東アジアの漢字文化圏をいかに語るか?

東アジアの漢字文化圏をいかに語るか?

 構造的な諸理由から、純粋に表音的な文字(平仮名)が不可能であり、またそれが非=表音的なもの(漢字)と手を切ったことは決してありません。そして歴史概念は文字の表音化の一定の時期に現れたのであり、それを前提としているのです。例えば、'漢字伝来以前に固有なやまと言葉が古代日本に存在した"の如き政治的論争は歴史概念

 

(行き過ぎた考察かもしれませんが)

古代日本に純粋な音だけの日本語があったという説がある。他方、非表音の文字(漢字)から離れては純粋な表音の声(やまとことば)があるのではないのだから、古代の純粋な日本語が存在するという考え方を否定する説がある。後者の説をとりたい。大まかに考え方を示しておくと、古代日本語の文法と古代朝鮮語の文法とが非常に類似していたという事実から何を考えるかである。興味深いことに、この事実は、論理を徹底すると、古代日本語が古代朝鮮語の方言でしかなかった、つまり古代日本は古代朝鮮の一地方であった可能性を否定するものではない。それを仮定すると、「日本書紀」「古事記」でいわれる日本の自立をいう歴史概念がどんな条件で成立したかが明らかになる。ここで二千五百年の「論語」のセルフバイオグラフィーに沿って語ろう。朝鮮半島の知識人は中国の知識人から読み学んだが、恐らくこれと同じやり方で、朝鮮の一地方であった日本列島の知識人は、朝鮮半島から来た知識人から読み学んだと考えられる。大切なポイントは、デリダと子安氏がいうように、歴史概念は、漢字の表音化から生じたということだ。「論語」の漢字を読んだ古代朝鮮語がどこに消えたか?という最初の問いは、当時の(今日風にいえば)コスモポリタンの知識人からみると、非常に奇妙な問いであったかもしれない。それを問うたナショナルな知識人は古代朝鮮語しかもっていなかったとしたら。しかしこの奇妙さが奇妙でなくなるのはただ、古代朝鮮語の消失を言う知識人が日本の自立の観念に依拠するかぎりにおいてである。原初的テクストが次第に読めてくると、言い換えると声の内部で内面化されてくると、今度はその内面世界から、「失われた」古代日本に純粋な音だけの日本語があったという異常な歴史概念が発明されてくる。この歴史概念は、それを必要とした日本列島の知識人に合理的に受容されていった。これは憶測だが、大陸において拡大していく戦争に巻き込まれない方法だったかもしれない。軍隊の派遣を周辺事態に限ったとかね?