思想家として称えるつもりならば、そうであるかぎり、思想家の追悼など不必要なものである。それはなぜか?

思想家はだれのモノか?

ロンドン時代は、BBCのラジオ・ドラマが好きでした。スピノザの生涯というドラマが面白かったです。スピノザに関しては、それなりに成功していた一商人がある日、いかなる理由で学問をしようと考えたのか、独学でいかにあれほどの学問を得たのか、なぜユダヤ共同体から破門されることになったのかと色々謎があります。スピノザの妹は、兄の原稿を、商業出版社に売るか (そうしたら恐らく原稿か勝手に編集されバラバラにされる危険性がありました)、あるいは、検閲と逮捕を恐れて無神論の原稿をそのまま全部廃棄してしまうという可能性がありました。しかし兄が多額の借金を残したことが、貪欲な妹の相続放棄を促すことになりました。そうして市場的に全く無価値とされたスピノザの原稿は、それを学ぶ読者の手に渡ることになります。「エチカ」は翻訳家と編集者によって世に出版されました。思想家は解放され、彼の思想は (スピノザが知の永遠性について書いたように) 人類が共有する永遠の命を得ることになった、と、ラジオ・ドラマは伝えました。思想家の敵は、出版社の<売れる本が良い本だ>という商業主義だけではありません。いかに思想家を、遺族から取り返すのか、またあたかも遺族を演じてもっぱら自己宣伝している似非知識人達から取り返すのかということ、このことが、スピノザの後の時代に生きるわれわれ市民にとって本当に大切です ー もはや思想が空白となったこの全体主義の絶望するしかなくなった時代に、あらたにひとりひとりが自分の思想を書くために生きるために...

思想家が何を言おうとしたかについて理解したことをひとりひとりが語るというのではなく、誰もかれもあたかも遺族のつもりになって同じひとつの口調で、たまたま死んだだけの思想家に哀悼の意を示しているようでは、このことは、観念を徹底的に観念化していくことを嫌う、ファッシズムの死を強調した儀式の形を考えさせます。しかしネットという市民がせっかく手に入れたかもしれない言論の多様な場を、葬儀の電報にしていいものかという疑問が起きます。