圧縮の問題 - ある社会で、自由の否定を自由といったり、自由を自由の否定とかんがえたりするという互いに正反対どうしのものが同時にあらわれてくることはどういうことなのか

圧縮の問題

戦前は学童たちが靖国の街路樹として植栽することがあったと当時の体験者から聞いたことがあります。ヒトラーユーゲントのことは、手塚治虫アドルフに告ぐ」ではじめて知りました。子供たちが自由の否定に対して自由を感じて希望をもったり、また自由に自由の否定を感じて絶望したりすることが、なぜ起きるのか?これは、単に教育の貧困ゆえに起きてくる単一価値観の強制で説明してしまうことで済ますことのできる問題なのか?イギリスなどの国と比べて教育の機会がある、現在の日本の状況をみると、とてもそうは思えません。この問題は、ある社会で、自由の否定を自由といったり、自由を自由の否定とかんがえたりするという互いに正反対どうしのものが同時にあらわれてくることはどういうことなのかという問題と等価だとおもいます。これは、時間的な<圧縮>から生じる現象として考える必要もあると最近かんがえるようになりました。たとえば、1789年フランス革命後に約百年間の間に革命(自由)と反革命(反動としての自由の否定)とが入れ替わり起きましたが、この政治的振幅を、150年後のドイツは第一次大戦後に非常に短い期間に経験することになりました(ウィルヘム二世の退位、ワイマール体制、ナチスの台頭) つまり、自由の否定に自由を感じて希望をもったり、逆に自由に自由の否定を感じて絶望するのはこのような<圧縮>に依ることではないかと。そして西欧がルネッサンスから五百年間かけて達成した自由と平等の理念を、日本は僅か百年間に、他のアジアのなかには僅か10年間の極端に<圧縮>された環境において達成しなければならないという難しさが常にあるとみています