柄谷批判はいかに可能か?

思考可能な秩序あるものと思考可能な無秩序なもの。更に<思考する主体>に先行して在るのが、<思考されぬもの> (例えば、デカルトの「夢」)。さて、<思考されぬもの>と<考える主体>との関係をいかに活性化するか?がフーコにおいて問われた究極の問題である。そのためには、<外部>の側から、非思考から固有性の厚み(表象における全体主義的実体化。例えば、一番新しい文化論としては、柄谷の「帝国」概念がある) をできるだけ剥ぎ取ること。そしてここで<外部>の側とは、'政治化'の意。政治が文化によって非政治化している今日こそ、(政治への参加を奪われていた)市民社会が今度は政治化するチャンス。現実に、オキュパイ運動以降、市民社会はこの流れである。
劉暁波たちが承認した「08憲章」でも、「中国では、帝国皇権の時代はすでに過ぎ去り、再び戻ることはない。世界的にも、権威主義体制は、黄昏時を迎えている。」という。天安門事件から「08憲章」への歴史に逆らう柄谷の「帝国」概念に戻ることはもはや、ナンセンスな時代遅れだ