信 trustworthiness

信 trustworthiness

論語」の英訳は、なんだかなとはおもうのですけど、あなたも?漢字でなければならないとおもうほど漢字に対する思い入れもありませんが、英訳で読みますと、きっちり音だけで意味を考えることになってしまいますね。漢字を前に、あたかも痕跡として見ることにしよう!、ときめてしまうと、漢字というものは、現代アートの空間にモノを置かない、しかし代わりに痕跡を置く、(例えば壁に"NEVER AGAIN" と表示しただけの作品) なにかにみえてくるから愉快ですね。たとえば原初において「信」という文字で確かに特定のXをあらわしたはずなのですが、もうそれは消滅しまった、死に切ってしまったので、現在文字(「信」)を住処にして残っているだけです。つまりこれが痕跡という意味です。「信」という字の配置は、「人」が「言」(言葉)とのかかわりをしめていますから、まさにそうのようにしてこの現在わたしたちがこの「信」という文字をみているということに気がつくときハッと驚きますね。配置に即してかんがえると、「言」の外側に位置しているのが「人」(共同体)です。いいかえれば他者たちです。この場合、言葉の内面に他者が存在するということではありません。言葉が外にいる他者に依拠しているという形です。ところで安倍が「信を問う」といいますが、果たしてこの「信」の意味を十秒でも吟味したことがあったのでしょうか?かれは自分の言葉をみている東アジアの他者が存在していることを自分の問題としてどれくらい倫理的に意識しているのでしょうか、疑問ですね。この「信」の倫理性を無意味にしていく安倍の体制に同意していくとしたら、今度はわれわれの倫理性が外部から問われてきます。なによりも、「信を問う」主体は、(安倍ではなく)、われわれからはじめなければならないことです。No !と意思表示することによって、過去から受けとった痕跡、「信」を、未来の人々のために保っていく責任についてかんがえる時ではないでしょうか。