もし日本人もなにほどか抽象的に考えることができるとすれば、それはなにによってか?

昔は滅多に無かったのに、最近はフランスに旅するとき、日本人について考えていることがあります。やや平均的にフランス人について申しますと、やはり彼らが抽象的に考えることができるのは、フランス革命がもたらしたものにおいてですよね。それが市民社会か国家なのかわかりませんけれど。とにかくこれを否定してしまうと、自然状態としかいいようがない‘非合理'に従属してしまうことを恐れている人々ではないかと。多分共和制を支える啓蒙的根幹ですね。この私はアイルランドにいましたので劉暁波たちの共和主義的理念をもつ「08憲章」にも大きな関心があります。 一方、もし日本人もなにほどか抽象的に考えることができるとすれば、それはなにによってか? やはりそれは、与えられたものとしても、敗戦によって成り立った象徴天皇制をとおして働いてくる抽象ではないでしょうか。象徴天皇制を否定してしまうと、戦前との連続性が復活してしまうのですが、この戦前という二十世紀的自然状態に従属してはならないと構成的に思考しているはずなんです。そしてそこから倫理的なものへの責任感も。一応立憲主義の精神といえますが、しかしもっと現代的な、現代アートなどが積極的に関わっていかなければならないような人間の存在にかかわる抵抗ですね。(なぜなら、抵抗しなければならない二十世紀的自然状態とは、合理も非合理も無意味にしてしまう天皇ファシズムのことでしたから。) だから、無責任にも、天皇を元首にしたいなどという安倍とお友達に対して反発するというのは、少なくとも抽象的に考えていなければ起きてこない怒りでしょう?