パレスチナ映画以降八十年代からのゴダールは、ウィットゲンシュタインの転回と比せられる。映画は言葉へ行く。映像と音の実験は言葉の方向と別々にあったのではない。映画における映像と音の実験が依るのはまさに、映画が言葉を住処としたことに依った。

映画は生産されている。ゴダールが五十年代後半に認めた映画の消滅は、映画の不足を意味しない。問題にしたのは、映画によって思考できるかだ。ベンダースの時代には映画が多すぎて見切れないほどだ。映画史を考える者には大切な映画か分からなくなる。「映画史」前半では、夢の工場と楽観的に指示される映画産業が資本主義と連動している。が、二千年以上の歴史を持つ本は時代遅れといわないのに、映画は百年たたずに時代遅れに。映画の誕生から未来がない。映画は死に切ったと言った。(これは三木清に通じる反時代的態度である。) ゴダールにとっては、映画は言葉を住処にするようになる。あたかも映画は言葉の外に実在すると考えられるときに、サイレント映画が発見された。パレスチナ映画以降八十年代からのゴダールは、ウィットゲンシュタインの転回と比せられる。映画は言葉へ行く。映像と音の実験は言葉の方向と別々にあったのではない。映画における映像と音の実験が依るのはまさに、映画が言葉を住処としたことに依った。映画史の道連れとなった他者が言葉。思想史の映像化だ