映画の道を初めて制作した聖人が囁いてくるような、祭祀的なものが、ゴダール「映画史」において不可欠となるのはなぜか?

ヌーヴェルバーグの批評家が発見した映画の作家達(ラングとかヒチコックとかルノアールとかブレッソンとか)は、儒学の言葉で'鬼神'(つまり 死者)として、映画の歴史といかに関わるのだろうか?という異様なテーマを考えていたときに、突然グラグラと地震で揺れはじめました。良い兆候と思い考えをおしすすめました。ゴダールは、映画史が(彼方の)非合理な存在を含むとした上で、知(=フレーム)を此方の合理的なものに限定しています。例えば、映画史を語るうえでエイゼンシュタインの死やタルコフスキーの死は特に過剰な意味をもちません。またフェリー二の道は、映画の物語る道しかありません。しかしそうでないときは、ゴダールは非合理的な存在を前提とした映画史を捉えています。そのときは、トリフォーの死は過剰な意味を帯びます。そして映画の道を初めて制作した聖人が囁いてくるような、祭祀的なものが映画史において不可欠となりますね、シネマテックのラングロワとかは映画世界そのものをつくった聖人