昭和はなにを書くのか?

昭和はなにを書くのか?

二十世紀にアイルランドは何を書くのでしょうか?最後のひとりまで誰にも読ませる言語に向かおうとすればするほど、益々誰も読めない本を書いていくというのは大変皮肉です。本の言語の構成は、翻訳において元の何語から翻訳すべきか決定不可能なほどアナーキーです。しかし斯くも、起源の言語とその中の過去の姿を消滅させる唯一このような本だけが、思い出されてくる未来を発明できるのではないでしょうか。ここで世界文学のジョイスの名をあげれば十分でしょう。(ベケットはジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」の仏訳を手伝ったひとりです)。さて昭和においても、敗戦を経て、他から捨てることを強制されたというよりは、生活の中で人々が自ら捨てていった過去を書いたのではなかったでしょうか。つまり戦後憲法は、象徴天皇制政教分離の原則によって、靖国の(憲法外に存在するような)英霊が完全に消滅しきったとし、今後は憲法の言葉の中を住処とすると宣言したのです。このことが思い出されてくるとき、昭和は、たしかに21世紀において思い出されてくる未来の本を書いたことは間違いがないのです。