寸劇をかんがえる

寸劇とは

ごく短い劇のことで、六十年・七十年の日本における政治集会やデモのときに現れたのが、政治をテーマにした寸劇、新劇の訛り?だときいていますがね。英語では a short dramatic performance, a tabloid play、a skit 。フェースブック掲示板に時々あらわれる、BBCのテレビ放映された「モンティ・パイソン」は、このような権威主義を嘲笑う寸劇の精神。初期の脚本制作に演劇のハロルド・ピンタが加わっていました。フランス語では寸劇は、sketch。「水の話」とか「アリア」のヌーベルバーグのオムニバス映画は、film à sketchesといいます。思い出してみると、ダブリンでみた寸劇は、カフェの椅子・机を片付けたスペースで十人ぐらいの観客がいましたか、フローベルを演じたフランス人の役者の一人芝居を見ました。(文学論を語るフローベルが自らボヴァリー婦人に変身、蛇となり最後は杖をもつ聖パトリックとなって退出!)。パリではアルトーを演じたやはり一人芝居の寸劇を見たことが。小劇場の台所ほどの僅かなスペースで観客は5人もい...なかったと思います。その舞台に、ペストとして散逸したジャガイモは衝撃でした。このとき私にははっきりとフランスの全大地がまるまる見えてしまったのですから!ペストの大地に転じた舞台を、役者が気狂い船そのものとなって彷徨するパフォーマンスは恐らくは、狂気を排除する近代を告発する表現だったと思います。ところで寸劇の笑いは、知的な左翼が間抜けな右翼を批判してもそれほどあまり面白くなくて、それよりも、左翼が、自分たちを裏切った、嘗ての仲間の息苦しく権威主義化した振舞を批判していく方が面白いんだろうと思います。危うく怒りと笑いが交代していく、分裂が解き放つエネルギーというか、新たな他との繋がりへプロセスといか。「右側に気をつけろ」を始めとしてゴダールは右か左か分からなくなるほど政治の錯綜する状況を把握するためにレミーコーションの'探偵'が活躍する寸劇の映画をつくるのが得意でした。時々監督自らが腹話術的語りで敵地を探偵しておりますが(笑)。と、このように寸劇のことを色々考えていたら、読んでいたトッドの本の中に寸劇のことが出てきました。権威主義批判としての寸劇の雰囲気に言及した文は、ちょっと長いですが興味深いもの。引用。「 われわれはたしかに政権交代によって、反ムスリムで、反外国人で、反ロマ族の政治が放っていたあの悪臭からは解放された。一年前、優先事項はサルコジを場外に出しことだった。だから私はオランドを支持したことを決して謝りはしない。しかし、社会党の政治家たちを見ていて不思議なのは、スケープゴートを指し示すサルコジ流の戦略をやめた途端に、オランドも社会党も素っ裸で立ち尽くしてしまったことだ。彼らの姿をとおして現実の力関係が見える。とりわけ国家と銀行の間の力関係がね。私が思い浮かべるのは、小劇場<カフェ・ドゥ・ラ・ガール>のあの寸劇さ。暗躍の中に沈んでいる舞台・スポットライトが点灯する。一人の男が舞台中央の光の輪の中に現れる。素っ裸でー。これがオランドに起こっていることだね」(堀茂樹訳)