近代の問題ーあまりにも遠い無人島に泳ぐ難しさを引き受ける無理

近代の問題ーあまりにも遠い無人島に泳ぐ難しさを引き受ける無理

民族中心主義から逃れて、<無人島に泳ぎつき無人島そのものに成る>自由と感じても、外部の視座からは、ヨーロッパ中心主義の島でしかないかもしれない、あるいはネガの島かもしれないと、日本のドゥルーズ若手研究者は用心深くみておく必要はないのか? (そうでないと、そのつもりがなくとも、いかにも白樺派的・私小説的な人生論の語りに陥るとおもうのだけど)。さて講座派とそれを批判した戦後民主主義は、ヨーロッパ中心主義の市民社会像のオブセッションがある。それはこう表せる。

 

民族主義否定+ヨーロッパ中心主義=(自己をオリジナルとして非難する)市民社会

しかしこの等式はアジアに来ると、

民族主義否定+ヨーロッパ中心主義=アジアの(自己をコピーとして非難する)市民社会

 

に転位すると考えられてきたのである。西欧の(オリジナルな自己を非難する)市民社会像であれ、アジアの(コピーの自己を非難する)市民社会像であれ、両者の共通する問題は、約束された、あまりにも遠くにある、近代<星>から来る友人としか連帯しないとするその純潔な権力性にある。(近代人の遠い無人島に泳ぐ難しさを引き受ける無理) ー しかし現在のグローバル資本主義のもとでの主体の近代化・現代化を問題とすべきなのではないだろうか。ドゥルーズがいうように、資本主義のもとに主体にどんなにアイデンティティの裂け目がもたらされ分裂的になろうとも...簡単に泳げる(無人島とおもわれていた)島の友人とともに現在のあり方考えるときではないか?

 

参考;「(孔子の弟子は)聖人の道をいたずらに難しいとみたが、もともと聖人の道が難しいものであったはない。」(雍也第六第十章、子安氏の仁斎と学ぶ「論語」)