心地よく沈黙に甘んじているのなら、スターリズムをノスタルジックに称えはじめた者も、スターリズムを批判する者も、社会的弱者を叩いて社会的強者の側に立ってくるという最悪の可能性も否定しきれないだろう

スターリニズムにたいする批判は、三十年代にナチス協力によって人民戦線 の崩壊を導いた歴史、戦後はハンガリー民主化運動を弾圧した歴史に即して語られます。が、正直言って、この歴史的事実よりも、八十年代に原発安全神話に事実上同意していた周りの'幹部'たちの迎合主義にリアルに驚いたものです。そして今日深刻なのは、スターリニズム共感者のなかから、安倍首相の靖国神社参拝に沈黙する者、肯定する者がでてきたということ。一方、スターリニズム批判してきた日本知識人の方も、いったいどうしたのでしょうか?スターリニズム民主化運動弾圧を非難したその同じ正義感から、天安門事件以降も沈黙することが許されないという自らの責任について気がつきません。(気がつかないふりか?どちらもヨーロッパではありえない左翼の態度です。) 今後しっかり見なければならない現実とは、軍国主義に向かって盲目的に行進し始めたこの国において、心地よく沈黙に甘んじているのなら、スターリズムをノスタルジックに称えはじめた者も、スターリズムを批判していた者も、社会的弱者を叩いて社会的強者の側に立ってくるという最悪の可能性も否定しきれないのだという現実ではないでしょうか?