世の中に受けない'ヤジ'の話題

 

最近の映画ではなんとリムリック出身の俳優がクロムウエルを演じるので狼狽いたしますが、17世紀のイギリスを舞台とした、国王・貴族と、反国王のクロムウエルがいた市民階級との争いは、21世紀のコンテクストで置き換えたら、国際資本と大銀行と、国内の中小企業と農産物生産者の対立として大まかにとらえることができるかもしれません。国会主権は、議会が国王から戦争権を奪い (国王が自分の名誉のために他国と戦争するためにいきなりに勝手に課税できるということはできなくなった)、そして国王の最後のよりどころであるかれに排他的にみとめられていた結婚の立法に干渉していくことに至って完成したと理解していいのだろうとおもいます。(これは、戦後憲法天皇に戦争の死者を主宰することを禁じた方向と比較できるかもしれませんが。) その議会はというと、昔BBCの議会の歴史を扱った番組で、17世紀の議会はこんなだったろうと再現したものを興味深くみたのですが、内戦を避けるために集まることは集まったが、敵同志の間で議題という観念もなく、時間制限なく喋りたい人が喋るという感じで全員がヤジりあっていました。

さてここから現在の話ですが、ヤジの内容によることでありますが、ヤジは品位に欠けるとばかりなんでもかんでもヤジを禁じることで抗議者の言論からヤジ性を奪うことになったら、それこそ、人間社会の隙間・空白をマニアックに厳格に支配しようとする植民地主義というものでしょう。今回問題となっている、質問を受けていた安倍の「早く質問をしろ」は、第三者的なヤジとしてとらえるべきものではなく、意見の違いを説得していく自由な言論の交換を重んじる国会全体への侮辱としてかんがえるべきではないでしょうか。このような安倍の国会に対する侮辱は、多数決の物質主義を生み出してきた自民党政治の暴力、軍国主義の論理的帰結。安倍は謝罪するといっているようですが、ヤジったことを儀礼的に謝罪するのか、それとも国会を侮辱した行動(質問を妨害した行為)を謝るのかは、やはり大きな差と言わざるを得ません。謝罪も政治を構成します。だれにたいして謝罪するのかは曖昧にしていくのでしょうが、安倍に国会の侮辱をみとめさせなければ、それは国会と国民が被る二度めの痛い侮辱になりかねません。