なぜふたたびサルトルなのか?

なぜふたたびサルトルなのか?

最高裁の無原則的逸脱に沿って、安倍の信仰する自由をいう意見がありますね。しかし憲法の構造から、国家を人権享受主体としてあつかうのは無理があるというものです。ところで神道の歴史は儒家的影響下にあり、したがって心に向き合う宗教としてあったという指摘も重要です。知識が足りませんが、私なりに推測すると、その伝統は例えば生き方を説くお御籤に残っています。近世に入り、神を外部化した宣長と、天の聖人的人格化(天祖)をいう徂徠からの一定の影響を受けた形で、後期水戸学の言説がナショナリズム的な言説を展開しました。戦争する国家が自らの栄光を祀る為に明治政府が創ったのが、靖国神社です。実はこの靖国は誰の為にも祀るのではありません。それは戦う国家のために祀るだけです。そうして、「戦う国家、祀る国家」という説が成り立つのです。
靖国神社の宗教性・祭祀性という問題について考えることは、国家の宗教性・祭祀性という問題について考えることとパラレルです。祀る国家は、どこから生まれ死後どこへ行くかを物語り国民に安心を与えます。「安心」を「危険を避ける」と解しますと、西欧で、社会を理念的に構成した功利主義と社会契約論と同じになります。つまり祀る国家、戦う国家は、ズバリ言うと、近代国家は対外戦争することができ、国民が国家のために死ぬことができる国家としてしか成立できなかったのです。靖国神社の(根拠薄弱な)原初的起源の特権性だけをいうが、その靖国神社が保証人となるおかげで国家が推進できた戦争について黙することは許されないことです。丸山説とは違って、「戦う国家、祀る国家」は、近代日本と近代西欧に現われた国家形式といえるのです。戦後憲法天皇を理念的に再構成し象徴天皇をつく出しました。ところが戦前天皇制との連続性を断つほどの理念性の力が靖国神社を再構成できないのは、主権性の構造に依るからです。中国という他者像を裂く排他的ナショナリズと国家主義の前に理念性が無力ならば、主体の存在論的抵抗しか残されていません。ヨーロッパでサルトルが復活している動きと連動する必然性に立ち会っているようにおもわれます