池澤夏樹氏の「日本語」観を読んで疑問におもうこと

池澤夏樹氏の「日本語」観を読んで疑問におもうこと

 

「はるかな昔、大陸の東・大洋の西に連なる島々に周囲各地から人が渡ってきた。彼らは混じり合い、やがて日本語という一つの言葉を用いて生活を営むようになった。この言葉で神々に祈り、互いに考えを述べ、思いを語り、感情を伝えた。詩が生まれ、物語が紡がれ、文字を得て紙に書かれて残るようになった。その堆積が日本文学である。 特徴の第一はまず歴史が長いこと。千三百年に亘って一つの言語によって途切れることなく書き継がれた文学は他に少ない。(・・・) 島国であることは国民国家形成に有利に働いたが、世界 ぜんたいで国民国家というシステムは衰退している。その時期に日本人とは何者であるかを問うのは意義のあることだろう。その手がかりが文学。なぜならばわれわれは哲学よりも科学よりも神学よりも、文学に長けた民であったから。 しかしこれはお勉強ではない。権威ある文学の殿堂に参拝するのではなく、友人として恋人として隣人としての過去の人たちに会いに行く。書かれた時の同時代の読者と同じ位置で読むために古典は現代の文章に訳す。当代の詩人・...作家の手によってわれわれの普段の言葉づかいに移したものを用意する。その一方で明治以降の文学の激浪に身を投じる。厳選した作品に共感し、反発し、興奮する。 私は誰か? 日本文学はそれを知る素材である。 」
大変に饒舌に書いていらっしゃいます。が、「古事記」以前に日本語が存在したというふうにかならず考える必要がないとはおもいますね。つまり存在してもそれが現在につながっていると考える必要がない、というのもかなり大切な考え方だとおもいます。長々と理由は書けませんが、ここに考え方だけを示しておきますと、たとえば、天皇ファシズムは現在の憲法の以前に、たしかに存在しましたが、だからといって、それは現在に(連続性のあるものとして)考える必要がないものです。なぜなら戦後憲法象徴天皇制政教分離によって、戦前との連続性を断ち切ったからであります。(この意味で左翼の課題は、共和主義を実現することではなく、このように構成された象徴天皇制を必死に守ることであるとおもいます。私はアイルランドからきた共和主義者です。だから共和主義のためにいかに強力な理念を構築しなければならなかった歴史の一端をみてきたつもりです。ところがそんな理念もないままに、仮に日本の左翼がのぞむように共和制になったとします。これほど天皇好きの国民のことですから、象徴主義天皇制の廃止によって、かえって天皇ファシズムが狂信的によみがえる危険性がないでしょうか)。さてこのことは古事記においてもいえるとおもいます。池澤氏がいうように「古事記」以前に人々が外部からきたという開かれた可能性を示唆したとしても、しかしこれは結局は原ー日本語があったという言説に変わりありません。つまりそれは起源にかんする危険な言説、したがって、そのまま国体論的な、靖国の起源の言説と呼応し合うものと言わざるをえません。「古事記」以前に原ー日本語はあったとしても、それを、「古事記」以降の1300年間の日本語とは断ち切れた、死に切ったものとして構成し、そのことによって、現在につながるものとして考える必要がないものとかんがることこそが、文学者の責任であるべきだとおもいます。(このように「べき」をともなう判断なので、倫理的なものですね。)わかりにくかったかもしれませんが、インターナショナルスクールの仕事があったとき、高校にきていた漢字をみて驚愕したユダヤ人の数学の先生がいました。漢字はいくつあるんだ?ときくので、日本人ならば、2000ぐらい知っていると教えたらひどく興奮するのですね。それならば、X,Y,Zみたいに、漢字の2000文字全部が代数の記号として利用せよ!と勧めてくるのでした(笑)。しかし考えてみると、案外これは、方法論的に、古事記の万葉仮名(「天地発有」)は、代数と同じとかんがえてみることもできます。まちがえをおそれずにいうと、わたしの理解では、宣長が画期的だったのは、あえてそれに音を与えたことです。だからといって、古事記以前の原ー日本語の音を実体化したわけではありません。私の理解では、仮説的に、「あめつち」という音があったと方法論的にいっているだけです。ところが、一度、「あめつち」とか、あるいは「てんち」とか、代数的な漢字を、声に出して読みだすとおのずと意味があらわれてくるものです。そして意味があるところに、起源の表象があり、ここに国民国家を安易に正当化する贋の文化概念が宿る危険性が常にあることは、デリダが警戒を込めて語ってきたとおりです。

 

ポストコロニアリズム的民衆史は、自らに、非西欧世界のことを書くことを課します。書き手は、旅行者の立場で、色々な地を遍歴した自分の場所感覚を利用して自分の体験を書きます。ここで、場所感覚というのは、共通感覚のことです。池澤夏樹氏の「日本語」観も、このような場所感覚を利用しています。これは、「はるかな昔、大陸の東・大洋の西に連なる島々に周囲各地から人が渡ってきた。彼らは混じり合い、やがて日本語という一つの言葉を用いて生活を営むようになった。」と物語る言葉にみてとることができます。実は、このようなポストコロニアリズム的民衆史には、環境 (外部)に開いた多様性を共通項にしようという、「判断力批判」のカントが分析したような有機体論的な生命観が垣間見られます。それにたいして、わたしは、多様性の認識において共通感覚は不要であると考えます。カントは中村雄二郎がいう共通感覚のことも言っているので厄介ですが、そもそも普遍的な共通なものを相対化することが「判断力批判」の大きなテーマでした。つまり、無限ともいえる...感性の多様性は、それ自体ではカオスに陥るが、理性によって統一され得るものなのだとカントは言いました。'統一'、というとなにか大袈裟な感じで引いてしまいますが、この場合カントがいう理性による統一とは、理性による介入、という程度の意味。この点に関しては、カントは「判断力批判」を「実践理性批判」と差異化していますから、「判断力批判」の理性と「実践理性批判」の理性は同じものではあり得ませんが、ここで肝心な点は、「判断力批判」の理性は、実践理性的な理性を前提とした理性のありかたを語っていることです。だから「判断力」がいう理性の介入とは、「判断力」がいう実践理性の介入といってもいいとおもいます。あるいは、今日的な問題として、実践理性的な憲法概念の介入、たとえば東アジアの平和原則の介入のことです。そうすると、たとえば、「古事記」以前の池澤が目的的に理想化してしまうす'無限'ともいえる多様性に同一化することは不可能ではありませんが、倫理的には無意味です。したがって、連続性は、「古事記」によって、消滅することになるとみなさなければならないとおもいます。ポストコロニアリズム的民衆史の池澤のように、N個の多様性から特権的特異点的な一を取り出し、それを「古事記」以前の原ー日本語に割り振ることは文学者としての倫理的な問題を構成するものと言わざるをえません。