ヴェルデイーのオペラ「アイーダー」の神官たちみたいにグロテスクになってきたと裁判員制度

ヴェルデイーのオペラ「アイーダー」の神官たちみたいに
グロテスクになってきたと裁判員制度

なんのために裁判に参加するのか?と問うとき、わたしの考えでは、二つのポイントがあります。まず第一に、裁判を知ることではないでしょうか。そして第二に、冤罪と(それを容認・助長する)国の犯罪を防ぐために裁判過程に参加することがあると思います。これらのためには、現代の裁判所が、ヴェルデイーのオペラ「アイーダー」の神官たちが住処とする、まさに刑罰と一体となった国家の栄光を称える神殿ではないことはもちろんであります。しかし残念ながら、現行の裁判員制度は、京都学派の学者の考えに沿って設計されているような、グロテスクな神殿のようだと形容しては大げさかもしれんませんが、これが国家の犯罪である死刑判決を国民が総体として責任をもつという民族主義の国体論に規定された文化論的な目的をもっているようにしかみえないとしたら、人権の時代にあって本当に異常なことだと言わざるを得ません。冤罪、言い換えれば、国家の犯罪をやめさせるためにどうするのか?もっぱらこの認識にもとづいて、ただこの問題を解決する対策として、例えば(停止中の)いわゆる英米法型の陪審員制を検討するときではないかと思います。法曹一元化のアメリカのように、経験豊かな弁護士も裁判官として活躍できるような制度も大いに参考にできるでしょう。冤罪事件に取り組んできた弁護士たちが裁判官として働く機会があってもちっともおかしくありません。