戦争責任

え?十代と二十代の境目が一生を決めるほど大切なの?いまごろそんなことをいわれても、もう超手遅れですわ (笑)。思い出すと、退屈な高校時代。唯一活発だったときは、旧図書館の教室にあった本箱の「世界」バックナンバーを読みあさったときだったが、中でも、核開発に関わった科学者の父親を弾劾した娘の告白文に衝撃を受けた。結局役に立たなかったけれど、十代と二十代の境目のときに、大学生が読むような本に書いてあった刑法の責任論に少し関心があったのは、やはり戦争責任をいかに考えるかという視点を持ちたいと望んだからかもしれなかったね。さて言論の自由がなかったのに、知識人の転向後の発言を過大評価すると、現在の話だが、弾圧する体制は拷問をやめないだろう。このことは明記すべきだ。ヨーロッパではそういうことをきちんとわきまえている。日本の思想家の戦争責任を問うとき、自由な言論の可能性があった発言が構成要件的な対象となるべきだが、ただしこういう風に言葉で整理するようには簡単に思想は分節化できない。民衆感情的には、けがれなき真理の人が称えられる。しかし思想にたいして'間違える権利'を与えないと、結局こういう国からは戦争と同様の悲惨と恐怖が起きる。魔女狩りに先行して、(最初の無神論たちとなっていく'大きな間違い'を犯した) 自由に考えはじめたユダヤ人たちが弾圧され追放されたのである。