もし、Deleuze&Guattari 「アンチ・オイディプス 」('Anti-Oedipus' ) がまだ抵抗の書物として役立つとしたら、どの一文が一番大切かと問われれば、私はこの一文を指します

もし、Deleuze&Guattari 「アンチ・オイディプス 」('Anti-Oedipus' ) がまだ抵抗の書物として役立つとしたら、どの一文が一番大切かと問われれば、私はこの一文を指します。

「オイディプスはまさに極限であるが、しかし置き換えられた極限であり、いまやそれは社会体の内部に移行する。オイディプスは、おとりのイメージであり、欲望はそれに捕獲されるのだ<おまえが欲しがっていたことは、あれなのだ。脱コード化した流れとは、近親相姦のことだった>」

OEdipe est donc bien limite , mais la limite déplacée qui passe maintenant à l'intérieur de socius.OEdipe est l'image leurrée à laquelle le désir se laisse prendre (C'est ça que tu voulais ! les flux decodes, c'était l'inceste !).


ここで精神分析のテーマである近親相姦については、初めて読んだ人にはピンと来ないかもしれないが、要するに、Deleuze&Guattariはココロのことについて言っています。そうして最後の一文に文脈を与えてもう一度読んだものを最初に示します(A)。そして田中克彦氏の最新本(「従軍慰安婦靖国神社」角川)を宣伝した新聞広告(B)と比べてみましょう。

A <従軍慰安婦靖国神社公式参拝にかんして、おまえが欲しがっていたことは、あれ(日本人のココロ)なのだ。脱コード化した流れとは、日本人のココロのことだった>

B "これは日本人のココロの問題なんだから、政治問題にすべきじゃないんだ!"

さて'日本人のココロ'という言葉は、Deleuze&Guattari が警戒した、'置き換えられた極限'として登場しています。しかし人々が欲しがっているのは、東アジアの信頼と平和的共存です。そのために、従軍慰安婦靖国神社のことを、アジアと世界の人々とともに徹底的に政治問題にしています。この安倍に対するたたかいをご理解を !

 

Awful

Commence alors une longue his-toi-re, celle de l'oedipianisatioin

 

追記

 

'自分たちがなにをやっているのか
もはや誰もわからなくなっていた'
敗戦記念日

小泉元首相は「このおれにも信教の自由がある」と、憲法上の信教の自由を濫用したのは、もっぱら靖国参拝が自分の「ココロの問題」として考えていたからでした。こうして靖国神社公式参拝を「ココロの問題」にし、首相の立場で靖国参拝を行ったことは、東アジアの平和を願う隣国の人々を裏切りました。憲法学の長老が批判していた、抑制を失った為政者たちのやりたい放題とは、このことです。(憲法の名宛人は支配者ですが、しかし小泉元首相も安倍首相もかれらは自分に都合よく被支配者になるのです。これがやりたい放題の意味です。) 安倍首相は靖国神社公式参拝は「政治問題」に属する事柄であることをしっかり自覚していれば、かれは参拝を中止しなければならないことは当然です。実際に安倍首相が参拝をやめたときは、かれは政治問題だと理解したからからやめたのです。この点にかんして日本知識人のなかには、靖国神社は政治の問題ではなく「ココロの問題」なのだという者たちがいます。しかし安倍首相は「ココロの問題」だと理解したら、靖国へ行くだろう。現在は、東アジアの人々だけでなく、世界中の人々が、首相の靖国参拝が政治的になにをアジアにもたらしていくのかについてはっきりと知っています。'自分たちがなにをやっているのかもはや誰もわからなくなっていた' 戦中のように、再び、権力者たちが、首相に靖国に行かせる日本知識人とともに、世界から孤立しようとしています。