民主主義を排除する同士、求め合う「敵」同士?

異邦人か孤児か、兎に角、戦後はゼロから出発すべきでした。が、共和主義理念の構築が乏しい以上、戦前との連続性を断ち切る妥協として、天皇を縛る憲法に寄ることになりました。'内なる天皇'という言葉は、戦前天皇ファシズムは終わったが、天皇としての日本自民党が始まる歴史を隠ぺいしました。天皇としての日本自民党は、それほど'内なるもの'ではありませんから、例えば、安倍にたいして'思いやり'や'暖かさ'を求めても全く無駄なことです。八十年代以降顕著となりますが、今日ほど、皇帝としての中共産党の代補的寄生として、天皇としての日本自民党が己の非民主的支配を、恥じることなき露骨な資本主義の歌とともに、有利に正当化できた時代もなかったといえないでしょうか。マスコミを利用した、右翼的な中国パッシングで対立を演じていますが、よく注意深く観察すると、陰険な別のものがみえます。つまり、地下茎では、求め合う「敵」同士の欺瞞的な構造が働いている可能性のことです。真の意味でグローバルな相互依存に寄り、民主主義を中心としたより普遍的な信頼関係の構築を求めるまさにこの時代に、両方の政府によって、われわれの側はわれわれだけ、かれらの側はかれらだけという境界線が引かれてしまっています。民主主義を排除する同士、求め合う「敵」同士から、脱出を!