくとき、なるほどそういうものかとわかってしまう。しかしアジアの形而上学も、17世紀と18世紀のアジアの思想も知らないでいいとしていた、いや正直そんなこともまるっきり考えてもいなかった、現在もまったく変わっていない明治の「合理主義」の教育プログラムの生産物でしかないわたしはもうやっていけなくなってきたとおもう


ヘーゲル以後、[…]かつて西欧において最も高度な思考であったものが今や教育の領域で最も価値のないものとみなされている活動に転落してしまったという事実が、恐らく哲学が既にその役割と機能と自律性を失ってしまったことを証明しているといえるでしょう。」

ーフーコ『文学・狂気・社会』



書評を読まさせていただきました。この書評から新しく多くのことを学んでいます。先ず、読み解かれた「方法としての大正」は素晴らしい視点です。

「子安氏の2016年の著作である『「大正」を読み直す』では明治に後続した大正という時代から見た考察、つまりは、「方法としての大正」が用いられていたが、この視点は「方法としての江戸」と同質の分析方法であった点も注記しておこう」

「知識人」という切り口から、民衆の立場から論じられていたのは大切だとおもいました。
「他者性」ではラカンの分析から展開しているのは非常に面白く、今後議論していくべきものと考えました。『漢字論』は先生の代表作ですから、先生は12章「「漢」の排除と一国家主義――津田左右吉『シナ思想と日本』の再読 二」を分析した書評を求めておられていたとおもいます。
子安氏が指摘した漢字の他者性とは、ジャック・ラカンならば「大文字の他者 (grand Autre)」と呼ぶであろうものであると私には思われる。
本当にその通りだとおもいます。この点について付け加えさせていただきますと、間違ったことを言うかもしれませんが、中国は、2009年ぐらいから経済的に日本を追い抜きますが、当惑するアジア諸国にとってどう関係をとっていいのかわからない「大き過ぎる他者」だと考えています。乱暴にわたしの考えを説明させていただきますと、中国は東アジアの中心にいる権利をもっていると考える根拠は、自己が漢字文明の中心にいるからです。しかし現代中国は中国語をどんどん音声化しています。これは音声中心主義の自言語中心主義にほかなりません。自己が漢字文明の中心にいるという根源的誤認があるようにみえます。これが「大き過ぎる他者」の問題を構成するとかんがえています。柄谷行人が『資本論』の新しい読み方とともに帝国中国をアジア知識人たちに向かっていいはじめましたが、柄谷は「大き過ぎる他者」の問題を隠蔽しています。私の理解ですが、子安先生の「漢字」はデリダエクリチュールと呼んだものと一致するとおもいます。「大きすぎる他者」に過ぎない<一国>民主主義はエクリチュールを所有できません。エクリチュールは<他が(論理的に)先行する>あり方だからです。もしアジアがエクリチュールをもつと考えるとしたらどういうことが言えるのかを考えているところです。多分ここで言うアジアは実体化できないでしょう。アジアはこれまで誰も語ることが無かった思考の対象です。これが竹内好の「方法としてのアジア」ではなかったかと理解しております。(説明が不味くてすいません)

天皇制」のなかで論じられていることは、わたしをはじめ、子安氏の問題意識に接近する多くの読者にとって素晴らしい理解の助けとなると思います。

主権者の自由と平等という前提に立った西洋の近代国家理念では、自由や平等という基本原理と対立するものとしての宗教理念は排除され (その最もよい例がフランスの非宗教性 [laïcité] を謳った国家体制である)政教分離が根本原理として唱えられたのである。何故なら、近代国家にとって最重視されるべきものは死後の世界でも、始原的な崇拝の中心でもなく、今、ここで、現実を生きている国民の中で展開する国家システムだからである。この観点から見れば、祭政一致の政治システムはあまりにも旧態整然としたものであるだ。


子安先生の本のなかでは書かれていないのですが、解釈改憲によって、軍国主義は復活し、また事実上国家神道が復活してしまいました。絶望していますが、だからこそというか、国家祭祀の禁止から国家を制作することが要請されているのではないかとこのわたしに語っておられました。近代が終わる時代にもはや国家に戻って考える必要がないので、先生が命名なさった言葉ですが、国家祭祀を禁止したアジアのグローバルデモクラシーの中心という理念ですね。

「近代日本国家システムの問題点」のなかのこの文は本質的なことを言っています。ここに、髭さんの大切なご主張が集中しているとおもいました。

ジャン=リュック・ナンシーは『無為の共同体――哲学を問い直す分有の思考』の中で、「ある意味では、共同体とは抵抗そのものである。つまり内在に対する抵抗だ。それゆえ共同体とは超越性である。だが、「聖なる」意義をもはやもたない「超越性」は、まさしく内在への (全員の合一への、あるいは一人ないし幾人かの排他的情熱への、要するに主体性のあらゆる形態、そのいっさいの暴力への抵抗以外の何ものも意味しない」(西谷修安原伸一朗訳という主張を行っている。ナンシーはここで、単に「共同体」と述べているが、厳密に規定するならば、それは一般化された共同体ではなく、近代以降の西洋型の共同体である。すなわち、彼はジョルジュ・バタイユの至高性という概念を詳細に分析しながら、神聖さの中にある暴力に反抗するものとしての西洋型の近代的共同体の意義について語っているのだ。

 神聖なるものは至高性を有するものである。それはその聖性ゆえに、あらゆる問いかけを拒否することも、理不尽な要求を行うことも、責任を担うことを拒否することもできる存在である。神聖さは神々しさの裏面に暴力を隠し持ったものなのだ。「神聖にして犯すべからず」と定義された天皇の存在も同様に機能するものである。


ナンシーの思想をこうしてアジアに即して考えることができるのは本当に意義深い問題提起です。自分で考えてみようとおもいますが、ここで言われるバタイユ至高者は、ブランショの至高者と無関係ではなさそうですからおそらく一緒に考えたら面白いようにおもいました。


言説「天皇は神聖にしておかすべからず」。「神聖さ」で表象される過剰な政治的統一。考えてみると、明治の元勲たちは天皇を人形だとおもっています。京都から無理矢理連れてきた天皇を「神聖」だというのですね。変ですね。しかしこれについては、明治のエスタブリッシュメント対抗西欧の復古主義は王政復古の仮装で確立していくしかないと考えたが、中江兆民自由民権運動を導く思想に対する彼らの恐怖のことを改めておもいます。近代国家が彼らの捏造した過去ー「神聖」ーに押しつぶされていく最初の悲鳴が、日中戦争ではなかったかとおもいます。

• 言説「天皇は神聖にしておかすべからず」(明治憲法)。「神聖さ」で表象される過剰な政治的統一。伊藤博文は『日本書紀』の言葉をひいて注釈を書いています。リベラルであれ保守主義であれ、明治の元勲たちは皆天皇を人形だとおもっていました。だから京都から無理矢理連れてきた天皇を「神聖」だというのは変ですね。しかしこれについては、明治のエスタブリッシュメントは対抗西欧の復古主義は王政復古の仮装で確立していくしかないと考えたが、中江兆民自由民権運動を導く思想に対する彼らの恐怖のことを改めておもいます。近代国家が彼らの捏造した過去ー「神聖」ーに押しつぶされていく最初の悲鳴が、日中戦争ではなかったかとおもいます。

明治憲法の成立過程を読むと、議会の財政権のコントロールの独立に関して当時のドイツ憲法よりリベラルであったことがわかります。

•宮沢の8月革命説は天皇機関説に繋がっているようです。8月革命説は正しいとおもいます。戦前の国体は後期水戸学に基づく制作だったと考えると、国家祭祀の戦前との連続性を禁止した象徴天皇性も制作でしょう

解釈改憲によって、軍国主義は復活し、また事実上国家神道が復活してしまいました。絶望していますが、だからこそというか、国家祭祀の禁止から国家を制作することが要請されているのではないでしょうか。近代が終わる時代にもはや国家に戻って考える必要がないので、子安先生が命名なさった言葉ですが、アジアの2000万人の命を奪った国家祭祀を禁止したアジアのグローバルデモクラシーの中心という理念ですね。これは、「祀る国家は戦う国家」というような国家の理性をたたえる「神聖」なものではなく、制作的に至高なものだと考えています。

和辻哲郎の言説「祀る神が祀られる神」を解体できずに一年が過ぎてしまった、なんということだろうか。わたしは自身の思考の決定的不足をおもう。言説「祀る神が祀られる神」は、日本リベラルが答えをだすように、デモクラシーと両立しないと言ってしまえばいいのか?正直わたしはわからないでいる。何故なら、言説「祀る神が祀られる神」を消しても、デモクラシーの形態である明治維新の近代が残るからである。わたしがおもうのは、ここで必要なのはおそらく漢字論ではあるまいかと。漢字エクリチュールは他が論理的に先行するあり方として存在している。他者は他者であるのは、そこに他が論理的に先行しているように。音声中心主義の帝国は自らが漢字エクリチュールを所有しているゆえにアジアの中心にあるべきだとおもうのは根源的誤認であるように、自言語中心主義と「一国」民主主義の国家が、声の神話的内部に在る「祀る神が祀られる神」をたたえるゆえにアジアの中心にあるべきだとおもうのは根源的誤認だと言わざるを得ない。言説「祀る神が祀られる神」で表象される「神聖なもの」は、「漢字は不可避の他者である」で表象される「至高なもの」としてのアジアを盗むものである、とわたしはかんがえようとしている。そのアジアとは、「祀る神」「祀られる神」と同様に、やはり実体はなくて思考の対象であるけれども、共同体が「祀る国家は戦う国家である」を止める意味を絶えず問う限りにおいて倫理的なものであり得るのではないか

推敲中
文学史というと、
History of litterature in English ーBritain&Ireland&...
それに現在話題に上るScotlandが加わるのでしょうけれど、1970年代以降はイギリスで一般的にこういう言い方になりました。このように言うと、なにか一つに包摂できないような開かれた知の枠組みを思い浮かべますね。辞書的には、又は、分かっている専門家や研究者の間では簡潔に、English(British)Litteratureで十分に通じるのですが、カフェで会話するときこの言い方はなーんか不安というか、大英帝国的「一」を喚起するなにか古臭い嫌な響きがあります。(パウンドでも勉強してるの?という感じ)。どちらがいいのか何人かにきいたことがあるのですが、尋ねてみたそのひとり、ナイジェリアの英語で書くショインカの仲間で、70年代に留学してきた方にきくと、マルチ・カルチュアリズムのロンドンでは、英文学史はやはり、History of litterature in English ー ...&...&...&...というあり方が要請されるとのことでした。
このことをできるだけ思想的に考えてみますと、アイルランドスコットランド、そしてナイジェリアの外部から、イギリスの近代を捉えてみることにどんな意義があるのだろうかと改めて考えるとき、言語的アプローチに依るのですが、(豪族とかの反乱で古代国家の統一が簡単には行かなかったと伝える「古事記」と比べてみることができるか?)、世界の半分をもつことになるイギリスで象徴される近代化というものが原初的に困難を極めたということ、History of litterature in English ー...&...&...&...というこの指示に反映されていると思います。Englishというものはどこにも属する散種だが、いかなる場所でも発芽して完成することはない、目的をもたない「過程」のイメージが湧きます。
そのEnglishがジョイス文学というスリットからどのように展開してくることになったのか、これが私の関心であります。




どうして国が金を出して医療・福祉施設の検査を徹底しないのかって?金が東京五輪に固定されてしまっていて必要なところにまわらないからでしょう。国家の名誉に押し潰されています

「みんなが間違っていると考える見方に実はみんなが考えていなかった正しい主張がある」という懐疑精神と平等的正義感、新しい経験を重んじて法を発見する信念をもっていない裁判所などに憲法を判断する力はないとおもうようになりました。裁判所が解決してくれないならば、われわれが言うしかないとおもいます。その場合、当事者のために解決するという視点が大切になってくるはずだとおもいます

「写真は示している、物は与えられているのであり、そしてそのために、物は距離を置いたままでいるのだ、ということを。与えられているもの(le donné)のもつ贈与行為は、そこに、その場のなかにとどまっている、ーあるいは、おそらく、むしろ、贈与行為とは場それ自体なのである。与えられているものの背後に贈与があり、そして、贈与が「ある」ということは(l‘ ”il y a”)は、もつことー場(l‘ avoir -lieu)[場をもつこと/起こること]なのである。この、[場をもつこと/起こること]は、隠されたままでいるのではなく、接触との隔たりのなかで不可視の状態で、かつ触知できない仕方で開かれているのである。フィルムも上に、観光性の小さな皮膜の上にやってくる光ーすなわち、情報のもろもろの単位として分析によりピクセル化される光ーこの光は、表明し、とどまらせるのだ、光の贈与を、光の啓治を、光を宣言し光を作動させる「光あれ」を。「光あれ」は、行為における区別=栄誉(distinction)であるがゆえに、神的なもの(崇高なものであると、Longinは述べている)なのである。」

* Cassius Longin、c.213-273 新プラトン派の修司学者、哲学者

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4年前ジジェクは大統領になるのはクリントンよりトランプがいいと言っていた。破壊者トランプに抵抗して資本主義米国の根本問題が解決される運動が出てくる筈だから。そうなったか


菅政権を支持している4割ですけど、だれが一番タフかを競う生き残りゲームをしているつもりで自分が勝ち残るなどとおもっているのでしょうか?


ホホー境界の傍らに与えられる場所で、触角なしで触れる、視覚なしで見る、そうして共に働く感覚がカフカプルーストの文学に書いてあるとはニャ


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フーコー『言葉と物』:第1部で、古典主義時代での一般文法、博物学、富の分析を素描する。第2部で、それらが断絶的に変様し18世紀末以降に系譜学、生物学、経済学として成立し人文諸科学を統べる過程を記す。そのなかで知を司る主体としての人間が近代において生み出されたものであることを示す。」(哲学botより)

構造<視覚ー空間ー触角>は、表象の限界によって、人間を基底とした構造<触角ー時間ー視覚>へと転回した、フーコにとって問題となってくるのは、再び人間の表象を利用していかに人間を解体するかである。境界の傍らに与えられた場所を世界の外部的中心として構成すること、振動を捉える毒虫のナレーションの成立とともに、すべてを表現し尽くす嫉妬のシーニュを解体すること、そのための方法として、<視覚なしで見るーテンソル的時空構造ー触角なしで触れる>ことは果たして可能か(ドゥルーズ)。精神分析構造主義の帝国から逃れいくヨーロッパにおける「近代の超克」の問題?他者の問題を考えるために、宇波彰氏を考えることがはじまるのはいまだとおもう

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『語孟字義』に伊藤仁斎の前に誰も言わなかった思考の斜線が書いてあるー水平的差異化の軸(仁斎)と垂直的差異の軸(朱子)が構成する座標において

ひとは黒地の上に,光り輝くインクで書くのではないのだ.ただひとつ,星々のアルファベットだけが,そうすることによって,粗描されたか〔書くことが〕中断されたかしたような姿を現して来る.――つまり,人間は,白〔紙〕の上であくまでも黒を追い求めているわけだ.ーマラルメ

「水平的平等」は理気論の同一性と差異性の軸、脱構築的「水平的平等」は仁斎の四端の心の軸。後者の多様性に格差が生じぬように、斜線は朱子の同一性を見直す方法のアジア的構成か

Twitterがトランプ氏に対してついに永久停止処分を下した理由を説明して、米議会議事堂への暴力的な侵入を奨励したことを考慮したと言う。そもそもトランプの問題は、責任を追求してくる都合の悪い質問に答えない彼の態度にある。わたしが怖く感じるのは、彼は質問そのものを破壊しようとしているのではないかと疑うときである。彼が奨励した議会議事堂への侵入は侵入以上の意味をもっている。選挙そのものを壊しているとしたら?現代は権力が政府に集中していて、この現代ほど、被支配者は権力を支配者に委ねた時代はあっただろうか。だからこそ、「責任は全部、一切合切の権力が委ねられた政府にある」と批判するためには、質問が不可避なのに、それすら許されないとしたら、どこの国も自民党の国みたいになってきている。近代という時代は、戦争と開発と同化はどんどん進むのに、自由に喋る政治が全然進まないという時代なのだ。菅は「仮の質問に答えられない」と言っているが、事実上質問を禁止しているようなものではないか?100年後の人々は、最後に質問したひとは誰であったかと調べて、後期近代のいまの時代をどのように語ることになるのだろうか。これも、禁じられた仮定の質問となってくるのか..

山崎闇斎をたたえる

こんなわたしのようなものの話を辛抱強く聞いてくれたのは二人。どちらも「聖」という名前をもっていたのは、偶然だろうけどね。其れは其れとして、荻生徂徠の制作論の思想を知らなければ、『江戸思想史講義』(岩波書店)に書かれているこの文の大切さを発見できなかったかも。「『敬』の名辞が存在しなかった遠い過去にあっても、後に『敬』と呼ばれる『心法』(すなわち『無名ノ敬』)は聖人たちの心の内に存在し、それは例えば『乾坤ニ掛』の像の上にも顕されてきたのだと闇斎はいう。」(子安氏)

思想は過去から生まれたものではないし過去の中にあるものでもないのに、過去から生まれたし過去の中にあったと言う。思想を自己のものにしようとした他者の存在を思い出すために?

恵原病院は近所。広尾病院といえば、恵比寿時代の隣人だった韓国人夫婦の出産のお祝いに行ったことを思い出した。あのときの赤ん坊はもう30歳すぎているはずなんだ

推敲中

「どうしてアイルランドにいたのか?」と聞かれたら、「20世紀の主たる作家はこの国から現われたから」と答える。「なぜ?」と問われたら、「ここにあらゆる人間の問題があるから」と言う。八十年代は、七十年代の開かれた批評精神の形骸化ー文献学的プロ意識の復活ーである。ポスト構造主義ジョイスのテクストによって、他者にhelloと言う書記行為、グローバル資本主義の搾取にNoと声をあげことの倫理的意味が読み出される。<私は話す>ということは、アイルランド演劇がこれを初めて行う。アイルランド演劇の前に、<私は話す>は一度も起きなかったのである。


現代アイルランド演劇『faith healer』

ブライアン・フリールは『トランスレーションズ』で土地の名について考えた(プルーストも小説の中で考えた)。アイルランドの表象の成立は英国軍の近代測量とアングロ・サクソン化させられた地名のとともに成り立った。『faith healer』はベケットを超える凄い芝居なのである!治療する力powerを失った信仰治療者フランクの興行をえがいている(写真はフランクの弁護士出身の奥さん)。

      アベラーダ、アベライロン、
       サングラノッグ、サングリッグ
      アベゴーレッヒュ、アベギノルウィン
      サンデファイロック、サンネハメッズ
      アベホーサン、アベポーズ

フランクが信仰治療に利用しているお唱えは全部、現在滅びつつある土地の名である。わたしの理解では、土地の名はBadiouが言う意味で「空集合」である。分析哲学からは数学ではないと非難されるが、Badiouは言っている、自分の文は詩なんだと。彼は空集合とか固有名の意味を問う詩を書いている。差異をさがしに行け、属することばかりを考えるなと。もし土地の名を「空集合」として考えてみたら「存在する」ことについてどういうことが言えるか考えてみよう。名は土地のなかにないし土地からくるものではない。名は他者である。

第一部 フランク (1)

 Brian Friel; Faith Healer
 Part One, Frank (1)

 Frank; (Eyes closed) 
 Aberarder, Aberayron,
 Langranog, Llangurig,
 Abergorlech, Abergynolwyn,
 Llandefeilog, Llanerchymedd,
 Aberhosan, Aberporth...
 All those dying Welsh villages. (Eyes open.) I'd get so tense before a performance, d'you know what I used to do? As we drove along those narrow, winding roads I'd recite the names to myself just for the mesmerism, the sedation, of the incantation -
Kinlochbervie, Inverbervie,
 Inverdruie, Invergordon,
 Badachroo, Kinlochewe
 Ballantrae, Inverkeithing,
 Cawdor, Kirkconnel,
 Plaidy, Kirkinner...
 Welsh-Scottish-over the years they became indistinguishable.The kirks or meeting-houses or schools-all identical, all derelict. maybe in a corner a withered sheaf of wheat from a harvest thanksgiving of years ago or a fragment of a Christmas decoration across a window - relicts of abandoned rituals. Because the people we moved among were beyond that kind of celebration.

フランク(目を閉じて)
       アベラーダ、アベライロン、
       サングラノッグ、サングリッグ
      アベゴーレッヒュ、アベギノルウィン
      サンデファイロック、サンネハメッズ
      アベホーサン、アベポーズ
 ウエールズ地方の滅び行くあの村たち・・・(目を開ける)
 私は出番のまえにはえらく緊張しちゃううんです。どうしたかというと、あの細い曲がりくねった道々に沿って車を飛ばしてこの呪文を催眠剤とか鎮静剤として唱えていたというわけです。
      キンロッホバーヴィ、インヴェバーディ
     インヴァドルイー、インヴァゴードン
     バダクルー、キンロキュ
     バラントレイ、インヴェキーシング、
      コードー、カコネル、
      ブレイディー、カキナー・・・
 ウエールズスコットランド地方の名前なんですが、時が経つにつれお互いに区別がつかなくなりましてね。教会でも、集会所でも、学校でも、みんな廃墟になっちまったところばっかり借りてたもんです。過ぎし日々の祭りの儀式の名残などがあってー部屋の隅には何年も前の感謝祭につかわれた枯れた麦の穂が一本だけあったり、窓にはクリスマスの飾りのの頃が張り付いていたりと。ただ、わたしらが相手にした連中は、そんな祝いなどとは縁のない貧乏な人々ばかりだったんですがね


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来週に親戚の家族葬に行くつもりでいたが、さっき電話で東京から来ることを断られた。年末に東京からの感染が起きているし、地方の病院が大変になっている話も聞いて心配している


大学に勉強しにいく所で、友達と会うのが目的でない。分かっているけれど。惑星『ソラリス』のSFみたいだ。宇宙船の科学者達は互いに孤立して自分の過去の記憶を物質化して生きる


五輪開催が至上命令だ。五輪中止を求める声に耳を塞ぐ権力の中心は、解釈改憲軍国主義国家神道を復活させたが、原発災害以降の分裂に恐怖していて政治的統一の喝采を捏造したい


ジル•ドゥルーズ著『プルーストシーニュ宇波彰

第八章 アンチロゴスまたは文学機械 より


問題は、プルーストによっ、いくつかのレベルで提起されている。ひとつの作品を統一させるものは何か。われわれと作品のあいだに、<コミュニケーションをさせる>ものは誰か。芸術の統一性があるとすれば、それを作るのは誰か。部分をまとめるひとつの統一、断片を全体化するひとつの全体をわれわれは探求することを断念した。なぜならば、有機的全体性としてのロゴスみ、論理的統一としてのロゴスも、いずれも拒否するのが、部分または断片の、特性であり、性質だからである。しかし、それらの断片の全体としての、この多様なものの、この多様性の統一であるところのひとつの統一が、存在するし、また存在しなくてはならない。つまり、原理ではなく、多様なものと、その分裂した部分の<効果>であるようなひとつのもの、ひとつの全体が存在しなくてはならない。このひとつのもの、ひとつの全体は、原理としては作用せず、効果として、機械の効果として機能するだろう。それはひとつのコミュニケーションであって、原理として措定されるものではなく、機械と、その分解された部分品、コミュニケーションもないその部分の運動の効果として生まれてくるものであろう。哲学的には、閉ざされた部分、あるいは、コミュニケーションのないものから結果するコミュニケーションという問題を最初に提起したのは、ライプニッツである。戸口も窓もない<モナド>のコミュニケーションを、どのように構想すべきであろうか。ライプニッツの巧みな答えは、つぎの通りである。つまり、閉ざされたモナドは、その属性の無限のセリーの中で、同一の世界を展開•表現することにより、また、それぞれのモナドが、他のモナドとは異なった、明確な表現の領域を持って満足することにより、したがってすべてのモナドが、神が展開せしめる同じ世界についての異なった視点であることにより、すべての同じ材料を処理する、というのである。このようにして、ライプニッツの答えは、神というかたちのもとにーこの神は、それぞれのモナドの中に、世界または情報についての同じ材料を入れ、(<予定調和>)、また、孤立したモナドのあいだに、自発的な<対応>を基礎づける神であるがーあらかじめ存在する、統一と全体性を回復する、プルーストにとっては、もはやその見方は不可能である。彼にとっては、さまざまな世界が、その世界に対する視点に対応し、また、統一性・全体性・コミュニケーションは、機械の結果としてのみありうるものであって、あらかじめ存在する材料を構成するものではない。


Le problème est posé par Proust à plusieurs niveaux: Qu’est-ce qui fait l’unité d’une œuvre? Qu’est-ce qui nous fait <communiquer> avec une œuvre? Qu’est-ce qui fait l’unité de l’art, s’il y en a une? Nous avons renoncé à chercher une unité qui unifierait les parties, un tout qui totaliserait les fragments. Car c’est le propre et la nature des parties ou fragments d’exclure le Logs aussi bien comme unité logique que comme totalité organique. Mais il y a, il doit y avoir une unité qui est l’unité de ce multiple-là, de cette multiplicité-là, comme un tout de ces fragments-là: un Un et un Tout qui ne seraient pas principe, mais qui seraient au contraire <l’effet > du multiple et de ses parties décousues. Un et un Tout qui fonctionneraient comme effect, effet de machines, au lieu d’agir comme principes. Une communication qui ne serait pas posée en principe, mais qui résulterait de jeu des machines et de leurs pièces détachées, de leur parties non communicantes. Philosophiquement, c’est Leibniz qui posa le premier le problème d’une communication résultant de parties chose ou de ce qui ne communique pas: comment concevoir la communication des <monades> qui sont sans porte ni fenêtre? La réponse truquée de Leibniz est que les monades fermées disposent tout du même stock, enveloppant et exprimant le même monde dans la série infinie de leurs prédicats, chacune se contentant d’avoir une région d’expression claire, distincte de celle des autres, toutes étant donc des points de vue différents sur le même monde que Dieu leur fait envelopper. La réponse de Leibniz restaurer ainsi une unité et une totalité préalables, sous forme d’un Dieu qui glisse dans chaque monade le même stock de monde ou d’information (<harmonie préétablie>), et qui fonde entre leurs solitudes une <correspondance> spontanée. Il ne peut plus en être ainsi selon Proust, pour qui autant de mondes divers répondent aux points de vue sur le monde, et pour qui unité, totalité, communication ne peuvent que résulte des machines, et non pas constituer un stock préétabli. ーDeleuze


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愛国心というのは保守主義とは何の関係もない。それは、変化しながらも不思議なまでにもとのままだと感じられる何物かに身を捧げることである。例えて言えば、もと白軍にいたボルシェビキがロシアに対して抱く感情のようなものだ。[右であれ左であれ、わが祖国] ジョージ•オーウエル


「映画は私たちの眼差しを私たちの欲望にかなう世界に置き換える」(ブレッソン)。『言葉と物』では、近代が終わり人間が消滅した後に再び人間の表象が語られれるのは何故か?「明確なイメージ」(ゴダール)をともなわず、存在の自己否定の曖昧な観念に留まることは倫理的に許されないからではなかったか

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It is always the “dead letter ” in which the “living spirit“ must survive, a deadness from which it can be rescued only when the dead letter comes again into contact with a life willing to resurrect it although this resurrection of the dead shares with all living things that it, too, will, die again.  ー Hannah Arendt


「生きた精神」が生き続けなければならないのは「死んだ文字」の中においてである。そして「生きた精神」を死から救い出すことができるのは、それを進んで蘇らせようとする一つの生命と再び接触するときだけである。ーハンナ•アーレント『人間の条件』23


深く重くそして遠く(に行って調べる)説得力の近代は、だけど先行する表面的に軽く近くにしか見えてこないものを蓋してしまうと、体系的に一生懸命に積みあげた知識がむなしい..


深く重く遠くにある中心から見られているから、自己の傍の言語は表面的で軽く卑近なものとなる。厄介なのは、対抗中心に絡みとられた起源とその深さと重さと遠さを見るときである


小林秀雄が語るように、難しくなるのは遠く難しい理念をあまりに短い時間で考えるからなのか?問題は行いだ。卑近で平易さを理念として言語行為的に行うことも時間に関係なく難しい


われわれは議会や中央銀行の奥に行かない。占拠の抗議は中にいる人を外に出そうとする。何をしているか分からず中にいたと同じだった自分自身への抗議でもある。現場で他者を考える


アタリは伝染病の背景に地球環境の問題があると言う。この解決なくして静かにしていれば元に戻るという考えが人類を滅亡させると。国の責任なのに国民が事実上損害賠償を払っている


憲法制定権力者ー憲法の成立を以って優越的に保障される言論の自由を核とする憲法体系を与えた。




中国で初めて「革命」の思想を明らかにしたのは、戦国時代の諸子百家の一人、孟子だった。戦国の七雄の一つに挙げられていたは、もとの斉王の家臣団の一つであった田氏がその王位を奪ったものでふつう田斉といわれている。国家の主権の基盤に問題を抱えていた斉の宣王が孟子に会ったときに、まっさきに聞いたのが「の湯王は夏王桀を放逐して殷王朝を建て、の武王は殷の紂王を征伐して周王朝を確立した。臣下がその君主に反抗し、君主を殺して、つまり革命を行ったということは歴史上の事実か?」ということだったのは、そのような事情があったからだった。孟子が「古い書物にそう書いてある」と答えると、宣王はさらに「臣下の身分で主君を殺すことが道義的に許されるのか」と反問した。


常にシナリオを二つ用意しておかなければならない


孟子は答えて「仁愛をそこなうものは賊であり、道義をそこなうものが残である。こういう残賊をおかすような悪人は、天子にして天子でなく、一個の人間に過ぎない。だから、殷の湯王や周の武王は、天子にして天子でない残賊、すなわち一個の人間に過ぎない夏王桀や殷の紂王に反抗してそれを殺したのである。殺した相手は一個の人間にすぎなかった」という。
 これが有名な中国における革命論である。すなわち、中国を統治する君主は、人民の人望をえている聖人である人が、天から命じられ、天の代理である天子として人民を治めるのである。だから、暴虐な君主たちは人民の人望を失い、人民に反抗され、そしてけっきょくそのくらいを追われる。ここでいう天は、仮想的・抽象的なものであるが、その天がいままでその王朝に命じて天下を治めさせていたのが、その命令を改めて、人民の人望を失った暴虐な君主を放逐し、その代わりに、新しく人望をえている者に命じて天下を統治させる。人民の世論に応じて天が命を革(あらた)める――この革命論を初めて打ち出したのが孟子である。」(貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』2000(初刊1974) 講談社学術文庫 p.485)


• 常にシナリオを二つ用意しておかなければならない。革命のシナリオAと別のシナリオBである。後期水戸学の特徴としては易姓革命を否定し尊王の立場をとったから、シナリオAは無理だった。そのかわりシナリオBがある。聖人は命名行為によって国家を制作するシナリオである。だから王政復古のクーデターはシナリオBに基づいていたとはいえない。だが、国家の成立とともに、恰も国家は聖人がどこからきたのか語らなければならなくなったかのように、後に明治憲法天皇が不可侵であるとか言いだすことに先行して、国家は聖人を天照大神として再構成していた起源的言説が幕末にあった。この起源的言説は、西欧も支配する、19世紀において顕著な帝国のものである。(民族主義は影響力をもってこの時代に存在したと言えるか?それはその言葉を知る大正時代に起きると思わされる。) 歴史修正主義に囚われている21世紀のわれわれはほんとうにそれほど、明治におけるこの起源的言説から遠くにいるのだろうか?


期待外れをたたえる


ラストエンペラー』のベルトリッチは鏡にうつらぬ心の影にこだわるようなメチャクチャ面白い作品を作る。映画界の本居宣長だとおもう。だけれど暗闇とは何かの裏側でしかない。その表側を示してこそ映画は左翼である。そうしてゴダールは映画において決定的な何かを言う。と、おもっていたら、嗚呼前作とまたおなじことを言っている。映像と言葉は別々ではいけないぐらいのことしか言えない。ゴダールの映画にいつもガッカリさせられる、常に期待外れである。嗚呼ロッセリーニだったら、パゾリーニだったらとおもってしまう。しかしゴダールはこの期待外れが凄いのだ。われわれが住処としておる近代がガッカリしている。そうならば近代をガッカリさせてやろうではないか。多分このとき、形而上学的論理の順番が告げられている。映像と言葉とは、生者と死者を分けへだてはいけないように切り離してはならない。つぎに映像を考えよ、生者を考えよ、言語的存在である人間が存在する意味を考えよだ。しかし近代とは専ら生者を考えるのである。死に場所なんか500年前からなくなっている


“excuse the emotion, but when I die, Delaware will be written on my heart. "


Time is not a thing, thus nothing which is, and yet it remains constant in its passing away without being something temporal like the beings in time.

Martin Heidegger


Maybe the most certain of all philosophical problems is the problem of the present time, and of what we are, in this very moment.

 –Michel Foucault,“The Subject and Power”


アイリッシュ系の新しい大統領バイデンが作家ジェイムス・ジョイスの言葉を引きながら自分の決意を語ったよ!(ジョイスはDublinと言ったところを、バイデンは自分が代表しているDelawareと言っている)。嗚呼果たしてヒューマニズムホワイトハウスにもどってくるのか?

“excuse the emotion, but when I die, Delaware will be written on my heart. "


Das andere >Ende< aber ist der >Anfang<,die >Geburt<.


Im Sein des Daseins liegt schon das > Zwischen< mit Bezug auf Geburt und Tod


Martin Heidegger


Time is not a thing, thus nothing which is, and yet it remains constant in its passing away without being something temporal like the beings in time.

Martin Heidegger


来年はジョイスユリシーズ』出版から100年である。前衛的近代チャンピオンか、それとも、解体近代のポストモダン的チャンピオンなのか、ジョイスをどう観るかをめぐる議論は、シェークスピアとダンテと並んでヒューマニズムの偉大な歴史に刻印されることになるだろう。しかしである、ヒューマニズム帝国主義とが両立する問題を、グローバルデモクラシー無き新植民地主義ネオリベグローバリズムが始まった後期近代のジョイスの読みにおいて問題にしなければいけなかった、ヨーロッパの周辺アイルランドの声なき声はどうなるのか?平等の最高の理想は西欧にある違いない、否、アジア(仏教)にこそあるがアジアはヨーロッパのようにそれを実現する方法をもっていなかったのか、この点について議論がある所だけれど、問題はヨーロッパも、西欧に対抗したアジアも、帝国主義に絡みとられてしまったことである。「自分で決めた亡命」をやったジョイスアイルランドであれ、岡倉天心の「東洋の理想」であれ、ヨーロッパの周辺の思想なり芸術が、対抗西欧の復古主義に陥らずに、精神の隷属を拒んで西欧を包摂するような未来は不可能なのだろうか?


トランプ大統領選出のときは核ボタンを押す危険が心配されたが、彼はビジネスマンタイプだった。だが大量の恩赦を与えて金儲けする最後の最後まで商売にしか関心がなかったとはね


In the US. White people can’t imagine black people who are just like them .


「白人至上主義」または「Brexit 」あるいは「美しい国」。2005年から問題となっていることはこの一言に尽きるのではないでしょうかー“We are on our own” 

時計仕掛けの機械の進行のような容赦ないグローバルな普遍主義に抵抗しなければもうやっていけなくなるときに、対抗的に、反-<グローバル普遍主義>を対象項にしていくことで何か過剰なものを溢れ出させる危険があるとおもいます。難しい問題ですが、デカルトは上手いことを言っています。「われ疑う、ゆえにわれ存在する」と。もちろん、「疑う」だけでは何の解決にならないといわれるでしょうが、だけれど、失われた経験全体の意味を奪回するためには「疑う」ことからだと思います


‪「人間はまた、経験的=先験的二重体であるから、誤認の場所でもあるー誤認といったが、それこそ、つねに人間の思考から人間固有の存在(エートル)を溢れ出させる危険にさらし、同時に、人間にたいして、人間を逃れるものから出発してみずからを想起することを可能にするものなのだ。」(フーコ 'コギトと思考されぬもの' 渡辺一民訳)‬

Parce qu'il est doublet empiricism-transcendantal, l'homme est aussi le lieu de la méconnaissance, ー de cette méconnaissance qui expose toujours sa pensée à être débordée par son être propre, et qui lui permet en même temps de se rappeler á partir de ce qui  lui échappe. (Foucault)‬


Wake up はジョイス文学を読み解く鍵です(「歴史は、そこから私が目覚めようと努力している悪夢だ」)。「目覚め」とは何か?<死>だとジジェクが言います。夢を発明し続けなければ目覚めると。トランプはアメリカンドリームしかなかったので目覚めてしまいました。バイデンは新しい夢を発明できるかです


ジョイスユリシーズ』(1922)は、「歴史は、そこから私が目覚めようと努力している悪夢だ」という「目覚め」の歴史についての言説を語る文学です。『ユリシーズ』は昼の本です。ところでアメリカ人ほど夢という言葉を好む人々はいません。『フィネガンズウェイク』(1939)は知識人の本ベスト10のなかにかならずランクインします。さて夢をテーマとする夜の本である『フィネガンズウェイク』からは、「目覚め」とは何でしょうか?<死>です、とジジェクが言います。夢を発明し続けなければ目覚めると。わたしは、このポストモダンアイロニーにすべてのことが語られていると思います。そしてわたしは<死>を、音声中心主義のラディカルモダニズムと考えようとしています。「文革」はそういうものでした。「文革」以降の中国は、天安門前広場事件の民主化の道を弾圧して、儒教的「礼」で表象される帝国的な政治的統一を以って夢を発明しようとしていますが、成功したでしょうか?目覚めて、ロシアと同様の皇帝的コミュニズムの独裁の死のなかにあるようにみえます。目覚めてしまったのは、中国とロシアだけではありません。「白人至上主義」(アメリカ)または「Brexit 」(ヨーロッパ)あるいは「美しい国」(日本)、2005年から問題となっていることはこの一言に尽きると思われますー“We are on our own”。ネオリベグローバリズムに対抗するために、われわれ自身にこだわる、自言語中心主義<一言語>主義と<一国>民主主義は、実は、ネオリベグローバリズムと両立する悪夢なのかもしれません。われわれ自身の起源と彼らの起源という境界線を引く思考の問題、これは一考の価値があります。思考が思考のなかの思考できないものと関わることができなくなるする近代が構成する思想史的問題です。アタリは伝染病の背景に地球環境の問題があると指摘したうえで、この解決なくして静かにしていれば元に戻るという考えが人類を滅亡させると言います。そこで地球環境の問題を取り組むことができるような世界を語る理念的構成のもとに、グローバルデモクラシーの思想空間を制作する夢を発明しなければ、隣国と隣人の他者に依拠できないわれわれは死のなかに目覚めてしまう未来に不安をもち続けていくのではないでしょうか。


思想史空間は可能か?先験的経験的二重体の人間を論じるときに時間の思考に依拠しては起源の思考に絡みとられる。近代建築の靖国神社ですら太古に遡る。だから思想史的空間を考える。ポストモダン建築の位相空間的構造に人間が定位するような建築の前に立つだれもが、200年前にあらわれた人間が太古から規定されているとは考えないだろう。思想史空間と建築とは一体なのである。これから建築物を見ることは、写真を見ることである。触角なく触るような、思考できない断片たちとのコミュニケーションである。


荻生徂徠が言う聖人による礼楽の制作は、解体-普遍主義(朱子額)の身体であり、身体の外部の成立とともにある思想空間のエクリチュール•文でなのかな


ジョイスユリシーズ』(1922)は、「歴史は、そこから私が目覚めようと努力している悪夢だ」という「目覚め」の歴史についての言説を語る文学です。『ユリシーズ』は昼の本です。ところでアメリカ人ほど夢という言葉を好む人々はいません。『フィネガンズウェイク』(1939)は『ユリシーズ』といっしょに知識人の本ベスト10のなかにかならずランクインします。『フィネガンズウェイク』の書き出しは(riverrun)は、「河は流れます」という文です。フランス語訳は「夢をみましょう」と読ませようとします。どちらも正しいと思います。『フィネガンズウェイク』は夜の本だからです。さて『フィネガンズウェイク』にとって、「目覚め」とは何でしょうか?<死>ですとジジェクが言います。夢を発明し続けなければ目覚めてしまうのだと。生と死を夢を発明できるかによって説明しようというのです。ここでわたしは<死>を、音声中心主義のラディカルモダニズムの目覚めだと考えています。

生と死を別々に考えるのではなく、表側と裏側の関係として一緒に考えるとして、思考の論理的順番を<折り返す>ことによって、裏側にあった<死>を表側にして考えはじめたらどういうことが言えるでしょうか。亡霊のような死から見つめられることになります。<折り返す> によって、夢ではなく、制作が問題となってくるのです。そしてそこではじめて<生>が倫理的に問題となってくるようにおもうのです。ここで『朱子語類』の鬼神論の言説についてわたしは考えるのですね(下は子安先生の板書を書きうつしたものです。) この思考の論理的順番 の折り返しによって成り立つのが「精神」です。「精神」は、荻生徂徠が言う聖人による礼楽の制作が解体-普遍主義(朱子)の身体であり、身体の外部の成立とともにある思想空間のエクリチュール•文でしたが、そういう制作的契機をもつ理念が「物」として再構成されたものではないだろうかとわたしはかんがえようとしています。


国際社会にデビューするアジアのイスラム国を歓迎するはずだったのに、その機会を奪ってしまった五輪の東京開催決定は国際協調主義の憲法に反したと思うのはこのわたしだけなの?


福沢諭吉はsociety を人間交際と訳した。誰彼構わず話したソクラテスを危険人物とした「社」会は囲むが、人間交際は多孔性である。人間交際の思想はpeopleにある


だれも賢人ではありえないというソクラテスの偉大な洞察から知にたいする愛、哲学が生まれたのであった。この点を考えると、イエスの全生涯の物語は、善に対する愛が、だれも善ではありえないという洞察から生まれたことを証明しているように思われる。

ーハンナ•アーレント『人間の条件』


We are reminded to Socrate’s great insight that no man can be wise, out of which love for wisdom, or philo-sophy, was born; the whole life story of Jesus seems to testify how love for goodness arises out of the insight that no man can be good. 

ー Hannah Arendt


「沖縄は日本にとって自己を変革させる道徳的警鐘者である。だから「沖縄の日本」とは、大江健三郎が沖縄という鏡の中に見た、そして見たいと望んだ過去、現在、未来の日本人像ー言い換えれば、祭司・大江健三郎が繰り返し祝詞を上げて呼び出そうとする、日本人の手中の鏡に映った多重的な自己である。」

ー呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想』



ロンドン時代、テートモダンの詩のワークショップで一緒だったイタリア人は日本人の私の風貌がカルロ・ポンティに似ていると面白がっていたが、テムズ川に沿って歩きながら、散文的な英国人の悪口をいいながら、と、イラク戦争の話になった。米国の戦争も狂気、戦争を支持した英国人も狂気だ。と、彼女が私に言った。イタリア人は狂っていると言われるけど、英国人は狂気を隠すのが非常に上手いのだと。彼女は英国人と結婚しているから知っていると強調した。まあそれはユーモアだったか、軍国主義的に形式的で冷たいイギリス人に似ていると思われている日本人とファシズムに絡みとられた狂気の歴史にたいする批判だったか。イギリスに関していうと、私は、英国人達はアイルランドに来てアイルランドから自己を確立しようとしていたのに、エデンとイヴの園に来たと感じることになる彼らの狂気を見たような気がした。何かそれはアイルランドを対照項にして、アイルランドが無くなってしまうような祀るロマン主義(対抗日本ロマン主義)ではなかったかといまおもう。イエーツから感化をうけた大江の小説「燃え上がる緑の木」は、祀られているアイルランドを読むことができるが、リアルなアイルランドが無くなってしまっているのではないだろうか。わたしもその中にいた、イラク戦争は自分たちと無関係なのに隣人のこととして感じて思わずダブリンの街頭にでて抗議した十万人が制作ようとした公共空間(エスタブリッシュメントとは別のあり方)と、祀られているアイルランドとのあいだ共通のものがない。思考不足で深められないが、呟きでもやっぱりちょっと書いておこうかな


ハイデガーは、私にとって常に本質的な哲学者でした。私はヘーゲルを、ついでマルクスを読むことからはじめ、そして1951年か1952年にハイデガーを読みだしました。更に1953年か1952年、いつであったのかよくは覚えていませんがニーチェを読みました。-フーコ『道徳への回帰』-


夜は寒いからかなり早起きしている。「どうして」と聞いてくるから諺を口にした。驚愕された。「あなたの口から損得の言葉を聞くなんて信じられない!!」そ、そこがポイントか!?


向日葵運動の学生達に会えた喜び。帝国か?民主か?子安先生の柄谷行人『世界史の構造』を批判した講義。そこで呉先生が台湾からあなたのビデオを何回も見ていると仰った。7年後の現在、呉先生の「孤立無援の島の思想」を、子安先生の国内亡命の場所から明治維新の近代を問題とする反抗の精神が語る。台湾という外部から、東アジアの開かれたあり方を考えるために、呉先生が書いた大江健三郎批判を考えたい


文学とは何か?言説的でない言説であるとフーコは言う。文学が言説であることを考えさせる作家が大江だ。彼の祀ることを表象させる言説で何が失われたのか?


大江と吉本は「祀る島は祀られる島」の言説ではないか?天皇ファシズムに対抗して<祀るー祀られる>を取り込み、日本ロマン主義の何処にもない島に対抗して>囲まれた島>を書く


名が言語(ランガージュ)の成就であると同時に生の素材でもあった唯一の瞬間ーそれは許しがたい瞬間であり長いこと秘密もうちに葬られてきたーは、サドとともに、言語(ランガージュ)が欲望の舞台、充足、際限のない端緒となり、その全域にわたって欲望につらぬかれたときであった。われわれの文化もなかで、サドの作品が絶えざる本源的呟きとしての役割を演じているという事実は、まさにそこに由来する。ついにそれ自体の発音された名の暴力によって、言語(ランガージュ)は物としての凶暴な姿をあらわにするのだ。名詞(=名)以外の「品詞」も自律性をおび、名詞の至上権を脱し、名詞のまわりで装飾としての付属的輪舞を踊るのをやめる。そして、言語(ランガージュ)を名の周辺に「引き止め」、その直接に言い表さぬものを表示させることのうちにはもはや特異な美がない以上、ここに、言語(ランガージュ)をその生のままの存在(エートル)において顕示する役割をもった、言説的でんし言説(デイスクール)が生まれるであろう。言語のこの固有の存在(エートル)こそ、やがて19世紀が<言葉ウエルブ> (言語(ランガージュ)を表象の存在(エートル)にたえずそっとピンで留めるという機能をもっていた古典主義時代の<動詞ウエルブ>にたいして)と呼ぶこととなるものである。そして、言語(ランガージュ)のこの存在(エートル)を保持し、それをそれ自体のために解き放つ言説(デイスクール)こそ、文学にほかならない。

ー「語ること」、フーコ『言葉と物』(渡辺、佐々木共訳)

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Wiki によると、「道場」(どうじょう、みちば)は、サンスクリットのBodhimandalaを漢訳した 仏教用語菩提樹下の釈迦が悟りを開いた場所、成道した場所のことらしいんだね。道は、何のことかわからないけれど、わからないけれど、四角形と繋がっているのが面白いとおもう。やっぱり道は路

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推敲中

朱子学漢字文化圏コスモスポリタニズム。透明となった言語の観念は抽象的だが、天理や天命の思想の直線のイメージは具体的である。それは天から公に向かって垂直的な方向をもつ。万物の平等を考えるが、中華思想として確立すると、平等が成り立つのはanother(メンバーのなかの関係が問題となる)においてである。例えば絶対的平等性は皇帝と臣下のあいだを貫くのである。

伊藤仁斎における朱子学脱構築では、不透明な言語は『童子問』において深遠さより平易さの大事な意義が言われるように抽象的ではない(注釈される『論語』では「仁」は何かと定義したりすることはない)。言語は観念的でないことが要請されるが、天下の思想の直線のイメージは抽象的であるとわたしは思いえがく。それは「道は路なり」といわれるように水平的な方向をもつ。朱子も「路」の比喩を使ったが、仁斎における平等はeach other(メンバーの外にある関係が問題となる)においてである。 仰ぎ見る天における対自的関係、天下的関係。


アリストテレスからマルクスへと語るのは、世界史と日本史が古代史(近代の写し姿)から始めるのと同じで、いかにも知の権力に抵抗していない。マルクスからアイルストテレスを語る見方もネイティヴ化すると、外部が無くなる。そこでフーコの思想史は、常に盲目の解釈にたいして、背後からささやいてくる17世紀の沈黙する映像を、あたかも本の外部としてあるように、本の一番最初に置く必然があった


ゴダールモンタージュの概念を展開する。投射されるスクリーンは投射するスクリーンである。だがスクリーンを対象項とする<祀るー祀られる>ような神聖さを脱して、無の傍らにある絶対平等の至高なものへいく

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言葉、言葉。野党議員が求めるのは議論する本質。それなのに、語る態度とかそんな小さなことにとらわれている本質を議論しようとせず周りに気を遣って馴れ合うだけを考えるこんな人物に共感をもったら私は自分を恥ずかしく思わなくてはいけない。結局ガースーにやっつけられているのではないかと疑うけれどね。スタイル(文体)が問題となっているのに、まだこういうこともあるかもしれない。国会議員なのに、女性が意見を持つとみなして、感情を以ってそれを語ることに反発をもつこと。日本だけだよ


いまや、古典主義時代経験における言語(ランガージュ)の強固で緊密な統一性が何であるか、把握することができるだろう。言語(ランガージュ)とは、分節化された指示作用の仕組みによって、類似を命題的関係のなかにおさめるものである。つまり<ある(エートル)>という動詞を基礎とし<名>の編目によって顕示される、同一性と相違性の体系のなかにおさめるのだ。古典主義時代における「言説(デイスクール)」の基本的任務は、<物に名を付与し、この名において物の存在(エートル)を名ざす>ことである。二世紀にわたって西欧の言説(デイスクール)は存在論の場であった。つまりそれは、表象一般の存在(エートル)を名ざすとき、哲学、すなわち認識の理論および観念の分析であり、表象された個々の物に適切な名を付与し、表象の場全域にわたって「よくできた言語(ラング)」の網目を張りめぐらすとき、学問ーすなわち、名称体系と分類法ーだったわけだ。

ー語ること、フーコ『言葉と物』(渡辺、佐々木共訳)

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音声中心主義のラディカルモダニズムの必然?


レヴィ=ストロースの主張は、外的な相似を乗り越えて内的相同性に向かうべきだ、という点に集約されるからだ。そこで求められているのは、(…)悟性の象徴的・構造的秩序を作りあげることである。」

Rien n’est plus explicite à cet égard que les textes célèbres de Lévi-Strauss concernant le totémisme: dépasser les ressemblances externes vers les homologies internes.( D=G)


不遜なあの箱根オーフィリアも「悪いことをすればお天道様に筒抜けだ」にびびるのは祖父母に言われたらしい。道は徳ではないが、音が似ているので、この国では区別がなくなっちゃっている


箱根オーフィリアはカトリックプロテスタントの学校にいったが、「絵空事よ」。マッカーサー時代に漢文を教わらなかったが、「お天道様」にびびるのは漢字遺伝子によるものなのか


ホッブスはイギリスの当時の権力が全く知らなかった理論を打ち出した。しかしそれは後の近代主義に都合のいい制作論だったかといえば否である。ホッブスの社会契約論は、近代主義自然権のいわば自然を段々消していってしまうのであるが、リヴァイアサン自然権から切り離して語ったのではなかった。明治啓蒙は近代主義ホッブスにやったことを「功利主義」の荻生徂徠にやった。だが徂徠の制作論は、外部の思考であるから、制作を自然(朱子学)から切り離すわけにはいかなかったのであるー丸山真男の「作為」の理論が考えるようには。中江兆民はルソーの社会契約論を自由民権運動の知識人的活動家たちのために儒学的コンテクストで考えた。「天命の自由」と「人議の自由」、この両者は中江兆民において互いに切り離せなかったのある。他者である読み手に出会うために兆民にとって、philosophyの訳は「理学」でなければならない。「哲学」(井上訳)では何のことかわからなくなってしまうからである。


大島渚『儀式』の結婚式は前夜に花嫁が逃げ出したのに何事もなかったように進行したように、嗚呼、東京五輪は国家の他に誰一人来ないような儀式を強行して五輪が逃げだすのかしら


官僚の近代は何でもかんでも計画してきた。公害体制など必要ないものも作り続けた。1990年からは官僚は何もしなくなる。30年間一切を市場に任せたから現在必要なものをつくれない


日本は大きな他者•中国に物を言うためには、俺の背後に米国がいるとEUに自国の優越を示した英国の失敗を繰り返すのではなく、先ず民主化する自己を示してこそ言葉に実がある


マルクス主義では近代化を経ない脱近代はあり得ないが、アジアの現実は近代化せずに脱近代している。問題は近代化ではなく、脱近代において集中した権力を分散する民主化ではないか


Inventing Asia

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心と身は仏教が最初に言ったらしいよ。近代は専ら我は心であるが、古代は我は身で受けられる。「身に得て徳を我に形成する」といわれる



法哲学』(ヘーゲル)は人倫の三角形を書いている。家族(色々な形があるべきだ)を考える。家族から自立した個のあり方を考える。市民法の領域だ。問題は国家を考えるときである。国家の近代をどういうふうに考えるか。宗教にとってかわられた独立ナショナリズムにおけるブルジョワ的なものに絡み取られる(国家祭祀の近代)。しかし平等に誰もが参入できる公共空間を作れなくなることをみなければいけない。『法哲学』はアイルランドで再び読み直して理解できたことがおおかったが、現在は公共空間を作っている向日葵運動の台湾を無視しては『法哲学』のことを考えられなくなっている。もっと言葉が必要なのに自分の思考不足を痛切しているが、日本のことだけを考えると時間の無駄であるようにどんどん感じるようになってしまったのは、何か、『法哲学』がわたしに考えさせようとしているのかもしれない..


法哲学』はアイルランドで再び読み直して理解できたことがおおかったが、現在は公共空間を作っている向日葵運動の台湾を無視しては『法哲学』のことを考えられなくなっている。もっと言葉が必要なのに自分の思考不足を痛切しているが、日本のことだけを考えると時間の無駄であるようにどんどん感じるようになってしまったのは、何か、『法哲学』がわたしに考えさせようとしているのかもしれない..ヘーゲル儒教とおなじように家族と宗教を否定しない。かれの『法哲学』は人倫の三角形を書いている。家族(色々な形があるべきだ)を共同体の多分公理のようなものとして考えている。市民法の公理として、家族から自立した個のあり方を考える。問題は国家を考えるときである。国家は公理なのか?これを考えときは考えることができないものを考える必要がある。宗教である。国家は国家であるためには宗教の原理主義にとってかわられなければならない。だが独立ナショナリズムにおけるブルジョワ的なものに絡み取られる、あるいは、靖国神社としての日本人のアイデンティティみたいな再び国家祭祀の近代におけるような国家主義の内側に向かっていくようでは、平等に誰もが参入できる公共空間を作ることは難しいことをみなければいけない。


The theory of thought is like painting: it needs that revolution which took art from representation to abstraction. This is the aim of a theory of thought without image.

Gilles Deleuze, Difference and Repetition


宗教は哲学的知を表現する「表象」(Vorstellung) の形式をもつ。銅像孔子を真っ二つに割った文革ファシズムにおいてあらわれたような、音声中心主義の破壊し尽くすラディカルモダニズムの問題を考えると、絵画は表象から抽象へ行けとドウルーズが言うようには..「抽象」の捉え方が問題で、ラディカルに表象を全否定することを語っているのではないだろう。しかし敢えて表象にとどまる代償とは何か?わたしは答えもないが、抽象へ行く時代に表象に反時代的にとどまるときに考えるのは、解釈する神話的偶像再興の和辻のファショズム的言説ー「祀る神は祀られる神である」ーの孕む問題である。これは神聖さを表象する言説である。既に近代が成立する17世紀において、宗教も表象も腐敗するのはそんな神聖さの内部においてあることが議論されたのではなかったか?議論するためには、新しく、表象された神聖に国家という名が与えられたのではなかったか?17世紀のまえに、作為を自然から切り離して、国家を語るような言説はなかった。腐敗しているだけなのに、そこに命を奪われても文句がいえないような神々しい恐怖をみるのは近代からである。思想の理論が絵画との関係においてあるとすれば、例えば自己のほかに対象なき純粋な思惟のような思考できる自分自身を前提にした思考をやめて、思考できないものを思考していくように抽象から自立する反時代的な外部であって、ここのほかにない


MEMO

「思考する」は明治の翻訳語(?)。和製漢語がなければ「思考できない」が、「思考することができる」ということまで保証してくれない。


「人間は、思考するということの可能性をもっているかぎりにおいて、思考するということを心得ているが、しかしそのような可能性は、まだ、わたしたちが思考することができるというまでは、保証してくれないのである」、思考は「思考させる」もの、思考されるべきものの現前において、強制されてやむを得ずといったかたちでのみ思考するーそして、至高されるべきものは、まさに思考されえないもの、あるいは非-思考でもある、すなわち、(時間の純粋な形式にしたがって)「わたしたちがまだ思考していない」永続的な事実である。ーDeleuze 財津理訳

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聖人の「無名ノ敬」は信と一体となった物に書かれたものか?「敬」と云える名がなければ考えることができなかったが、「敬」の一字を分節化して句読点が成り立つ文を作っていいのか


演劇は俳優のもの、映画は監督のもの。キャラ反復+構築3次元又はGo to編集2次元。ポストモダン建築は鑑賞者のもの。スケールは整数で例えば生成1.5次元のより自然な状態


音楽は直接に作用してくる大きな力をもっている。音楽は絵画がもたぬ権力をもつ。音はヤコーブソンがやったように物理的に記述されるが、彼が示したのは音が成り立つ文化の空間


「失われたもの」の回復を言う近代の言説のもとで、「元号」は万葉集の指示した「元号」によって失われたものとなった。絶対の起源から排除すべき漢字で書かれなければ消滅していた


他者にむかう思考のイメージは、自らを前提にしたように展開する思考に非ず。思考の可能性だけでは思考ができる(外の)思考のイメージではない。外部は、写真をとって見るように触角無くして触れること。しかし内側の奥は、写真をとらないから手が見ることがないように触角があるが目は触れてはいないのである

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論語』は殆ど定義しない。「OOというのは」と定義して覆い尽くす近代がない。女性の妻の役割を語る大義名文の下らぬ文が一つある(孔子の言葉か分からない)が時代の限界だろう


海外に出たら、フェミニズムラカン精神分析とポストコロニアリズムを勉強させられる。そこでサイードスピヴァクを読んだおかげで帰ってきてポストモダン孔子を学ぶことになった


デュラスはどんな女性も面白いのはそれぞれ幻想をもっているからだと言う。男性がつまらない。レンブラント集団肖像画の光の中に置かれた少女のような集団の幻想しかもてないからだ


ダブリン時代に宗教画家と交流があった。自分を批判する愛人と娘を形容した彼の言葉に女性達は反発した。私は自前の小説の中でマルクスにその言葉を言わせたー「幻想が幻想を産む」


まだ彼等はロンドンデリーと言っている。イギリスにいたときは、なぜミャンマーというのか、もうビルマと呼ばないのかという疑問をもっている...


山崎闇斎論を読み終わったら、中江藤樹論、中井履軒論を再び読もうとおもう。江戸時代は京都、大阪、江戸がそれぞれ文化、経済、政治の中心をなした。物が知識を運んだ。大阪に懐徳堂ができたのはネットワーク論から説明できるという


‪推敲中

ダブリン時代にハロルド・ピンタの映画の特集を10日間やっていたときの話ですが、インテリがユダヤ人問題を考えるという映画だったので私は毎日映画館に通って(IFC)、全部みました。問題提起がありました。ただ正直、映画としては耐えられないほどつまらないものでした。わたしはいつも映画における構図を考えるので大抵は同じ席に座るのですが、毎日ガラガラの映画館のなかで毎日自分の前に同じひとが座っていました。体格がよく帽子をとらず行儀悪く前の席に足をのせて映画を最後まで見ています。ある日、観客は、私とその彼だけ。とうとうこの日が来ました。多分浮浪者だろうこの男に、「あなた、こんな映画、一体何が面白いの?」と顔をのぞいてきく日がきたのです。だけどそのときは帽子をとっていて、頭に包帯を巻いていて、何か聞く気がなくなりました。思い出の中では、この男からみると毎日同じ背後の席に座っているわたしのことも怪しいと感じたのだろうけれど、彼はアイリッシュにしては外国人慣れしている。アイリッシュではない。沈黙。それから二人は闇のなかに...。あとで、映画館の男がピンタその人だったことを知りました。ピンタはノーベル賞受賞がきまったことをこのダブリン滞在中に知ったようです。‬彼の『ハッピーバースデー』をロンドンで観ました。闇のなかで誰が何を喋っているかわからない場面があります。パッと舞台が明るくなると、死体があります。と、この芝居の闇によって、あのときの闇は何だったろうのかということを考えていました。わからないままですが、「黒板」のようなものではなかったでしょうか?誰が何を喋っているかわからない外の暗闇に書き続けるしかないわけで、「意味」がでてくるまで...


 森の女性蔑視発言は「失われたもの」の回復、即ち起源への回帰を言う近代の言説だ。だが他者を排除して、自民党の自らを前提にしたような思考の展開ではもうやっていけなくなった


閉店前の食堂に駆け込むとテレビ国会中継。客も店員も、怒る野党議員の話に集中して質問を聞いている。だがガースーの答弁の言葉が始まると誰一人聞かない。プチっと消してしまった


三月だったが、自由が丘にある立ち食いそば屋のおばちゃんがラジオで厳し過ぎた自粛要請をした小池知事に向かって「うるせえ!」と怒った。ずっとガラガラで昨年に潰れてしまった


徹底的に国際問題化しよう!

#DontBeSilent

#GenderEquality

#男女平等


寸劇

バッハ会長「あなたの謝罪は誰も理解できません。五輪憲章に反する発言を容認することができません。どうしたらいいものか..」

森会長「解釈改憲すれば早い」


六カ国語読めなければいけない、ラテン語がひとつ入っていなければならないと中学時代の漢文の先生に言われた。どうもパージされて塾に教えにきていたらしい。また高校入学のときは、まだアジアという言葉が少しタブーにかんじられた時代にアジアを考える先生に言われた。ヨーロッパに行って研究するばかりでなくもっとヨーロッパから人間を呼んできて日本で研究してもらわないといけない。インド人やキューバ人のように三時間喋る必要があるとも。隅っこに汚い『世界』が積み上げられていた教室に、中江兆民を読まされた。卒業式の歌の練習にフォークソングをうたう全共闘世代たちが先生だった。岩波書店の世界史や中国史なんかがズラーと並んでいる街の本屋さんに、サルトル存在と無』がかならずあった。10代の記憶は消えている。だけど意志というほどのものではないけれど、独学とはいえ、本は読んだし(全部無くなってしまった、デカルト方法序説』を除いて)、なんとか読んだ限りにおいて、現在を支える問題意識のなかにいくつかは残っているようにおもう。前置きが長くなってしまったが、現在も考えるのは、全く正反対の方向にみえるのに、科学革命と宗教改革ルネッサンスにおいて一緒に成立するのはどうしてかという問題である。西欧形而上学の理解なくしてヨーロッパで考えるのは限界があるが、朱子学陽明学のアジアの500年間を射程におくことによってこの問題を考えることができるかもしれない。中江藤樹朱子学と宗教的に関わったが、山崎闇斎は日本朱子学を確立したのである。17世紀の註釈学の知•伊藤仁斎以降、多種多様な学ー洋学と国学ーが開花する。神学は平田篤胤からである。渡辺一民氏は「僕は江戸の註釈学のことを全然知らない」と言った。日本思想の要である「津田左右吉は普遍主義なのか反普遍主義なのかわからなってくる」。アジアで読む『言葉と物』を深めるためには、ここを押さえておくのが大切だとやっとわかってきた

わたしの不十分な理解だけれど、津田は王政復古としての明治維新の近代にたいして相対化しようと批判するときは反-普遍主義的である。対抗西欧の近代のインチキを見抜いていた。他方で津田は創造性を強調するところで不可避の他者である漢字を文革的に全否定する。漢字知識人の総体を否定するラディカルモダンの普遍主義である。普遍主義か反普遍主義か、両極の中間にある位置にこそ価値があるかもしれない。しかしこの中間点において不可避の他者である言語を消去してしまっては、ロゴス=言語的存在としての人(人間)がいかに存在する意味を考えるのかという形而上学の問題が無くなってしまうのではないだろうか。


言説<単独者の交通する無の場所>から言説<主権国家の交通する帝国>へか..。帝国でもいいが交通を言うからには、宗教マイノリティーとの関係、周辺国との外交を解決しないとね


推敲中

「弁名」

論語」は所謂近代の定義集ではない。孔子はどの弟子に何々を言ったといったことが書かれているだけで、例えば「仁」が何々でありしたがってどういう行為なのかという形で抽象的に記されてはいないのである。この一文では、孔子の死後、孔子と弟子たちの間で言葉にしなくとも指示されていて共同に了解されていた自明なものが、解釈しなければわからなくなっていったことが言及されている。徂徠は物と名の食い違いを言う。このような過去との連続性が断たれたという問題意識から、子安氏が使う「祖述」という言葉が活きてくることに気がつく。原初テクストそのものをたたえること、これを読み解くとき、壊されてはならないのは、ほかならない、制作行為としての命名行為の意味である。一回限りの反復しない行為。この誰が命名したのかというアクションの重要性が徂徠によってはじめていわれるようになった、と、わたしはこの一文を読むことになった。ここで、‬「論語」に先行する「六経」の意味が大きく意識されてくるのである。



秩序の感覚は先なるものを卓越とみなす。形なき目に見えないものは目に見えるものより上だというあり方を言う。だが理は只、気の上に只佇むのだ。すべてのものが先なるものではない。すべてのものが後なるものでもない。そして先なるものでも後なるものでもないものは何もない。存在するから等しいのだ



Finnegans wake 

What true feeling for their hayair with what strawing voice of false jiccup

「嘘のしゃっくり藁声で干し草髪を撫でるなんてこころのなかのまこと! 」


(ジョイスは聖書の話を利用して文を作っているようだ。老いて目の見えなくなった父イサクがエサウに鹿肉をもとめたとき、ヤコブは山羊皮をかぶり父に鹿肉をもっていった。父は「声はヤコブだが、手はエサウだ」と言い、エサウのつもりでもヤコブに祝福を与えたという。リフィー川の流れを髪と言っている?アナ・リビア・プルーラベルAnna Livia Plurabelle の髪?)


I try to pick up the hot potato of the Japanese link with Te’no (Emperor )fascism. The hot potato turns out total subordination in the Arahitogami (the living god). The potato never deify the other because it deifies itself (a sort of noesis structure without object)


「女はいらない、女は喋りすぎだ」と言うやつは結局「女」を必要としているのさ。「女は生かしてくれるが、ほったらかしにする」とヒモになったゴダールのように呟くだけにしておけ


“本の目次”で読み解く思想史


実存主義からポスト構造主義へ、ポストコロニアリニズミからポストモダンにおける民主化のあり方を問う新しい思想へー


1、左はサルトル存在と無』(1943)の目次

第二章は、「対自存在」

実存主義の思想


2、右上はドゥルーズ『差異と反復』(1968)の目次

第一章は「即自における差異」(それ自身における差異)、第二章は「対自における反復」(それ自身へ向かう反復)

ドゥルーズサルトル存在と無』の「存在」を「差異」におきかえた。

後期近代のフーコ『言葉と物』(1966)から確立するポスト構造主義の思想


3、右中はネグリAntonio “Toni” Negri “ Traversées de l’Empire”(2011) の目次


ポスト構造主義とポストコロニアリニズミムから、「帝国」としてのグローバル資本主義の問題を問う


4、右下は子安宣邦氏『帝国か民主かー中国と東アジア問題』(2015 社会評論社) の目次

ポストモダンにおける民主主義のあり方を問う


•海外に出たら、フェミニズムラカン精神分析とポストコロニアリズムを勉強させられる。そこでサイードスピヴァクを読んだおかげで帰ってきてポストモダン孔子を学ぶことになった


マルクス主義では近代化を経ない脱近代はあり得ないが、アジアの現実は近代化せずに脱近代している。問題は近代化ではなく、脱近代において集中した権力を分散する民主化ではないか。


•失われた経験の全体の意味を自立的に奪回する差異の多元主義に向かって、ロゴス=言語的存在としての人(人間)がいかに存在する意味を考えるのかという形而上学の問題が無くなってしまわないように。要請されるグローバルデモクラシー




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柄谷行人『世界史の構造』(2010岩波書店)と英訳’the structure of world history’.


•『世界史の構造』はアジア知識人に、後期近代における『資本論』の読み方を教える。もはや近代における『資本論』の伝統的な読み方ー絶えずヨーロッパとのギャップに思い悩まされるーは問題となっていない。伝統的なマルクス主義では近代化を経ない脱近代はあり得ないが、アジアの現実は近代化せずに脱近代している。良い悪いを別として、アジアの関心は、近代化についてではなく、脱近代についてである。そうして柄谷は希望を以て(?)、帝国から自立する徳川日本のあり方ー時間の束ーをポストモダン的に分析できた。中国は溝口と柄谷によって今まで全く知られていなかった理論から再構成される。しかしその中国の発明が画期的だとしても、問題となっているのは、脱近代において集中した権力を分散する民主化ではないだろうか。


なりふり構わずに奪ってきた五輪に、失われた経験の全体の意味を奪回できると思っていただけに、高笑いする右翼大臣にもう自殺したくなるが、その前に自分と自民党にNoを示そう


東京五輪などの開発と経済と同化はどんどんすすむのに、全然ものが言えるようにならない女性たちは自由に喋らせてくれと怒っている!


「生民之本尽」とは、易に曰く、「天地の大徳を生と曰ふ」と。「民」は人なり。経に曰く、「天地の性は、人、貴しとなす」と。ゆえに生民と曰ふ。「生民」は、なを生活活発の人と言はんがごとし。「本」は根底なる。人の孝徳ある、なを木の根底あるがごとし。ゆえに孝をもって生民の本となす。「民」はその極に至りてしかうして遺すことなきにの謂ひ、「性を尽くす」の「尽」と同じ。ー中江藤樹


何でもかんでもカネがものを言う日本。イスラム国の国際デビューの機会を奪った東京五輪の値段は7000億円から3兆円に。世界の多数派である貧国の五輪開催の未来を潰す犯罪だ


だけどもし安倍が会長になったら?伝染病を克服した勝利、死者を祀るような全く新しい天皇ナショナリズムを支える新靖国神社としての東京五輪がまさか現れたりして Oh コワッ


エエエエエエ!!!?森は会長を辞めたことはやめたが、代わりに、川淵と安倍を利用して院体制を確立しちゃったような権力を持ったまま、自由の身になったのではあるまいか..


アメリカは現実を超えている。トランプ氏の弾劾裁判が開始、米上院は裁判を合憲と判断。映画もトランプみたいな怪物は出てこない。今の時代は映画を観ていたほうが安心である(笑)


12年間のあいだに非連続的陥没があった。ダブリンからロンドンへ、神々のジョイスホメーロス世界の詩から、現代アート的クセノファネス世界の詩へいった。If horses could draw, they would draw their gods like horses。平面が折り重なるようにヨーロッパの周辺からアジアの周辺に戻ってきてしまったが、わたしが戻ってきたところはまだ明治がはじまっていない。中江藤樹の「孝」の教説と<孝子伝>との間にとどまる。「民は人なり」という。だがそれは人間という意味ではない。毎朝起きたらわたしは馬だ。「生民」となるためには、天地の大徳としての生生的あり方を己の性としなくてはならない。あなたは存在しているかと問うわたしは詩をひとつ描く\書く。そうして投射された馬の影像から離れて朱子プラトン世界に向かって行く

リーマンショックの年だったかな、詩の話をしたので頭がおかしいとはおもっていなかったみたいだったけれど、本しか読まない私が世を棄てていると呆れていたナイジェリア人が、ある日、チェーン店カフェに入ってきて、「おい、坂道の教会があるだろう、あそこのシスター達はおまえを聖人だと言ってこのところ毎日拝んでいるんだそうだ」と驚愕していた(笑)


推敲中
六十八年パリ革命は植民地主義的西欧中心主義的の普遍主義の傘に穴を開けた。が、十分な数ではなかった。思想史は語る。「公の空間」を縮小していくネオリベグローバリズムの貨幣と中央銀行を取り囲む運動が起きてきたのは、それまで「公の空間」からも「私の空間」からも疎外されてきた人びとであった

A robustly just society is where the members , when acting self-consciously within rational and private norms - never adequately possible see freedoms not as ends but absolute means to protect their transgression, which is also their exercise.
Gayatri Chakravorty Spivak

議会に乱入したトランプ支持者達の中には「改心」するものもいるらしい。多分奥に入り過ぎたのだろう。近代が根づく深さは貧しい。開かれた全体をみる位置は内部の中には存在しない

思想史は深入りしない。どの要素(自然)とどの要素(人間)を交換したらカントのゲームの規則デカルトゲームの規則になるか考える。すると固有名とは何だという問いが出てくる

構造にも、構造と構造の関係にも還元され得ないような、固有名の名は、開かれているという意味で、開かれた全体をみる位置が内部の中には存在しないように、外部の思考を可能にする

‪‪‪
推敲名
‪「日本」という単一の「傘」に多数の穴をあけること、「ひとつの日本」「ひとつの日本語」をできるだけ相対化していくこと、生きるために。1968年は重要な契機だった。だが、現在、現実にこれほど隙間なく国家の構造に取り囲まれてしまっていては再び占拠できる空間を見いだすのが難しい。しかし別の次元で介入できる余白がまだあるかもしれない。つまり時間の占拠のことである。1960年代から学生と市民の視点から近代が問われることになったのである。過去の言説を批判的に読み解く形で、国家が自らのアイデンテイテイーとして隙間なくはりめぐらす言説体系の「傘」に穴をあけていくこと。生きるために、意味を作り出すために。同じであることはあり得ない、絶えず変化していくということを示すこと。そうして脱出する穴を言説の網目にあけるというのは、もちろん簡単ではない。ひとりで取り組むことなんて不可能だ。だがここに、近世の思想を構成する徂徠学を読む意義があるのではないかと段々気がついてきたのである。私はかんがえている。徂徠もこれと同じことをかんがえていたのではないだろうかと。彼がそこにはいりそこから出ようとしという意味において依拠しようとした過去は、ほかならない、朱子であり仁斎、そして二人がはじめて言い出した言説であったのだ。‬子安宣邦氏の評釈の抜き出しと訳を示しておこう。「『世は言を載せて以って移る』と徂徠はいう。時代の変化とは、物言いの変化、言説の変化である。」「徂徠が『豪傑の人』と評するのは、朱子であり、伊藤仁斎である。朱子も仁斎も徂徠にとって批判的克服の対象であるが、しかし彼らが傑出した才能をもって、儒学とその言説を一変させた人物であることをみとめるのである。豪傑の士とは、世に英雄として対し己において聖人の道を担おうとするものである。学とその言説が一変するのは彼らによってである。」

世界記録を持っていたが自費でギリシャへ行けと言われて断念した日本語学習者のアイルランド大学生を思い出した。金持ち国の社交クラブ「五輪」にそれほどみんなが参加してはいない

ポストコロニアル世界のワールドカップは参加国の数という点で近代主義の五輪より普遍性がある。新しい政治?ナショナルチームのどの選手もそれほど母国を代表しているのか不透明だ

ちょっと思ったことがあるのだけれど、女性蔑視について大企業は「われわれの価値観とちがう」というが、ほかのことは日本会議の森の考え方とおなじなのだろうか?よくカネが出せるな

日本会議はおかしいがアベノミクスは正しいと説く大企業的人間の安倍支持のお喋りは、10%しか知らないのにみんなを代表すると思う日本会議の根源的誤認にそっくりで恥ずかしい

錬金術Europasianisedは告げるーヨーロッパEuropeとアジアAsiaを混ぜよと。我ら自身に拘るケチな一国知では豊穣なポタージュスープを制作できない

大坂なおみさんは暴行を受けた死者の名を記したマスクをつけてコートに現れたのは事件だった。世界は多様性の象徴となった彼女の意見を聞きたい。「(森は)考えが足りない」と言う

3兆円を福島のために使えなかったのかとおもうのはわたしだけだろうか

保守は、マイノリティを差別する自民族中心主義で戦争責任を考えない近代を否定しなければいけない。しかし近代に対抗しているだけの森と川渕は保守伝統でなくて開発•戦争•同化主義

知識人とは、教える親がいなかったから(いたとしても) 正しいことは全部本を読んで知った理念的孤児。帝国官僚合理主義からの自立、武士社会に依存しない中江藤樹は知識人だと思う

中江藤樹は、「俺も親孝行だったが」と近代人に称えられるような模範的な親孝行をしていない。己の感性的世界から脱して他性へ行く脱自的な、聖人と呼ばれることになった異常な親孝養だ


推敲中‪‪‪

「弁名」ノート‬ 

‪未来を思いだすということは、書記言語的に書かれている過去を参照することによって現在のあり方〜未来の生き方にかかわるーに距離をおく批判精神に存する。それが批判的方法であるとすれば、現在の枠組みのなかで翻訳的に等価物をさがすことは批判的方法ではないだろう。現在の投射から、現在のスクリーンに向かって、過去に失われてしまった不可能な名と物を指示することは、恣意的な分節化と言わざるを得ない。完全にみえる「理」の存在論的言説によっても、過去との連続性は回復することはあり得ない。だからこそ、「弁名」という、言語・言説の古今の変化の認識に立った徂徠学という「先王の道」の古学の思想方法論が必要なのであるという。

ポストモダン遊牧民の場合は動かないんだな。いかに脱出するかを戦略を練っている。動いてしまったら外に出ることを考えない。あえて動かずに外部から考える。まあ、ウロウロウヨウヨ、ガイガイワイワイとやっている多孔ポストモダンモナドにとって、ポストモダン<一>神教は多元主義のこと。脱近代の時代に考えられたこうしたものは、わからないが、ポストモダン的に読まれるような、明治国家(公)に囲まれることがない天における清沢の精神主義朱子が『論語』の彼方側にみた絶対無限に関係があるんじゃないかしら

カイバード「神話的リアリズム」論の言説

アイルランド時代に宮田恭子先生が雑誌「すばる」のために翻訳したこの論文をもってダブリンにいらっしゃった。政治に言及しているので政治嫌いな先生はそれほど気乗りしなかったとおっしゃっていた。だけれど注目されていた本(“Inventing Ireland “)のなかにはいっている注目された論文である。ほかに、ポストコロニアリズム的視野からアイルランドのオスカーワイルドのアナーキズムを論じたものが中々面白い。カイバードはわたしが日本語を教える仕事を手伝わせていただいた大学にいた。何回か講義をきいたことがあった。”反アイルランド”にきこえる彼の言説に怒ったIRAが大学の聴衆者のなかにいるとも言われていた。カイバードは『ユリシーズ』の解説を書いている。ヨーロッパ周辺は、ヨーロッパ中心主義を批判したデリダの脱構造主義の成果をみとめたうえで、それが再び「普遍主義」を表象しているからか段々喋れなくなってきたことの問題を考えなければならない


哲学は、「我考える、故に我存在する」といわれているような関係とか差異を考えるための書かれる言葉に近い(下の二つの絵)。絵は話される言葉に近い。今日デカルトが生きていたらデカルトが警戒した誤認(偏見や結論を急ぐこと)は、哲学を、コミュニケーションのための話される言葉で考えるときに起きること。話される言葉がわるいと言っているのではない。世の中は何というか、「われわれ自身」にこだわる起源の観念に向かって音声中心主義の話される言葉で溢れていること、これが問題だ。一所懸命考えて構築した物の見方なのに、理解しようとせず(書かれた言葉にたいして)、「みんな」を代表しているような立場から一言で簡単に否定してしまうような小さなトランプ達との苦痛な出会いを避けることが難しいのである。しかしわたしは彼らみたいにトランプにならないようにするためにこれらの絵を思い出すことにしよう

推敲中

‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 8. ( 私の文学的フットノート)

‪‪知が自己に向かって関係をとっていく折り目のなかでの、仁斎との重なり合い、そこに包摂されない余白、朱子との切断。覆いきれない、名も物も失われた痕跡。再定義を止めたとき、痕跡の彼方に再び現れる痕跡。外部のテキストへ出ること。‬

‪聖人の制作になる諸名辞の‬
‪なんと大きいことよ‬
儒教言説で読み解く世界の‬
‪なんと小さいこと‬

1990年代に、アイルランドのようなヨーロッパ周辺の知識人たちは、デリダが考えていたジョイスユリシーズ』の読み直しが起きたときに、 世界標準の<公的な>経書解釈的言説になっていったデリダエクリチュール論に批判的視線を注いだ。身体の表象において成り立つ女性の独白の重要性が再発見された。外部からの侵入で損傷した共同体の身体の表象としての女性の声である。たしかに共同体の身体の表象については近代が十分に考えてこなかった。そんなものは前近代的なものか、オリエンタリズムではないかと。新しい議論が起きようとしているが、問題となったのは声である。この問題をジョイスのテクストに沿って他者の問題を考えた知識人たちは、声は書かれた言葉ほどの他者性をもっているのかと反発するデリダ派からの非難を受けた。書かれた言葉は存在するのは、未知の他者が読むことを前提にして存在しているということ。他方で語られる言葉ー声ーは目の前の他者とのコミュニケーションとしてある。アルトーの詩やベケットの小説がそうだとおもうが、文学の声は、コミュニケーションの意思の不在を示すことによって、そこにそれまでなかったコミュニケーションと関わるあり方を抽象的に考える。これが語られる言葉が絵画に近いと言われる理由かもしれない。現代美術館を訪れた者は絵画を読み解くだけではない。絵画とコミュニケーションをとることがもとめられていて、一人ひとりが自分の規則を発明しなければならない。文学である語られる言葉とともに「だれでもないわたし」ー「一時逗留者」ーが即自的な身体の表象とともに成り立ってくるということだろうか。宇宙の鏡の劇場と称えられる言語革命の『フィネガンズウエイク』に、ジョイスは自己の文学を、女と逃げた、自分で決めた亡命と名づけて大きな確信をもって書いた一文がある。ほんとうは確信がまったくなかった「だれでもないわたし」の痕跡を残してしまったのである。

思考も、人びとが政治的自由の中に生きているところでは、まだ可能であり、疑いもなく現存している。
ーハンナ•アーレント『人間の条件』

ヨーロッパの周辺へ行って、宇宙の鏡の劇場である本の存在を知った。アジアの周辺に来て、聖人の命名制作になる「道」とはこの人間世界と等しい大きさをもった概念だと知りつつある

たしかに、記録に挑戦している選手たちのことをかんがえる。しかし彼らには世界大会があるではないか。世界大会は、「勇気を出して、参加しよう」などとは言わないのである。オリンピックの「勇気を出して、オリンピックに参加しよう」という言説で、「心をひとつ」の世界が表象されている。戦前と同じことは起きずとも、生活の隅々まで監視しなければ「心をひとつ」にできず、これは安倍戦争法でなければ不可能。五輪を語っている文で、なんとなく、「心をひとつ」にする安倍戦争法を支持させられているのではないかと私は疑うのは、<ひとつ>が過剰に強調されているからである

国民の7人に1人がボランテイアに参加したといわれるアイルランドスペシャルオリンピックスU2が本会場の中心に招き入れたマンデラこそ、われわれの真の首相だとみんな拍手した

寸劇; 蕎麦屋「祖考」
客「変な名前の店だな。天ぷらそばでもいただこうか」
マスター「天祖そばのことですか?元々聖人ラーメンでしたが、明治維新150年のお祝いに、天祖そばと名づけました」
客「いいから..物をみせてくれ、作ってくれよ」
マスター「ですから、ほら、作りました」

‪ ‪あのキスのイメージが流通しているのはキスがないからだろう。キスというのは死者との接吻。実存論的な問いかえし

失われた時を求めて」は映画化されてきた。多分「失われた時を求めて」は「失われたもの」が無い。キスは至る所に存在するのだー自己の力がおよぶシーニュが至る所にあるように

美術館の廊下をブラブラしている。と、画布の裏側を描いた絵の前に立ち止まる。画布の裏側が表象をささえる絵に折り重なっている。バタイユの言葉をおもう。この宇宙の全体は、外部である、見られる客体として与えられる。それと同時に、内部である、見る主体として与えられる

(『ラス・メニーナス』はピカソによって再構成されている。沢山の作品がある。ピカソは仮面に大きな関心をもっていて、『ラス・メニーナス』の絵それ自身は仮面だったのではないかとする解釈もある。仮面は外部から受ける損傷に対して、共同体が住処とする身体をまもっているのだろうか?)

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It is quite conceivable that the modern age ーwhich began with such an unprecedented and promising outburst of human activity ーmay end in the deadliest , most sterile passivity history has ever known .  ーHannah Arendt , The human condition 1958

近代は、歴史上最も不活発で、最も不毛な受身の状態のままで終わるかもしれない。
ハンナ・アーレント『人間の条件』

資本論』について最初に言わなくてはならないのは19世紀を分析したこの本は「資本論」が無い。20世紀の「資本論」は森嶋の経済数学のなかにある。彼は21世紀イギリスが無い

帝国主義(大英帝国)の時代はイギリスは他国の宗教と言語を抑圧した。戦争が終わったときは、イギリスは米国に行ってカネをくれと言う乞食になった。だけれど国際放送と人権に基づく外交、金融と教育の国として確立することができた。英国はドイツと比べてケインズ主義的社会民主主義に乗り遅れたが、ピケティーが分析している通りにある期間のヨーロッパの繁栄と共にあった。宗教と言語を重んじる多文化主義EUがモデルだったことも事実だ。新しい普遍主義を確立したいが、Brexitを推進した連中は大英帝国のノスタルジーを隠さない。イギリスは戦争の勝者である、なのに勝者のわれわれが(敗者だった)大陸に従うのは恥ではないか、だから英国はわれら自身の道へ真っ直ぐに進もう、これからは米国と中国を新しいパートナーにしよう、と、おもっている。そうしてイギリスはヨーロッパのイギリスを捨てようとしている。しかしそうするとだれが戦後におけるイギリスの役割を引き受けるのだろうか。アメリカとみられている。実際にオバマは軍事大国アメリカから外交大国アメリカへシフトしようとした。だがトランプが復活したら(結局弾劾もできずその可能性を否定できなくなったか?)、孤立の道に行くかもしれない。1970年代に多極化の多元主義の時代のことが言われたが、現在のような帝国の時代に生きることを予想できただろうか。現在楽観しているものはだれもいない。「思考も、人びとが政治的自由の中に生きているところでは、まだ可能であり、疑いもなく現存している」とハンナ•アーレントは言っていた。しかしアジアは開発と戦争と同化はどんどん進むが、政治的自由は進まないではないか。思考は不可能である。思考を辞めた代表選手が自民党日本である。帝国はグローバル資本主義の分割でありそれぞれの帝国(米•中•露・拡大EU)では経済と文化がものをいうが、もはや帝国か帝国主義かわからなくなっている事実があるとジジェクの警告の言葉が大変気になりはじめた。たしかにマイノリティーの宗教と言語が殺戮されている国もある

至高なものに
祀る神は祀られる神であるような
神聖さはない。
至高なものは言語をつくった。
出会ったことがない他者に向かって
書く文は、外部である、
見られる客体として与えられる。
それと同時に、内部である、
見る主体として与えられる






石田梅岩を讃える  「第四章 形は直ちに心と知るべし  梅岩心学をどう読むべきなのか」

石田梅岩を讃える


「第四章  形は直ちに心と知るべし  梅岩心学をどう読むべきなのか」


 

江戸の武士政権によって、天皇・貴族・寺社が独占してきた学問にアクセスできるようになった農民や町人の中から、心学とその運動を創始した石田梅岩(1685‐1744)のように、形而上学を構築するものが出てきた。こうして、17世紀にアジアの知識革命が起きたといえる。これは特筆すべきことである。しかし、この「学び」の脱階級的な意義を明治国家と和辻哲郎の人倫国家は理解しなかった。その理由は何であろうか。

この問いには、なぜ「明治維新の近代」の考察で石田梅岩を取り上げるのか、という問いが答え得る。近代は、前近代をして自己を実現するぐらいのものとしか考えないが、これは自己正当化の認識のとんでもない傲慢かもしれない。

例えば、薩長の王政復古のクーデターによって天皇にすべての権力を集中させて成り立った明治維新の近代は、江戸時代の理想を実現することに失敗した、と考えてみたらどうだろうか。実際、明治維新は新権門体制を確立して不平等を拡大させたのではなかったか。では、江戸時代の理想とは何か。差別のない世の中という理想である。一方、同時代の西欧のように差別を無くしていく社会的方法を具体的に論じることは、政治権力をもつ武士政権を批判する危険な行いであったから、商人出身の伊藤仁斎はそれを道徳的に議論した。また、形而上学的に平等とその意味を考えたのが、農民・商人出身の石田梅岩であった。江戸という時代は商人と農民が学問をした時代である。特権階級である天皇・貴族・寺社から奪った学問を、武士は商人と農民に与えたのである。

 

農家に生まれて、京都の商家へ奉公に出された後に心学を創始した石田梅岩は、「形は直ちに心と知るべし」と説く。ここでいう「形」とは、「真の<人間的平等>への心学的苦闘」を続けた石田梅岩が、商人の人間的・倫理的価値主体の確立を意図したときに出てきた概念であり、「社会的存在としての人の具体性」をいう。「その存在の具体性において、その存在に求められている行為を端的になすことを『形ヲ践(ふ)』むというのである。」そして、「心ノ工夫」という精神をいうことによって、「現に、<形>としてある自己を、自然必然的な存在と観ずる自己否定の能動性が、その<形>に対応する<則>を没我的に遂行する主体、一個の倫理的主体を成立させるのである」。朱子は「気が直ちに道理だ」と言った。つまり、形とは、具体的な存在のあり方であり、天から与えられた、と子安氏は読む。伊藤仁斎のように、(ただし朱子の思想的枠組みを棄てることなく)石田梅岩朱子の「克己復礼」を彼なりに解釈したらしい。「形は直ちに心と知るべし」は目覚めの契機を指示しているのが、その心学の面白さである。

 

「武士的主従関係における献身的な<臣>のあり方を一般化し、『総ジテ重モ軽モ人ニ事ル者ハ臣ナリ』と商人の実践的な主体のあり方をも<臣>ととらえるのである。そしてかく商人を<臣>ととらえることによって、献身的な臣の能動性と倫理性とを商人的主体に保持せしめようとするのである。」

「私がここに見ようとするのは、この<心学>としてはじめてなしえた商人の人間的価値主義の確立である」。

 

「梅岩が商工業者を『市井ノ臣』ととらえたことはよく知られている」。

「梅岩は士農工商をいずれも<臣>ととらえ、商人が臣として相事するのは<天下>であるという」。

 

ここで、子安氏は葉隠の武士道のパトス(家光の死以降殉死が禁止される)に注意を促す。武士道のパトスの知が商業の取引の場で実現していくのではないかというのである。ここで、パトスが武士から商人へ移動する関係のダイナミズムを観察できるかもしれない。「君ニ事(つかえまつ)ルヲ奉公ト云、奉公ハ我身ヲ君ニ任セテ忘レタルナリ」(『石田先生語録』巻八)という献身の忘我性の強調は、武士と商人の間に共通のパトスがあることを読み取ることができる。

 

「『維新』的近代の幻想」における石田梅岩論は、和辻哲郎は梅岩をどのように読んだのかという問いから始まるといえる。石田梅岩は「商人ニ商人ノ道アルコトヲ教ユルナリ」と言っているが、和辻哲郎によって語られる昭和の時代精神という「日本精神」は超克という視点であるため、石田梅岩に否定的だったという。和辻哲郎にとって、石田梅岩の心学は「町人根性」として表象され、「質の悪い切り捨て的な言葉」で一掃された。人倫的国家日本はこの「町人根性」を超克しなければ真の国家共同体に非らず、と和辻哲郎はみた、と子安氏は説いている。

 

 


 

鈴木雅之を発見することの意義 「第三章  なぜこの農民国学者は遅れて発見されるのか 農民国学者鈴木雅之と『生成の道』」子安宣邦氏著「『維新』的近代の幻想」(作品社)より

鈴木雅之を発見することの意義


「第三章  なぜこの農民国学者は遅れて発見されるのか 農民国学者鈴木雅之と『生成の道』」

 

天保8年(1837年)下総利根川畔の農村に生まれ、明治4年に35歳で逝った鈴木雅之は「遅れて発見される国学者」である。ちなみに、鈴木雅之の名前をネットで検索してもほとんど情報を得ることができないのが現状である。子安氏は「農村の生んだー国学者」である鈴木雅之が著した「撞賢木」の「総説」より次の言葉を引く。

「凡そ世(世界)になりとなる(生々)万物人は更なり、禽獣虫魚にいたるまですべて有生のたぐひ)尽く、皆道によりて生り出づ道のことは下にいへり。道ある故に、世にある万物は生り出たるものなり。」

「人もとより道を行ふによりていけるなり。いける故に道を行ふと思ふは、反(かえ)ざまの惑いなり。(人此の惑ひある故に道と疎くなりて、ややもすればはなればなれになるなり。人と道とは然はなればなれになるものにはあらず。道を全く行ひ得ると行ひ得ずしてかくものとはあれども、いけるかぎりのものは、たれも皆しらず行ひてあるなり。全く道を棄絶ていけるものは、更にあることなし。)」

そして、子安氏は、「生成の道の根元性をいい、地上の生活者をその生活による道の遂行者」であるとする「生活者の思想」に行き着き、「(平田)篤胤ら国学の先達に」回答を与えた、この農村の「異様な向学心をもった少年」、「異常の一少年」に驚き、「同時にこの少年を生み育てた江戸後期下総の一農村に驚くのである」。

江戸時代の「参勤交代が作り出す政治的な全国的ネットワークは、同時に経済的ネットワークをなし、文化的ネットワークをも構成した。さらに幕藩体制社会にとって重要なのは都市と農村とのネットワークである」、「儒学国学蘭学、心学などなどがこのネットワークによって全国的な学派、門流を成していった。ことに一八世紀後期から一九世紀初頭の江戸社会にあって、江戸と地方農村の豪農層を通じてのネットワークの形成とこのネットワークによる著述の販売と教勢の拡大を意欲的にはかったのは平田篤胤とその学派的中心気吹舎(いぶきのや)であった」。鈴木雅之は生成の道の根元性から、ネットワークとしてグローバルに繋がる活動性の意義を考えた。ネットワークを語るのは、文化的ネットワークに依拠して学んだ彼の経験による所が大きいのではないだろうか。

ここには、近世江戸社会に脱階級的な知識・学問が展開と普及をなし、書物の存在が自発的学びを創り出し、多孔性のネットワークとして発展していた状況がみえる。子安氏は、60年代の終わりの時期に、「日本の名著」(中央公論社)の一冊としてとして「平田篤胤」の巻の構成と解説の仕事に取り組み、篤胤の「霊能真柱」を軸に、佐藤信淵の「鎔化育論」と鈴木雅之の「撞賢木」を添えて、「国学コスモロジーとその展開」をテーマとすることを構想する。

<外部性>という思想的テキスト解読のための方法的視点を自ずから私はドイツ滞在によってもったのである。ドイツから読むことによってはじめて私が顕幽二元論的構成をもち、救済論的課題を内包した篤胤コスモロジーの意味を読み出すことができたのである。やがてそれはポスト構造主義的なデイスクール分析の方法として80年代以降の私の思想史を導くことになる」。

「このドイツ滞在は私に篤胤を再発見させただけではない。鈴木雅之という農民思想家を発見させたのである」。

鈴木雅之を発見することの意義は、この章の最後の子安氏の言葉に集約されている。

「国家的神(現人神)の原理によって丸ごと作り上げていった近代日本は、」「生活者の思想をうもれさせることによってその国家的運命を遂げていったのである」。

横井小楠という変革期の「精神の器量」 「第二章  明治は始まりに英知を失った  横井小楠と『天地公共の道理』」子安宣邦氏著「『維新』的近代の幻想」(作品社)より

横井小楠という変革期の「精神の器量」


「第二章  明治は始まりに英知を失った  横井小楠と『天地公共の道理』」


 

明治維新の近代を批判的に語ることができなくなってしまうのは、明治と江戸を分割することによって「言語の拡散」(フーコー)が起きていることによるのではないか。五カ条の御誓文も拡散した言語としてだけ残っていて、もっぱら明治に確立したものの見方からのみ理解するため、意味がわからなくなる。明治維新の近代を批判的に語るためには「言語の集中」(フーコー)が必要となる。変革期におけるものの見方を知るためには、ここでは江戸のものの見方について考えなければならない。明治維新に確立したものの見方のなかに、それとは異なるものの見方として横井小楠の思想が見出せる。

横井小楠は、「長崎に来航したプチャーチンとの交渉に」派遣された「開明的な幕臣」の川路聖謨に書き送ったといわれる「夷虜応接大意」のなかで、公武合体論を唱え、「有道無道を分かたず一切拒絶するは、天地公共の実理に暗くして、遂に信義を万国に失ふに至るもの必然の理也」と説いた。「信義をもって通信通商を要求することは公共の道理であってそれを拒む理由はない。『理非を分かたず一斉に外国を拒絶して必戦せんとする』過激攘夷派の主張は、鎖国の旧習に泥み、公共の道理を知りえぬ必敗の徒の主張である。」つまり、その思想は、鎖国的な一国的割拠見に依存するのではなく「変革期の基準として機能する理念」である、と子安氏は読み解く。「天地公共の道理」の言説は、薩長の各藩が勝手に戦い自分の軍事力を高める一国的割拠を否定するものである。私には、これは伊藤仁斎朱子の克己復礼の教説を脱構築的に注釈したものにみえる。横井小楠は天下的公の儒者であり、その「儒者的英知」によって「グローバルな視圏の拡大」が可能となる「精神の器量」がもたらされた。

彼に、「幕府諸藩の体制維持に収斂する政治的思考と行為とを『私事』『私営』と断ずる」普遍的な公共の視点をもたらしたのは、幕府によって広められ文明論的展開をもたらした書物の「海国図志」であった。ここで、子安氏は、彼の「実学」が道徳的内面性に裏打ちされ、変革期におけるものであることを見逃さない。私には、変革期における道徳的内面性が、自らの中に閉じてしまうことを許さない天地公共の明確なイメージを持つ必要を促した、とみえる。こうして、われわれが横井小楠を考えるとき、早すぎた近代の超克に行きつかざるを得ないのである。