書くこと 300ー400

1、書くことは並べること。「性」と「理」との出会いまで1000年以上を要した。世界に知識人的官僚が現れたが、思想的交錯は時間において現れるから空間におけるものとしてはみえない。交錯は注釈の文を通じて知ることができる

書くことは並べること。原初的テクストとその翻訳。世界はオリジナルなものの顕現である。「理先気後」におけるように、オリジナルなものは先、翻訳は後である。しかし非常に希であるが、『フィネガンズ・ウェイク』のように原文がどの民族の言葉によって、何語で、書かれているかわからないような、翻訳が不可避である本もある。翻訳がなければ成り立たない本である。人類が共有する読めない原初的本であるそういう本は、オリジナルが存在しないために、あるいはバベルの災厄が起きた結果オリジナルなものが失われてしまったために、現存する世界じゅうの言語的破片を利用して自分自身を翻訳することによってだんだんと明らかになっていく変な本である。世界神話というのも理におけるような優越性をもったそういう起源なき空のようなものではないか?そうしてはたらきとしてのコピー的差異化の上に泊まる。言語的存在である人間は存在の意味を探究するために必要とする本とはそういう本ではないか?多分その人間は人類が共有する読めない原初的本を携えて目に見えない不在の痕跡を辿る詩人と呼ばれてきたとわたしは想像してみる。何もかもカネがものをいう等質的なものに巻かれてしまって巻き返すことができなくなった、忙しくてもう祀る場所もなくなった大地で繰り返される宇宙の生死を共にしている彼だけである

マルクス主義的労働法の見方からすると、ブルジョワ的なものが市民法的(契約法的)「人」の抽象概念に隠蔽されているという。この場合は、「人」はネガティブに理解される。ここから、過剰にストレートに、政治が呼び出される。自由平等の理念はブルジョワのものであって、彼らに抑圧されている民衆(大衆)のものではないという声である。この声はブルジョワのもの属する自己にたいする否定の観念をともなう概念的に強力な論理に支えられている。ところで最近わたしの関心をとらえている倫理学からは「人」について別のアプローチができる。江戸思想において言われたことがそれである。天下に達する道も、日常卑近な隣どうしの関係を含むどんな道も、「人」の道であるということ。勉強不足な私の理解だけれど、「人」を言う以上、道において、「性即理」の「理」学が捉えられない生の倫理的な関係性を映し出すスクリーンが存在する。果たしてそのスクリーンに自由平等の理念が映しだされているかが問題である。

そのスクリーンは、曖昧な概念だけれど、明確なイメージをもっていなければいけない。台湾でも香港でも、学生たちからは、自己否定を含めてラディカルに否定が決定する論理はそれほど伝わってこない。その意味で曖昧だが、どういう体制のもとではやっていけなくなるに関して明確なイメージをもっていると私はおもう。日本だと、運動の自己否定は凄くて地球上のどこにでもその力が及ぶのだが、自民党のもとではやっていけないと危機感をもつことがあまりないようにみえる。これは反(脱)原発運動から変わってきた

ボヴァリー夫人の幻覚は純粋な欲望に向かって獣が歩くイメージがある。「文学」論を講演するフローベルが聖パトリックの杖をついて歩くアルトーに変身して獣に成る一人芝居を昔観た

書くことは並べること。人の道と獣の道。人の道は言ー文ー意ならば、獣の道は言語を言説に押しつぶす砂の庭にスクリーン(屏風)が立つ。雲海の龍の像

『中庸』を読むためには、意味だけを論じている『論語』ではなく、物である「六経」へ行かなければいけないように、われわれは自己の言語の外にある言語に向かって旅する必要がある。自己の言語の中に物が亡くなっていることがある。このことは、自己の言語の外にある言語に向かって旅すれば分かる。方法論的にいえば物はそこにあると構成できる。物はおなじにみえても同じではあり得なかった。絶えず制作されている。

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 can we separate the artist from the abuser?

語り手であるであるクモにとって巣の向こうにみえる獲物=シーニュは身体を貫く波動である。絶えず、端っこから巣である獣の道を這って外部へ飛んで行くーたとえ動かずとも

10 近代国家日本のあり方(天皇制国家)は古学からしか構想されなかったが、明治維新とは、西欧列強のアジア進出の時代にあって同じままではやっていけないから国を制作したのであって、「われわれ自身」が住処としていた過去を思い出すことによってその通りに国の形をつくったということではまったくない。あえて言うとむしろ外部からきた他者たちが国家日本を作ったのだと方法論的に考えることができよう。これは現在を考える考え方としてはいかせる。先ず戦後は天皇の全体国家をやめた。そしてグローバルデモクラシーの時代がきた現在、相互依存が深まる現実にもかかわず彼らと(ファーストの)われわれの間に排他的な境界線を引く何が何でも国中心でやって行く同じままではやっていけないならば、国のあり方を制作できるのだ。方法として、憲法を活かして、移民国家的民主主義の多元主義を(再)制作する秋(とき)ではないかと私は考えるのだけれど。

11 ロンドンにモスクがある。これは国家は共存する教会の中で何が言われようと自由だとする政教分離による。しかしかえって喋れなくなってきたらしい。知識人の多数派は無神論的だしね

12 アナキズムのファンであるこのわたしは孔子教と言われる儒教ではないのだが、それほど無神論的ではない『論語』に転向したのは、どうしてなのかと自問する。所謂ヨーロッパ帰りのアジア回帰なのか?まあすこしはあるかもしれないが、それよりも、マルクス主義の「前近代」を見下す近代主義にたいする距離をもちたい。もっと共同体のことも考えることができる。ダブリンの神を否定しない実存主義者たちとの出会いもあった。神の存在を否定してしまうと死に場所が亡くなっちゃうみたいにそれっきりなんだけど、アジアで展開した鬼神論の言説を学んで、敢えて神の存在を前提にすると、神の存在をめぐる二項対立から逃れることができるんじゃないかしらとだんだん考えるようになった

13 レッセフェールといえばアダムスミスだが、彼はスコットランド啓蒙主義者。知らないことは恥だ。資本は自分自身が計算する(=知る)べきだ。実は株式会社に委ねる世を批判した。さてヒュームもフランス革命を批判したスコットランド啓蒙主義者。ラディカルな懐疑主義的批判から、確実とされているものを容赦なく疑ったと哲学史は教える。神を疑った。自我を疑った。因果律における疑えないような自明性も疑ったヒュームの文は、物凄く孤独なのだけれど、このおかげで独断論的眠りから覚めることになったカントは認識の限界を問わなければいけない。この場合、カントはデカルトのように人間を主語としたのではなくて、人間の有限性を前提に、理性を主語にした新しい哲学をはじめた。

しかし懐疑主義的批判が分析してみせた誤謬というのは無意味ではないのではないか。たとえば芝居で役者に同一化するのは誤謬の類いであるが、ヒュームにおいて芝居自体が否定されることはない。依拠しなければいけない、合理では説明できない慣習のなかには共同体を形成する役割をもつものもある。ヒュームは信を否定しきることはなかったと思う。というか、懐疑主義的批判精神が己にとってどうしても不可避なものとしてある信を語ることになったのではないか。

14 「この男性がデモに参加したのは本当ですか」と言われている人物は、上に率うだけだというようなことも喋っていて、一度も自発性を以てデモに参加したことがない人みたいだけど。昔は帰属している組織の旗を掲げてデモにきたひとが多かった。比べると、現在のデモは自発性に支えられている。参加者の中には自分の携帯電話やiPoneで仲間に実況放送している若者もいる。長々と書いた手書きのプラカードを示す。お互いに読んでいる。海外に発信できる。単純に増えていくことは増えて行くが、中々十万人を超えない問題がある

15 『古事記』が記す天岩戸の中にいるのは天照大神だけではない。表象されるこの神を書く稗田阿礼太安万侶がいなければならない。しかし鍵がかかっている誰も入れない部屋のような岩戸でそれは可能だろうか?この言説は闇がある。その闇は、外部の異文化との接触によって豊かになるものを汚れたものとしてこれを許さない起源の指示を隠しているというか。稗田阿礼太安万侶も、実在していれば、『日本書記』を書いた中国知識人と朝鮮知識人と彼らが育てた日本知識人のなかにいたはずなのだ。本居宣長が語り出したように、言語を『古事記』の根底にひとつの民族があると語る言説的神話に押し込めるときは他の言語ー世界神話ーへの脱出が隠蔽されているのだ。

16 ウイーンの美術館カフェに来るとヨーロッパの中心に垂直軸が立っているようです。天空にあるような過去を見上げながらここがヨーロッパの中心だったことをおもいます。ロンドンの美術館カフェによく行きました。記憶のなかでは、女の子が美術館の展示を案内してくれました。階段を上がったり下がったりして長い廊下を歩く間、芸術とは何ですかとずっと聞かれる。しかしどの部屋にはいっても何も置いていないのです。はっと気がつきます。ヨーロッパの水平軸はここにあるのです。階段と廊下は斜線でしょうか?

17 政教分離言論の自由がヨーロッパを為すものである。しかしヨーロッパのイスラム言論の自由が成立していないか失敗していると反論している。政教一致について語る自由が無いではないかと。あえて言うと、政教分離であれ政教一致であれ、国家を制作する道をどこからとるかの違いだけであって、両者の間に本質的な差異ない。だとすると、イスラムからは、自己自身を排除しなければならない西欧の近代国家を歴史的に受け入れることができなかったしこれからもできないというこの主張が言論の自由ゆえにゼロにされてしまっている。と、わたしのこの理解でいいのか?

18 ソ連の崩壊は事件だった。時代に流されずにマルクス資本論』を読むのが思想だと拘りを示した日本知識人達は現在の皇帝的帝国が一国社会主義の完成だと見抜くことができないだろう

19 宇宙の果てまで通信しようと一生懸命に開発したのはソ連の謎。誰と何の為に?ロケットに閉じこめた亡霊的幻覚を飛ばした『惑星ソラリス』は社会主義の鬼神論ではないか

鬼神とはあちら側にあるもので、こちらで果たすべき知と世界がある。宇宙飛行士、というか詩人に取り憑いた物資化した亡霊的記憶をロケットで宇宙に飛ばすのは唯物論と矛盾しない

20 西ヨーロッパの反ナチスの人々が大混乱に陥いった、スターリンヒトラーとの不戦条約締結によって、東ヨーロッパのコミュニストの活動家達が一斉に逮捕されてしまった。条約締結の日から、ナチス全体主義に抵抗する者は共産主義の敵となったのである。サルトルレジスタンス運動にいたが、この事実を知りながらも、ハンガリー動乱までスターリンを批判しなかったことが批判された。信頼を失うことになって、思想界は、実存主義にとって変わって、反サルトル構造主義が台頭することになったと言われる。フランス革命を継承するロシア革命アナキズム国家主義か選択があったが、ボルシェヴィキ国家主義に託した結果、スターリニズムが出てきてしまった。阪神震災以降のラディカルになっていった小田実の先駆を為すような、国家から自立した市民概念を確立していたのは幸徳秋水大杉栄である。30年たったソ連崩壊の事件を考える企画は良いが、収容所群島としてのソ連のあり方に目を塞いで、希望を見いだすという言葉しか出てこないとは..自身への批判をこめて

21 ものは物で書かれていた時代は自然が大切にされた。書かれていたものに信があるように自然に信があった。バベルの災厄後、ものは物に体することはない。人間の死。人の形を失ったものをどう考えるのか誰もわからない。世界神話も安全神話しかなくなった。世界は、魂をフクロウ-ネコ的コスモロジーの中に再構成してくれる哲学者の言を待つ


22 伝記で読んだが、スピノザが読むことができたヘブライ語聖書では神が単数形だったり複数形なのは論理学的に矛盾するが、文献学的には書かれた通りに理解するしかない。神学•哲学は論理学から成立する。

『エチカ』のスピノザは神を<一>的多として構成すると、どういうことが起きるのだろうか。神が無くなってしまうのではないか。これは朱子の神の陰陽二気論的構成とおなじである。スピノザは神を<一>的多として再構成したと見ることができる。スピノザは、朱子無神論者でなかったように、信を保ったのではないか

23 書くことは並べること。世界は交錯する。ポストモダン多元主義的<一>的多は多様体の理論を利用しているが、宣長が読む『古事記』の漢字空間と文献学(国学)との交差に立つ批評性において見出せるものか

24 『言葉と物』は近代の終わりと人間の死を書いた。表象は分散し言語の集中が起きる魂と灰は何処に行く。王が立つ場所に、白鳥が飛び立つ氷の表面すなわち鏡の裏側ではないだろうか

25 公害企業のこんな出鱈目をゆるしたらやっていけなくなるのにゆるす自分に抗議するために、敷居が高くない座り込みに行ったら、言語化してくれる上の人の目的がスペイン市民戦争の継承だったのを発見した。デモというものに反感もつ人たちが多いからわれわれはマスコミがきたときは気をつけなさいと言われた。みんなちょっとニュース解説者みたいな口調で中立的に喋りすぎたようにおもう


忘れられたアイルランドの政治がある。日本からは一人ぐらい行ったらしいが、スペイン市民戦争に行った人たちの半分が市民側にいき、半分はフランコ側に行った。その意味は何か?


24 サッチャーリズム労働党時代に議会ではなく銀行に初めて抗議しに行ったロンドンのデモの現場では、これは天安門事件広場の抗議とおなじなのではないかと語りあった

25 今日、迷路みたいで出口がわからない渋谷駅に降りた。マスクをはずそうと訴える若者たちが政治に怒っていた。正直マスクのことはわからないが、政治に怒らないことに怒っている

26 今日は講義「神と霊魂」第一回。漢字で書かれた「何々神」とは別に、漢字に定位しない「カミ」を宣長が語り出す理由を考えたら、18世紀の思考を規定する注釈学的言語の平面がみえた


なーんか神々しい靖國神社とか伊勢神宮に行くときは、この神々しいものに巻き込まれてはいかんと理性の覚醒した懐疑的批判精神を以て偵察しに行くが、お正月は京都祇園の八坂神社の前を通ったときはリラックスしてみることができた。今日講義「神と霊魂」のテーマに関連するのであるが、この大勢の一生懸命に祈願する人たちは心のなかで漢字で書かれた「何とか神」をおもうのであって、「カミ」じゃないよなと観察していたのは、嗚呼わたしだけではなかった..

27 フェースブックの友人の中には、ベラスケス「侍女の部屋」に屈辱を感じてこれに反発する者がいることを知って驚いた。共和主義のスイスとかアメリカの大事な友人が王に従属するイメージを嫌がっている。しかし絵をよく見ると王は存在しない。部屋には実在しない鏡の裏側に立っている王をこの絵を描いているのは誰か?画家であるとフーコはストレートに考えなかった。描く\書くのは言語学(注釈学)である。

漢字で書かれた「何々神」とは別に、漢字に定位しない「カミ」ー日本語の「神」とはなにか?ーを宣長が語り出す、18世紀の思考を規定する注釈学的言語の平面がみえる

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28 「神と霊魂」

ー神とは何か


神とはカミなり。これは本居宣長の「神」の注釈である。「漢字の背後に、ヤマト言葉としての「カミ」がある。(神=シンではない)。ここに決定的な問われるべき問題が集約している」(子安先生講座『神と霊魂』)

言語への回帰は、文学(『古事記』)と共に成立する注釈学と、日本語の「神」ー「カミ」ーによって、宣長に現れる。言語が客体となる所で古典の学、朱子学的陰陽ニ気的解釈が消える


太安万侶が誰も入れない天岩戸の中に(声の内部に)入ったとき、神(シン)はそこから脱出していた。見たのはカミである。と、宣長は物語る。その意味で『古事記』が成り立っのは18世紀においてである。ヤマト言葉としての「カミ」を指さすが、漢字の表意性にあるギリギリの理念性をどうすることもできない。漢字が渡来してきたリアルな歴史ーヤマト言葉的民族の起源の不在ーを隠蔽できない。津田左右吉が指摘したように、どんなに遡ってみても漢字の断片しかない。


29 21世紀は第4の権力であるマスコミと一緒になれば四千人のデモを以って政権を倒すことができるが、世界中のマスコミが味方になった7百万人のデモでも政権を倒せない体制もある

30 批判すべきは安倍政治の軍国主義公式参拝解釈改憲を前提にしたヘイト的ナショナリズム(皇室に依存しない天皇教)。対案は憲法を活かした移民国家民主主義の文化多元主義の確立

31 ポスト構造主義は、神の名がどの物にも属さない<多>が<一>なるものに包摂される構造の隙間なく覆い尽くしてくる音声中心主義的なあり方を問題にした。それは王政復古におけるように明治天皇の文化権力に集中した政治権力を与えた構造ではないだろうか

32 単一価値観は権力の集中のもとで起きる。フリードマンネオリベは市場中心主義によって権力の集中を解体できると考えたが、ナチスとボルシュヴェキに反対したハイエクの場合は単一価値観の体制を拒む思想が重要であった。しかし、何でもかんでもカネがものをいうようになれば権力の集中を解体できるとおもう維新のように権力の解体を主張するものがどうしてマイノリティを排除するファショ的な人物からしか出てこないのだろうか?これが日本の問題である。将来日本は憲法を活かした移民国家的民主主義の文化多元主義の道へ行くならば、これは単一価値観と両立しない

33 トッドはネオリベは単一価値観ではないと主張する。その根拠は家族構造に規定されながら教育がどんどん広がったからである。しかし彼は全体思想に対する思想闘争の意義を無視する


トッドによると、中国の家族構造を分析しながら、中国が超大国にはなりえないと明確に語る根拠は、例によって、教育による多様化にある。党支配を可能にさせてきたおなじことが起きない。しかしそんな話は当たり前じゃないかとおもう。問題は、超大国化ではなく、帝国化である。知識人のポスト構造主義からする思想闘争がなければ、80年代のフランスに共産主義思想の崩壊が起きなかったように、帝国にたいする思想闘争がなければ帝国の崩壊は起きないし中国の民主化も難しいのではないだろうか。わたしがこの問題に関心をもつのは、結局中国の民主化が起きなければどうも日本の民主主義も進まないのだし、80年代から始まった東アジアの民主化もより言論の自由に向かうことが恐らく難しいのではないか

34 大塚久雄『共同体の基礎理論』を読む。戦後の社会科学的見方が戦前の中国で行った農村調査に規定されているという。「日本人の法意識」(川島)も中国無くしては成立しない共同体理論だったか

35 CIAは反権力的左翼に影響力のあるフーコの本を調べていたらしい。文の素晴らしさに我を忘れて読んでしまうことがよく起きたらしい。現在はもうフランスから思想が出てこない

36 何でもかんでもカネがものをいう。生活の隅々まで監視してくる「自己責任」の語は逃げられない怖さがあるが、ファシズムの語を以てラベル張りするのはどうか。濫用すると本物がでてきたときには薄まっちゃっている

37 言語の回帰が起きた文献学から、荻生徂徠天皇制国家の青写真をつくり本居宣長は土台としての原初的国家祭祀を考えた。18世紀の徳川日本には国家が成立していないのだから、語り出されたこれらの言説は適用する対象がなかった。後期水戸学によってこれらの思想が国家の制作にとって価値をもったことはたしかである。日本の場合、近代国家の制作は古学の思想からしか出てこない。復古主義の近代である。ヨーロッパの社会契約論理は自然へ帰れと言ったときは国家の制作を考えたように、復古主義は制作を考えていたのである。自由民権運動中江兆民が「天命の自由」と「人義の自由」を言ったときは、国家に託した。国会が政府から生まれない国家を制作したいと訴えたとわたしは考える。近代主義者の中には宣長ナチスと比べる者がいるが、とんでもない誤解である。近代主義者によるファシズムの語の濫用と言わざるを得ない。昭和10年代の全体主義は文化権力の天皇に政治権力を集中させた明治国家の近代からしか起きてこない点を市民はよく理解しなければいけないとおもう

38 ダブリン時代はアイリッシュと中国人とが仲良くやっているのを不思議に思った。前者は貧困が存在する限り世界中にアイルランドを見つける。後者は何処にいても中国を感じるらしい

39 外国人と喋るとき自分の国の話をしだすとつまらなくなる。相手も私が日本の話につまらなさを感じる。固有なものはない、移民的国家の文化多元主義にとって豊かさとは只差異化に存する

「豊かさとは只、差異化に存する」は共通の話題になるが、ユダヤ系は世界を説明し尽くす危険な偶像崇拝を思うかも。イスラムは「下らないな。君は神をどう考えるのか」と聞いてくる

他者の岬思想が危険な偶像崇拝であるかどうか、又は危険な無神論か、ユダヤ系とイスラムがどう判断をくだすかは、自らを迎入れる文化多元主義が本当に彼らを平等に扱っているかによる

40 差異化を差別と捉える見方はオリジナル崇拝の近代だ。中国の朱子学のようなアジアで唯一成立した普遍主義の思想は差異化された。漢字文化圏アジア諸国で概念を展開したそれらの思想とオリジナルの間に優劣はない

41移民的国家の文化多元主義を目標とすることは、国が公表したがらないリアルな日本人とアジア系との結婚の率を知れば、トンデモ無い話ではない。教育権と選挙権を保障すべきだと思う

42 映画に興味あるフランス人の友人が多かったときは、ダブリンの友人から、おまえの英語はパリの人間が喋る英語のアクセントだぞと指摘されたときはびっくりしました。自分では気がつきません。イタリアなんかに行くと、今年は「ユリシーズ』出版100周年なんですが、ジョイス(文学)の国からきた日本人が喋るダブリンのアクセントの英語に興味津々なんですよ。ネイティブでないわたしの英語なんて非常に弱くて不完全ですから、他から影響されやすいのですね。英語に、porous(多孔性)という言葉がありますが、わたしは自分の英語が、ギリシャ語とラテン語の古典語の文法性に支えられながら、穴だらけの雨傘であると想像しています。書かれた言葉がとくにそうですが、言語というのはporousですね。だから外国の友人をもつお陰で言語は面白いです。多文化主義とは何か?わたしは答えがありませんが、重なり合う物が多文化主義にとって大事です、その場合、不完全で穴だらけでないと色々なものが重なり合わない、起源と境界線をもったはっきりしたアイデンティティに決定されていては表現が中々上手くいかない、このことを何とか絵のイメージを通じて表現したいとおもっています

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43 ファシズムを日本人はどう語ってきたか

フランス革命後150年間、パリコミューンに集約されるアナキズムと皇帝の復帰における国家主義との交代が起きた。ドイツで起きたのは、このフランスで150年間かかってやったことをワイマールのドイツが僅か10年とか20年という凝縮した期間で実現したことの混乱であった。自由と考えていることが非民主的だったり、反対に非民主主義と非難しているものが自由だったりする。それを、ファシズムと呼ぶのは、イデオロギー的かもしれないと躊躇する見方がポストモダンの知識人たちにはある。ファシズム近代主義の問題なのである。さて西欧がルネッサンス以来500年を要した民主化であるが、日本はアジア諸国の中で西欧化が早かったから、少なくとも150年間の時間があり、自由と考えていることが非民主的だったり、反対に非民主主義と非難しているものが自由だったりすることは起きないようである。しかしながら、権力集中(東京一極集中)を解体すると言いながら権力を集中する(大阪の東京化)ことが現在起きているのはどうか?権力集中の解体を訴えるものがマイノリティを排除するファッショ的人物と政党からしか出てこないのは日本の問題である。ファシズムを日本人はどう語ってきたか?丸山真男はドイツの全体主義を厳密に理念化して定義したために、天皇ファシズムファシズムではなくなった。これは問題である。また日本の場合ファシズム天皇ファシズム(国家祭祀)だったのに、ナチスのことを論じれば日本のファシズムを知っているつもりになっている者が多い。国家祭祀を主宰する天皇を政治体切り離した象徴天皇制憲法の意義をしっかり理解しなければいけない(戦前の天皇機関説から考えたい)。最後に、天皇ファシズズムを考えるときは、ナチズムをフランコの体制と一緒に考えるように、文革ファシズムと考える必要があるかもしれない。昭和10年代の全体主義に帰結したような、明治維新における「上からの近代化」の失敗を語る日本知識人(北一輝津田左右吉?)の言語が中国に向かって「下からの近代化」を過剰に語る言説となっていた可能性がある。語るべきは、ファシズムを日本人はどう語ってきたか、である。


44 徂徠『弁道』『弁名』の制作論を丸山真男経書的世界の自然を否定した所で理解してしまったが、失われた物は見出だされるのか?Remembering the furute

45 アイルランドの独立は復古主義の政治に依るものだが、彼らが悩んだのは、毛沢東回帰の文化大革命も同じ復古主義なのかという疑問。明治維新文革を一緒に論じるようなものだ

46 「召使いのひび割れた眼鏡」


エスタブリッシュメント復古主義によるアイルランドの独立は上からの革命の挫折として理解される。政治的に独立できても、経済は従属したままである。政治的に独立したといっても、大英帝国憲法とそっくりの共和国憲法をつくっている。帝国の象徴であったキルメイハン監獄は逮捕した独立運動の活動家を入れている。独立は青色のポストを緑色にしただけだ。革命は挫折したのであるとするこの思いが、下からの革命を担うordinary people (人民?)への過剰な思い入れを生じさせることになるのかもしれない。わたしは明治維新の問題を考えることによってやっと理解し始めた。われら自身の神聖なアイルランド語が奪われたと言われる。しかしこの見方をジョイスは否定した。たしかにイギリスは言語を抑圧したが、真実は、むしろ人々は生活するために英語を選択して自らアイルランド語をすてたことにあると語った。『ユリシーズ』(1922)の中で、民のものであるアイルランド語によって芸術を確立すべきだと考えた仲間たちの芸術観を「召使いのひび割れた眼鏡」とステイーブンは言い放った。夜に彼は撃ち殺されそうになる。ジョイスはイギリス植民都市ダブリンの一日を映す鏡である本である「ユリシーズ』においてどうしてもこの議論から書き始めなければならなかったのである。


https://www.instagram.com/p/BcMvYu4B8dq/?utm_medium=copy_link


47 遠くへ行っても何も見つからなかった現在、近傍をウロウロ散歩するベケットの登場人物の「たまに家に帰らないこともある」まるで領土を横断している感じが遊牧の民みたいで面白い

48 スクリーンと壁に掛かった絵を考えてきたが、最近は、漢字の神と壁に掛かった絵を考える


レヴィ=ストロースの主張は、外的な相似を乗り越えて内的相同性に向かうべきだ、という点に集約されるからだ。そこで求められているのは、(…)悟性の象徴的・構造的秩序を作りあげることである。」D =G

Rien n’est plus explicite à cet égard que les textes célèbres de Lévi-Strauss concernant le totémisme: dépasser les ressemblances externes vers les homologies internes.( D=G)

48 美術館で見た絵を語るときは、他の観客も見た壁に掛かった絵を考える。画家のようには絵をおもい浮かべることはない。漢字の神も壁に掛かった絵と同じである。カミを表象しない

49 


4つの神


私のオーストラリア時代はまだ日本との戦争の記憶があった。誕生日パーティーのときにこの私だけ帰されることが時々あった。招待してくれた友達は困っていて、仕方なく親の言葉を告げる。ジャパニーズはGod 神に悪いことをしたからだという。これはさっぱり理解出来なかった言葉だった。観念が気持ちわるい。東京に来てからは、近所の神社に祀られる「何々神」の旗を見る。オーストラリア時代のGodと対応がつかない。大学に行くと、ニーチェが神が死んだと言っていることを知る。ただしポストモダンの哲学者によると、死んだのは人間らしい。近代とは人間中心主義なのだ。そして小林秀雄本居宣長が言う日本語の神について喋っている講演テープを聞く。なんかそれは漢字ではないカミらしい。

50 神God-ardはプロテスタントステレオタイプカトリック神秘主義に非らず。言葉の力に依拠する近世知識人が原初的儒教の祖先崇拝を否定しなかったように、映像を否定しない

51 そこそこの自由があるからかえって民主主義を論じない。しかし世界一民主主義がないと思われているロシアのデモをテレビで見たら東京のデモよりもよほど自由にやっているんだよ

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53 書くこととは並べること。並べることは世界である。漢字の神は書かれた言葉とそれが指示する経書的世界を並べる道徳。日本語のカミは声とそれが包摂する一つの民族を並べる注釈学

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56 書くこととは並べること。並べることは世界である。サイレント映画はスクリーンに映像と書かれた言葉を並べる。世界神話のように、映像の根底に一つの民族は存在しない。

57 分割を問うフーコ三部作

『狂気の歴史』

『言葉と物』

『監獄の誕生』


フーコは、ずっと分割されているどんなものにも心を動かされてきた。狂気と理性、古典的知と近代知、監獄の誕生の前と後。これらの分割を可能にする言説を分析した。

『狂気の歴史』は排除をテーマとして大きな囲い込みをフーコは語る。 ボッシュの作品『愚者の船』はどこにも上陸できない。狂気は社会が作るものである。境界線を引く囲いこみと狂気が近代を近代として成立させる。西欧の空間はペストを克服するために今日のように条理化されることになった。次の、『言葉と物』で引き続き、狂気について分析される。近代から狂人と囚人とが別々に扱われる。コギト的アイデンティティから狂気を切り離すことができない。「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」と語る言葉に狂気が隅々まで存在する。そして言葉で出来てはいない映像(絵画)を語ることの不可能にフーコは宙吊りになる。近代の根源的な袋小路は、古典的知を狂気のように扱うところにあるのではないか。その狂気のしるしも、人間における総体としてのあり方を揺さぶるものとしてではなく、錯誤に還元されている。そうして精神分析の知に抵抗した「神の裁きを断つために」の詩人アルトーが呼びだされた。絵画『侍女たち』の中に小人が二人、犬の前にいる。これは国家のネガティブなあり方に明確なイメージを与えると解される。わたしはこのイメージに危機の時代と呼ばれる17世紀における外部性を読む。あるいは、これはわたしの理解であるが、描かれている小人の視線は、鏡の表と裏を含めて、人間を成立させる記号的配置が見えない、批判的に見ようとする言説批判的思想史と等価の視点である。フーコ三部作の最後の『監獄の誕生』は監獄というのは霊魂の部屋である。法が記す道徳はこの部屋を語っていない。映像(建築)と言葉は互いに独立している。この逆の方向から、この独立性は現代アートや映画(Duras,Godard)を支えている。監獄の社会化(一望監視方式)をフーコが語っているこのテーゼはフーコの読者でないひとでも誰もが知っている。


58 フーコは、ずっと分割されているどんなものにも心を動かされてきた。狂気と理性、古典的知と近代知、監獄のフーコは、ずっと分割されているどんなものにも心を動かされてきた。狂気と理性、古典的知と近代知、監獄の誕生の前と後。これらの分割を可能にする言説を分析した。これらの分割を可能にする言説を分析した。わたしも、ずっと分割されているどんなものにも心を動かされてきた。生の世界と死後の世界をめぐる言説がコスモロジーを作り、また国家の制作や共同体の成り立ちの哲学を形成した

59 「学ぶ人」から考える視点は、脱階級的なものです。「教える」とは非対称的であるというのがわれわれ「子安一派」の構成です。孔子は「学ぶ人」でしたが、ポスト孔子の学を継承した弟子達によって、他者孔子は、『論語』のなかで教える人になってしまいました。市井の学者さんの伊藤仁斎がやったことは子安先生が「思想史家が読む『論語』」の韓国語訳の序文に書いてある通りです。他者としての「学ぶ人」の取り返しです。

60 ドウルーズは、ナチスのハリウッド映画に対抗する多元主義、中国より百年前に登場した、ポストモダン国家としてのファシズムを分析した。問題は国の外と内とのギャップにあった筈だ


61 現在だれがヒトラーか否かをめぐって勝手に盛り上がるが、深まる議論をともわなければ茶番と言わざるを得ない。立憲は維新に問いただすべきだ。権力集中の解体を言うお前達は、マイノリティを排するファショ的政党じゃないか?と。また維新はヒトラーを恐れる立憲にたいして、社会民主主義でなければお前たちはどうやってヒトラーをやっつけれるのかと聞くべきだ。議論しないの?本当はドイツの「われわれ自身における本物」のファシズムを論じるだけでは足りない。日本の場合、ファシズム天皇ファシズムだったからだ。この機会に、わたしならば、グローバルデモクラシーの、国体論を超えていく移民的国家の多文化主義を制作する理念を語るのだけれど

62 思想史は、思想を考えるやり方と違って、位置と時間を以て考えるやり方。美術史がそういうものです。ゴーギャンは歴史の感覚を以て中々の芸術批評を哲学的に書きます。彼の前に、セザンヌがいました。セザンヌは、ルネッサンスは美としての自然を発見したが、その自然をヨーロッパとして考えたのが画期的でした。ヨーロッパ=普遍という近代の確立ですね。それに対して、ゴーギャンは現在今あるところで自分の絵画を作ることをはじめて考えたんじゃないでしょうか?セザンヌの後に、ピカソが来ます。キュビズムコミュニズムを普遍とみる前衛でした。ソ連は崩壊しましたが、資本主義への抵抗はどこに現れるのでしょうか?芸術批評の重要性が高まると同時に、現在のアーティストが、グローバル資本主義に抵抗する自己の哲学的あり方をもつようになったのは、おそらくピカソに遡ります。

63 日本人は中国をどう語ってきたか?これは中国論です。先ず中国論について言っておかなければいけないことは、本質的な意味において、中国と日本とは互いに大切な隣国同士であることです。この意味において日本は自ら民主化しなければ、相手に民主化を求めることなどできないでしょう。その上で、互いに体制の違いについてどんどん批判し合ったらいいと思うのです。日本人は中国をどう語ってきたか?これに続いて、中国人は「日本人は中国をどう語ってきたか?」を語ることが大切となってくると思われます。そうして、われわれは中国をどう語ってきたかという問いかけが成りたちます。日本人にとって漢字は不可避の他者です。漢字のおかげで思考することが可能となりました。言語支配者の中国からみると、マイナー言語の日本人が中国をめぐる言説を通じて中国を語ってきたかは大変意義深いに違いありません。中国を独自の社会主義とする溝口雄三は宋代の朱子学から語ったとすると、それは多元主義ポストモダン国家としての中国像です。そして柄谷行人の構成は互酬の高度な次元Xとしての社会主義の実現である帝国のあり方を語るものでした。これは溝口の中国論とともに、中国の多元主義の方向を説明しようとするものだとみることができます。問題は権力の集中のもとでは多元主義は可能なのかという子安先生の問題提起です。これに関連して、わたしは最近、ドウルーズは、ナチスのハリウッド映画の米国に対抗する多元主義、中国より百年前に登場した、ポストモダン国家としてのファシズムを分析していたことをおもいだしました。やはりドイツの問題は国の外(多元主義)と内(一元主義)とのギャップにあった筈です。


64 3次元舞台の演劇は俳優のものだが、2次元スクリーンの映画については監督のものであると言われる。映画はヌーヴェルバーグ以降は、ポストモダンの時代の建築と同じで観る快楽に委ねる鑑賞者のもの。そのスケールは整数で例えば生成1.5次元のより自然な状態なのかしら

65 石原慎太郎氏が死去 各界から悼む声」(NHK)。国家はNHKのニュースの解釈に存する。『想像の共同体』の著者が指摘したこの通りならば、解釈のアベチャンネル化が起きている現在、解釈そのものが亡くなっているなか、東京五輪後の国家日本の終焉を目撃しているのではないか

66 バベルの塔のネガテイヴなイメージは、当時高い建築術をもったアラブに対するユダヤの敵視が反映されていた。天罰の後を記した世界は多数言語で沸騰したアラブの国際都市の姿だった

67 中国の衝撃は続いている。各国の左翼政党は中国をどう認識してこれと向き合うのか真剣に考えているのに、どうして、『日本人は中国をどう語ってきたか』を読まないのだろうか?


中国の衝撃は続いている。各国の左翼政党は中国をどう認識してこれと向き合うのか真剣に考えているのに、どうして、『日本人は中国をどう語ってきたか』(2012 青土社)を読まないのだろうか?

資本主義は封建制から生まれてくると考える見方からは、封建制が十分になかった中国の現在は資本主義ではないとする見方があった。平野義太郎の中国で行った農村調査は戦後日本の社会科学を規定することになった。戦前は橘樸のように自分で中国に行って調査したりする日本人がいた。北一輝のように、明治維新の上からの近代化に失望して、過剰に、下からの近代化を中国に託す日本人もいた。言説の中国は、<日本人は中国をどのように語ったか>に存在するのである。

後期近代にはいっての中国の圧倒的な存在感をもって現れてきたものを、中国の衝撃と呼んだのも日本人である。西欧から言われるアジア的生産様式は「遅れ」のレッテル張りだが、強かに中国はそれを否定せずに自らの独自性の根拠とした。市民社会が誕生してこないことのexcuseと市民にたいする弾圧の正当化だったかもしれないが、何であれ、中国のself-invent (自己の発明)に関することである。映画監督の張藝謀が今回も北京五輪開会式を演出した。彼が撮った『紅いコーリャン』で西欧は中国と考えるが実は中国の何処にもない風景を見たように中国の立春を初めて観たのである。今日問題になっていることは、果たして、「中国的資本主義」は資本主義の問題から逃れることができる「立春」なのかという点である。


68 石原慎太郎都知事「東京からは不法入国や不法滞在の外国人をたたき出したい」。外国人をまるで未開社会の外敵のように語る。しかし未開社会では共同体の外敵は女性の身体の損傷において表象される。今日においても虐待が行われる入管施設で殺されるのは女性だ。共同体形成の意思をもつ人々を受け入れずに、選別し分類し排除するこの石原こそが本当の外敵である


わたしは暇にしているけれど、安倍晋三日本会議の日本の未来を語るほどわたしは暇人ではないと思っていたところ、東京五輪石原慎太郎の死を惜しむ声、バカタレ、やはりどうしようもないな。かならずしも楽観的ではないけれど、思想の成長を考えるためにも、ポストモダン中国の未来を語っていたほうが意味を感じるが、わたしにはもう時間がないか..


69 ヨーロッパ人はどのようにヨーロッパを語ったか?事実を神話を利用して語った。今日から考えると、リアリズムであり神話である語り口で、ヨーロッパ人が帰ってくる岬がヨーロッパである。『ユリシーズ』に、象形文字から自立したギリシャ文明に先行する、エーゲ海やエジプトの高度な文明の存在を書き記した序文はない。『古事記』は太安万侶の存在を通じて、中国知識人•朝鮮知識人がいなければこの神話が書くことができなかったほどの外部からの圧倒的な影響を考えさせる序文がある。『古事記』は寧ろ漢字文化圏における世界神話を為すものであることを分からなくさせてしまったのは文献学の近代による(「神」字をシンではなくカミと訓んだ)

70 ゴダール「映画史』はドイツ文学が祖先崇拝と結びついている。中国の宗教改革では知識人は原初的祖先崇拝を捨てなかった。どちらも喪と人生奪回の仕事である

71 資本論』の冒頭でマルクスは商品の言語世界を象形文字として書かれていると考えたらどんなことを言えるかと言っていた。商品の名をどう訓むかなど考えてはいなかった

72 漢字文化では呼び捨てはへートスピーチである。他方で自分の影響力を知って行う差別発言の場合は人間に対して物理的な障害を構成するのではないか

73 憲法53条の死文化?支配した米軍時代でもこれだけの憲法を作ったのだから、国が独立したら憲法がもっと充実していなければ、愛国者に騙されていると思えと憲法は言っている

74 アイルランドみたいにみんなが貧しい国はその中でいくら自分が貧乏でもそれほど惨めに思うことはなかったが、イギリスは貧富の格差がめちゃくちゃすごい。大富豪の王室の報道が流れると、本当に惨めになる。たしかに、イギリスという国は自由がある。最大限の自由を享受するオランダと比べられる。多分香港はイギリスの植民地時代に植民地だったとはいえ自由を経験したのでないか。だから今日の中国に対する抗議があるのではないか?しかしオランダと違うのは同じくらい権威的規則が英国にはあることだ。その権威主義は王室からくる。最近の調査では、英国王室に対する支持が下がっているという。チャールズとダイアナの離婚は、国教会の守護者としての王室のあり方のイメージダウンであると言われる。しかし単純ではない。王室にとってはユダヤイスラムと付き合って行かなければいけない英国の文化多元主義と共存するためには有利な出来事だったと観る見方もある。王室は開かれている印象がある。

歴史のことを言うと、英国王室は1916年のロシア革命アイルランドイースター蜂起で恐怖のどん底に落ちた。親戚のロシア皇帝のように殺されないように政治から距離を取りはじめた。先ずドイツ起源の名前を隠した。自らのアイデンティティを国教会の主宰者としての超越性に築こうとする。1916年は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(1916~1921)の出版の年である。津田左右吉はイギリスにいたらしいしこの歴史を興味深く観察していただろう。日本は京都にいた天皇と民衆との間に争いが起きなかったが、英国とは民衆と王権との戦いであると彼は言う。明治のホッブスの社会契約論の理解は、支配の側から国家の正当化を論じるが、しかしイギリスでは社会契約論は自由を確立するための国家理論であり、旧体制の全く知らないものであった。王様の首を切り落とす前に、思想闘争をもって、議会は王から権力を奪って成立したのだ。

スピノザ君主制に警戒していたのは王は名誉心のために戦争をしたがることである。たしかに、イギリス国民の8割がアメリカのイラク戦争に反対していたのに、エリザベスが全軍をたたえるメッセージによって、逆に、8割が戦争支持となったのである。英国においても天皇が政治に関わると国民主権がなくなって行くのと全くおなじ事態ー国民が自分の頭で考えることができなくなるーが起きたとわたしはおもう。労働党時代に王から権力を奪う憲法改革に取り組んだ。憲法裁判所ができた。最近憲法裁判所はボリスジョンソン首相の女王の権力を濫用して議会を開かない決定を違憲とした

75 歴史を書くこと。支配の近代とは、支配者と皮支配者の間に障壁がなくなること。応仁の乱において争い合った貴族が没落したことによって、天皇と民衆との間に障壁がなくなった。新・権門体制の近代に向けて天皇による民衆の直接的支配が成立する。中国の宗教改革によって、貴族が宋の帝国を支える官僚的知識人たちになったこと。エリザベス一世に反逆したアイルランド貴族たちが敗れて集団でイタリアに逃げたことによって、英国による中央集権的支配が進んだ


75 大きな網目がほどかれる

知の歴史を書くこと。同一性と差異の表から成る表象の知の大きな網目が、音声と生命と生産が切り開く新しい経験の多様性によって、言語と生物と等価的交換の世界の隅々まで捕捉できなくなったとき、いかに自らを再構成したか?『資本論』の知の大きな網目が、ポストモダンの時代のグローバル資本主義の新しい経験の多様性によって、近代世界の隅々まで捕捉できなくなったとき、いかに自らを再構成するのだろうか?『資本論』を新しく読む読み方を教えてくれる柄谷の知から労働価値説のイデオロギーが取り除かれた。何でもかんでもモノをいうのは交換様式である。独自の社会主義であれ帝国であれ、交換様式に還元された、高度の次元における互酬的Xの国家は、言説「礼」と宋代口述的エクリチュールの声が支えるわれわれ自身の回復である。問題は、グローバルデモクラシーをもとめる非暴力の市民たちの経験が活かされているのかである。


76 外国人嫌いのひとって、わからないんだけど、周りの何もかもずっとおなじままでいてほしいような感じなのかな。それはそれでいいのだけれど、しかしそもそもその自分だっておなじのままではあり得ないよ。わたしは急進派ではないが、絶えざる変化とともに在るのがポールクレーの絵の中にあるような宇宙のリズムと共にだったらラッキーだね

I don't grow old. I change. I don't die. I change again. ーHarold Pinter

77 映画の衰退とナショナリズムの高まりはいっしょに起きているのはどうしてだろうか?嘗ては此方から向こうにあるところへ行く死に場所があったが、開発され尽くした近代に死に場所がなくなっていくと、国土が死に場所と観念される。映画は大きいものであるとされるのは映画は物が物自体を考えるように自らを投射するので映画史である映画ほど大きいものはない。このいわば喪を構成する死に衣装であるスクリーンを通じて此方から向こうにある世界を与える映画が亡くなったときから、人生を奪回する精神と倫理性への関心がうすまるなかでナショナリズムが高まってきて極右翼も現れてきたのではあるまいか..? 一考の価値あり

飢えることは大変なことだが友情を失ったらもうやっていけなくなる。友情を嘲笑う政治家を都民ファーストの極右翼が厚く埋葬するのが罪深いのは死者の世界にも差別をもたらすからだ

78 今年は『ユリシーズ』出版百年。ジョイスはミュージカルホールとしてダブリンの街を見事に表現した。言語が物(音)と混ざる本とコミュニケーションを取る必要がある(ケージ)

79 マイノリティの文化を保護しなければいけないのだから、日本語を教えるときはマイノリティである女性の言葉で教える必要があると思う。男性の言葉を使うときはできるだけ中和化する

80 中世は「和漢混淆文」が成立した。能の謡曲は、今の感覚で言えば、男性が使った漢字とマイノリティである女性が使わなければいけないとされた仮名とで書かれた。多様性があった

81 中国は言語支配者であり、日本は言語マイノリティである。『日本書記』『古事記』は漢字で書いた。『源氏物語』はカナで書かれる。中世からは漢字で書いた物語が出てくる

82 究極の平等とは華厳のひとり一人がマイノリティ(差異)に成ること。これは理念的なので難しい。隣国との関係を大事にしてヘイトをやめたり国内のマイノリティを大切にすることは難しくない


石原が恐れていたのは他者であり外部なんだとおもう。結局石原に負けてしまったのは、みんなが平均的右翼おじさんに安住していて、一人ひとりが他者としての女性に成ること、外部である外国人に成ることを怖がっていたから。自身への抗議をこめて

83 『言葉と物』のフーコは近代の成立とともにある文献学と解釈学の言及を追うが、ルネッサンスとの関係を考えようとしても知識不足で西欧におけるものが簡単には理解できないときは、朱子学の展開と宣長•篤胤のことを考えると分かるし面白くなってくる。後で、19世紀の言語の哲学的反省のニーチェ、それからマラルメの文学を考えてみる。フーコが奥深く難しいのは、本の中で語られるデカルトとカントの認識する人間がわれわれの傍でいっしょに『言葉と物』に書かれたこうした事柄を読んでいるようなところ。芝居小屋で翻訳者の渡辺先生に「君はもしかして僕のデウス・エクス・マキナdeus ex machinaかもしれない」と言われたことを思い返しながら、伊藤仁斎も考えた理念化の問題を考える

84 どんな表現も個人的なものではあり得ない。マスコミが許す石原<節>は石原個人のものではなく、作家が定位する国語主義と<一国>民主主義という集団的なものではないだろうか

85 言語には、もはや自己以外の何物をも指示しない書く書くという行為のうちに、自己自身の姿をあらわすということが起きる。それはいつからいかなる条件のもとで起きたのか?それ以前はどうだったのか?生命と労働のために言語は費やされていたが、哲学的反省に言語ははじまるのはやっと20世紀からである。(これを手で考えようというのである)

86 イギリス人は「冷たい」。自分自身にも冷たい。カフェで人生を捨てたように本を読む私がどうしても気になる者がいた。「I can’t read French」事件。氷が割れた

87 朱子学は理学と言われる。ポストモダンの時代の「理」とはロゴスから由来するデイスクール(言説)と考えていいのではないか。その場合、「理」は筋道と同時に学者的議論である

88 朱子宗教改革によって、貴族に代わって、宋を支える知識人的官僚が誕生した。朱子学の近代が否定する儒教の原初的祖先崇拝は経書と共に存続した

89 街にいる中国人に「儒教」と言っても通じない。「孔子教」と言えば通じるようだ。17世紀の徳川日本の儒者たちは孔子を祖先のようなものとして祖廟で崇拝していたらしい。台湾は面白かったな

90 歴史を問う問題提起です。しかし戦前は天皇は王政復古の舞台のほかのところでは必要とされていなかったし、西欧列強に植民地化される危険もなくなって天皇に全権力を集中する必要もなくなっていた大正にやめるチャンスがあったのです。ですから、「日本はなお神聖天皇を必要とするのか」という問いかけが成立しませんよというのがわたしの構成です。日本の言論に影響力を持っている温厚なこの学者は、一見説得力があるのですが、しかし「崇敬」というわけのわからない概念に依存して考えていますから、戦前日本は天皇が必要とされていたと喋るのでありますが、「崇敬」していない、(戦前に日本とされた)朝鮮と台湾の人々のことも考えると、残念ながら、「崇敬」は非歴史的な偽の文化概念だとわたしは思います

91 宗教改革の国スイスのゴダールが「映画史』のなかで祖先崇拝とドイツ文学とが結びつけているし、そういうことを映画批評家アイリッシュ系イギリス人が彼の伝記の中で展開しているのは異様な感じがしたが、宗教改革をした、「無神論」的にみえる中国の知識人にとっても祖先崇拝と経書とが一体だったのだからね

92靖國に公式参拝するのかと問われた石原都知事は怒って記者に向かってこう言い放った。「近代史、現代史を知らんのか!?」それはおまえのことだろう

93 天皇憲法に書かれていない、死を主宰する権力をもっていたのですね。「敵を殺して死ねば靖國に神として戻ってこれる」というのです。これがアジア2000万人を殺戮しました。明治政府の神祇官に宗教者がなった政教分離違反だけが問題でしょうか?天皇の靖國を通じて明治憲法に書かれていない死を主宰する権力を理念的に前提にしないとこれでは解釈改憲が起きます

94 プラトニズムとPenroseが呼ぶものは外部的かつ絶対的で永遠なものである数学的真実だが、ロゴス(理=言説)が構成する精神の眼が見る芸術のコンセプチュアルな美を考えた

95 アベが口にする「誠」字は、中国古典では死者がいる天と人を媒介する、虚のない誠実さを意味しました。アジア二千万人を殺戮した靖國の公式参拝のどこに「誠」があるのでしょうか?


「クールジャパン」三唱、アベが主宰する馬鹿の国日本、凄い!


96 戦前の法的体系の中で、皇国史観を批判した津田左右吉なんか、なんと!実在しない神話の神様を侮辱したという理由で名誉毀損の罪で逮捕されましたからね、その異常さに呆れませんか

97 「いま、古事記を読む、これはもうすぐれて現代日本をめぐる問題なのだ」(子安先生)。

98 共同幻想論』の吉本隆明は沖縄の独立の問題を考える為に『古事記』を読んだが、しかし沖縄が自立しようとする日本国家のアイデンティティの方を書いた神話を読むのかが分からない

99 書くことは並べること。世界は並べる。

天皇ファシズム文革ファシズムの間

日本の場合、ドイツと違って、戦前の裁判官と検事はそのまま裁判官と検事になったときいています。びっくりしましたが、戦後の裁判官は、当たり前のように、戦前と同じ論理と感覚で、大逆事件で冤罪だった人の再審請求の裁判のなかで思想を裁いています。

戦前の法的体系の中で、皇国史観を批判した津田左右吉なんか、なんと!実在しない神話の神様を侮辱したという理由で名誉毀損の罪で逮捕されましたからね、その異常さに呆れます。

三木清は思想犯で捕まっていなかったので(たしか、図書館の本を返さなかったような別件の罪で逮捕された)、戦後はかえって発見されずに死んでいました。

明治においては薩長の元勲たちが天皇を人形にして好き勝手なことをしていましたが、身体的に非常に弱かったと言われる大正天皇のときに、生き残ったもののうちで幸徳を殺した元勲が独裁みたいになったのか、あるいは天皇をコントロールする者がいなくなって大正天皇が独裁者みたいになったのか、どちらなのか議論がありますが、わたしは後者の説をとります。今日の市民運動が挫折してしまうのは、国家に逆らうと怖いからと思っているからです。国家(国体)に逆らうと怖いかぞと植えつけられてしまったのがこの時代(大正)においてです。

最後に、日本における上からの近代化に失望した思想家たちは何を語るのかについて思想史的関心から書かせていただくと、津田左右吉は近代化が進まないのが「シナ」(中国)のせいだと執拗に考えて漢字文化を根本から否定するような言説を展開して知識人全否定みたいない一見ファショ的?な見方にたって音声中心主義的な近代を主張していきますし、北一輝は下からの近代化を過剰に中国に託すことになって中国を巻き込む形でアジア主義に大きな影響をもたらします。

東アジアは明治維新をたたえてきて上からの近代化に希望を持っているのですが、しかし経済と開発はどんどんすすむのに言論の自由は全然ないことを考えるとき、これからは、そういう単純なことではないらしいということがわかってくるのではないでしょうか

100 五輪を見ると、文明のゲームはプレイヤーは最初は差異がないが最後は勝者と敗者に差異化される。レヴィストロースは未開は最初は差異から始まるが最後は差異がなくなると指摘した。近代経済学は収穫逓減の法則に沿って考えるので、ブルジョワは差異がなくならないように絶えず開発しなければいけないというようなことを言う。マルクスの政治経済学は全員が貧乏になって差異がないような状態からはじまる。革命までは何も始まっていないのである。またどんなことをしても資本主義をコントロールできないー暴力革命でなければ。差異がない状態は近代から見れば終わりであるが、マルクスの場合、終わりが始まりに先行する。と書くと、如何にも宗教の終末論的ユートピアの様相を呈すが、マルクスからの影響はそれほど単純ではない。情報の客体の側に絡み取られることなくコミュニケーションの主体にならなければいけないが、どんな機能も順調に働かない。否、機能が期待されたとおりに働かないときこそ万事順調であるとする世界観にたつ。しかし調和を拒否するこれは、合理的なもの(構造の知識にもとづく予測)が成り立たない場合にだけ経済政策が機能すると考えるブルジョワ経済学とあまり大差ないことになってしまうのではあるまいか


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ビーダーマイヤー時代におけるショパンシューマン、彼らを出会わせたメンデルゾーン


少女が女性になるのではなく、女性への生成変化が普遍的な少女を作り出すのだ。子供が大人になるのではなく、子供への生成変化が普遍的な少年を作り出すのだ。D=G

普遍的思考は時間的順番から少女は女性に先行する。ポストモダンは普遍的少女を論理的順序を以て考える。ウルフが描くように、この物を指さす言語の平面にある女性が少女に先行する


ドライヤー『裁かれるジャンヌ』を観た。フランス人映画監督と観たのは30年前か?完璧な映画である。ブレヒトの芝居「ガリレオの生涯」のことを考えながら観た


『裁かれるジャンヌ』を一緒に観たこの映画監督ーカメラマンのネストール・アルメンドロスを師とあおいでいたーのもとで、トリフォー『野生の少年』の脚本を恵比寿時代に読んだ。異端審問官はジャンヌの証言を書き取っている。審問官にとって、ジャンヌがいう「神」が意味しているものが問題であった。それが何を指示していても自由だが、教会の存在理由がなくなる根拠となる言説が危険であった。他方で、イタール博士はアヴェロンの野生の少年が自分の欲求を為す牛乳の語を発することができても、「その牛乳を下さい」という形で文法性を以て喋れないので知的なものがないとした。近代にとっては、点を線のなかで構成できないことが問題であった。それではわれわれの思考を効率的に可能にする言語を支えることができないからである