ソクーロフ

‪日曜日は、ソクーロフの『Russian Ark』2002)を観ました。ダブリンで見たとき見えていなかったものについて考えることになりました。翌日『チェチェンへ アレクサンドラの旅』(2007)を感慨深くみました。後者については、兵士達の言葉はオリヴェイラが対話に還元してヒューマニズムを以って描き出しましたが、これとは別のものをみたのです。許可なく駐屯地の外に出て市場でイスラムの住人たちと出会ったあと再び彼らのもとに戻ってきた、視線の中心を占めるお婆さんとは何ものなのか?これを演じているロストロポービッチの妻の圧倒的存在感でみえなくなっているが、映画を為すものとしての視線ー自分の見るものを語ろうとしても空しいし、自分の見るものはけっして自分の語るもののなかに宿らないーを見たという思いです。イタリア映画のネオリアリズムの視線を思い出しましたが、言葉の方向へ転回していったポスト・ゴダールの映画であることも確かなのです。これは、なにか、不回避の他者と呼ぶべきものではなかったでしょうか?『Russian Ark』の中にも描かれていましたが、ソクーロフイスラムとロシアの関係を考えてきたといわれます。イスラムとの関係によって自己(ヨーロッパ)との関係を考えようとした、ゴダールパレスチナ映画を継承するものでしょうかね。兎に角、映画は再び、少しづつその明るさをともしていくように感じたのはこのわたしだけだったでしょうか?‬