「資本論」の思想史、への招待

資本論」の思想史、への招待

柄谷行人は、<国家>や<ネーション>への視点をマルクスは括弧にくくっていると指摘しています。「資本論」にこだわる場合に見ることができなくなった問題があることを彼自身がはっきりとみとめていますね。テクストがもたらした問題を解決する為には、再びそのテクストに依拠することが不可能なはずです。それにもかかわらず、なぜ再び柄谷は「資本論」にこだわるのかです。日本知識人の起源の思考が柄谷において反復されているのでしょうか?日本の知の歴史を明らかにするうえで考えてみる価値が!