トロッタ監督「ハンナ・アーレント」の感想文

トロッタ監督「ハンナ・アーレント」の感想文

  「ハンナ・アーレント」の鑑賞では、 同監督の「ローザルクセンブルグ」との連続性を意識して観ることができた。(そうやって観てなにが悪い?)ローザ・ルクセンブルグを演じた女優バルバラ・スコヴァしか、ハンナ・アーレントを演じることができなかったのである。その必然性はどこにあるのか?一考の価値があるだろう。さて牢屋のなかを草木で茂らせたローザ・ルクセンブルグを思い出そう。ローザは獄中からつぎのような手紙を書いていた。「鳥の歌声が常に同じ調子にしか聞こえぬというのは、無頓着な人間の粗雑な耳だけだ。」’Nur dem rohen Ohr eines gleichgültigen Menschen ist ein Vogelgesang immer ein und dasseble’これは、多様性を観察できる判断力のことだ。ハーレンは見抜いたの...だ。判断力こそが、普遍の包摂ー他を整理し選別・排除していくことーに抵抗していく力である。映画の中で、追放された大学の最終講義に学生の前で、ハーレントは、「美と醜を判断する能力」についてあつく語る。判断力が人間の思考を導くのであれば、結局アイヒマンのような「凡庸な悪」は判断力の不在からくるにちがいないと看破した。だから「凡庸な悪」が構成するファシズムから逃げるために、「考えることで強くなれる。」、と、プラトンとソクラテスの名をあげながら、自己の中の内的な対話がいかに大切かを強調した。’Since Plato, and probably since Socrates, thinking was understood as the inner dialogue in which one speaks with himeself ( eme ematō)’(「人間の条件」より)。開かれた内的ダイアローグの力。ここで、われわれにとってプラトンとソクラテスよりももっと重要な名がある。もちろん、それはローザ・ルクセンブルグハンナ・アーレント自身の名である。だから、トロッタ監督のハンナ・アーレントは、ローザ・ルクセンブルグとの内的対話をおこなう思考する存在にほかならない。同じ女優バルバラ・スコヴァがこの二人、ローザ・ルクセンブルグに成りハンナ・アーレント成る決定的な必然性は、ここに存するのだ!