societyの訳語に、福沢諭吉の訳語'人間交際'がありました。これは明快な訳といえないでしょうか。

'社会'と名のつくものは全部、大正のときに生まれてきました。'社会政策'、'社会運動'、'社会主義' 等々。かつて、このsocietyの訳語に、福沢諭吉の訳語'人間交際'がありました。これは明快な訳といえないでしょうか。ちなみに'社会'の'社'は元々土地の神の神道的概念。(成程、'社会党'は悉く消滅してしまうはずだ・汗)。さて'人間交際'に沿って'人間交際'をかんがえたのは江戸思想からはじまることです。徹底した身分制の'社会'のもとで自由が抑圧されていましたが、自由がなくなってしまったのではなく、それだけいっそう、危険をおかしても自由について考えようとした人々の交際が起きてきたのかもしれません。(これと比べられるのは、原発災害が起きたとき全国新聞とテレビが報道をやめてしまうと、この自己検閲によって世の中から報道がなくなってしまうのではなく、人々はTwitterのような対抗メディアでなんとか報道にかわる情報網の形成を試行錯誤したことでしょうか) 。'近代'は、この時代に活発な言論活動があった事実をみようとはしません。これに関しては日本主義論争において講座派と労農派のあいだで論争が展開されましたが、講座派については、江戸思想を通してこの時代の'人間交際'の条件と成熟を知れば知るほど、講座派の前提である、ステレオタイプの'前近代'の風景が益々成り立たなくなるということがあります。