「賃労働と資本」をいかに読むのか ー 消えた哲学的・政治的の問題意識は再びどこに現れるのか?

「資本は賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする。両者は互いに制約し合い、両者は互いに生み出し合う」Capital presupposes wage labour; wage labour presupposes capital.They reciprocally condition the existence of each other ; they reciprocallyt bring forth each other (マルクス「賃労働と資本」, Marx , Labour and Capital) この一文をよんだときは、別々の三つの考え方を言及しているとかんがえました。つまり、「資本は賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする」というときは哲学的に、「両者は互いに制約し合い」というときは政治的に、「両者は互いに生み出し合う」は経済的に考えているのではないかと。が、この「賃労働と資本」の冒頭では、1848年の革命以降は専ら経済的な事柄で考えていくんだといっています。(Now, after our readers have seen the class struggle develop in colossal political forms in 1848, the time has come to deal more closely with the economic relations themselves on which the existence of the bourgeoisie and its class rule, as well as the slavery of the workers, are founded.) このようにいうとき、哲学的・政治的・経済的な修辞が、経済的な主題に還元されているとしたら、21世紀の現在この方法論をどのように扱っていくべきなのか?たとえば、これに関しては、1980年代にソビエトが崩壊しまた中国が社会主義をうち捨てていくグローバル資本主義の時代にあって、柄谷行人が、(リベラル的コミュニズムが敗北する)1848年の「共産党宣言」に遡ることによって、「ルイ・ボナパルトのブリューメル18日」と「資本論」の読みから「帝国の構造」の哲学を露骨に政治的に読みだしていった方向にたいして、「賃労働と資本」は柄谷とは異なる他の読み方を呈示する拠り所にならないだろうか?21世紀の問題は、たとえナショナリズム、民族紛争あるいは宗教対立の形態をとったとしても、すべて経済に規定された事柄としてあるのではないかと、この考え方を推し進めようとした現在最も価値あるテクストではないだろうかと考えているところです。ただし経済的な主題に還元されている方法としての経済のアプローチをとったときに、さて消えた哲学的・政治的の問題意識は再びどこに現れるのかという問題があります。まだわかりませんが、だんだんとテクストに強調される「機械machinery」の語がそれほど透明で中立的な内容を持っているかです。The more productive capital grows, the more the division of labour and the application of machinery expands. このような「機械machinery」の言説がそれを言うマルクスに触発した意味は、経済中立的な意味とは全く正反対に、政治的・哲学的な意味をもちはじめたのではないでしょうか?経済学の安定した枠を逸脱するほどに。それこそ、カントを導入した柄谷が言う意味とは違う形で、真にカント的に、したがってナショナリズム民族主義・宗教の言説に絡みとられない方向で、(賃労働と資本の経済学だけからみえてくる)グローバル資本主義の問題を巻き返していくことではないでしょうか。これにたいしては、「賃労働と資本」は、「資本論」に至るための補助的な仕事に過ぎないという反論もあるとおもいますが、それはヨーロッパのマルクスの読みにもとづく反論です。ヨーロッパのマルクスを日本から読むことはどういうことなのかが大事におもっています。(最近は、わたしは、以前のようには、東アジアからの読みも無視することができなくなりました。) また21世紀に生きるわたしにとっては、たぶん、19世紀のマルクスの意図はそれほど気にならないのです。もちろん、思考からマルクスを消去しつくしてはそもそも全部がゼロになってしまうということはほんとうではないでしょうか。そういう点でも現在のヨーロッパのマルクスの読みは常に意義をもつことはたしかなのです。(アイルランドの読みはヨーロッパの読みに属すのかアジアの読みに属するのかいまだにわからないままですが) たとえば、ややきな臭いのですが、バイオグラフィーを書いたアタリのような人によって、21世紀的問題はマルクスが生きた19世紀的問題に類似してきたと指摘されますけれども、この見方を承認したり逆に反対する場合でも、やはりマルクスが分析した19世紀の社会と人間の関係を知ることによってはじめて可能となるのだとかんがえています。