柄谷の彷徨える'交通'概念は、どこに現れることになったか?

 

1992年のAnywhereの国際シンポジウムでは、建築家たちを前に、柄谷は、交通とは共同体の空間ではなく、共同体の間に成り立つ社会的な空間であると打ち出した。交通については80年代に考えていたという。確かに「探求1」において関係(の偶然性)とかコミュニケーション(の非対称性)といわれていた他者の関係が、1989年の「探求2」から、'交通空間'と明確にいわれるようになる。さて「世界史の構造」(2010)は、ヘーゲル読みによって、90年代に書いた「トランスクリティーク 」を乗り換えるという。しかしその序文で環境問題も射程におくといっておきながら、「世界史の構造」が物語る交通概念に、市民社会が重要な役割が与えられることはないだろう。そこでデリダやネグリの発言が批判されている。むしろ、環の構造である「資本=ネーション=ステート」からの遠心力として創造的意義を与えられるのは、市民社会ではなく、「帝国」である。柄谷がこう言うとき、どれだけの読者(この私も含めて)が、'交通'の語が溢れるなかで'交通'の他者性がかき消されていたことに気がついただろうか?2014年の現代思想三月号をよむとき、彷徨える'交通'概念がどこに現れることになったかをはっきりとみることになってしまう。これは日本知識人のスキャンダルだ!

 

 追記

柄谷の交通概念と帝国概念

マルクスにいわせれば、「交通」(Verker)はそもそも、「生産」(Produkzion)なくして成立しない。これに対して、柄谷においては結局、生産を規定していくのが交通の方である、ということが、徐々に、原理的なテーマとして抽象的に考えられてきたと思う。柄谷は「世界史の構造」のなかで、モーゼス・ヘスという左派ヘーゲル派の哲学者を紹介して交通概念に含みを持たせているが、結局は、生産に先行するのが交通(交換様式)だと言いたいようだ。ただしPostmodernism ポストモダニズムは大まかにいって生産に先行するのは流通としたが、柄谷はこの考え方を単純に繰り返してはいない。柄谷がいう交通は、モダ二ズム的な生産の領域ではなく、ポストモダニズム的な流通の領域ともいえぬような、第三の領域として構成されてきた。つまり、交通は、柄谷においては、(かれが好む言い方をすれば、形式と...しての)文化の領域となってきたのではないか。文化論からしか「帝国」概念を展開できないはずなのだから。交通=文化、というかくも全体的な構成に倫理的問題が起きてこないかと私は問いたい。ここになんでもかんでも押し込めてしまっては、現実を批判していく批評はどうなってしまうのか?70年代から出発した柄谷は、80年代・90年代のpoststructuralism から、Etude postcolonialesとEtudes subalterns を経て、2000年に入りCulturalismに移行してきたある思想史の流れに沿って動いてきているようにみえる。が、(いくらマルクスとカントのテクストの交通!を論じていたとしても) 中国問題においてかくもマルクスを捨て去ってしまっては、かれの知的に洗練された交通概念からは、ただの無、ただのゼロしか生まれてこない、と、私は疑うのである!