人間という自己差異化 - 昭和十年代と大正

 

人間という自己差異化
- 昭和十年代と大正

人間が自らに正当化を与える、人間の人間自身の読みが依るのはただ、人間の<他>に依ることが不可能という自己関係への絶対的な依拠です。例えば、これは、<他>が死に切ったファシズムに対する抵抗の砦を構成しました (戦後文学)。一方、同じこの人間の自己差異化は、大正時代においては欺瞞的にしか作用しないのは、なぜだったのか?大正は、昭和十年代と比べて、まだ依拠できる<他>があったからではないでしょうか。つまり大正の言説は、台湾・朝鮮そして中国という<他>から、帝国的国土を築いていく自らの国のあり方を批判していく可能性がまだあったのです。しかしヨーロッパ前衛との同時代性がいわれたこの時代に、あたかも<他>が実在しないかのような観念的な特権性のうちに人間精神の称賛が起き、この称賛のもとに、<大地となっていく'民衆'像>のファシズム的言説の端を覆い隠していったとしたら、それはやはり考えなければならない歴史のスキャンダルだとおもいます。二十一世紀に繰り返さないために

 

 

人間は自らにたいして
人間的に人間らしくあることが
無罪である場合と、
それとは逆に罪となる場合がある。
厄介なのは、
無罪のときには罰せられるし、
有罪のときにかぎって罰せられることがない。
学生が刑法の教科書を読むようには
予定調和ではあり得ない....