新しく登場した、「帝国の亜周辺」という形式化されたナショナリズムの時代遅れな言説 - 自らを縛る日本のファウスト達

 

資本論」の原理論的読みは、ファウスト達に市民的主体を与える神話になってきました。メフィストは約します。純粋に、原理的に読めば、君たちのコンプレックスである'近代化の遅れ'を贖えると。そうすると、自信をつけたかれらのなかには、「帝国の構造」の言説の高みから、「帝国の亜周辺」という形式化されたナショナリズムの言説を有り難く授かる者もでてくるというものです。この至福の時にファウスト達が支払うべき対価は何でしょうか?かれらのなにもかも'民族紛争'とみなす時代遅れの尺度で自分勝手に測っておきながら、構造化を望まない近傍としての台湾と香港にたいして、つまり抵抗の声をあげはじめた学生たちにたいして、「諸君は周辺だから黙って帝国の'民主'に服せよ」と言うとしたら一体なんという対価でしょうか。日本知識人たちよ!