共同体がいかに人間的尊厳を以て生きることが可能なのかを問うたフーコの言説が、2015年のわれわれに触発する意味はなにでしょうか?

「主体の解釈学」(1982年) のフーコの中心的テーマは、<自身への配慮>といっても過言ではありません。そこで共同体の自己自身への配慮が問われることになりました。共同体がいかに人間的尊厳を以て生きることが可能なのかを問うたフーコの言説が、2015年のわれわれに触発する意味はなにでしょうか?例えば、憲法前文から憲法9条を経て憲法25条まで読むとき、憲法は、自らを、共同体の存立の条件への破壊的侵入を防ぐ免疫システムのような働きとして規定していることが読み取れます。戦争したがる国家、貧困問題は存在しないと宣言する国家は、この免疫システムを壊そうとします。共同体は自らを、戦争したがる国家、貧困問題は存在しないと宣言する国家に委ねることができないのです。憲法は共同体にこのことを知らせようとしてきたのではないでしょうか?

エピクテトス曰く、人間は自分自身に専心しなければならない。神ゼウスが〈理性〉を与えることによって、人間を自分自身の手に委ねたからだ。この理性によって人間は他の全ての能力の使用を決定できる。従って我々は神によって自分自身に委ねられ、自分自身に専心しなければならない...

「自己の自己への関係においてしか、政治的権力に対する抵抗点、第一にして窮極の抵抗点は存在しないとすれば、自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題である。」

Nous devons réfléchir. Et alors que Zeus réfléchit sur son gouvernement à lui, nous devons, nous maintenant, réfléchir sur le gouvernement divin, c'est-à-dire sur ce meme gouvernement, mais vu en quelque sorte de l'extérieur, et comme étant un gouvernement qui s'impose au monde tout entier et à nous.Nous devons réfléchir sur nos rapports avec le reste du monde comment nous devons nous conduire et nous gouverner par rapport aux autres)
- M.Foucault. L'herméneutique du sujet, Cours du 24 mars 1982