亡命するエクリチュール - l'ecriture self-imposed-exile

亡命するエクリチュール
l'ecriture self-imposed-exile

 1

子曰、寗武子、邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。其愚也不可及也

検察官タイプではありません。だから常の事として努力は非難より説得に向かうのでありますが、もはやこの国のファシスト達に通用しないと気がついてきました。(ハーレントがいうように、既にナチスは常識を持つからこそ常識を無意味だと思っていたと)。嗚呼、増殖していくファシスト達は今日も同化主義のマトリックスを流通させていく、1、2、1、2・・・。社会民主主義の精神が消滅させられようとしているこの時代では、説得が問題ではなく、かりに説得できなくとも構わず、現実において妖怪どもと共有するものから、おぞましくとも、異なるように考える能力をいかに生産していくかが大切だという思いです。意味するものが意味するものは何かと問う愚者のぎりぎりまで行く。そうして「論語」の孔子がいうように、道なき世に愚者としてふるまう報酬は結局は亡命になるのか?それは予言できませんが、現在はただ(Frida Kahloの絵の中みたいに) 絶望的に、(自らの)思考の不足に直面しています

 

2

子曰、人而無信、不知其可也。大車無輗、小車無輗、其何以行哉。
 人における信が失われたら、人は生きていけない。それはちょうど、牛車や馬車の轅(ながえ)の横木がなかったら、もう車を進めることができないのと同じである。(梟猫解説; 安倍は信を問うというが、そもそもこの嘘だらけの首相に信がないから、人々は生きていけなくなるのである。原発再稼働とか消費税10%とかTPPの個別的な問題を超えて)

 

3

亡命するエクリチュール
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「民無信不立」
Without the trust of the common people, they get nowhere
「お上を信じることができなくなったら、人民はもうこの国にはいられない」(子安訳) < つまり、「信」は道徳主義的に解するとまったく説得性のない解となる。それは民の生の安定を常に願う孔子にありえない言葉である。徂徠的に、「信」は為政者における問題として「民無信不立」を読むべきである>

 

4

亡命するエクリチュール
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子曰、道不行、乗桴浮于海
The Master said, The Way does not go foaward- I'll get on a raftans set out to sea !
<「論語」は人間性の立場から徹底した道徳性をいう。戦後憲法の理想のような人間の相互関係を支配する道徳法が国に無くなれば、つまり政治が暴力に訴えてくるならば、人々はもはやこの国にとどまることはできない。前述の「民無信不立」Without the trust of the common people, they get nowhere と対をなす言葉。ポスト構造主義デリダにひきつけて考えると、原初的テクストは、ロゴスの絶対主義、'自らー話すことをーきく'という音声中心主義から亡命していく、文字、エクリチュールの外部性について喚起しているとも考えられよう>