近代としての原発体制をいかに乗り越えていくか

近代としての原発体制をいかに乗り越えていくか

近代としての原発体制をいかに乗り越えていくか

3・11 以降、三か月間のあいだ全国新聞は、街頭における数百人規模からはじまった反原発の意思表示をまったく無視しきったわけですが、大江健三郎がこの国の知識層はなぜかくも世界から遅れているのかと言い始めたのが、危険な原発推進の方向にイタリアやドイツの国民がNOと国民投票で決めたときでした。やはりというか多くが現在なお「曖昧な日本の私」のまま慣性の法則にとらわれています。それどころか、「現実感覚」とやらが喋りはじめたのをみるにつれて、原発を擁護する言説、これは、近代の問題に属する事柄と気がつきはじめました。反原発運動の中心に、「自然」「生命」についてのヴィジオンがありますね。ヴァリエーションはありますが、兎角、「自然」「生命」に従属するような不合理な受動性(とかれらが烙印した)に反発を覚えるのが、近代。この近代が反原発運動の主張にたいして「宗教的」と名指さしていることに沈黙しているようでしたら、原発問題の解決はありえません。線形的な一直線しか知らない科学の楽観主義は実は近代の楽観主義です。近代としての原発体制、すなわち原発問題は思想問題と切り離してはあるのではないというのが私の考えです。