'[討議] 柄谷行人+丸川哲史 (帝国・儒教・東アジア)' に疑問を呈す。

[討議] 柄谷行人+丸川哲史 (帝国・儒教・東アジア) に疑問を呈す。

天安門前広場の抗議の声も空しく、中心なき自己差異化する差異体系が、大東共栄圏<マダム・ボバリーとしての中国論>という意味の病へ行く。70ー80年代に出た最も良質な知識人が拵えた21世紀版オリエンタリズム料理とは、諸国家が主体のマルチチュードを中心に、西田幾多郎少々、溝口妄言ドボドボ、どれくらい竹内が入っているのかは不明。天安門前広場の抗議を非政治的にとらえた政治性がかくも思考を表象に代えてしまったとしかいいようがない。批判のあり方としてある命懸けの飛躍も含まぬ。絶望しても人間が愚直に行う抵抗の意義を忘れ、(帝国の原理を活用した)システムに過大に期待した、官僚的な時代遅れの討議とおもった。
マルクス主義的ゲーム論とはこういうものだ。つまり、パレート最適といっても、他利的相互協調には全然足りない。復讐的互酬制の如く必然として働くナッシュ均衡の自力によって、それすら無理であろう。さて民族国家同志の不和にこの互酬原理が働くとすれば、それを断ち切った原理の構成が必要で、帝国の原理を生かす国家が登場してくるという。しかしこのようなマルクス主義的ゲーム論の饒舌こそ、帝国主義のアリバイづくりなのではないか。商品が主体となる単独者の交通、「マルクス、可能性の中心」でも、人間に委ねられるものが何か残っていた。が、諸帝国と諸国家が主体となる「大東亜共和圏構想、可能性の中心」では、人間に委ねるべき活動はもはや消滅したのか?私は理解できない