MEMO

世界という散文


適合的或いは競合的に、世界の端にきたアルトーの魂と「器官なき身体」は互いに類似している。類比的に、アルトーの精神はアイルランドにおける昼夜のようだ(又は昼夜が精神のようだ)。共感的には、彼の魂は天に向かって上に伸び、肉体は地に向かって下に帰す。だけれど近代知の理性によって、拒まれた魂は肉体(「糞」)に帰還させられるとき、「神の裁き」を終えるために、アルトーにおいてロゴスはロゴスでないものー欲望ーを呼び出す



言語ー名ー言説ー表象


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アイルランドアルトー


新聞記事(アイリッシュタイムズ1997)はアイルランドにやってきたアルトーについて書いたものです。メキシコからヨーロッパに帰還してきたアルトーは、アイルランドへ行き、2週間滞在したここからフランスへ強制移送されました。わたしは彼がアラン島からダブリンにもどってきて拘束されることになった場所の近くに住んでいました。拘束されたときは、僅かなお金と劇作家で詩人のジョン・ミリントン・シングにあてた手紙しか持っていませんでした。それから聖パトリックに返すために持参してきた杖ですね(アムステルダムの骨董品市場で手に入れた?) 残念ながら、現在アイルランドはこの歴史を知るひとがほとんどいませんし、この事件から知的な影響を受けることはなかったようです。

フランスで送られてきたこのアルトーを最初に診断したのは精神分析ラカンで、彼は芸術に深い理解がありましたが、「これはただの馬鹿じゃないか」と吐き捨てたことに、ガタリラカンの限界をみたようです。フーコ『言葉と物』の殆ど最後でアルトーが言及されます。

アルトーにあっては、言説としては拒まれ、衝撃の造形的暴力のなかに奪回された言語(ランガージュ)は、叫び、拷問にかけられた身体、思考の物質性、肉体に送りかえされる。」‬ ‪“ chez Artaud, le langage récusé comme discours et repris dans la violence plastique du heurt, est renvoyé au cri, au corps torturé, à la matérialité de la pensée, à la chair” (Foucault)‬ 

これについては、ネグリによると、ジル•ドウルーズ『アンチ・オイデプス』は「器官なき身体」のアルトーにおける単独性を語ることを課題としていましたが、『ミル・プラトー』からは、関心がアルトーからマルチチュードスピノザへ移って、‘リゾーム’という語で語られることになった、集団における融合状態(en fusion)のノマドのあり方ではなかったかということらしいです。‪

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国際結婚した女性で、「ご先祖様に申し訳ないと思わないのか」と家の祖母から大反対されたと言っていた。「ご先祖様」(“先祖は日本固有のものである”)は最近のもので戦後から


ダブリン時代、三島由紀夫の現代版『卒都婆小町』を教材にしたことがあったー彼はアイルランドの神話と物語を取り込んでいる。最近能舞台を観劇した人の話をきいて、今日、能『卒都婆小町』(梅若六郎)のYoutubeをみたら、中々面白かった。もっと早くみるべきだったなあ。Youtubeにあるとは思わなかった。朱子を勉強してきたので、何とかすこしは舞台における禅問答とコスモスロジーを理解することができる。卒都婆小町の依拠できない疎外感は天の疎外感であるというようなことをおもった。


高田馬場のワイワイ雑談。古代天皇権力は氏神を祀る共同体を統合して成立したの和辻説があるらしい(昔読んだか?)。古代天皇氏神伊勢を奪ったようだ。今日戦前の問題を考えている


バッハ会長は本当に「犠牲」と言ってる。「他に道がない」のだ。これは、貧困層を犠牲にしても格差を広げるネオリベと、市民を犠牲にしても爆撃するタカ派と全く同じ原理•原則だ

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ぼったくり男爵が口にした「We」を「誰もが」と翻訳しては間違いだという意見を読みました。たしかに。「We」は「おまえたちは」の意味ですから。「おまえたちが犠牲になれ」


推敲中

‪「朱子たちの霊魂観は、コスモロジー(宇宙論)を構成しながら、コスモロジーのなかで生と死を考えて意味づけていく」(子安氏)。 朱子と弟子達の間の問答に生じるズレをどうかんがていくのか?そのズレは、コスモロジーの内部における主張にはまりこむ弟子達とコスモロジーそれ自体との関係をとる朱子との間にあらわれる矛盾のようにみえる。先ずあるのは「理」ですか?と弟子達は問うのだけれど、(仮にマルがあるとしてここからどういうことがいえるかというような意味で)「理」は朱子にとって"優先順位" (子安氏の解説)。‬ ‪これから勉強していくことになるが、現在の私なりの不完全な理解を自分のために書き記しておこうと思う。「地」は視えるものと聴こえるもので構成されている。そういう「地」は無矛盾の世界である。他方で、「天」は「其の形見えず」の「形」と「其聲聞こえず」の「聲」にすんでいる。「天」においては、微かな理念でも、理念がなければ形而上学というものが成り立たない。そして形而上学が成り立つ限り、それが物語る「天」に矛盾があるとはいえないし同時に矛盾がないともいえないだろう。さて「體物而不可遺」とされるように、「其の形見えず」の「形」と「其聲聞こえず」の「聲」とが「物」の<中心>に赴くとされる。「物」の奥に「天」を映し出す鏡(宇宙の劇場)があるというふうにしても、このとき、問題は、「天」は「地」によって根拠づけられてしまうことにある。これは、矛盾があるともいえないし矛盾がないともいえないと言っているところで、矛盾がないと言っていることと等しい。というか、これでは、コスモロジーの内部における主張を以て、コスモロジーそれ自体との関係をとる立場を言及しているようにみえる。朱子が行ったことは、「天」は「地」から存在論的に独立していると構成してみること、私の理解だけれども、ここで「天」は自らを「地」に表現できるが、逆はないという感じである。「天」の側からするこうした「天」と「地」の形而上学が成り立つためには優先順位を与える「理」が必要となってくるということではないだろうか。)‬


「五輪に反対する」国民投票


第一江戸思想史講義では伊藤仁斎における朱子学脱構築を読んだ。その前提として、アジア普遍主義の朱子学を自然哲学的にとらえていた。第ニ江戸思想史講義は朱子はそれほど自然哲学なのかを問い直している。そうして再び新しく、鬼神論の言説を読んでいるのは、宗教哲学という大袈裟なものではないが、近代が思考できないものを思考しようとしている。第ニ江戸思想史講義は、「人間の消滅」の後の時代の思想は一体どういうものなのか考えているような気がしてきた

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言説における解体と再構成の運動とはこういうものか。『中庸章句』の朱子は「鬼神」を自然哲学化したときは、「鬼神」は朱子の前から『中庸』に存在していたがはじめて「鬼神」の名を与えた。これは解体である。そして、朱子の前にだれも言わなかった祖先祭祀を彼の前からずっと存在していたとして語るのである。これは再構成である。われわれは子安氏に導かれて、脱構築におけるポストモダン朱子を学びつつある。これについて歴史に即して考えると、宋の時代において、貴族の互酬的祖先信仰のあり方が解体されて、帝国における皇帝と臣下(官僚)との間における社会主義的•起源的なもの(交換様式D?) と両立する体制へと移行したのではあるまいか



子安宣邦氏は鬼神を精神Geistとしてとらえている。その上で、「我々の死の位置がわからなくなっていく結果、近代のナショナリズムが生まれてくる」(第二江戸思想史講義8•鬼神論2)と指摘している。

ジョイス『ダブリンの人々』の「死者たち」において、このテーマを考えることができるとおもう。


下はジョン•ヒューストンの「死者たち」の映画化(ダブリンをハリウッドのスタジオのなかに再建してしまった)。ジョイスの批判的な観察がロマン主義的詩人のような語り(近代の語り)によって隠蔽されてしまう。


His soul swooned slowly as he heard the snow falling faintly through the universe and faintly falling, like the descent of their last end, upon all the living and the dead. 

Joyce THE DEAD, Dubliners


MEMO


書くために鬼神(精神)を必要とすると考えてみたらどういうことが言えるか?鬼神(精神)のために書くのではない。鬼神(精神)は、「これを視れども見えず、聴けども聞こえず」だ。鬼神(精神)は物(人間)をつかさどる。だけれど、厄介なことに、鬼神(精神)は言葉が語るようにはできていない。漢字漢文は宇宙論言葉を語るだけだ。しかし言葉は鬼神(精神)に依拠することは可能である。言葉は鬼神(精神)から出発することも、また鬼神(精神)の入り口を作ることもできる。明らかにその場合は祖先信仰を必要とする。言い換えれば、知識人は書くためには、他者ー祖先信仰の場所と共同体ーと共にでなければ不可能だとはじめて考えたのではないだろうか。近世というのは近代のようには精神と他者を互いに切り離すことが起きなかったのでないかとおもうのである。知識人は書くときは他者が自己を見なければならなくなった


台湾プロ野球、五輪予選派遣断念「非常に苦しい決定」

•もし次々に他の国も「苦しい決定」をするような五輪を決行したら、日本人選手に有利でも、トータルに不公平ではないですか?


思えば、2005年までいたダブリンは、ヨーロッパの他の都市と比べて最もゲイが多いのですが、同性愛に対するタブーが最も大きいところです。オスカー・ワイルドの伝記作家は危険人物でした。しかし2015年アイルランド憲法修正第34条で同性結婚が合法化されました。この変化は何がもたらしたものか考えています。多分、米国イラク爆撃とそれに協力したエスタブリッシュメントの政治に抗議して自発的に集まった10万人の市民の存在ー独立運動を導いた1916年でもこれほどの人数が集まらなかったーが契機だったとおいます(2003)。イラクは遠く、実際にアイルランドは米軍機に食料補給ぐらいのことしか関わっていなかったのですが、普通の人たちが爆撃される他者のことを近くに強く感じておもわず街頭に出てしまったのです。

わたしの考えは、「みんな一人ひとりがマイノリティになる」ことが要請されているとおもいます。よく考えるのですが、ケインズはTransgender(トランスジェンダー、性別越境者)でした。ケインズは多次元における諸要素間の変化量の僅かな変化が繊細に反応し合うような(修正された)貨幣数量説の方程式を示しているのですが、<一>的全体に統合化できない関係の思考はトランスジェンダーである彼の思考の柔軟性を表わす言語表現であるようにおもうのです。ここでは理念的なことを言っています。こういう思考と性における開かれた多元性のことを未だに言えないのですね。経済の話にしか関心がありません。






リア王は言った

スクリーンは死衣装だと

二つの世界大戦の間にあって

映画の歴史は敢えて、

弔う強い倫理性を表現する

白黒で始まる必然性があった

その映画の名は、

カリガリ博士

これは、わたしにとっては、

世界に映し出した己における

位置と機能を炸裂してくるような

精神Geistの普遍的な投射


亀井勝一郎の信と美の話をきくと、対象と同一可してしまっていて理念性がなくなっちゃっているロマン主義かもしれないとおもうけれど、戦争責任の根本について語ったつぎの言葉は聞かなければいけないとおもう。

「私の感情としてあった中国人侮辱感は、その半面にヨーロッパ人やアメリカ人への劣等感を伴っていた。今度の戦争で無条件降伏するよりもずっと以前に、我々は「ヨーロッパ近代」に無条件降伏してきたのではなかったか。それで私の対米英戦争肯定の気持の中には、この劣等感に対する反発のあったことにも気づくのである。少なくともそれが私の民族主義のひとつの根拠になっていたのだ。しかし戦争責任の根本は中国侵略の肯定である」(亀井勝一朗)


亀井勝一郎の信と美の話をきくと、対象と同一可してしまっていて理念性がなくなっちゃっているロマン主義かもしれないとおもうけれど、戦争責任の根本について語ったつぎの言葉は聞かなければいけないとおもう。

「私の感情としてあった中国人侮辱感は、その半面にヨーロッパ人やアメリカ人への劣等感を伴っていた。今度の戦争で無条件降伏するよりもずっと以前に、我々は「ヨーロッパ近代」に無条件降伏してきたのではなかったか。それで私の対米英戦争肯定の気持の中には、この劣等感に対する反発のあったことにも気づくのである。少なくともそれが私の民族主義のひとつの根拠になっていたのだ。しかし戦争責任の根本は中国侵略の肯定である」(亀井勝一朗)


戦争に勝てば全て問題が解決すると大衆に訴える三島由紀夫金閣寺の中で日本人の心をみることができたか?誰も入れぬように鍵を閉めたときに心はそーっと脱出しているのではないか


安全と安心のために日本人だけで五輪をやることにしたらいいと言って私を驚かせた人物は昭和ロマン主義の称賛者だが、明治のロマン主義を支えたような理念が足りないないんだよな


アルマゲドンない限り五輪開催」だって?IOC最古参は相当にヤバイね、原理主義というか、この言葉をつかっていいのかわからないけど、まるで五輪開催が最終解決になってきた?


アルマゲドンない限り五輪開催」の原理主義に動揺を覚えるのはそれ自体にではなくて、グローバリズム的合理主義と両立する点にある。夏はグローバルデモクラシーなきものに鎖国


映像に詩学は存在しない。また映像に民衆が存在するとも思えない。誰が誰かわからない暗闇の中で祖先がヒソヒソ喋るのか、観客の勝手に喋る囁きだけが存在している。

神や死者は山の向こう側にある。山に登っていくにしたがって先祖になっていく。開発され尽くした現代は山が消滅した。サイレント映画が山の代わりとなった。白黒が生死の名である。

われわれの死の位置が分からなくなっていくにしたがって、その代わりに、近代のナショナリズムが成立する。初めてナショナリズムを物語る映画が「アイルランド映画」から現れた。


アイルランド映画」と呼ばれる殆どがハリウッド映画。『クライング・ゲーム』は大衆運動のプロ化ー自発性が失ったーの問題を示したのに、ナショナリズムの物語だと誤解された


大手新聞社の中には、最近社説で開催の中止を言った新聞もありますが、「判断を首相に求める」はまさにわれわれが言いたいことに寄り添ったピタッとした言葉ではないんですね


平安時代後期から鎌倉時代に成立していた宋代の禅問答の言葉で、「這裡」は「ここに」という意味。「是這裡」は、「ここに真理あり」(悟った)という意らしいです。「是這裡」は文章言葉ではないのですね。

禅の悟りというのは、一気に真理が開く世界であるという解説をききます。もちろんわたしのようなものにはわかりませんが、昔は禅とウィットゲンシュタインの哲学との類似性が指摘されていました。

はたしてそうなのかなとおもうことがありますが、そうだとしてどんなことが言えるか考えます。

ウィットゲンシュタインの場合はどちらかというとゆっくりと論理的ロゴスが展開していって、パッと真理が開くような探求ではないでしょうか。わたしはあたまがよくないので、映像の意味について何十年たってわかってきたということがたくさんありますから、ウィットゲンシュタインの探求のあり方に依拠したいとおもうのですね。

ちなみにウィットゲンシュタインアイルランドに二年間きて、「探求2」を書きあげました。ダブリンにいたときの場所はわかっています。彼がいた西部のほうは、荒寥としていて、地図も頼りにならず、近づいていることはわかっても中々、「ここだ」ということにならなくて、カゴメが飛び交う原初的な風景を見ながらフィヨルドの土地をぐるぐるしながら、また同じところに戻ってきたかと諦めたときに、最後はこの方角じゃないかと勘で彼の居場所を見つけることができました。ここはヨーロッパの端の端でした


子供時代の四年間のオーストラリアはまだ、日本との戦争の記憶があった。この時代は多文化主義へ移行していくがまだ白豪主義だった。白豪主義の廃止はベトナム戦争のために遅れたと言われる。当時は、中国人を除いてまわりが白人しかいなかったから、自然に(!)、わたしは自分が彼らに属する白人であるとおもっていたのだとおもう。オペラハウス建設中の砂漠の痕跡がまったくないシドニーを去るときに、隣人から先住民族アボリジニへの迫害や隔離を記録した写真集を貰ったときは、自分たち白人はなんと罪深い排除をして来たのだとおもってしまったほどである。

東京の時代はオーストラリアの記憶の抹消の時代である。「オーストラリアのほうが日本よりよかったでしょう」と聞いてくる大人が大っ嫌いだった。この質問は卑怯である。日本人の他者を異質なものへと貶める態度がこの同化主義的質問に現れているようにおもう。わたしのは子供の英語だったとはいえ、わたしが英語が考えたことを、わたしは日本語で考えることができないからである。両親を苛立たせるのがこの「わたし」という主語の発話であるー「わたしは他者である」と伝える主体的表現というか。

大学卒業のときに、オーストラリアで考えることができなかったことを考えることができるだろうかとおもって、レヴィ=ストロース『野生の思考』を読んだ。レヴィ=ストロースは文学を語る。これも大切だったかもしれない。

『野生の思考』における自然哲学化は本当に凄い(パリの国立民族博物館の展示に、オーストラリアの構造主義化をみることができる。)


しかし岩壁画や砂漠を円弧を保って歩く子供や聖地登山と共にある先祖信仰のイメージが透明になりすぎたのではないかと現在考えはじめている。『朱子語類』を読んでいるからだろう。これは、オーストラリアの「鬼神論」化である..


現在はこの話はタブーであるが、冷戦の時代にアイルランドは自らを韓国に同一化していた歴史を『ブッチャー・ボーイ』(1997)は証言する。勝手に同一化されていたことを韓国は知らないと思うのだけれど。ちなみにアイルランドの人々はヨーロッパ人であると知らされたのは1970年代のEU加盟からである。ケルト人は何のことかだれも知らなかったが、「ケルトの虎」と呼ばれるはじめて経験した好景気の時代にはじめて「ケルト人」であることを知らされた。ソ連崩壊後の東ヨーロッパ諸国の経済モデルとされていた。ダブリンのアイリッシュに「ケルトの虎」はどこにいますかと訊いたら、「ケルトの虎に出会ったらギネスビール三杯飲ませて追い払え」と答えてくれた。自らを何に同一化するか、逆に何に同一化されるのかというアイデンティティの表象なんてそんなものである。何か意味があるとは思うけど。表象(幻想)が表象(幻想)を生むことがある


文学は役に立ちますよ。戦前の文学を読むと、貧富の格差が広がるとともに戦争の体制ができてくる関係を読めます。戦前に罪悪感はなく、それは戦後文学から誕生したことを知りました


憲法の中核にある権利とは何だろうか。宗教の自由を尊重する。自身は無宗教であるけれど無神論というほどではない。家族の権利も尊重する。結婚はどの国の人々の間に成り立ってもいい。N個の性まで多様性が尊重されるべきだ。自由に話す権利を尊重する。街頭はもちろん、レストランでもプールの中でも何処にいても、何となく政府を批判できる相手が必要である。現在はこれが問題である


プローティノスはロゴスを光として喩えた。光が煉獄にもたらされるのはダンテ神曲』においてはじめてであった。それまでは、ホメロスのハデスのように冥界は照らされることはなかった。平田篤胤幽世」はまだ暗闇である


「魂の一人が立ち上がって東方に目を据え「光消えざる先に」を歌い始めると他の魂たちもそれに和した。すると燃え盛る剣をかざした二人の天使が、蛇からこの谷を守るために舞い降りてきた。」(ダンテ『神曲』煉獄 八歌)


今道友信「「煉獄 purgatorio 」は12世紀に浄罪界として新たに提示された(ル・ゴフ『煉獄の誕生』)。ダンテは、それに関する文学的な先例を知らずホメロスのハデス(冥界)からイメージを借りるしかなかった。ホメロスが描いたハデス、そこは灰色の世界で人は影のように生きる。」


「美が感知されるのは何か精神を引き付けるものが存するからで、すなわち精神と同質のロゴスが存しなければ物は美しくない。したがって美の根源はロゴスの明るさの中心として光に譬喩される神であり、超越美 to hyperkalon である一者としての神を頂点として、以下、ヌース、諸徳のイデア、諸存在者の形相、質料、という美の序列が成立する。この構想はプラトン的であり、」(Wikiプロティノス(プローティノス、古希Πλωτῖνος、 Plotinus、 205年? - 270年)


プローティノスはロゴスを光(=精神)として喩えた。光が煉獄にもたらされるのはダンテ『神曲』においてはじめてであった。それまでは、ホメロスのハデスのように冥界が照らされることはなかった。嗚呼本居宣長の「黄泉の国 」も平田篤胤「幽世」はまだ暗闇である


「魂の一人が立ち上がって東方に目を据え「光消えざる先に」を歌い始めると他の魂たちもそれに和した。すると燃え盛る剣をかざした二人の天使が、蛇からこの谷を守るために舞い降りてきた。」(ダンテ『神曲』煉獄 八歌)


So may the light that leadeth thee on high

Find in thine own free-will as much of wax

As needful is up to the highest azure

下の絵はGustave Doré

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ダンテ『神曲』は天国でも地獄でもない煉獄を第三項として照らしだした。13世紀14世紀の世界を表現したのである。外部へ出ていく「危機の17世紀」とともに登場したのが、ミルトン『失楽園』である。最終的にエデンの園を追放されるというもの。ウィリアム・ブレイクの名はミルトンと結びついているが、晩年はダンテに傾倒した。


All hope excluded thus, behold, instead

Of us out-cast, His new delight, 

Mankind, created, and for him this world

Paradise Lost. Milton

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「芸術は役に立つか」の問いには、芸術は役に立たないとおもう。だからといって芸術を弄ぶなと言いたい。先ず自分自身にたいして言う。これで十分である。

しかし「芸術は役に立たない」と答えた後に、相手に分かって貰うために、どうしても、内面の自律性について過剰に喋ってしまう場合がある。

われわれは正しいのだ。主観的であればあるほど無根拠であるというのはそもそも近代の要請だからというわけである。

だけれど、その主観に、国家の起源を神話的に指示する錯認が生じることがなかっただろうか?

このような錯認のもとで、<芸術を包摂する>ファシズム的言説に絡みとられることが起きないか。これが心配である。

問題は、「芸術は役に立つか」を問うのはだれかであったかである。問うものは近代である。そして答えるものも近代である。近代の力は、問う前に答えている体制にある。

わたしはなにが言いたいのか?「芸術は役に立つ」である、多分ね。もう近代のトータルな自己同一的なあり方ではやっていけなくなったから、そのあり方から距離をとるかぎりにおいて理念的に「芸術は役に立つ」。そして文学もきっと


天命とは天が命を与えると読める。問題となってくるのは、命を、「命」令とするか、生「命」とするかである。命令は近代的でないような古くさい感じがする。生命のほうが断然モダーンである。しかし私は命令と読む。なぜか?例えば、天は危険な原発体制をやめよと命令しているというように考えている。その場合、安全神話を含めてやめなければ、民はやっていけなくなったという原発災害の経験を生かさなければとおもう。ところがおなじ『論語』を読んでいるのに私の見方がくだらないと言って非難するものが昔いた。「生命に責任をもて」と私に教えてきた。もう安全だからエネルギーの安定供給のために原発再開しろと言う。it sounds good だけれど、「安全」だったのにメルトダウンが起きたことは事実なのに、生命に責任をもっていると思い込んでいる根源的錯認にわたしは警戒している


私の投稿は1270年の注釈の注釈である。他に、2009年、 1988年 、1920年 、1656年、1969年、 1707年、1966年、2004年、2020年を書く


紀元前5世紀の注釈がチャレンジングである




18世紀を表象できるのは近代的理性をめぐる近代哲学の言説のおかげだ。19世紀と20世紀を何とかこの私が表象できるのは、アンチ•ロゴスをめぐる近代文学と映画の言説によってなのである。普遍主義はヨーロッパ語の優越的地位に定位するから、その解体は、時枝誠記の仕事からはじまったように、ヨーロッパ語の優越的地位の自明視の終焉を意味する。そう考えてみるとどういうことが言えるか? 22世紀の人々が21世紀を表象できるようになるのは、普遍主義の再構成をめぐる漢字の言説を必要とすることだってあり得る。しかしそうであっても、音声化近代主義に委ねる現代国家の中国が漢字の帝国的中心に在るとは限らない。話はそれほど単純ではないようである。





二十一世紀にはいって大切な映画の名が急速に忘れられていく。はっきり言ってしまうと、百年後には映画はすべて残らないが、うつのゴダールの映画だけが生きのびるのではないか


百年後は、ポストモダンのテニスのスタイルを確立したマッケンローと非白人系市民運動(名を記した弔うマスク)の大坂なおみだけを記憶しているのではないか






三浦國雄朱子鬼神論補より


朱子は ,「(祖先の気は)空中に一物として積み重なっていて子孫が求 め る の を 待 っ て い る わ け で は な い( 『語 類 』 巻 3 ・ 6 2 ) と 述 べ , そ れ が何か形体をもっ超越的存在でない乙とに注意、を喚起しながらも,子孫が誠敬を尽くせば祖先は来格する,と繰り返し主張する。つまり,朱子は祖霊の 存在を認めるのである。ここに幾つかの疑問が湧いて来ざるをえない。

仮りに天空のどこかに祖霊が存在するとしても,それがどうして自分の子孫のもとへ誤たず来格するのであるか。気である祖霊のどこにそのアイデン ティティが刻印されているのであるか。乙の問いに対して朱子はただ,祖先と子孫、とは「一気の流伝」の関係、にあるからだと繰り返すだけである (『語類 』 巻 3 ・ 6 2 ほ か 〉 。 この 根 拠 に な っ て い る の は , 綱 領 12 に 引 い た 「 祖考の精神(精なる神)は便是ち自家の精神j」という謝上蔡のテーゼである。 


「以二気言。則鬼者陰之霊也。神者陽之霊山。以一気言。則至而伸者為 神 。 反 而 帰 者 為 鬼 。 其 笑 一 物 而 己 。 」(『中 庸 章 句 』 第 16章 )


講義で伊藤仁斎を解した子安先生によると、自然の誠を人の誠にするのは人の信である(実)。信の字は、人が言にたいして外の関係をとる(講座「『歎異抄』の近代」の最初の板書)


もし朱子は鬼神の陰陽化に尽きるものではなく、祖先祭祀を残しているとすれば、現代における交換様式の視点からみると、どういう意味をもつのだろうか。祖先祭祀において、水平的ヒエラルキーをうみだす交換でも、垂直的ヒエラルキーである集中と再分配でもないような、可能性としての先祖と子孫の間における対等な互酬的関係を要請してみるということだろうか?(だが近代を乗り越える帝国を擁護するイデオローグが語りだすように、帝国を支える民族に、ポスト社会主義におけるものとして、高度な次元の互酬の原理を投射する言説は再び近代主義に陥っているとおもう)


巨大な岩のなかに沈む、広がりにおける単純な形式しかない砂漠の夢をみた


選手達は皆んな苦しそうにやっているあの試合後のtv会見はそんなに意義があるのか?大坂なおみはだれもアクセスできるSNSで自分の考えを語っているからそれで十分じゃない


オーストラリアから選手がやってきて手をふる姿はイノセントの黄金時代。あなた達自身のために、私達の為にも、もう少し日本的近代が隠している陰険さを疑ってみたほうがよいです


Eiji kunikita 

西洋古典叢書編集者)


1)

Non multa sed multum. (Aiunt enim)multum legendum esse, non multa. Plinius Minor, Epistolae VII 9. The reading should be extensive but not diffuse.

多読ではなく精読。

深く読め。その数ではない。(小プリニウス『書簡集』)

2)

intererit multum, Dauusne loquatur an heros. another reading: diuusne It will matter if Davus (or the god) it is who is speaking, or a hero. Horatius (Horace), De Arte Poetica, 114.

重要なのは、語っているのがダウス(あるいは、神)か英雄かであろう。(ホラティウス『詩論』)

3)

ἡ συστήσασα φύσις καὶ διαλύσει. Nature, which has built up, will also pull down. Carneades (Diogenes Laertius. IV 64.

ものを作った自然が、また壊すであろう。(カルネアデス

4)

(At Hercules) Homini plurima ex homine sunt mala.

Plinius Maior, Naturalis Historia, VII 1.

Most of man's misfortunes are due to man.

たいていの人の不運はその人自身のせいである。

(大プリニウス


5)

Calamitas virtutis occasio est.

Misforutne is virtue's opportunity.

Seneca, De Providentia, IV 6.

不運はその人の徳(=人格)をためす機会になる。

セネカ『摂理について』)


6)

Ἰδίας νόμιζε τῶν φίλων τὰς συμφοράς. 

Think of your misfortunes as your own.

Menander. monostica, 268.

友人の不運は自分の不運と考えよ。

(メナンドロス『一行格言集』)


アスパラガスは葉のように見えるものは実際は極端にほそく細かく分枝した茎である。哲学者の名は分枝した茎のように言説(学者的議論)の分裂を示す


Avec le rhizome, plus de figure racine, tronc branches mais un modèle descriptif et épistémologique dans lequel l’organisation des éléments ne suit pas une ligne de subordination hiérarchique.


朱子学=幹にたいして、江戸思想史はアスパラガスの如く言説の細かく分枝した茎をもつ。朱子の性理学もそれほど幹なのか?江戸思想史に向けて鬼神論の言説が分裂増殖しているのに


64は祖父母からきいたと友人の中国人が言っていた。64は本に現れることが許されない。日本はそこそこの自由があるからそこが違うが、天安門劉暁波も存在しない点では同じだ


リーフェンシュタールにおけるオリンピックのイメージは自分自身の権威にもとづいていたと思いました。思想というか。リーフェンシュタールの思想について議論が起きましたが、戦争協力はしていません。ヨーロッパでは問題となるのは、ナチスの戦争を協力したかどうかです。思想を裁くことはありません。

この日本人の監督は、異常である(「普通はない」)と言われても仕方ない、国際問題化している五輪を開催してガースを擁護しなければならないと考えている理由は、「銀座の人混み」のほかに、なんでしょうかね


中国とはだれなのか?

現代中国は西欧と変わらないポストモダン世界である。しかし中国は西欧とまったくおなじかといえばそうではない。一つだけちがうのは、中国に土地の私有がないことである。この差異が決定的であるように思われる。また中国は社会主義であると考えられてきたが、そうではないと言われるようになった。もしそうだったら、中国はソビエトのようにもう終わっている筈である。否、溝口雄三のように「方法の中国」を考えて、多元主義的国家論の視点から、中国の社会主義は独自のものであるとみるべきなのだろうか。社会主義は「礼」(ヘーゲルの客観精神)であるかないか、これから柄谷行人が何を言おうとも、帝国中国は複数政党制なき官僚資本主義である。しかしその「資本主義」もまた問題となるのである。世界システム論は教える。資本主義はあったが、従属させられている世界の多数派の「産業革命」はやっと20世紀に起きると。中国は西欧列強にたいしてそうした従属にあったのである。中国から資本主義が生まれてこなかったという見方もある。それはどうしてなのか?その理由に、市民社会を成立させる封建制の解体がなかったとか、そもそも封建制が無かったとか、あるいは十分ではなかったとか(成立の時期について議論があるが、内藤湖南の説が有力)。または15世紀における帝国の冊封体制がそれまでの商業のネットワークを壊してしまったこととか色々考えられている。いったい真相は何だろうか?大きな歴史は教える。近代の成立とともに人間が誕生すると。人間は二百年前に登場したばかりだと。小さな歴史は言う。否、ヨーロッパだけに近代が起きたのではなかったと。朱子学が支配する宗の時代に人間が成立していたかもしれない。近代の脱中心的なあり方は多様である。しかしフランス革命の近代から、われわれの近代がはじまったこともたしかである。最後に、なぜこれらのことを考えようとするのか?「一国二制度」(帝国の時代における冊封体制?)の構想は民主主義の台湾と香港で問題となっている。「一帯一路」戦略は東ヨーロッパやイタリアに影響力をもちはじめている。中国とはだれなのか?中国をどう考えていくのか。これは反近代の文革の前に市民社会が起きてこない問題、文革の後の天安門事件をどう理解するかにかかわる


『Ulysses 』は昼の本。その神話的リアリズムは「無」の相対化する世界だとしたら、『FW』は夜の本で、その対立する生と死を精神(Geist) は「空」の止揚する世界


フロイト以来、西欧的な狂気は一つの非言語となった。狂気は二重の言語(その言葉においてしか存在しない言語、自らの言語をしか言わない言葉)となったからだ。即ち、何も言わない言語活動の母胎となったということだ。話されていることの折れ目、即ち作品の不在となったのだ。-狂気、作品の不在-


東京五輪の開催目的は?「希望と勇気を世界中に」と答えた、言論によって覆すことができないガースの絶対権威にたいしては、バッシバッシ猫パンチ百万発


近代の主権概念は過去の帝国中国の支配を正当化できない。だからといって知識人の考えた形而上学朱子学と鬼神論ーまでもゼロにしたらアジアを支える何もかもがゼロとなってしまう


ルソーの『孤独な散歩者の夢想』「第五の散歩」では、魂の秘密や物と身体との境界で生まれる印象に対して、ランガージュがおのずから透明となっている。-フーコ『言葉と物』


Tels ces secrets de l’âme, ces impressions née à la limite des choses et du corps pour lesquels le langage de la Cinquième Promenade s’est rendu spontanément limpidel 

ーFoucault


私の魂は社会生活の喧騒が生み出す地上の情念から完全に解放され、できればこの世の圏外にまでしばしば飛翔し、天上の霊たちと交わりたいとおもっている。

ー但田栄訳(大学書林)


Délivre de toutes les passions terrestres qu’engendre le tumulte de la vie sociale, mon âme s’élancerait fréquemment au-dessus de cette atmosphère et commercerait d’avance avec les intelligence célestes. 

ーRousseau


•ルソーにおいてプラトニック的な傾向は全作品に見られると指摘されるが、しかしフーコが指摘するようにプラトンの言語はルソーほど透明ではないとおもう。


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私が提供しようとしているような型の分析によって、「権力」「統治性」「自己と他者達の統治」「自己の自己への関係」、この四者は連鎖して網目のようにつながっていること、これらの概念を中心にして、政治の問題と倫理の問題を連結することができなければならないということが解る。-主体の解釈学-


天皇ファシズム

権力ー憲法に書かれた権力(天皇主権、天皇大権、法律を留保する権力、統帥権、等々)

統治性ー『日本書記』、『古事記』(国体)

Wiki

「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の元首統治権の総攬者としての地位に置いた。この天皇が日本を統治する体制を国体という。

天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である井上毅らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは、後に、高山樗牛井上哲次郎らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。井上らの国体論は、古事記神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。これに対して、高山らの国体論は、当時、広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。憲法制定当初は井上らの国体論を基礎的原理とした。しかし、日清戦争後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、天皇機関説事件以後は、「君民一体の一大家族国家」(文部省「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。

自己と他者達の統治ー死者を支配する権力(靖國神社)

自己の自己への関係ー現人神(祀る神は祀られる神)



読売新聞世論調査の五輪賛成が50%で反対を上回ったというが、朝日世論調査過半数が反対だった。どちらが嘘なのか両者は相手の無責任を暴くべきだ


東京五輪で「途上国にウイルスわたる可能性」 の指摘を知りながら、もし二人のうち一人が開催に賛成しているならば、それは「普通はない」ではなく<異常>と言わざるを得ない


However, the modern age is not the same as the modern world. Scientifically, the modern age which began in the seventeenth century came to an end at the beginning of the twentieth century; politically , the modern world, in which we live today, was born with the first atomic explosion.

ーHannah Arendt


政治から退いても道徳なき政治にカウンターウェイトを保った孔子と、洞窟の寓話を語ったプラトン。死の意味が市民であることをやめるという意味になった枢軸時代は現代世界を支える


‘Dubliners’を『ダブリン市民』としたのは問題があった。だが『ダブリンの人々』にしてしまうと「市民」が無くなった。ジョイスのブルーム=エレミアは「市民」にたいして市民であることをやめることが死であると問うたのに


「WHO、危機管理なければ再考を 大規模行事の開催で」(東京新聞)


絵画それ自身が仮面みたいだ。絵画=仮面を分析してみせたフーコの一文は、<描く=書く>を前提にして記されている。さて未来を思い出す部屋に、求めあう表の世界と裏の世界があった。しかしすべてがそこにあるのではない。隠蔽されているがモデルはバラバラの方向を見ていたことだろう。われわれの視線も彷徨う。この絵を見ているわれわれの傍らに王は存在しているのだろうか?表にも裏にも存在しない王を鏡は映している。これはなんだか、自然哲学に還元できない祖先祭祀のような場である。どうしてこういう不均衡が生じてしまったのか?「ひとりの人物」を導入することによってである。「ひとりの人物」を導入する表象によって崩れた均衡が再び表象のうちに解決することも安定化することもないだろう。誕生してくる国家に中にまだ画家は内部化されていない。画家はそこで近代を支えていく言説ーまさか人間を語る言説っだとはね、どんでん返しだ!ーをさがしているけれど、内部の形成はなく外に立っている。彼は言説と言説の間に立っている。画家は外部から言説と言説の間に立っている自身を「ひとりの人物」(=人間)として描こうとしているがこの企ては破綻しているのではないだろうか。人間は表象の限界に立っているからである。


幕末には学者的活動家たちが現れたのですが長州のテロ権力に主導権を奪われてしまいました。学者的活動家は消滅したがテロは盛んで、現在は安倍晋三が企てた東京五輪のテロ予告です



ふりかえってみると、力不足であるが、フーコからの影響で、ヨーロッパの周辺に行ってダブリンでほぼ十年間、解体-西欧思想(「普遍的」になったデリダエクリチュール論を含めて)を学んだし、そのあとにアジアの周辺に戻ってきて東京の十年間は解体-朱子学を学んできた。周辺はイコール外部ではない。現在は朱子学のために鬼神論を読み直すが、外部の思考とは、もう一度普遍から解体をとらえかえすことによって、成り立ってくるのではないかとすこしづつおもうようになってきた


「私には、特定的知識人の機能が練り上げ直されるべき時点に我々がいるように思われる。ある人々の偉大な「普遍的」知識人へのノスタルジーにも関わらず(「我々は哲学を、世界観を必要としている」と彼らは言う)、この機能は放棄されるべきではない。」

ーフーコ「知識人の政治的機能」


普遍を解体するためには周辺に身を置いて考えること。だが周辺はまだ外部ではない。外部の思考とは、もう一度普遍から解体をとらえかえすことによって成り立ってくるのではないか

普遍主義は多元主義の方向を以って再構成されるということ


D=G , mille plateaux

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母国語でも喋りが下手で「当たらない」しか語彙がないガースはいきなり、G7首脳から五輪開催の確約をとるぐらい饒舌になるのは魔法の絨毯でコーンウォールへ行くからに違いない


宋における『朱子語類』の意義は、原初的経書を読めなくなった謂わばアジアのバベルの災厄後の儒教の自然哲学化にあった。ただし『朱子語類』の鬼神論は原初儒教の祖先祭祀を保っているのではないか。本はコード化であると同時に、脱領土化だった。宋は帝国を確立し明は海に浮かぶ帝国となった。他方で、本にたいして、再領土化の脱コード化的な動きも成り立っている。東夷の古学は解体-朱子学によって天を仰ぎ見たのである。天における誠を人における誠にするのは信においてである。伊藤仁斎における読みは朱子の鬼神論と矛盾しない



the book assures the deterritorialization of the world , but the world effects a reterritorialization of the book, which in turn deterritorialize itself in the world.ーD=G


知性のないものの振る舞いについて知的に考えるのは無理だが、ウイルスの他を必要とするコミュニケーションは分かる。五輪のアベ化、コミュニケーションなき愛国心はウイルス以下だ


映画はコミュニケーションが大切だとヌーヴェルバーグは言っていたが、何故コミュニケーションがそれほど大切なのかあんまりわかっていなかった。SNSは答えをもっているのか?


中止論の言語も開催論の様に透明化している貧しさ。だが「やりたい奴が勝手にやればよろしい」(蓮見重彦)は虚しい。もう来月なので言説の戦略が働かない。YESかNOしかない


ルネッサンス朱子学はまだロゴスにおいて言語的存在である人間が存在の意味を問うた表(タブロー)に書く\描いた。

フランス革命前夜のサドの前に自由に喋らせてくれと訴えるものはいなかった。普遍主義なき表を以って肉体に書く\描く。

表(タブロー)と肉体は、主体の位置と機能を炸裂させるFBにとって不可避的な他者である。


60年前日本首相を語ったドゴール。「トランジスタラジオのセールスマンか? 」。今日は五輪の押し売りか?商売はどんどんすすむが、言論の自由の政治的自由はまるっきりだめだ


伝説上の中世、マルケ王の統治するコーンウォールは戦争でアイルランドに敗れてしまい朝貢を余儀なくされた。朝貢ー集中と再分配ーを思い浮かべる為に中国の歴史の勉強が私に必要だ


トリスタンとイゾルデは、アイルランドからコーンウォールに向かう船の中、「初夜にマルク王とともに飲むように」と王妃から託された媚薬を誤って飲んでしまい激しい情愛に囚われる


ジョイス『フィネガンズウェイク』の「クオーク三唱、王マークに」で始まる第二部第4章。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の福音書記者を喚起する語り手がトリスタンとイズーの「うねる(roll)」愛を物語る。ちなみに、物理学の「クオーク」の名称はここからとられている


ジョイス『フィネガンズウェイク』の「クオーク三唱、王マークに」で始まる第二部第4章。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の福音書記者を喚起する語り手がトリスタンとイズーの「うねる(roll)」愛を物語る。ちなみに、物理学の「クオーク」の名称はここからとられている。ところでハミルトンはダブリンの人だった。彼の研究に関連して、復古主義は現代を古典的世界観が支えることができるだろうか、これは絶えず問題提起される。『ユリシーズ』と『フィネガンズウェイク』を、古典的世界観から量子力学的世界観への移行が反映されていると読み解く見方もある。コスモスの秩序の<状態>は、反コスモスにおける幾何学的線しか存在しないような崩壊し尽くしている世界の<状態>と一体的に隣接している。世界は予定調和的に分節化されているようにみえても本質なき世界の反復である。ロゴスの論理的順番として、コスモスの秩序の<状態>の理解を先行させているだけではないだろうか


イギリスのようにホスピタリティがある国が主宰するサミットで孤立しているとしたら、問題となってきたのは、非合理的なことをいう「日本人」に対する無関心である。本当にヤバイ


五輪開催を8割以上が危険だと考えるが政府は無視。国民主権の死?今の政治は公式参拝した中曽根と小泉から始まった。安倍で国家神道が復活した。次に皇室から独立した天皇教の確立か


太平洋戦争は語られるが日中戦争は語られることが殆どないdark sideにある。本当に「五輪敗戦」ならば、今回で終わりではなくて、行き詰まって別の五輪を始めることになる


精神(鬼神)の眼でみる言説は再び、性に基づく差異化=諸存在の表でなく、「表象を表象するもの」と「存在するもの」の関係の冒険を語る。われ表象するゆえにわれ存在する


アジアにフランス革命の政治思想はなかったが、啓蒙主義も知識革命もあった。アジアのカントは伊藤仁斎である。デカルト朱子?帝国に対する自立としての政治思想は21世紀からだ


古代からの人間の本性ー祀る神は祀られる神ーを語る言説はヤバイ。清宮四郎は非政治的なおことばを「象徴としての行為」とみるが危険だ。被災地で祀る大御心も人間的だから流通する


人間らしい顔したやつが実は一番危険だ。スターリンなんかほんとうに人間らしい眼差しをもっていた。ガースーも「人柄が信頼できる」とみんな答えていたじゃないか


プラトンは魂の不死説だがアリストテレスは魂の消滅を考えた。1500年後に朱子と弟子達の間に魂は気か理かをめぐる議論があった。絶えず根源的錯認の起きる言説的近世の始まりか


漢字文化圏において名づけること、普遍が多元主義の方向をもって思考可能となること。17世紀


名づけること、思考可能となること

朱子学における性の教説に基づく連続的な<差異化の体系=存在者>が解体され、「表象するもの」と「存在するもの」の関係が伊藤仁斎において再構成されることになった。人の往来として表象されるものは「道」と名づけられる。この名からはじめて思考できるようになった、人(「存在するもの」)については、対他的な同情心のような共同的な善に向かう心が生まれながらにしてあるという。これが、漢字文化圏において名づけること、普遍を多元主義の方向をもって思考可能となること、である。


問題はもはや、自然に関わる経験が必然的な諸判断を生じさせることがいかに可能か?ではない。言語的存在である人間は存在の意味を問う明証性から絶えざる狂気の疑いを排除できない


The question is no longer: How can experience of nature give rise to necessary judgment? But rather: How can man think what he does not think, inhabit as though by a mute occupation something that eluded him, animate with a kind of frozen movement that figure of himself that takes the form of a stubborn exteriority? 

ーFoucault


何が問題となっているのか


人口が多いから経済力もあってお金を使ってスタジアムを作ることができますが、全国紙がスポンサーになっているような、言論の自由が政府から距離を取れないでいるという、報道自由度80位ぐらいをウロウロしている国が五輪を開催してはいけないのだと考えはじめました。これは原発を運転してはいけない理由とおなじものです。何もかも政治問題なのに、自然災害における問題になっています。

初めが重要でした。ギリシャ五輪の失敗があり、ロンドン五輪からは、五輪の規模は5000億円以下にして、それほど豊かでない多数派の国にも五輪開催のチャンスを与えようという国際世論が起きてきました。イスラム国にも五輪開催によって国際デビューさせようという考えもリアリティあるものでした。しかし理念なき東京五輪は何もかも踏みにじりました。最初からもっと費用の問題が論じられていたら、もしそれほど金をかけなかったならば、今日東京五輪を中止できたかもしれません。核汚染コントロールの嘘など色々問題はあるが、開催することになった以上、責任をもって五輪を成功させようというような、結局は何でもかんでもありという現状肯定に流れた結果、3兆とも4兆ともいわれる高い値段の五輪になりました。自民党はこれをやめるわけにはいかなくなりました


私は西欧的な革新と日本的な伝統という二つの異なったものを同時に生きています。しかしそれは、人類が共通の宇宙的卵―コスミック・エッグを妊っている今日でも、もはやそれほど特殊なことではないように思います。ー武満徹


“The safest general characterization of the European philosophical tradition is that it consists of a series of footnotes to Plato. I do not mean the systematic scheme of thought which scholars have doubtfully extracted from his writings. I allude to the wealth of general ideas scattered through them”. (A.N Whitehead)


「まこと」と読まれて<まごころ>と理解されている、「誠」の字ほど意味が歪曲されている漢字もない。儒教の日本化である。戦前の吉田松陰の「至誠」は’日本人’のこころの中心から洗脳してくる言葉であった。

菅首相「誠実さ」評価74%(2020年11月、読売・早大共同世論調査)


seq1 蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する。けれども雀蜂はこのイマージュの上に自己を再領土化する。とはいえ雀蜂はそれ自身蘭の生殖機構の一部分となっているのだから、――(上)p29

なにが問題になっているのか?


オリンピックの起源は神々に捧げる競技祭ですから、現代はナショナリズムに捧げる五輪でしょうが、そういうわけのわからないものに絡みとられたら、ひとは自由に喋ることができなくなるに決まっています。小田実古代ギリシャ語の研究していた人ですが、彼が指摘しているのは、古代アテネは、戦争に絡みとられた限界はありましたが、ワイワイガヤガヤ、ウヨウヨウロウロするひとびとから民主主義が生まれたというのですね。おそらく神話的思考から自立した哲学と演説と共に発展した演劇的レトリックを以って、語りあったのでしょう。香港の若者たちはなにを考えているのか十分につたわらず曖昧なところがありますが、しかし自分たちが喋ることができなくなる体制にたいする明確なイメージをもっているように見えるのですね。比べると、此方はですね、間違っても自由なことを言わせてくれという感じで勝手にやっているのは、ギャンブル王の菅首相(「俺は勝負したんだ」)、とくに小泉や安倍です。しかし国民の側は、一人ひとりにおいて、わたしは間違っても自由なことを言わせてくれと要求する声がまだ無いようにおもいます。わたしたちは奴隷みたいに一切の権力を自民党に委ねている現実において、五輪の失敗は全部自民党に責任があるんだと言ってもいいのではないでしょうか。しかし自民党に対する明確なイメージをもっていないかんじです。


漢字の歴史を考える


周辺にある日本は、中国の圧倒的に優越した文明から所与として与えられた漢字漢文を以って、普遍を思考する可能性がでてきた。周辺にある日本にとって、問題は、荻生徂徠の指摘のとおり訓読=翻訳を読んでいるだけなのに、他者言語エクリチュールを読んでいるという錯認がある。厄介なことに、漢字の受容であるここに、内部の形成が起きる。ブラックホールのような、この内部において、外部との関係が成立していないのに、内部化した外部から自らに中国における優越性を投射してしまう。現代中国においても、これとおなじことが成り立つ。現代中国は簡略化を通じて漢字を母国語のなかに内部化するような音声中心主義の方向にあるのに、まだ漢字文化圏の中心にあると自らを考えて(マイノリティにたいして一国家を超える)帝国性を主張する根源的錯認にある。再び、日本の問題を考えると、荻生徂徠の影響で、今日は、『朱子語類』は中国語で読むべきであるとされる。たしかに宋の時代の口語的エクリチュールの解読が必要とされるし、訳文のためには明治からの日本語の体制も欠かせない。しかし江戸時代の注釈した漢文で読んでもそれは意味がないようなことがいわれるとき、漢字論において近代における言説ーオリジナル(本物)とコピー(偽物)の二項対立的関係ーがあまりにも自明に語られてしまうのである


大問題である。清宮四郎は非政治的なおことばを「象徴としての行為」とみるがこれは危険だ。被災地で祀る大御心も人間的だから流通する。清宮はこの後の章で、京城帝国大学にいた尾高朝雄について彼の側から肯定的に論じている(穂積陳重は義理の伯父にあたる)。純粋法学の日本化である。


「君主と国民の間には、一方は統治の主体であり、他方は統治の客体であるという絶対の関係がある。」「これが君主中心・君民一体の原理によって貫かれた立憲君主国家の実定法秩序である」「君主の統治に随順する国民の態度は、もはや人の人に対して捧げる信頼ではない。神格をもって行われる統治は、すなわち信仰によって応えられる。」(尾高朝雄)

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呪術的思考(じゅじゅつてきしこう)、魔術的思考(まじゅつてきしこう、Magical thinking)とは、ある事象について、理性と観察においては因果関係が正当化できない物事に原因を求める思考である。宗教民俗迷信において、信仰心や祈り儀式生け贄タブーの順守などと、それに対して期待される報酬や利益が結び付けられた。臨床心理学においては、呪術的思考を持つ患者は、ある行動や考えと災難・悲劇的な出来事の間に相関関係があると考え恐怖を感じる。呪術的思考によって、人々は、自身が世界に影響を及ぼすことができる、またある行為と何ごとかが照応関係にあると考える

ヨーロッパでは初期近代まで、神によって創造された世界は意味と目的に満ちたものだと考えられ、思想家達は世界の様々な部分の間に類比的なつながりを期待した。自然の中にある類比シンメトリーは、事象の間の現実的なつながりを意味しており、神によって埋め込まれた隠された結びつきを示す合図であった。このような照応の網の目にくくられた事象の結びつきは、「共感」によって機能しており、その媒介が「世界m精気」であると考えられていた。このような考え方は医学にも用いられ、脳に似た形の胡桃は脳の病気に効く良薬であり、葉の形が心臓と似ているレモンバームは心臓の薬として有効ではないかと推察した。人間の運命や生物の肉体が天の星々と照応関係(大宇宙と小宇宙の照応)にあると考えた占星術錬金術医療における武器軟膏(共感の粉)などは、現代人から見ると不合理な迷信である。ジョンズ・ホプキンス大学教授ローレンス・M・プリンチペは、これらの思想は当時においては迷信ではなく、当時入手可能な思想や情報を考慮し「合理的に到達した(現代から見ると)単に『誤っていた』考え」と見なすべきであると述べている

翻訳する\される言語間に表象される平衡からは説明不可能だ。瞬間に、大きな他者と共に成り立つ漢語漢文の存在は私を殺戮してくる。詩人と音楽だけが辿れる物で書かれたものの痕跡


Chinaziは中国にたいする香港の抗議。アジア全体は経済の自由と開発はどんどん進むが言論の自由は全然進まないという意味で現在は寧ろ、アジアの自民党化である


わたしの理解で恐縮ですが、11条は、憲法第一条をもう一度読んでください、戦前のような天皇主権ではありませんよ、これからは国民主権ですよということを言っているのではないでしょうか。

憲法の終わりのところで、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて」とあるように、「人類」の言葉を再び読ませます、97条は、もう一度憲法前文に書いてある、祀る国家、闘う国家を止めたわれわれの誓いの言葉を読みなさいと言っているように思います。

前文でも、「人類普遍の原理」の言葉があります。これは「政治道徳の法則」として「普遍的なもの」と言っていました。97条において、新しく再び、国民主権憲法と共に成り立つわれわれは「人類」に依拠する普遍が要請されていると言っているとおもいます。「人類」が書いた法の法であって、「民族」が書いたものではありませんと97条は言っているというふうにわたしは読みます。

最後に、小田実が言っていたことですが、戦後憲法は非常にユニークで、日本だけでなくほかの国にも「平和を構築するためにこういう憲法になりなさい」と説教している憲法なのですね。わたしの理解ですが、戦後憲法は「普通の国家」を超えた高い理想をもっているので、11条では十分ではありません。全世界に訴えた97条が必要なのです。憲法の世界化ですね。この高さが自民党には受け入れられない点なのでしょう


批評は読まれなくなったというが、高校を卒業したら批評を読むひとは殆どいないのではないか。わたしは読む。どうしてだろうか?われは文化中心主義を疑う、ゆえにわれは存在する。他によって自が、外によって内が作られることを、自己内部化する固有の能力としてしか考えないような自文化中心主義の根源的錯認を書くために批評は存在する


サルトルですらハンバーリー暴動まで批判できなかったスターリニズムを戦前にシモーヌ・ヴェイユだけが批判できたのは、なぜだったのか?彼女は工場での肉体労働の経験から労働を神聖化する教説が根拠がないことを知っていたからだ。シモーヌ・ヴェイユこそ、サルトル批判とともに成り立ったポストモダンの先駆的思想家である

「わたしたちを神に近づけないような学問にはなんの価値もない。だが、もし正しく近づけないようならば、すなわち、想像上の神に近づけるならば、いっそうわるい……」

(シモーヌ・ヴェイユ)


東京五輪に対するポストモダンの声が小さい(distant voice)。日本ポストモダンだけは作り出す近代にそれほど絶望していないならば批評精神が死んでいる


日本最高裁の建物を見ると、巨大な壁のなかに埋め込まれているように日本近代の裁判所があるみたいだ。この壁はこんな当たり前の人権でも市民にたいする大きな恐怖をあらわしている


「世界で日本だけ」の夫婦同姓

夫婦同姓制度は、家族の姓を一つにまとめることは合理性がある」というならばその根拠は何かと問うているのに、「家族の姓を一つにまとめることは合理性がある」と繰り返しているだけの日本最高裁は日本以外のすべての国は「合理性がない」とおもっているのか!?

安倍晋三戦争犯罪人の孫である日本会議の政治家である。夫婦同姓合憲の裁判官の一人は安倍の友だちで1秒でも憲法を考えたことがあるのか?最高裁判所の安倍化が現実となっている

「夫婦同姓は社会に定着している」とっているのは、別姓を認めると、個々人に自立的アイデンティティーをもってもらっては、社会が崩れると言いたいかのようです。同性愛の権利にたいしてもおなじようにかんがえているのでしょう。しかし自立した個人のいない社会に生きていてわたしはほんとうに幸せなのでしょうか?自立した個人がつくる多様な関係に生きる人々にたいして、最高裁の判決は、「あなたは存在しない」と命じています!

最高裁、夫婦同姓は「合憲」 (朝日新聞)

名を以ってかんがえることができるようになるのですから、名を失ったらかんがえることが難しくなってくることが沢山あるでしょう。アパルトヘイトを支持していた人も「これまで何も問題はなかった」と喋っていたとおもうのです。壁の向こうにあるものが見えなくなるのですから、事実上夫の名の向こうにあるものなんかまったく見えません。だから、「当たり前」と思われているような家族の夫婦同姓的なあり方を本性(古代に遡るもの)とかんがえているようですね。そうして夫婦同姓を世界文化遺産のように勘違いしてやめれなくなるのかもしれませんが、全部、「フランス民法では国が滅びる」とかんがえてしまった150年前に明治において確立したとかんがえるべきです。夫婦同姓の制度は実は帝国主義の確立を目指す時代の流れに応じた非常に新しいものであることをしっかり理解できれば、帝国主義をやめた現在、その制度をやめることができるはずです。


これは国民主権に関わる別の問題を構成する危険がないか


東京五輪】「天皇陛下から重要な不信任決議を得た」とワシントン・ポストが報道

Tokyo Olympics just got an important no-confidence vote — from Japan’s emperor

(The Washington post)


7月に国家日本近代の崩壊をともに観戦しようではありませんか、ワハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ


天皇が自由に喋ることをゆるせば戦前憲法との連続性が回復してしまうのに、憲法に「天皇は政治的発言をしてはならない」と書いてないと教えてくる作家は半分だけの天皇を語っている


日本の国民総所得は世界3位らしいけれど、女性は男女格差120位の国の女性でなければいけない..

•世界の男女格差を測る「ジェンダー・ギャップ指数」で156カ国中120位(2021)


ロンドンの移民達は、わたしの知る限り、三代前より昔の先祖があまりわからない。三代前より前の話は断片的に話を聞いたという感じであるのは日本人とまったくおなじだ。ロンドンの移民達にとって、父母の墓はもう帰ることがない外国にある。ユダヤ系だったらドイツにあるとか。アフリカ系だったらナイジェリアにあるとか。イギリスの教育のもとに同化した移民の子供達はもはや祖父母の墓を訪ねて行くことはないだろう。と、そういうわたしも、子供のときにわけも分からず、北村透谷の墓がある寺の曽祖父の墓をみたのは一回二回ぐらいである。これはずっと後の話であるが、叔父さんが、なんか思想に関心あるらしいわたしをみて、少し表情に面影がある?実業家だった曽祖父が若いとき新島襄のもとに行って勉強したいう話をしはじめた(へえー、でも関係ないんじゃないの?)。三代前はどうも国津の廻船問屋だったらしいが、まったく知らない。伊豆にある父の墓も行かない(ごめんなさい)。最後にお位牌を見たのはいつだったのか?茅ヶ崎の母がいる家のどっかにあるはずだ(サランラップに包まれているからわからなくなっているとおもう)。「位牌」の由来は儒教。昨日は伊藤仁斎の話が出た。儒者は皆、祠堂をもっていた。是非見てみたいものだ。朱子の世界は無鬼論だが有鬼論を隠している見抜いていたのは平田篤胤だ。朱子は『論語』の向こう側にあるものから自らを遮断しなかったのである。朱子学を読んだ清沢満之をおもいだす。公である絶対平等の世界の彼方にある天の絶対無限をみていたかもしれない。生きるために果たさなければいけないことがある此方の世界の向こう側にあるのが先祖の世界。子孫たちは先祖を祀ることによって先祖になっていく。近代は先祖祭祀がなくなった。死に場所もどんどん無くなっていく。朱子に反論した、荻生徂徠国学が祭祀のあり方を古代に結びつけていったことは、Natureの自然からNatureの本性(古代に遡る見方に基づく)へ転換していく近代の思想史をかんがえる上で大事である。いつ祭祀主体が国家となっていくのか?祖先祭祀の代わりのものがナショナリズムであるかもしれないという子安先生の問題提起は本当に一考の価値があるとおもう


詳しく言えないが、自民党よりももっと右翼的な思想の勉強会が毎月大蔵省の中にあったから、独自に官僚世界は右翼思想をもっているに違いない。最高裁をコントロールしている法務省はどうなの?


価値中立的近代にみえた官僚世界は独自に右翼思想を研究していた。自民党よりももっと怖い右翼的な思想の勉強会が毎月大蔵省の中にあった。最高裁を支配する法務省の中はどうなの?


Est-ce la même chose, strictement la même chose,

en peinture ? En effet, c’est pas le point qui fait ligne, mais c’est la ligne qui emporte le ligne déterritorialisé , qui l’emporte dans son influence.ーD=G

絵画でも同じだろうか?まったく同じことが当てはまるだろうか?なにしろ点が線を作るのではなく、逆に線のほうが脱領土化した点を巻き込み、外への作用に駆り立てるのだ。


オリンピックのせいでギリシャがなくなっちゃったんだから、オリンピックそのものに反対していたよ。東京の<喜びなき五輪>の開催で、オリンピックもなくなるだろう。国民は「諦めの境地」とBBCから言われちゃっている。復興神話に押し潰されている。明治維新に帰れの安倍政治から、なにを言っても無駄な乱世


人間の死をとりかこむオリンピアの神々の不死。愛国的政治家を惹きつける不死の曖昧な観念は東京五輪の日本の消滅で虚飾虚栄となる。永遠なるものの明確なイメージを発見できるか


朱子の祖先祭祀をともなった鬼神論的言説は何故にアジアの宗教改革であったか。朱子の理念的<永遠性>は古代における<不死>との対決に勝利した。近代的知識人が誕生したのである


This quality of permanence in the model or image, of being there before fabrication starts and remaining after it has come to an end, surviving all the possible use objects it continues to help into existence, had a powerful influence on Plato’s doctrine of eternal ideas. 

ーHannah Arendt , The human condition


モデルやイメージの永続性は、永遠のイデアというプラトンの説に強い影響力を与えた。..


モデルやイメージの永続性は、永遠のイデアというプラトンの説に強い影響力を与えた。(略)彼がこの言葉をはじめて使ったのは、製作の経験によっていた。「哲学的な」別の経験を述べるのにこの理論を用いたのだけれど。例証を製作に求めた。(『人間の条件』19)


哲学者が永遠なるものを発見したのは、彼らが世界はどの程度まで続くのかというもっともな疑念を抱いていたからである。そしてこの発見の衝撃はあまりにも大きかったので、不死への努力は全て虚栄虚飾であるとして、これを見下さざるを得なかったのだろう。(『人間の条件』3)


It may be that the philosopher’s discovery of the eternal was helped by their justified doubt of the chances of the polis for immortality or even permanence, and it may be that the shock of this discovery was so overwhelming that they could not but look down upon all striving for immortality as vanity and vainglorious , certainly placing themselves thereby into open opposition to the ancient city-state and the religion which inspired it. ーHannah Arendt , The human condition 


自由は「他在において自分のもとにある」ことである。精神の真の自由はそういうことである。精神の従属とは何か?自由が「他在において自分のもとにある」ように見えないことである


精神の真の自由は絶対精神によって達成される。芸術は絶対者(理念)を直観と形象によって表現する。宗教は絶対者を表象によって表現する。哲学は絶対者を概念によって捉える。さてギリシャ(古典的芸術)の時代の彫刻は全体性をあらわしていた。ルネッサンスの彫刻に全体性はない。主観的個人的感情の芸術は絶対精神にふさわしくない。ヘーゲルが言ったように、芸術の全盛期はギリシャ(古典的芸術)の時代であったとかんがえてみると、どんなことが言えるか?絶対精神の最高の表現という地位を宗教や哲学に譲った。いまや哲学の時代であって、思考と反省が芸術を追いこしている。周辺にあるわたしも伝染病以来、新しい絵を描くことなく過去のイメージを編集してブツブツと独り言を言っているだけ。包摂してくる全体から逸脱する線を以って点たちをもっと外に逃してやるだけである


ヨーロッパにおける新しい普遍主義の模索が極右に足を引っ張られてわるい形になったが、吉報である。

•仏統一地方選マクロン大統領の与党が完敗 極右も議席伸ばせず(BBC)


Kunikata Eiji さんより

ギリシア語のイデア(idea)は「見る」という動詞から作られたもので、エイドス(eidos)もその意味では同様の語である。ともに見られたものの意味から、ものの本質に変容する。プラトンイデア論を唱えたことはよく知られている。

「美しいものは〈美〉によって美しい」(プラトン『大ヒッピアス』)

〈美〉とは美のイデアのことである。

イデア論は個物(x)=美しいもの、個物の性質(F)=美しい、イデア(Φ)の3項関係で説明される。藤澤先生が『プロネーシス』という雑誌に英文の論文を載せたが、プラトンイデア論の言及箇所を分析し、(1)あるものが美しい(xがFという性質を「もつ」echein)、(2)あるものが〈美〉のイデアを分有することで美しい(xがΦのイデアを「分有する」metecheinことでFである)の区別を明確にしていると論じている。以後の藤澤解釈のベースになる考え方である。

この説の当否は別として、「青」を例にとった場合、完全な意味での青というのは事物として存在せず、つねに「aはbよりより青く、cより青くない」という比較の中に置かれる。この意味では現象界に限ってはヘラクレイトス流の流転説をプラトンが受け入れた、とアリストテレスが言っているのはその通りである。つまり、より青いの系列の彼方に青のイデアの存在を想定し、個物がもつ性質の根拠とみなすわけだ。現象界とイデア界の二世界説を唱えたというのは、イデア論の誤った解釈だ。このような誤りが生じるのは、ニーチェがヒンターヴェルテン(背後世界)という語を使ったことが影響している。」


いずれにせよ、イデアは中世哲学の中では神の思考対象に置き換えられる。これが近代的な思考のなかで、われわれの頭にある観念(ideaアイデア)となっていくわけである。


浅田彰が言ったが、近代のエートスである官僚が実現してみせた60年代の東京五輪のようにいかないの。権力欲と助平のノーパソしゃぶしゃぶだし「誘いを断らない」娼婦が中心にいる


完璧。溝口の時代のようには、もはや東京五輪は完璧にできません。令和の日本人は、古代ローマ帝国の遺伝子を失ったイタリア人のようであって…


西欧では洗練された精神的快を追求するエピキュリアンを目指したけど、明治日本の翻訳に来てみたら、倫理に先行する倫理学の抽象性に絡みとられる事態に。現在は駅ビリアンになった


西欧エシックスの肖像写真は明治日本の翻訳に来たら、「初めに(倫理ではなく)倫理学問題があった」。反発した国民道徳の肖像写真が隣にきた。和辻の登場。彼の肖像写真が間に入る



講義の後に高田馬場駅近くでの居酒屋で話しあったこと。明らかにやり過ぎている同化主義をゆるしているのではないが、チベットに中国は住居や病院、仕事を援助してきた。チベットに起きたことはウイグルにおいて起きているのだろう。しかしやはり精神の従属の問題を考えさせる。比べると、台湾や香港が豊かなのは中国からの援助によるものではない。それなのに、一律に、中華人民として押しつけられたらたまったものではない。


東京五輪を開催されたらわたしは幸せか?」と愚鈍に考えれば良いのに。バッハ会長の顔を思い浮かべながら開催中止について西欧はどう考えるのかを考えたらもうわからなくなる


孤児院では何が正しいかを教える親がいなかったから本を読んだんだと言う知識人がダブリンにいた。up in the air and downの精神というか、道端でかれは「hello!hello!hello!」と声をかけてくれた。トリニテイー大学の周辺にある洒落たカフェでコーヒーをおごってくれ、本をくれる。ジョイスが本に書いたような、人々の往来する道がまだ存在すると考えていた人だった。道について考えるだけでなく、実践する人だった。わたしはpure paganと言われちゃったりしていたが、そういうローマカトリックの宗教の権威を批判していたが、ユダヤの解決を与えてはならないというような議論にも批判的だったようだ。北アイルランドにおける異議申し立ての運動がプロ化したために自発性がなくなっていった問題を訴えていた映画をナシナリズム批判の切り口で分析する大学のメディア論に反発していた。

https://www.instagram.com/p/Bew7oLxBxRP/?utm_medium=copy_link


推敲中

高校教科書はジェイムス・ジョイスアイルランド人の作家だと記すようになった。私のときはイギリス人の作家と記されていた。近代精神の決定的勝利を象徴する、「意識の流れ」というリベラリズムヒューマニズムの"普遍"が覆い隠していた、アイルランドジョイスを『ユリシーズ』の背後にとらえる読み手が現れたことを意味する。(全共闘世代のなかに、もしくはそれ以降の人々に、アイルランドジョイスについて語る私の話に関心をもつ者が多いのは理由があることだろうとおもっている。)『若き芸術家の肖像』はダブリンから近代の神学の意味を知的に構成している。冒頭で、いきなり、天への昇華(プロテーウス神話)と地への転落(学校と日常生活)の提示がある。この天地の間の往復、Up in the air and Down、これはなにか?この小説は、屈折した抑圧のなかで神話とリアリズムとが反転していく言葉(ナレーション)を住処とする「人」を発見している。「人」がリベラリズムヒューマニズムの"普遍"との内在的な関係から離れるとき、「天」とは、ジョイスにとって、自己の外に、自己に向き合う形で見出されてくる。ジョイスは主人公Stephen Dedalusとともに、イギリスでもなくアイルランドでもない所謂国内亡命の場所をさがしている。ジョイスにとって、アイルランドは『ユリシーズ』にすんでいる。結局ジョイスアイルランドヨーロッパ大陸に運び出したことになった。自分で決めた亡命が意味するのはこのことであった、わたしはそう読むようになった

ホーホー、最後までだれが倒れないのか、だれが死なないでやりぬくのか、だれが一番タフかを競うオリンピックという名の最終解決になりそうだニャ


「安全•安心」の東京五輪でやった狡猾なあらゆる情報統制のノウハウを、「安全•安心」の危険な原発の稼働のために利用してくるに違いありません


記者らの行動制限しているのは、実は、報じられたらヤバい腐敗が沢山あるからと言われちゃっても仕方ないよな「ニューヨーク・タイムズなど全米有力紙、行動制限で五輪組織委に抗議」

共産党党員は8000万人ぐらいいる?でも、言論が多少制限されてもひとりが支配する独裁の方が優れているということを言っているみたいに聞こえる。まさか!何たることか

習氏「台湾統一は歴史的任務」 一党独裁を正当化 中国共産党創立100年で式典


明治日本の対抗西洋の近代化の失敗は明清の帝国の構造に絡みとられたことが原因だ。現代中国の脱近代化も再び、その日本の日中戦争で破綻した帝国の構造に依ったらうまくいかない


• 党のリベラル勢力でも、台湾の独立については、日本人が沖縄の独立に反発するような感じで、あってはならないこととして反発すると聞いています。今回の「台湾統一は歴史的任務」と言っているのは段階が高まっているような…台湾はこれまでのように中国にたいして危険な独立の意思表示はしないでしょうが、しかし現実に中国の台湾侵攻が始まると、考えたくありませんが、第三次世界大戦が起きないとは言えません。非常に心配です。日本はこれを避けるためにはどうしたらいいのでしょうか。できることは非常に限られているかもしれないですが、民主主義とは何かをめぐる日中の間の議論をやったらどうでしょうか。これから徹底的にお互いの体制を批判しあうのです。その場合日本は民主主義について語るだけではなくその民主主義を実現していないといけません。ここが大切。日中戦争を反省するという形で戦争責任を果たすことも必要。そのうえで、社会主義でもいいから、隣国との関係、マイノリティとの関係を大事にするアジアにおける<隣り同士の>民主主義をいっしょに考えるのです。明治日本の対抗西洋の近代化の失敗は明清の帝国の構造に絡みとられたことが原因。現代中国の脱近代化も再び、その日本の日中戦争で破綻した帝国の構造に依ったらうまくいかないです

知識革命の17世紀

伊藤仁斎

一七世紀初頭において、真理が生まれる場所は移動したのだ。それはもはや世界の姿の側にあるのではなく、言語の内的で交差した形態の中にある。-アレクサンドル・コイレ『天文学革命、コペルニクスケプラー、ボレッリ』-


「五輪は参加することに意義がある」という。人々は言説文の主語でしかないのに、自らは行なう主体であると勘違いする結果、学徒動員に服従するのではないだろうか

「五輪中止」は「五輪」と書かれる。漢字の表意性が何とか理念性(思考の可能性)をもつ。「五輪」を「オリンピック」と表記したら意味がわからない。ガースとスポンサーは"安心安全"な「オリンピック」を言う。そうして、考えることができないものを"安心安全"だと叫んでいる。

わたしは、「五倫」のほうを思い浮かべるのです。「倫」は和辻的に、関係性(仲間性)であると解釈します。オリンピックは人は集まるかもしれませんが、何かやっぱり、孤立の道を行っちゃているかんじですね


推敲中

剰余価値率無限大まで格差を拡大生産していくグローバル資本主義を分割した<ー>である帝国の構造に平等の方向性は存在しない。<ー>は平等を主張する一元主義(同一性)ではない。‬日本ドウルーズ研究家は思索の純粋な<一>への拘りを示すが、だけれどグローバル資本主義の分割をなす<一>帝国の中のn個の「一国ニ制度」のアジアに起きている全体化に目を逸らさないで‬とおもう。アジアは開発と経済はどんどん進むが、政治における言論の自由は...!?


嗚呼、警戒レベル5のこの状況でも、国家が国家自身のために主宰すると言われても仕方ないような大文字の「五輪」とは遥か遠きシニフィアン。異常に人々を集めては孤立の道へ行く


警戒レベル5のこの状況でも、「頑張ってきた」日本人選手のためを思って、異常とみえても人々を集めては孤立の道へいく五輪を開催したほうがいいとおもうのは何だろうか?日本的情緒か、いや、選手のためをおもう人々は関係を大事にしているからかもしれない。だけど警戒レベル5ならば、感染爆発を考える必要がある。もはや開催は選手自身にとっても危険だろうが、警戒レベル5のこの状況でも伝染病に勝たなければいけないのはどうしてか?国家が国家自身のために主宰すると言われても仕方ないような大文字の「五輪」だからである。大文字の「五輪」とはなんと遥かに遠いシニフィアンなのか。関係を大事にする人々の間に互いの不信感を起こすシニフィアンこそが、罪深いと言わざるを得ない


ウエーバ宗教社会学を読んでいた労働法教授が昔見学したドイツ教会の宗教画を思い出した。罪悪感を植え付けてくるものだと私に語った。愚鈍さに衝撃を受けた。この人は唯物論者なんだ


北アイルランドの爆破された教会に新しいステンドグラスをおさめる宗教画家が映画友達だった。絵を売る為にプロテスタントからカトリックになった。単純に非ず、物事は必ず裏がある


アジア形而上学の始まりは朱子の鬼神論であった。ロゴスは見えないものを言語化しはじめたのである。鬼神は魂が子孫のもとに帰るものとして見えてしまったから、鬼神とは別の見えないものを考える必要が出てきた。理性とそうでないものとの間の線を引き直すとき、わたしにとって問題となってきたのは、理性でも必然性でもなく、人間と存在である。わたしの映画への関心はここにある。アンチ•ロゴスはいかに見えないものを言語化するのか?われ見るゆえにわれ存在するvideo ergo sum


初めに倫理学問題ありき。「倫理」に先行して「倫理学」が明治日本が存在していたのである。西欧倫理ethicsに、あえて、古代漢字の痕跡が辿られ、消されて、この言葉が生きているという前提で仲間性という新しい解釈的意味を付与された。和辻は文献学的ニヒリズムを避けて、同時代のハイデガーと対等に考えたことを評価した上で、子安先生が分析なさっているのは、結局は倫理は国家倫理を示す大文字の遥か遠きシニフィアンとなってしまったことである。倫理のオイデプス化である。倫理の問題がはじめて思考されたのは、原発災害においてであった。安全神話をはじめ原発問題を推進した核体制に、再びその解決を委ねることは倫理的に不可能である。近代主義が言うようには市民社会が十分に存在しなくとも、理念的に市民の存在を想定しなければ解決のあり方を思考できなくなってしまったとき、アカデミズムの倫理学とは何かを問うのではなくて、われわれの倫理とは何かがはじめて問われたのである。


安倍の言う通りだとしたら、国民の3分の2から8割が「反日」ということになります。歴史修正主義者の安倍と日本会議のような一切理念を拒むイデオローグたちにとって、そもそも五輪も「反日」だったでしょう。彼らがやりたいのは、「反日」を撲滅するナショナリズム運動会です


言説<自分が語るのをー聞くこと>は、大いなる他者の言語が思考を可能にしてくれる「不可避の他者」として存在するとは考えない。他言語は純粋な自言語に侵略する。自言語の語彙と文法を豊かにするがそれだけのこと。他者の言語は<自分が語るのをー聞くこと>ができない。他者の言語の解釈をめぐる言説<自分が語るのをー聞くこと>は、他言語は異言語でしかないからだと教える..ここで、自言語において <自分が語るのをー聞くこと>が反復的に起きるのかどうかはどうでもいいこと、大いなる他者の言語をわれら自身の国家から排除することができさえすれば


熱海の谷崎潤一郎が一時期いた家を修復して住んでいらっしゃった方たちは大丈夫かしら?親切に温泉にもいれてくれてお部屋と庭を案内していただいたのでよく覚えている


東京オリンピックは道徳に反する

IOCは、恥ずかしげもなく、若くて健康的な世界中のオリンピック選手への優先的なワクチン接種を検討している。これは日本やフランスをはじめとした、大会参加国の道徳的なスキャンダルなのではないのだろうか。強い者を守ること、そして一般人の観客をスタジアムに入れることなく、広告収入を守るためにテレビ放映を行うことがオリンピック精神なのだろうか。公衆衛生や人命の価値は、コカ・コーラ社の広告の価値よりも低いのだろうか。東京オリンピックは、オリンピック精神とオリンピックの構造の「真実」を明らかにした。」(「Le Figaro」)


東京五輪は道徳的なスキャンダルである。道徳的なスキャンダルとは、恥ずかしげもなく、強い者を守ること、ほかのものたちを排除すること、なんでもかんでもカネが物を言うこと、最後に、これらを精神と呼ぶこと

私は自分がいかに無力であるか知るために投票する。


「リベンジ消費」が起きているという。変な言葉だ。わたしに大地主の娘だった母親から<リベンジ家父長>なるものが起きている。頼りにならない息子への長電話でイジメられている


「リベンジ消費」は起きても、「リベンジ野党」が起きないのか。


「リベンジ消費」が起きているという。変な言葉だ。わたしに大地主の娘だった母親から<リベンジ家父長>なるものが起きている。頼りにならない息子への長電話でイジメられている


「リベンジ消費」は起きても、反自民党の「リベンジ野党」が起きないのか。結局第1党に返り咲いた。小池の都民ファの東京は何の感性の成長もなかった


廣松渉が自らをマルクス主義者と名乗るくせに現象学をやってたように、マルクス主義者は憲法だけに依るようでは、この理論で勝てると思う理論の物象化。安倍の権力とたたかえない


自民党がゼロ議席になると思っていた。「五輪反対は反日」が自民党に勝利をもたらしたか。「日本人とはなにか」をめぐる言説を無意識に展開する安倍の実質を敗北させない限り何も終わらない


天皇が開会を宣言する、東京五輪格差社会

IOC委員などの『五輪ファミリー』や各国の外交関係者、スポンサーらは別枠として観戦を認める方向だ。開会式も入場できるようにする。開会式は無観客で調整


天皇が開会を宣言する、東京五輪ネオリベ的私物化•ヒエラルキー

IOC委員などの『五輪ファミリー』や各国の外交関係者、スポンサーらは別枠として観戦を認める方向だ。開会式も入場できるようにする。開会式は無観客で調整

開発と戦争と同化の自民党の時代にあって「自然災害」は「政治災害」のように語られる。「政治災害」は「自然災害」。「自然災害」は安倍政治の理念を否定した政治から現れてきた


安倍前総理の解釈改憲によって憲法が見えない戦争を作り出している

アベイ劇場での公演『ルナサの踊り』(Brian Friel、Dancing at Lughnasa)において問題提起された(1990)のは、独立国家から排除されローマから異端視されたアイルランドの地域的カトリックは、ケルトの起源不明の秘教儀式と切り離せぬ宗教批判だ。


固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解〔包摂〕された純粋な不定法の主体なのだ。(…)ジルベルトと口にすると、私は自分の口の中に彼女の裸の全身を含んでいるような気がする。――(上)p88

The proper name is the subject of a pure infinitive comprehended as such in a field of intensity. What Proust said about the first name: when I said Gilberte’s name, I had the impression that I was holding her entire body naked in my mouth.

ーD=G


Le nom propre est le sujet d’un pur infinitif compris comme tel dans un champ d’intensité. Ce que Proust dit du prénom: en prononçant Gilberte, j’avais l’impression de la tenir nue tout entière dans ma bouche. ーD=G


古事記』の神々の名を口にすると、漢字だけが溶けてしまったわけのわからん飴を舐めているみたいで、自分の口の中に神の裸の全身をだらだらと含んでいるような気がする😆


古事記』の神の名は漢字の表意性で多元主義の方向をもつテクスト的普遍の理念性をギリギリもつ。近代主義者が非難するようには漢字を読む宣長は理念それ自身を拒否してはいない

近代と反近代。二つのものは一つである。安倍政治は理念それ自身を拒否する近代における反近代的なあり方だ。「反日的」でなければ東京五輪における「人の魂に触れる革命」を語れ


間違っても自由なことを国にたいして言わせてくれと言うことが「反日的」と安倍が呼ぶものである


解決できないかくもおびただしい無知を前にして東京五輪デウス・エクス・マキナdeus ex māchinā )とはいったいなにか?


オリンピックといえば、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」。訳に問題あり?只のスポーツ至上主義を超えて、厄介な目覚めない悪夢。「国体」という国の身体のイデオロギーの反復


サドはこのようなものに書いていたんだ..悪霊から隠れるように隙間なくびっしり文字を書き尽くした耳なし芳一の肉体を思い出した。監獄のサドは肉体の下に這うこのような蛇に欲望の名を書きつけたが、しかし欲望は海のように果てしない。FWのpenman(Joyce)はおしっこインクで羊皮紙のような彼の肉体に書き綴っている


Projected

わたしの関心がむかうのは、解体-思想史におけるもの、曖昧な連続性の観念の成立とともにある似非-連続性、その明確なイメージ。破綻した構造から見つめてくる精神の眼がそこにある。見つめてくる本とテクストも


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ほんとうにつよかったら絵なんて描くことはないと思う。なにも描かないで人生を終えただろう。しかし脆いから他を表現する。そしていまみんなとおなじようにますます他を必要としてきたということである。もはや脆さを隠せない。そうして他に依拠しながら、むつかしいのは、誰でもないままでいられる、あるいは誰でもなくなることではないだろうか


「私たちがとらえがたい者になるのは、もはや私たちには隠すものが何もないからである。(…)つまりみんなと同じようになるわけだが、しかしほかでもない、これを生成変化に鍛えあげることができるのは、誰でもないままでいられる、あるいは誰でもなくなることのできる者にかぎられている」D=G


五輪開催反対の人々は、安倍の放射能コントロールの嘘と開催取り止めの可能性があっ過去を覚えている。いま、観客を戻せと言っている論客はもともと安全神話の担い手だった


「劇場というのは、神のようになった観客が、人生の織物と出会うところ。生命の輝きが、その輝きを一段とますのを見るところ」 (井上ひさし)

演劇はほんとうに奥深い。ここで「神」は鬼神とかんがえてみたらどんなことが言えるか?わたしはひとりの観客すなわち鬼神=死者である。生と死、この両者はおたがいに切り離せない関係にある。論理的ロゴスの順序で最初に生をみる。それから死である自らをみる。生を知れば死を知ることができるとはこういうことだったのであるーそのためには2回見る必要がある。舞台のうえに見えない大きな鏡がある。精神の眼を以ってこれをみる。中世は死に場所もあったからこれが可能だった。近代は死に場所が排除されていく。近代はもはやだれも2回見ることが不可能であるーただ劇場だけが。演劇はオリンピックのようには無観客では成り立たない。


ショスタコーヴィチよ、スガーリンのもとで、ふたたび、強制された「感動をもらった」じゃないか


笑いは他者がいる岬からくるのではないか。平均の部分的知識しか持たない中流大国は、共有するものが無い他者をもてない。日本で笑った人はまだいない。「反日」という異質性の標識を貼ってこれを侵略者として排除し続けるテレビを前に右翼政治家みたいに高笑いするが、それは他者の岬からくる笑いに非ず..


「最も大事なのはチャイニーズピープル」とバッハ会長が言うときはどこの国ではなくカネについて言及している。「ぼったくり貴族」ほどネオリベ•マインドを言い表している名はない


古事記』は日本ではじめて漢字•漢文エクリチュールで書かれた書記言語。‪漢字から離れないところで、息を吹き入れられる、訓を読む。漢字という不可避の他者によって別の思考可能性が与えられる。


‪...アルトーは自らのことば(パロール)が身体から離れたところで息を吹き入れられるのを禁じようとした。‬息を吹き入れられる(スフレ)とは、ある秩序のことばを組み入れんがためにことばを認めているような、つまり本質的真実の秩序、あるいは現実的、心理的、その他の構造の秩序に組み入れんがためにことばを認めているような注釈家たりうる者によって剽窃されることだ、と理解しよう。‬

‪... 息を吹き入れられるとは、あるもうひとつの声が、私の身体の詩や私の身振りの劇よりも古い、ひとつのテクストをみずから読んでいくにしたがって啓示されることだ、とも同時に理解しよう。‬

(デリダエクリチュールと差異』法政大学出版局)


‪...Artaud a voulu interdire que sa parole loin de son corps lui fût soufflée.‬

‪Soufflée: entendons dérobée par un commentateur possible qui la reconnaîtrait pour ranger dans un ordre, ordre de la vérité essentielle ou d’une structure réel , psychologique ou autre.‬

‪Soufflée: entendons du même coup inspiré depuis une autre voix, lisant elle-même un texte plus vieux que la poème de mon corps, que le théâtre de mon geste.‬

‪ー Jacques Derrida L’écriture et la différence.  ‬


十八世紀の宣長が八世紀に成立した『古事記』は読めないテクストだと言うために千年を要したが、解釈に依存せずに存在する実体性を思考可能になったのは不可避の他者•漢字による


書記言語における解釈に依存せずに存在する実体性を思考可能にしてくれた不可避の他者•漢字に、「本来の日本語」でないものを表象する国語学は、「和語」への侵入を語り出す


不可避の他者•漢字に「本来の日本語」でないものを表象していく国語学の近代の、「和語」への侵入を語り出す彼らの言説において、言語は拡散し主体(=日本人)が集中していく

高校の国語は精神の形成に大きな影響をもつ。文学を読む精神にとって自立である、と同時に、教科書のなかで国語=日本語における同化主義のイデオロギーに絡みとられる危機である


実体といえばスピノザ。無限に大なるものは一つだけだ(実体は一)。その神は己を表現する属性を規定するが生成する物を規定すると言わない(実体は多)。彼の実体概念は一AND多

スピノザを再発見したといわれるヘーゲルは精神の多から一へ進む時間的発展を思弁的に考えたが、スピノザは一と多の関係を互いに切り離せないような論理的ロゴスによって理解していたのではないか


「古訓古事記」とは、実は新訓古事記にほかならならぬ。そして、その本質において、以後は、みな、その亜流である。ー亀井孝古事記は読めるか」


世論調査会社IPSOSによると、東京五輪「反対」、28カ国で57%に。日本の反対は78%。菅首相とバッハ会長は歴史を書き換えるのをやめてくれ

ー>「我々は一つの船に乗っている。今回の東京大会はオリンピックの歴史を書き換えるだろう」

選手たちは国のつまらない名誉のためにくだらないメダル争いをやめて危険な東京五輪をボイコットしてください!

子供は母親の背中越しに他人をじっと観察する時がある。喫茶店で子供は此方をじっと見ている。と、姿勢を変えた。うつ伏せ両足ブラブラ。ママ「どうしてネコになっちゃったの!?」

「ぼったくり貴族」に奉仕する橋本•丸川•小池。『ダブリナーズ 』で貴族に表象される軟派的盗みを読んでいるみたいだ。退屈に耐えられぬ娘達は分かっていても身ぐるみ剥がされる


古事記』について最初に言っておかなければいけないことは、『古事記』はよめないテクストであるということ。 すなわち、<n-1>『古事記』は多数多様な入り口をもっている。『古事記』の成立の向こう側に、帝の命令と、太安万侶の書記言語化した作業の企てがある。この配置は近代の視線が支えている。日本で最初の書記言語のテクストである『古事記』を訓むうえで問題となってくるのは、声を住処とする鍵のかかっただれもはいって来れない一人だけの構造の部屋から、いかに脱出するかにある。この問題を考えることに意味があるのは、21世紀における「一国二制度」のような、多を従属させる帝国的<一>ではやっていけなくなったことを精神の歴史は教えるからではないかとわたしは考えてみる。


Durasが語った少女時代の回想。インドシナの映画館に来ると観客席の暗闇は貧富の差を隠してくれたという。これは貧しい少女にとって救いだった。多分、絶対平等の成立の向こう側に、比類なき広がりの形式ー絶対無限からの投射を影として受けるスクリーンーがあったのだろう


推敲中

DURAS『インディアン・ソング』は凄いのは、明白に隠されている画面が目の前にあることだね。『古事記』でも明白に隠されている言語が目の前にあるー本居宣長が起源を言っても

ダブリンのカトリック画家はpersonal historyを避けて顔を描かない。これとは正反対の方向だが、ロンドンの民族の実体化を避ける文化多元主義は顔を描くのは危険だ

危険ラインである二割台に落ち込んだ、事実上、誰も望んでいない現在の政権が、だれもが反対している<感染>東京五輪を支えようたって、それは「東洋の魔女」でもできない話です

灰がこの世に存在するなにものでもないのは分かっている。一つの存在者として残っているなにものでもないと、それはむしろ存在だ、なにものでもなく、あらゆる存在するものの彼方にとどまっている(『火ここになき灰』)


L'Année dernière à Marienbad (1961)

映画は、記憶を、過去とか場合によっては未来(未来を思い出す)に結びつけるのではない。記憶の成立の向こう側にある、比類なき広がりの形式としか言えないような数学的な形式に結びつけている。


計画をよく検討してみたら上手くいかないことが分かった。一生懸命作る時代は終わった。力は廃墟の諸断片の偽の一致で機能するように見えるだけだ。目的無くそれで遊ぶことはできる


『ケルズの書』の文字の装飾は、文字の無かったアイルランドにおけるラテン語書記言語の存在を称えた。『ケルズの書』の成立の向こうにある、古代ゲール語の存在は理念の高慢である

横断する世界文学。文字の装飾を以って言語の存在を称えた『ケルズの書』を見てジョイスはFWを過剰な修飾で構成した。相補的に、文字の装飾が無い『古事記』は過剰な修飾を避けた

差異が先行する。二つのイメージが成り立つ。漢字書記言語がはじめにあったというのはそういうことではないか。漢字書記言語の音声化、このひとつのイメージでは差異が事後的になる

レンブラントを絵を見てスピノザの哲学を思い浮かべられるかどうか?哲学が体している絵だとして、絵をじっと見る。スピノザは、心がロゴス(否定が決定する)を支えるというような唯心論ではないことは何となくわかる。絵のなかに他者が描かれている。ほんとうの朱子もこの意味で唯心論ではなかっただろう。天から与えられた性がロゴスを支える。また祀る共同体と祖考について弟子たちと議論していた。

知識人ならば権利の無い社会に反対すべき問題だが、責任が問われない文化人になりたい人が多いからか、昔の構造主義的な見方みたいにどうにもならない時代のせいにする分析の言葉ばかりだ


大会のモットーである「多様性と調和」(diversity and inclusion)はsounds goodだけど、アジアは多元主義をどう考えるか。


大会のモットー「多様性と調和」(diversity and inclusion)はsounds goodだけど、国家近代が多様性を包摂してしまった、東京五輪を見よ


問題となってくるのは、書記化された多元主義である。「書記化されたテクストは、その成立に前提される言語の再現的な訓みだしを阻む形で不透明なものとして存在する」(子安)

わたしはそれを「書記化された多元主義」と呼ぼう。

「書記化されたテクストは、その成立に前提される言語の再現的な訓みだしを阻む形で不透明なものとして存在する」(子安先生)。ゆえに書記化された多元主義は『古事記』をよめない


警官はデモする人々を車道に歩かせる。マスコミが見ていないところで、怖くて歩道にあがる高齢者を叱り飛ばす。そしてデモする人々のなかを車が突っ込んできたとき自動車通行を優先させる。こんな野蛮はいわゆる文面国において日本以外に存在しない。外国は車の侵入禁止が当たり前


「自由に歩行することができるというのは、近代市民社会における市民のもっとも基本的な権利のひとつである。この市民的権利を侵害するような自動車通行がこれほど公然と許されているのは、いわゆる文面国において日本以外に存在しないといってよい」(宇沢弘文『自動車の社会的費用』)


トップは、聖火リレーのときの企業の宣伝車に「ナチス」みたいなことをさんざんやらせていたくせに、自分たちは非難されたくない

ー> 経団連など経済3団体トップ、東京五輪開会式そろって欠席へ


近代主義全体主義までも理念化してしまうものだから、戦前日本はナチスのような本物の全体主義が無かったということになってしまった。国家祭祀の天皇ファシズムを問題にしなければいけないのに、専らナチスのことだけを喋ってきた


東京五輪は、経験的事実を無視した、理想だけの高慢なばかの祭典の政治化。それは、ずっと前からやっていたが、選手が集まって、始まったときは、もう終わっていた


新聞は東京五輪の光と影を見せると威張っていたが、いちいち海外メディアをみないと、選手村の毎日の感染状況は分からないのはどうしたことか?


段ボール箱を利用して作られたベッドはいくらアイデアがよくても、選手たち一人ひとりにそれを説明したうえで、彼らの了解をとったのかしら?


人権団体が小林賢太郎非難。芸人時代の過去に公の放送で「ユダヤ人大量惨殺ごっこをやろう」と悪意ある冗談を言ったとしている。この人物が平和の祭典の開閉会式ディレクターなの?


人間は、みずから表象を表象する力をもつ言説discoursの至上性のなかに、世界をとりいれる

(渡辺訳、フーコ『言葉と物』)

l’homme peut alors faire entrer le monde dans la souveraineté d’un discours qui a le pouvoir de représenter sa représentation (Foucault, L’homme et ses doubles, Les mots et les choses, p.320)


人権感覚の異常というか、今度はホロコースト•ゲームだなんて極右翼です。隣国へのヘイトスピーチをはじめた歴史修正主義者の安倍のゲームキャラ仮装(リオデジャネイロオリンピック)に拍手をおくることから問題がありました。東京五輪ははじめが間違っているから全部がうまくいきません。五輪委員会に根源的錯誤が起きているとおもいます。東京五輪は平和を爆撃する祭典になっています


言語は「公のもの」です。理念的にそうでなければ、言語は成り立ちません。他者殺戮のホロコーストにたいする共感という「私のもの」を、トランプ的に、「公のもの」にすることは可能ですがゆるされるでしょうか。もしゆるしてしまうと、ホロコーストがまさにそうであった同一性への恐ろしい精神の従属が起きてしまうとおもうのです

モンティ・パイソンは自己省察アイロニーの批判精神を発揮できたのは、BBC放送作家の多くがユダヤ系だったーハロルド•ピンタとかーことによる。ホロコーストごっこの嘲弄とは違う


ナチス表現主義をあれほど嫌ったのはどうしてだろうか?芸術は役に立たない。芸術は鑑賞する心における私のものだからか。不透明な多様なものにたいして、調和とか言って目的をいう公のものー日本民族の心という透明なものーが、心の中を隙間なく覆ってしまう。全体主義ごっこであり東京五輪開会式ごっこ


国家をすでに前提しているものによってどうして国家を説明できようか。[下p28]


記録マニアだったナチスガス室内部のなかを覗き穴から撮影していない筈がない。フィルムが出てきても極右翼は映像から何も感じないかもしれない問題。ホロコーストごっこだから


過去というのは、たんに事実としての過去のことではない。言語に体された過去のイメージthe images of the past embodied in langage、これを絶えずつくらないと、全体主義ホロコーストごっこの化石になってしまう

過去というのは事実としての過去ではない。言語に体された過去のイメージを絶えずつくらないと、過去はホロコーストごっこの化石になってしまう。われわれは言語-内-存在だから


チャーチルは、M16から、強制収容所ユダヤ人大量虐殺の情報を伝えれれていたはずなのに、全く無視していました。ドイツからイギリスに逃げてきたユダヤ人たちを拷問して英国の収容所に入れていたというだれも知らなかったショッキングな事実が十数年前に報じられました。チャーチルの対ドイツ戦は英国のための縄張り争いの軍事的な理由に基づくもので、ホロコーストをやめさせるためのものでは全くありませんでした。ロンドンもユダヤ系の友人たちは怒っていました


制度としての政治権力の理論は、普通法的な主体の法律上の概念に基づいているが、それに対して統治性の分析-即ち、逆転可能な諸関係の総体としての権力の分析-は、自己の自己への関係によって規定された主体の倫理に基づかなければならない。

-フーコ『主体の解釈学』-


特権階級観客の為の東京五輪開会式、排除と選別のホロコーストごっこ、2021


参加規模における普遍性の意義について言いたいならば、将来貧しい国も五輪を開催できるように5000億円の規模でやろうという国際世論が形成されていたなかで、約束を破って、東京五輪のために3兆円以上使っている日本は世界の参加する権利を排除していると言われても仕方ありません。


「五輪開会式、200以上の国・地域から。こうした国際大会はサッカーのワールドカップもあるが、一堂に会する規模でオリパラ以上のものはない。平和の理念で120年続けて中止は第一次、第二次大戦しかない。安易に中止を叫ぶ民放のコメンテーターたちの井の中の蛙ぶりがよくわかるのではないか。」猪瀬直樹


開会式の様子をyoutubeで見た。日本サブカルとかゲーム、アニメで構成されたものは、それなりに成立している世界だとわかったが、海外に発信するわれわれ日本人の勘違いもみえてしまう。「どうだ、凄いだろう」といくら吃驚させようとしても、海外では「凄い」そのものが通用しないとおもう、多分ね


医療崩壊が起きるかもしれないのに、医療従事者の犠牲とは全く無関係に、国家が国家自身をたたえるグロテスクな東京五輪。人権感覚の異常、極右翼の演出。無意味なドローンの儀式。特権階級の観客のなかで、大坂なおみの人権と多様性の意義を必死に訴えた言葉を読んだことのある者は何人いたのだろうか?


戦争責任が果たされていない国でのホロコースト共感の公に為された言葉の影響力は深刻ではないでしょうか。言語的行い、つまり他者への身体的障害を構成すると思います。「受けなくなった」ことぐらいで、市民として公に言うことが禁じられていることを破らないで。どうか自分の影響力を考えて我慢してください


われわれはヨーロッパの17世紀、18世紀、19世紀の明確なイメージをもっているようには、アジアと徳川日本の17世紀、18世紀、19世紀の明確なイメージをもっているだろうか?宗教と精神におけるヨーロッパの統合的背景についてならばなんとか説明できるひとでも、宗教と精神における日本の統合的背景について語ることができない。国家レベルの宗教的統合はアジアで日本が先行していたのはなぜか?清はそれを真似しようとした。この問題提起からはじめてみよう。子安先生はこう語る。台湾を通してみる限り、祖先崇拝の宇宙論であった朱子宗教改革は失敗したのであると。ここから、19世紀における宗教と精神における日本の統合的背景を「鬼神論」をめぐる言説によって見渡すことができるかもしれない。今日の講座で子安先生は17世紀、18世紀、19世紀の明確なイメージを展開する。17世紀は、天皇を京都に閉じ込めて権力を解体した(所謂政教分離)。18世紀は、正統的に、古代中国の宗教的統合性を回想する(荻生徂徠命名制作論)。だが唯神論をはっきり語らない(本居宣長の『古事記伝』)。19世紀は、異端的に、民衆の心に神が宿ると語り出す(平田篤胤の顕幽論)。kyぷわたしは考えたのだけれど、多分、「鬼神論」をめぐる言説とその展開は、「人間は、みずから表象を表象する力をもつ言説discoursの至上性のなかに、世界をとりいれる」(フーコ『言葉と物』)のである。「世界」とはアジアのことである。


アイルランドに行くと、巡礼と聖人について喋っている。人間共同体の始まりは祖先崇拝。これは聖人が制作するという荻生徂徠のように、私は『六経』の聖人は信じるが鬼神は信じない

列聖とは、聖人崇敬を行う教会が信仰の模範となる信者を聖人の地位にあげることをいう。ダブリンでアル中を克服した労働者を聖人にしようとした話の芝居をみた。列聖の政治化である


ホロコーストごっこ」について倫理的問題として考える人はひとりもいない

 「結局、女性差別やいじめ、反ユダヤ問題などは、ただの間違いではない。これらの問題は、島国の日本では外国人が批判したときにのみ問題になるのだ」(南ドイツ新聞)


19世紀における宗教と精神における日本の統合的背景は、ヤバイといえばヤバイのであるが、荻生徂徠の紀元前の古代中国の回想による。宣長を経て、それがわたしたちを語っている


19世紀における宗教と精神における日本の統合的背景は、一番ヤバイのだが、荻生徂徠の紀元前の古代中国の回想による。宣長を経て、それが天皇とわれわれ自身を語っているとしたら


立ったか、立たなかったかというような細かいことをくどくど言っているのは、言論のゲンロン化である


宗教と精神におけるアイルランドの統合的背景は、詩人イェイツのビザンティン帝国の回想による。ロマン主義的に<われわれ自身>を語る。彼にフランスから戻ってアイルランド神秘主義に取り組めと言われたシングは、アラン島に行ってゲール語の言語調査した。同じ復古主義でも、シングの方はリアルである


昨日の講義(『第二江戸思想史講義』)をおもいかえしながら、17世紀に天皇を京都に閉じこめて権力を解体したことから展開した、19世紀における宗教と精神における日本の統合的背景を辿ってみる。荻生徂徠の紀元前の古代中国の回想から影響を受けた宣長を経て、文献学的な<正統>は、天皇の青写真を語っている。宣長は神について非常に分かりにくい言説を語ったが、平田篤胤における神学的な<異端>は民衆の心に神がいると語りはじめた(折口信夫と柳田邦男の言説を準備した)。そして後期水戸学は徂徠、宣長、篤胤から影響を受けながら、儒家神道の枠を超えて、復古主義の言説である近代的な政治神学を形成した。問題は、京都から天皇を連れ出してきた明治政府である。薩長は<明治維新>を<王政復古>にしてしまったのである。平等主義の社会改革運動を行っていた平田派たちは明治政府から追放されてしまった(偶然だが、アイルランド時代の私の教え子の一人がその子孫だった)。20世紀は、天皇に権力を集中させたまま、大正における帝国主義の確立とともに、天皇ファシズムに帰結する昭和10年代に向かって、「祀る国家は戦う国家である」という国家祭祀の体制を展開したが、これは明治における王政復古によって確立したのである。<朱子鬼神論の再読>というテーマをもった講座『第二江戸思想史講義』は、『維新』的近代の幻想に続くものとなってきた。


大会のモットーはレトリックだけか。この機会に考える。<韓>の排除によって成り立った国家が、そのあり方をやめない限り、「多様性と調和」を支えることなんて無理、できないって


アイルランドみたいに貧しい国の選手は世界記録をもっていても自費で五輪に参加しなければならない。そういう選手達を応援したいのに。彼らとわれわれを引き裂く日本政府が罪深い!


ポストモダンユダヤ的なものー砂漠のイメージーの再読は、近代主義におけるプロテスタンティズム的なものに対する対抗としてあったとおもう。ポストコロニアリズムの現在は、イスラムからの近代批判を無視できなくなっている。中国におけるイスラムの影響はあまりわかっていないのでわからないのだけれど、井筒俊彦のコスモスと反コスモスを読みながら、もし形而上学神秘主義としてとらえたら朱子学イスラムの中国化なのかと勝手に考えてきた。『世界史の構造』は、はっきりわからなかったが(分かる人いる?)、神秘主義の国家と宗教に従属しない精神の自由が広範囲に受けいれられたというようなことをペラペラ饒舌に喋っていたと覚えている。だが柄谷が言うようにそう単純に行くのだろうかと違和感を感じて読んだ。必然として、世界帝国と世界宗教は一緒にやっていくものなのだろうか?この見方は時代遅れで、ヘーゲルの事後的読みではないか。

さて昨日の講義のなかで話に出たことなのだけれど、唐の時代の仏教を禁じて、宋代に確立した祖先崇拝の宇宙論である朱子学はアジアを支配する宗教としては失敗したのではなかったか。宗教改革失敗の理由はわからないが、宋の後にモンゴルが支配したこともあるだろう。朱子学は朝鮮において継承される。「理」説の純粋化が起こり、そして祖先崇拝はシャーマニズムに融合した。中国はどうなるか?台湾を通してみる限り、中国は多様なもの儒教•仏教•道教が共存したのである。台湾大学で講演した先生が連れていってくれた「九份」を思い出すが、映画「悲情城市 』(1989、侯孝賢監督)の舞台であるここは、助けてくれる異界の入り口がたくさんあるという感じで、50メートルごとに先祖を祀る宗廟がある。日本は伊藤仁斎荻生徂徠の古学が朱子学批判を展開した。祭祀は古代におけるプリミティブなものに結びつけられていくことになった(本居宣長平田篤胤)。多数の部屋に通じている廊下のように、此方が成立する向こうの世界は多数の入り口があると語られていく。


なんだ、こいつ?われわれが漢字で考えてきた議論の価値をゼロにしてしまうような反知性主義

「コンセプトの日本語は用意していない。世界に分かってもらいたいということで英語のみになった」(組織委日置貴之)


神も聖人も超越者だとすると、世界にたいして中立的にある原理である。梟猫はかく語りき。これは遠過ぎる。此方に成立する彼方の世界は多数の入り口をもっていなければならない


日本における全体主義の問題は行いに関する問題である。だがカント『実践理性批判』ではなく寧ろ『純粋理性批判』を読むのはどうして?ドイツの全体主義をいかに知るかが問題なの?はっきりさせておこう。日本ファシズム天皇ファシズムのほかはない。ドイツの全体主義の定義(?)から説明できなくても、日本ファシズム天皇ファシズムとして存在した。天皇ファシズムは国家祭祀であった。国家祭祀における祀る国家は戦う国家である。‪この全体国家のもとでは、「おまえは非国民だ」と指さされたら逃げるところがないのである。心の隅々まで支配される。‬だから国家祭祀をやめなければいけないというのは、人を殺すなと命じる理念的理性の要請とともにある、行いに関する問題である。憲法は国家祭祀を禁じている。再び天皇に全ての権力(死者を祀る権力を含めて)が集中するあり方を拒んでいる


国家祭祀とは祀る国家が戦う国家である。国家祭祀はアジア人を2000万人殺した。そもそも他者を殺してはいけない。それは不可能か?不可能だからこそ理念が要請される。理念的理性がなければ道徳性が成り立たない。道徳性がなければ人間は人間としてやっていけなくなってしまう。


アメリカ人は映画をみるとき、喋るひとの姿を見なければいけない。だれの姿もないところで言葉をきくとそれは幽霊だとおもってしまう。つまり映画において彼らは独白が理解できない。『タイタニック号』でもみていただくと気がつくが独白というものがない。ハリウッド映画とはそういうものである。<ふきだし>で成り立っている漫画も読者はだれが喋るのかを常に見ている点で、ハリウッド映画とおなじである。今回東京五輪の<ふきだし>に感心しているひとが多いが、わたしはあれをみて嫌な気持ちになった。なんでだろう?赤塚不二夫は『天才バカボン』で<ふきだし>のない漫画ーバカボンもパパがおなじ姿勢で同じところをずっと座っているーを十頁以上描いていた。子供のときはその意図は何だったのかわからなかったが、スランプだとかギャグが思いつかないとかそいう単純なことではないことだけはわかった。彼は<ふきだし>を拒否していた。そうしてかれは人間が人間であるかぎりにおいて人間におけるもっとも大切なものを表現していたのだ。独白である

徂徠は「仁」という物があったと言う。後の時代にこの「物」を概念化していく名を与える。徂徠一番弟子の宣長にとって迦微(かみ)がそういう物だった。この見方は多元主義の方向だ


スポーツは映像がないが、例外的に、重量上げは映像がある。重力の秩序に逆らう不均衡。いきなりの落下。期待外れ。見る人の溜息。不安定な視線の彷徨い。だが今年は見ていられない


Japan's Olympic organizers lied about its weather, and now athletes are paying the price


「鬼神論」をめぐる言説の空間

(子安先生の講義を参考にした)

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