資本主義、コミュニズム、ファシズム No.1

 
資本主義、コミュニズムファシズム No.1

財産の内部から財産に即して捉えることは、対象を<私の世界>に即して考えることとして成り立つことである。この<私の世界>は、下から上へと上昇するとき、<社会の領域>に移っていく。<私の世界>の不幸とは、政治経済学が発見した<社会の領域>によって足場を奪われるだけでなく、下降してきた<公の世界>にも測られてしまうことにある。曙における夜の闇がとらえられるのは、背後から突き刺さってくる光においてである。同様に、<私の世界>において他人から隠れていた多様性が捕獲されるのは、この<公の世界>における共通性においてであろう。この様にコミュニズム財産から書き始めその否定で書き終えるというのは、驚きと言わざるを得ない。ところで。「資本論」は、コミュニズムが財産の否定に到るようには、商品の否定で終えてはいないことは、マルクス不徹底さである。兎角、「資本論」は商品から書き出した。つまり対象を商品の内部から商品に即して捉えたことは確かだ。対象を捉える視点が私の世界と社会の間に不安定に揺れ動く過程において、対象から触知可能性が剥がされていく。その代償として身体が現れてくる。各々の身体の内側に隠れていた多様性が捕獲されるのは、繰り返すが、この貨幣という共通性においてだったのだ。「資本論」が記した大量生産と大量消費の社会的一体構造は、民族・ナショナリズム・財産のブルジョア共和主義的所有と同様に、理念的に追放され得るとしたら、そのためには、1867年の思考が1848以前の思考に依拠しなければならない。青年マルクス主義が理念的に構成した「類的本質」の概念に他ならない。