アベノミックスに物申す

ケインズKeynse以前の経済学の均衡解は、所謂大きな物語であった。さてケインズ以前の経済学は、遅くとも八十年代において復活した。日本の大学では、量産化されたケインズ経済学の教科書がケインズ経済学の限界を、そして贋金づくりならぬ、ネオリベ的贋ケインズ主義を教えたのである。ここから、計画にもとづくユートピアを拒む社会的コンセンサンスconsensusを形作る源が出来てきた。つまりアベノミックスである。アベノミックスに物申すには、マルクスが行ったように理念性を徹底させていくしかないのではないか。例えばカント的にかんがえると、貧富の格差は偶然の事柄。そして必然性しか知らぬ理性からは、この偶然生じた状態を絶対視して正当化することができない。また「正議論」のサンデルによると、理念的に公平ではなく共同体の倫理にも反するからである。最後に、理念が通じないときに一体何が起きてくるかだ。精神の隷属か、精神の反逆か?二十一世紀精神史の本はまずオキュパイOccupy運動から証言することになることだけは確かだ。ネオリベグローバリズムの金融政策に対する占拠の運動は、反戦運動としての「外国政策の占拠」(チョムスキー)ともいわれる。六十年代から始まった、反新植民地主義の声が蘇っていくーわれわれの精神と歴史は自立にむかって現在進行形

最後に、最後に、貧富の格差に関することでは、マルクス資本論」の問題点は、貧富の格差の再生産を特定の歴史段階における必然性として描いた保守性にある。'原始的蓄積'が法則の如く語られてしまうのは問題がある。これを克服するためには、マルクス初期において強調された、類的本質としての理念性の意義ー国家・民族主義ブルジョア的市民社会に一方的に従属しないあり方ーを思考のなかに導入すべきことの重要性を喚起したいのである。ネオリベグローバリズムの中で、アベノミクス的貴族が司るブルジョア的市民社会から一方的に排除されない、そんな主体のあり方を問うことが大切ではないか