中国の問題を通して、アイルランドの歴史について考え、さらに現在マイノリティーを抑圧している日本の問題を考えています

中国の問題を通して、アイルランドの歴史について考え、さらに現在マイノリティーを抑圧している日本の問題を考えています。恥ずかしながら、私の認識に間違いがあるかもしれませんが、原発の問題を考えるときはデモに集まった人々の中から考えたいですし、正直そこからしか考えることもできないようにですね、中国の問題を考えるときもやはり抗議する人々に沿って考えていくのが真ではないかと思っています。さて宋を継いだという帝国の清朝は、19世紀列強の半植民地化の下で事実上奴隷の立場に転落してしまいますが、20世紀において、その失った帝国性が社会主義(毛沢東)の形式として高度に回復されていくという言説が、中国イデオローグ+柄谷行人によって語られ始めています。この場合、ヘーゲル的にいうと、客観的精神(「礼」)と主観的精神は各々、儒教と中国共産党に対応します。ところが帝国の儒教的原理に社会主義の衣装を与えても、またいくらポストモダン的位相の一的多様性の流行だと説かれても、独立を求めるチベットウイグルそして天安門事件眼からは、帝国主義的<一>の鎖にしかみえないのではないでしょうか?成程丸川哲史が強調するように、帝国の原理であって帝国主義にあらずと言い切るのなら、人々に宗教の自由を与え、宗教によっては差別されぬ平等な教育が存在するか、言論を表明する自由を保障しているという体制が最低限必要。これは事実によって判断すべき事柄。これは現在マイノリティーを抑圧している日本の中心的問題でもあります。差別のない信仰の自由と言論の自由を求めることにかんしては、あちらとこちらとの間に妨げる壁は無いと、遅きながらやっと気がつきました