子安宣邦氏の挑発的ラディカル<大正>論

子安宣邦氏の挑発的ラディカル<大正>論
ー10月11日の早稲田大学生教室での講義「なぜいま<大正>なのか」の一部を簡単にご紹介いたしますと

・ヨーロッパの近代史のズレは、日本のような後進国において再体験された。たとえば、ロシア革命が直面していた問題を再体験していくのである。つまり日本では市民社会が成立せず(成立しても未成熟な形で)いきなり大衆社会が成り立ってしまう(日露戦争後いきなり独占資本主義が成り立つ)
・大正は<日比谷焼き討ち事件>、即ち日本で最初の大衆運動という始まりをもち満州事変で終わる。「全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分たちにふさわしいと考えた唯一の組織形態である」というアーレントの指摘は、大正においても成り立つ。さて戦後民主主義は、この全体主義に帰結した挫折した大正デモクラシーの失敗を繰り返すことなく、その消滅した理由を考える必要がある。(中国の文革の崩壊が20世紀全体主義の終わり)...
・知識人は市民の個々人の主体の成立 を問題とするのではなく、グローバル時代のグローバルデモクラシーはなにか、大衆社会デモクラシーは何かを考えるべきで、そこでの近代化・現代化が問われてくる!
・子安氏の「大正論」は、前回の「中国論」と繋がっているという印象をもちました。そのことを念頭において、上に示した最後の言葉を私(本多)なりに書きかえてみますとこのようになりました。'知識人は市民の個々人の主体の成立 (ヨーロパの近代史のズレを補う「帝国の儒教」)を問題とするのではなく、もはや「帝国の亜周辺」というナショナリズムの言説に同一化することは無意味だから、グローバル時代の大衆社会デモクラシーは何かを考えるべきで、そこでの近代化・現代化が問われてくる!'