中庸とはなにか?

中庸とはなにか?

「冉求(ぜんきゅう)の曰く、子の道を説(よろこ)ばざるに非ず、力足らざればなり。子の曰く、力足らざるものは、中道にして廃す。今女は画(かぎ)れり。」(雍也第六、第10章 )
聖人の道とはただ中庸である。これについては道は高いと考えるからできなくなってしまうとかんがえられます。子安氏によると、孔子の道は「行い易い道」と解説しています。冉求はいたずらに聖人の道を高遠なものとしたが、いまだ嘗て聖人の道が難しいものであったことはないということです。と、古への言葉をまなぶとき、現在のネオリベラリズムの亜流アベノミックスが想定する市場に委ねていく道のことをおもいます。いかに真実に真実らしくみえても、しかしネオリベの道がいかに難しい道であるかは、それが(美しく!)書いた多くの諸々の前提から組み立てられた複雑な方程式の一覧をみてください。このアベノミックスの'真実'にたいして、'ケインズへ帰れ'とは、ケインズの中庸としての道へ帰れを意味する天の声だとわたしはかんがえます。この場合、中庸としての道とは、ほかならない、「行い易い道」、いいかえれば、(大胆にもデリダの言葉を使ってしまうと)、 '真実'の内部で代補物 le suppéantを要求する道です。海外のジャーナリズムも警告しているようにですね。市場において約束された遠い未来からの贈り物を待つのではなく、市場への依存によっては解決できない現在の困窮と貧困を解決する「行い易い道」へ行きましょうよ