グローバル・デモクラシーの思想史

世界精神の五十年代・六十年代、そして'68年'に至った重要な闘争。運動の挫折、戦後民主主義の近代に対する決定的見直しが起きてきたのに、これらの経験と反省をまったく無視する形で、70年代に大正デモクラシーの言説が普及してきました。この言説は、<戦争の全体主義のせいで短命でしたが、故人の大正の理念は立派に現在の私達の戦後民主主義において発展していくことになりました>などという調子で自らを称えてくるのです。が、それが依拠している大衆社会の可能性も八十年代バブルで消尽したと言わざるを得ません。今日なお、悪戯に消費フェチに託して時間を無駄にしているにしかみえませんがね。さて敗戦後の知識人は、大正デモクラシーが戦争の全体主義を齎したかどうかを検証することもなく、アナクロニズム的に、大正デモクラシーを反復すべきだと信じました。そうして、冒頭に述べた社会主義の運動の挫折が明らかになったとき、運動の現場から問うのではなく、運動に先行する理念の内部から理念の内部に沿って、市民の個々の主体の成立を問うたのです。今日このような知の保守反動性は、「帝国の構造」の柄谷行人が演じ始めたと言わざるを得ません。この日本知識人は、オキュパイ運動の流れをなす台湾と香港の抗議、グローバル・デモクラシーの運動を支持することなく、それどころか、弾圧側の理念の内部から理念に沿って、「帝国の構造」に (非ヨーロッパ地域に成立したと世界史の言説がきめつけた)近代の優越性を託しています。しかし大切なのは、グローバル・デモクラシーの運動から、近代性・現代性を問うていくことであると私は思います。せっかく高度な意義深いカントの読みを世界に問うことをはじめたのですから、つぎに、これを、アジアに来ているグローバル・デモクラシーの運動から発展させていくことこそがトランスクリティークの課題ではないでしょうか?

 

結論; 方法としてのデモクラシーは、カントと同時代の、近代化の個々人の主体の成立を問うた仁斎のような思想家が存在した徳川日本に、近代と同等のものが成立したと考える。だから知識人は大正デモクラシーの内面的起源に回帰せずに、社会運動の現場から大衆社会デモクラシーの近代化・現代化を考えればよいということになろう