Ulysee gramophone を読むことは、 反時代的に、多様性にたいしてHello!と言うことの倫理性を読むことにほかなりません

 

Hello!

アイルランドに入ったとき純粋異教徒のこの私にも(笑)、デリダ的ジョイシアンからは、Hello!を連発されました。ジョイスは、傘の形をしたスピーカーを通して Hello!と呼びかけると棺桶に繋がる蓄音機 gramophoneを書きました。文学の倒錯に陥る滑稽極まる想像と一笑するなかれ!今日私たちが過去の映画をみるときに常に死者(スター)をみていることに気がつけばですね、このジョイスがベンヤミンの問題意識に沿って、テクノロジーが媒介する神話世界の(根拠なき)現前を前衛的に描き出していたその画期性を理解できるのではないでしょうか。ジョイスのブルームが交通していこうとする死者とは、文字通りの死者ではありません。それでは、郵便論的な靖国公式参拝になってしまいます(汗)。そうではなく、他者としての死者は、たしかに近くに存在しながらも遠くにいるとかんじられるような存在です。つまりマルクス的な意味で'疎外された人々'、多様性として受け入れられていない人々のこと。具体的には「ユリシーズ」では、主人公である、アイルランドに生まれたユダヤ人のことでした。もし今日ジョイスが生きていたら間違いなくアラブ人を主人公にするはずです。なぜか?Ulysee gramophone を読むことは、 反時代的に、多様性にたいしてHello!と言うことの倫理性を読むことにほかなりません。そしてデリダエクリチュールも、政治のルソー的演劇化、すなわち単一の声が支配する全体主義の領域にたいして批判的に介入していくという脱構築的のHello!、なのでした。

 

わたしは読んでいるときに読んでいるのはなぜか?
語りかけているときに語りかけているのは何故か?
読むときに語りかけているのはなぜか?
その答えがここに...
Ulysee gramophone を読むことは、 反時代的に、多様性にたいしてHello!と言うことの倫理性を読むこと